こないだのかんふーくらぶさんでの研究会では、また兵器に触れてみました。
これはあくまで伝統武術を学ぶという意味のためです。
決してナイフを振り回して自分が強くなったような妄想を抱いて悦に入ったり、日常生活で出会うこともない拳銃をもぎ取る練習をして護身術だと言い出してみたりするためにではありません。
我々の鴻勝蔡李佛という拳法は太平天国の乱における、兵士の調練用に編纂されました。
その歴史上、根本の動作が兵器と直結しているので、徒手だけではイメージをしづらい部分を実際に道具を持って確認してみよう、という企画です。
なぜ、蔡李佛は動作が大きいのか。
どうしてまっすぐではなく円軌道が主体なのか。
この答えが兵器にあります。
自分も(あれば)兵器。相手も兵器という合戦のための武術として考えると、真ん中というのは相手が守っている、あるいは刃物で待ち構えているラインなのです。
まっすぐ突っ込むような切っ先一点での攻撃を点撃と言います。
それが軌道での攻撃となると、線撃と言います。
高級と言われる中国武術では、この線撃のレベルから学習が始まります。
それがやがて、面、体と進化してゆきます。
これを理解するためにも、兵器が役立ちます。
大きく開いた両の手の間には、棍があると想定します。
実際に持ってみます。
鳳のように大きく腕を広げた姿勢は、そのままだとがら空きノーガードのように見せますが、その間に棍が通されているのだと考えると、正面突破は難しい堅牢な姿勢に見えてきます。
その状態から、どちらかの拳を大きくスイングすると、棍の先が振られることになります。線撃です。
また、身体の前に棍を橋渡したまま正面から突っ込んでゆけば面撃です。
海外の映画などで、警棒を使って犯人を制圧するシーンをご覧になったことがありますでしょうか?
理屈としては最近では復刻されて学校などにも配備されているサスマタと同じ原理です。
相手の体を武器ごと押し込んで壁などに押し付けて無力化してしまう。
サスマタとは違うので相手もちょこちょこ抵抗してくるのが想定さますが、その場合は拳を振って左右から打ち据えます。
真ん中の部分で自分の身体を守りながら、相手の棍の末端部で相手を打ったりつついたりするのです。
突くだけの点や振っている線ではなく、自分の体積を活用して全体のフォルムを活用してゆくのです。これが体撃と言われます。
いまだ通信機器も不首尾な会戦主義の時代には、そのような連中が地を埋め尽くすばかりに集まってぶつかりあったのです。
致命傷を与えられなくても、ぶつかり合っている自軍の勢いが壊滅したらそのまま押し込まれてしまいます。人の波に踏みつぶされてしまうのです。そのような勢いを崩すために、騎馬隊で蹴散らすような側面戦術が伴われていたようです。
そのようなシチュエーションにおける訓練のために使われていた鴻勝蔡李佛は、いまでもその時代の戦術で構成されています。
それを理解するために、お互いに兵器を持って対打と散手を行いました。
例えば、相手が刃渡り20センチばかりの刃物などを振り回してくると、とても徒手対徒手のような動きをすることが出来ないケースがあります。
そのような場合に、原点に返ると答えが隠されています。
手を棍や刀のように用いて、相手の兵器をそらせながら抑えつけてゆきたくなります。
繰り返しになりますが、別にこのようなことを実践だなんだと言って行っている訳ではありません。あくまで、自分たちが取り組んでいる武術の意図をしるための研究です。
これをすると武術としての意味が分かり、さらには内側でどう勁を活用するかが見えてきます。
徒手で行うときも、パンチを行おうとするよりは、棍を振るときと同じように勁を用いると大変調子がよろしいです。
しかし、そのようにして兵器を通して徒手での遣いを理解するところで終わってしまってはいけません。
あくまで、体内での勁の働きを身に着けて、それによって自分自身の肉体を気持ちよく安定させ、澄んだ感性と心で日々を送るところまで行ってはじめて目的地です。
21世紀になっても、合戦ごっこをしている訳ではないのです。
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兵器で対打
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