どうも最近、テレビで覚せい剤を常用していた人たちが出て自分の経験を述べる機会が多いようです。
その中でしきりに語られるのが、類型的な妄想についてです。
本当に驚くほど凡庸に、多くの人が同じ妄想を抱きます。
秘密結社、盗聴、電波、宇宙からの声、本当の神の世界、身体に何か埋め込まれた。
これらは覚せい剤の使用い限らず、いわゆるデンパ系と言われる精神疾患者にも多く見られるもののようです。
私自身の知っている重篤な精神病者の何人かにも同様の症状が見られました。
つまりこれは直接薬物が引き起こすというよりも、薬物によって精神と神経に問題が生じた結果おきやすい症状なのでしょう。
このような現象は、薬物や精神への過度の負担のみならず、誤った瞑想によっても引き起こされます。
そのようなことを、魔境や偏差と言います。私自身も内功の武術を始めるにあたってまず最初に注意されたのはそのような病症を得ないように稽古をすることでしたし、伝える側になった今ももっとも注意しているのはそこです。
効果のある稽古、才能のある人ほど偏差をおこしたり魔境に落ちたりしやすい。
友人の実力のある拳士の師父も、ものすごい功があったのだそうですだ、だんだんと言うことが電波を受信してきて怪しくなってきたとのことで、そちらからは身を引いたとのことでした。賢明だと思います。
自身が魔境に落ちてしまった師父からは、正当な学問を学ぶことが出来ません。
そこには予防策や安全のための対策が備わっていないからです。
不完全な物しかないために、やり手が健康を損なってしまうのです。
ではそうならないための対策とは何かというと、思想と養生功です。
魔境というのは禅語、偏差というのは気功の言葉です。気功の思想とはおおむねタオです。
このどちらかをある程度理解していないと、内功を行うことは危険です。交通ルールを把握していないまま公道を走るような物です。
どちらかといいましたが、タオと禅は歴史的に文脈が繋がっています。どちらにも同じ安全のための対策が備わっています。
タオにおいては、陰陽マークに示されるように調和が尊ばれ、その重要な書である老荘には虚、無の重要さが繰り返し説かれています。
自分の中身をからにして、自分が自分であることさえ忘れてしまうという忘我を重要視して います。
そのために行うのがただ座っていながら忘我になるという行、端坐忘我です。
つまり、いわゆる座禅のような状態ですね。
気功にはこの状態が必要です。それを入静と言ったりします。
気功も内功の武術も、その状態になることそのものが目的であると私たちは考えます。
だからこそ、禅の行なのです。
しかし、そのように忘我が出来ないままで稽古を続けてしまうと、物を感じる力や、思ったものを具体化する意図ばかりが強くなり、そちらに偏ってしまいます。
それが偏差です。
たとえば、ボリュームを大きくすることは出来ても小さくすることや電源を切ることのできないラジオやテレビはないでしょう。
きちんと消音やスイッチオフが出来て一つの製品として完成するわけです。
俗に、脳には覚せい剤に勝る濃度の脳内麻薬がありうると言われています。
気功や瞑想でそのような物を際限なく分泌させていれば、それはおかしくもなります。
同じような症状が出るわけです。
感じすぎ、意図を何かに発露させすぎとなり、それらが混ざり合って感じた物と自分の意志の区別がつかなくなったなら、それを人は妄想と言うでしょう。
そのような自分の意思を消し、スイッチを切るのが忘我です。
繰り返しになりますがそれこそが目的であり、これが出来ない人は才能はあっても資質がないのです。
そのような人に内功武術を伝えるということは、麻薬中毒患者にモルヒネを与えるようなものでしょう。
倫理的にあるべきことではありません。
厳正なまでの自己への突き放した姿勢を持とうという人にしか、取り扱いの危険な物はお渡しできないのです。
「効果の無い物ならいくらでも渡すが、効果の強い物は人を選んで渡す」
これは中国における古くからの一般的な倫理です。