無相の次には、無念という物も挙げられています。
これはかなり難しい言葉です。
普通に考えれば無念とは何も考えないということのようにも取れますが、禅で言う場合は若干ニュアンスが違うようです。
物の本には「外部のことに流されないこと」とありました。
他の資料を当たっても同様のことが書いてあります。
これをタオ的に解釈するなら、陰陽思想という、物事をなんでも相対化して区分してゆく考え方に照らし合わせて、 内と外という区別をまずつけるという前提があるように思われます。
タオでは、世界のことを大宇宙、人間のことを小宇宙と言います。
宇宙とは空間という意味です。
つまり、世界そのものと同じ仕組みの小さいものが無数に世界に充ちている、と考えます。
この、小宇宙の確立こそが無念なのではないでしょうか。
もちろん、大宇宙と小宇宙は協調してゆかねばなりません。そのためには、まず区別が明確にならないといけないのです。無自覚な混沌のままではいけません。
この区別がつくことで、自分とは何かという感覚がつかめます。
さらに自分の中で、本能と自我に区分してゆくのですが、それはひとまず置きましょう。
ただ、この自分を区分するためには、まず内と外の区別がついていないと始まらないことは明確です。
これが出来ないことを魔境と言います。
つまり、自分が見えている物と実際に存在している物の区別がついていないということです。
疑心暗鬼の言葉の通り、人は存在していない物をいくらでも感じ取ることができます。
その中には、電波を受信できる体質の人が居たり、猫よけの高周波が聞こえる人がいたりするので、実際に自分だけに感じられる物が存在していないとは言えないのですが、その区別をつけるためにもこの段階が必ず必要なのです。
感じられる物を存在する物だと短絡するのではなく、感じられる物の中に自我の繁栄である迷妄と実際に存在する物があるということを区別できるようになってゆくことを、分別と言います。
すなわち、真理を得る智のことです。
お釈迦さまは、愚か者を旅の道連れにしてはいけないと警告しています。
この場合の愚か者というのが、この迷妄と真理の区別がつかない物です。
自分の中だけでのことと外の世界のことの区別がついていない。
では、これが具体的にどうカンフーと関係があるのかということを次で書きましょう。