岩波書店版の荘子の外編には、徳という言葉に「もちまえ」という振り仮名が振られています。
一般に日本人が言う徳は儒教的な物であり、タオで言う徳はちょっとニュアンスが違って、この生まれながらの「もちまえ」を差します。あるがままのことです。
このもちまえに関するお話を引いてみましょう。
孔子の弟子の儒者が旅をしているとき、水まきをしている老人に出会います。
大きなカメに水を入れては撒いている老人に、儒者は声を掛けます。
「簡単に水を撒ける装置があります。設置するときはちょっと大変ですが、出来上がれば勝手に仕事をしてくれます。それを使ってみませんか?」
すると老人は言います。
「わしの師匠が言っていたが、からくりに頼る者は必ずからくりに心を囚われる。からくりに心を囚われると本来の精神や生まれつきの心証が安定しなくなる。それはタオから外れたことだ。わしはからくりを知らないのではなくて、そんなものを使う生き方が恥ずかしいから使わないのだよ」
儒者は恥じ入ってそこを立ち去りながら考えます。
私は自分の先生こそが世界一だと考えていた。あんな人が居るとは思いもよらなかった。先生から教えられたのは、物事には良い物を求め、仕事には成功を求めて、骨折りは少なくて効果は大きいのが正しいと言うことだった。
しかし、いまの人はそういう人ではなかった。しっかりと道を守って生きている物は本来の徳(もちまえ)が完全であり、持ち前の完全な物は肉体も完全であり、肉体の完全な物は精神も完全である。そのような人こそが本当は正しいのではなかろうか。
仕事の利害とかからくりの巧みさなどを考えるのは、きっとそのような心を失ったものだ。
あのような人は世界中から誉められたとしても振り向きもせず、世界中から非難されても取り合わず、それらに動かされることがない。そのような人を全徳(徳をまっとうする)人というのだろう。
この話、 なんだか今どきのスピリチュアルやネットワーク・ビジネスのような物を思わせませんか?
世の中で上手く生きてゆけないひとが、そのような小手先の手段で社会的成功を求めることを否定して、本当に自分のあるがままが求めることに目を向けるように示唆しているように思えます。
老荘のタオイズムでは、何につけ本来の持ち前を型にはめて有効に活用しようとすることを否定します。
曲がりくねった松を切って無理に削って材木にするようなことはタオに則っていないのです。
これは、タオの体現である中国武術でも非常に根本にかかわることだと思いました。
よく、中国武術の老師は本当のことを教えないと言いますが、それは資質を見ているのではないでしょうか。
門の求めている物に本人の持ち前が合っていない場合に、無理やりに矯正して当てはめるようなことは中国思想には叶っていません。
上のエピソードの最後、儒者は師匠である孔子のところにいって、体験したことを話します。
すると孔子はさすがの大物です。彼は笑って、そのような道はただ内側にだけ生きている人にだけ可能なものだ。自分たちのような物には理解できる術ではないのだよ。と諭します。実に颯爽うとした男ぶりです。
我々の武術もまた、アルニスが向いている人ならそれを納得するまで突き詰めてゆけばよい。
蔡李佛の勁に適性があるならそれを伸ばせば良い。
明勁が好きならそれをしてゆけばよい。
暗勁に向いてるならすればいい。
他人は関係ない。
囲い込む必要もない。
勁の資質がなく技撃をしてゆきたいならそうすればよいし、点穴や断脈の才があるならその素晴らしい素質を伸ばした方がよりよいでしょう。
さらに勁を純化して上にゆきたいならゆけばよい。
それぞれの人の持ち前にあった物を手渡してゆくことが、タオの思想にのっとったことだと思います。