さて、前回は現在までの主に欧米圏でのフィリピン武術、およびアメリカで派生したカリについて書きました。
今回はその続きを、現代フィリピンの情勢から見て書いてみたいと思います。
arnis pilipinesによる普及活動によって、義務教育に取り入れられているアーニスですが、実際にその活動はまだ一定の形になっていない部分があります。
アーニスのイメージ・アップと、一般への普及、およびスポーツ競技化がその活動の基本方針なのですが、どうしても最後の部分が苦労のきっかけになっているようです。
団体に協力的ないくつもの流派の長老がたでさえ、一つのルールの下で競技を行うことには否定的な人が多いようです。
国としてはアジア大会でのデモンストレーションをはじめ、いずれはオリンピックの参考競技にすることを目標にしているようですが、現在のいくつもの流派が力を握っている限り、それは簡単なことではないでしょう。
私自身も、スポーツ化には大いに懸念があります。
とはいえ、日本における代表として、活動への参加は惜しみませんし、いずれ日本選手団を連れてこいというようなことになれば可能な限りそれにかなうようにするつもりです。
そうすることと、伝統的な流儀武術としてのアルニスが共存できる方向を模索してゆくのが私の役割なのではないかと思います。
希望としては、義務教育や大学でアーニスに興味を持った若い世代の中から、伝統にも関心を持った有望な人が現れて現存している物を継承して行ってくれることです。
現在、きちんと教育を受けたフィリピンの若者たちの多くが外国に行ってしまうというのが、フィリピンの社会問題になっています。
産業の薄いフィリピンでは、生活レベルの向上が大変に難しい課題なのです。
そのため、学問を積んだ人たちは海外に就職してしまい、結果国内の教育レベルと生産力は一向に上がらないようです。
そういった多くの人たちにとっては、生活しながらエスクリマを体得してゆくというのは難しいことです。
もし、海外に出てゆく若者たちのうち、マスター・クラスにまでエスクリマを学んだ人が増えれば、おそらくは将来的に欧米圏における「カリ」との遭遇を果たすことになるでしょう。
その時に世界的な認識が動き始めてゆくことが想定されます。
カリには伝統的なエスクリマには無い素晴らしいところがあります。
それがループする練習やフロウによる気持ちの良さです。
モダン・アーニスなどではそちらを重視しているようですが、近代までのエスクリマにはおそらくそのような物はなかったと見えます。
なぜなら、剣士の時代までの技術においてはとにかく最少現で最短で最大の効果を出してただ敵を倒すことだけが最重要課題であり、練習のための練習の面白さを優先しているわけではないからです。
長々と技のやり取りをしようなどと言う発想が出てきようはずがありません。
そのため、紙一重の切り合いで相手を倒すと言う返し技の練習が中心であり、「古典のエスクリマはつまらない」と言われるゆえんになっているのだと思われます。
私自身も、カリの練習が実に良く出来ていて面白いと思うので、そちらで行うサムブラダなどを自分のグループの練習で行ったりもしました。
そうやって道具を操ることに慣れてから、本気の流儀武術の練習に入っても遅くはないように感じています。
本気の流儀武術というのは、腰を低く構えて攻撃に対してトリャーと突っ込んでいって相手をひっつかまえてはボコボコにしばき倒しつつ、隙あればぶん投げてさらにはバシバシ打ち据えるという物なのですが……。
えぇ、やっぱりカリの方が面白い。趣味として面白くやれるようによくデザインされています。
モダン・アーニスと並んで普及しているピキティ・ティルシャ・カリの存在もまた独特です。
太平洋における米国の対イスラム前線基地がフィリピンですが、そこの特殊部隊ピキティ・ティルシャ部隊がゲリラ戦用にカリを軍隊武術にしたのがPTKだそうです。
現地のフィリピン武術家の顧問がその作成にはついていたようですが、そもそもの着想がイノサント先生のカリにあったらしく、非常にジークンドーの色が強く見えます。
しかし、元のジークンドーと比べるとだいぶ本気の物になっていて、やはりループやフロウはかなり減っているようでした。
少ない手数で本気の致命傷を与えることが目的となった動きに改編されています。
アメリカのカリがフィリピンのエスクリマに先祖がえりしたような印象を受けます。
あるいは、将来的には欧米のカリとエスクリマは交配されてそのような姿になることもあるかもしれません。
さて、実はここでPTKの話題を出したのには意味があります。
と、言うのも、ドゥテルテ大統領になって以降、フィリピンでは在比米軍の撤収が行われています。
ドゥテルテ大統領が盛んに行っている麻薬組織との銃撃戦ですが、あの地域で麻薬を大々的に動かしている大きな勢力に、イスラムのテロ組織があります。麻薬は重要な活動資金源となっているというのは有名な話ですね。
麻薬組織の摘発が、イスラム人区域で行われて銃撃戦となる報道を見たことがあります。
同じモチーフをインドネシアで映画化した作品もありましたね。
ドゥテルテ大統領の政策として、国内のイスラムテロ組織との対立を自国で行えるようにすることによって、在比米軍への依存の取り払おうという物があるように見えます。
おそらく、ピキティ・ティルシャ部隊も撤退要請の対象であったのでしょう。実はうちのグランド・マスタルが現在軍でアルニスの指導をしています。
在比米軍の任務を引き継いで新しい近接戦の対策をしているということなのだと思われます。
近距離での乱戦という意味では、昔ながらの剣士のエスクリマが適していたのかもしれません。
ここでもまた、一つの先祖がえりが見られます。
国際的なスポーツ競技化、欧米での趣味としての浸透、そして軍隊でのマニュアルとしての訓練、政治と時勢の影響を受けて、エスクリマにもさまざまな様相の変化がうかがえます。
その中で私が求めているのはたった一つ、あくまでも人類の歴史に生まれた一つの伝統としてのエスクリマです。
もはや決して使われることのない、戦うことの無いアルニスです。
純粋にライフスタイルとしてのマーシャル・アーツ。
それはただの趣味とはまた少し違うように思っています。
古典を尊び、伝統を学ぶことで、文明社会が抑圧して忘れさせようとする、人間が人間として生きると言うことの大きさのような物の手ごたえを取り戻すことが出来るのではないかと私は思うのです。
それはスポーツで勝つことや戦争で任務を遂行することとはまた違う価値があるように私には思えます。
本物の人類の歩みの痕跡に自分の足を重ねたときに、自分が長く続いてきた生命の営みの一部であり、現代社会の形態はあくまで一過性の束の間の価値観に過ぎないことを相対的に見直すことが出来るのではないかと思うのです。
であるがための、ただの流行りの趣味ともまたこれは違うのです。普遍的な物への価値観の調整なのです。
同様のことは、茶道や華道などを大切にする日本人には比較的わかりやすいことなのではないかと思います。
一杯の茶、一輪の花に世の真理を想うことは、仏の教えに通じる物であると思います。
そのようにして自分の命を取り戻すための活動として、私は武術を行っています。
これが私が、簡単、便利な現代の社会の物ではなく、不便で正当な古典にこだわる理由です。