強いとか弱いとかのためではなくて、自由になるために武術をやっている。というのが、私が教えられたことです。
もともと、軍隊格技や総合格闘技をやってきて、勝敗や強弱ではないものをやりたいと思って中国武術をはじめたので、そのような前提姿勢はうってつけの物でした。
強弱や勝敗にこだわっているなら、ストレートにそれにかなった物をすればよいと思います。
中国武術やほかの民族武術を選択するのは、不適切であるうえに卑怯に感じます。
正々堂々、敗北や自分の至らなさと向き合えるものをしてこそ、自分の強弱が計れるものでしょう。それを避けて気分だけかすめ取ろうというのは極めて話がねじれてしまっていると思います。
中国の武術も、熾烈な生存競争の戦争での武術であった長い時代を経て、もっと高いところを目指す形で現代に至っています。
少林武術に関しては、戦乱期はインド武術の時にすでに経ており、中国で再編成された折にはすでに禅の行として設定されていました。
禅であるということは、精神の自由を得るための行為であるということです。
強弱や勝敗という物に囚われていてはそれは叶わない。
また、他人とうまく行くためであるとか、何かを獲得するためであるということさえ、本来は目的ではない。
様々なことを付加してゆくのではなく、あるものを手放してゆくためにこの武術はあります。
そうやって自分の内にある、自己を束縛するものから離れてゆきます。
そのために、自分自身、その内にある物を整理することも必要です。
先日ワークショップにこられたお客さんからあるご自身の感情の動きを伝えられたのち「これはエゴですか?」と訊かれました。
それはもちろんエゴです。
自分の心の働きはみなエゴです。
ただ勘違いしてはいけないのは、これはキリスト教的、あるいは社会通念的なモラルの話をしているのではないということです。
エゴというのは、意識の範疇にある自分自身の心すべてです。
ただそう分類するだけです。
意識なのか、無意識の肉体の反応なのか。
そして分類したうえで、その両者の調和をとってゆきます。
そうすると自由になれます。
たとえばある時、怒りを感じるとします。
それが肉体の状態に由来する物なのか、あるいは純粋に状況に対して自分自身の自我が怒っているのかを分類できれば、対応が整理できます。
本当に純粋に事象に対して怒りを感じているのなら、それに対してどのような選択をするべきなのか検討ができます。
どの選択肢が必要でどれが不必要なのかの判断がしやすくなるでしょう。
繰り返しますが、社会通念の話はしていません。そのような物に囚われるのもまた不自由だと老荘では考えます。
それが善か悪かは直接の問題ではなく、自分が本当にしたいのかしたくないのかを判断するのです。
未熟な自我の垂れ流しレベルのことであるなら、するだけ損でしょうから、振り返って自分を改めた方が自由になれることでしょう。
そうでないのなら、あとは自分がどのように怒りを解消するかに話は進みます。
その場合に考えるのは、効率と自身の支出の計算です。
すなわち、陰陽思想です。
あることをするには必ずそれの反面がある。それが陰陽の思想です。
怒りを爆発させれば怒りは解消するかもしれない。だとしたらそれをして、その結果起きるであろうことを支払いましょう。軽蔑や嫌悪やあるいは反撃などを引き受けることを想定してから行うと、より後がスムースでしょう。
それを考えずにただ行うなら、それはただの未熟な自我の垂れ流しです。自分の支払い能力を考えずにカードで買い物をしまくる人と同じです。
支払いの見積もりをしたうえで、納得して行動すれば自由になれるでしょう。
多くのシチュエーションで、自分の支払いの中で納得した選択が行えます。
それは、非常に自由でストレスが少ない人生となります。
そして、自分の人生に納得することができます。
そのようなことをして、古典では賢であるとか、徳であると言っています。現在使われているそれらの言葉とはニュアンスがだいぶ違います。時に聖という言葉が当てはめられることも珍しくありません。
古人のいう賢、聖、徳とは、そのようにひょいひょいと人生をすり抜けて生きてゆける自由さを含んでいます。
自分の自我だけに囚われてそれを主体に人生の選択をして結果支払いにがんじがらめになるという生き方からの離脱です。
そのための具体的な方法、エクササイズとして、禅があり、その一部に武術があります。
私も空手や剣術などいろいろな武道や格技をしてきましたが、その多くはむしろ自我への執着がありうると思って離れました。
力んだり武張ったり、集中したりするのは、また違うことなのです。
より多くのシチュエーションで、リラックスして生きられるために少林武術はあります。
私は趣味でダンスをしたり、パーカッションを叩いたりするのですが、よくそれらが柔らかいと言われます。
強い弱いや勝つ負ける、うまいへたとも違って、柔らかいと言われれるのはうれしいことです(これもエゴですね)。なぜならそれは、自我への執着から離れてリラックスしているということだからだと思うことです。
柔らかく、なめらかに生きる習性が付くと言うのが武術の効果なのでしょう。
フィリピン武術を捨てなかったのは、それがなぜか自我を離れる要素があったからです。
南方の人の生き方が反映しているのか、高速で動いているのですがそれはエゴで流行って能動的に動いているのではありません。
リラックスした結果、身体がただ勝手に生きたい方向に動いているだけです。
私の自我は自分が無数に手わざを繰り出している間、自分の身体が何をしているのかを把握していません。
無意識運動に自分をまかせるということを学ぶ要素がアルニスにはあります。
なので、エゴが強くて自分のすべてを支配しようとしている人は動けなくなってフリーズしてしまう。人間性が出ます(笑)。
きっと、波に乗って魚を取ったり、海が運んできた物をありがたく食べて暮らしていた人たちの文化がうつっているのだと思います。
流れに自分をまかせて、自我はただリラックスしてことが起こることにブレーキを掛けたりして邪魔をしない。
それはまさに、荘子が推奨し続けてきたことそのものです。
自己を束縛する自我から離れて、自由なライフをゆきましょう。