前の記事で、大きな物とつながるということを書きました。
これこそが非常に大切なことです。
相対的な価値観に合わせてうまく生きていったとしても、それではいずれ足を踏み外す時があるかもしれないし、何より自分が何をしているのかわからないという不安が常に付きまといます。
もちろんこの方面に才能があって生きてゆくことに悩みなどはないという人もいるでしょうが。
実際のところ、先進国では多くの富豪や政治的有力者がカウンセリングなどを受けて自己を見つめなおすのが常識になっています。
また、いわゆる発展途上国では、有力者と呼ばれる人たちは宗教的な背景を持っていることが多いと思われます。
ちょっとこちらのランキングを見ていただきましょう。
http://www.huffingtonpost.jp/yuma-nagasaki/happiest-country_b_8906340.html
とうとうアメリカやイタリアまで、幸福度が下がってきてしまっています。先進国の社会は深刻な状態です。
このランキングはいろいろな見方ができるとは思うのですが、私としては情報量の多さに対して判断基準が非常にあいまいであることが問題なのではないかと思っています。
それが、相対的な基準からくる迷いということです。
現代社会に適応してより効率的に多くの人とうまくやってゆくということは、あるいみ迷いの多さにつながると思います。
一般的な意味で幸せだと人から見られているであろう、美貌や金銭、権力や力などを持っている人にこれまで出会ってきて、本当に幸せそうだと思える人は非常に少数でした。
このようないい方をすると傲慢ですが、「かわいそうな人」が多かったというのが素直な感想です。
自分だったら決してそのような立場にはなりたくないな、という感想を持ちました。
大きな物とつながっていない。何も持たない裸のままの自分の外側に、権力や財力という鎧があるだけで、中身の弱さが強く感じられました。
向き合って話すと、虚勢をはったりやたらに目を瞬いて視線が泳ぎ続けていたり、非常に呼吸が短かったりして、肉体の生理反応が幸福な状態にないことが見てとれました。
話の向け方によって、簡単に言っている内容が変わってしまったりと一貫性や実がなく、目の前に次々に現れる状況に必死で対応しているような感じの方が多かったです。
つまり彼らは、社会適応に苦しんでいる一般の人の中で、たまたま結果として何かに一時的に恵まれた人に過ぎないのです。
宝くじです。
なんの意味もない大きすぎる何かが降ってわいて手元にありますが、それを持っているのは脆弱な心を持った丸裸の弱い人間です。
なぜあんな人が、と思ってしまうようなお金持ちやインテリ、大女優などが胡散臭い占い師や詐欺師に引っかかってしまうという事件を目にすることがありますが、さぞやちょろい獲物だっただろうと思います。
つまりは、私が言っている意味での幸福には決してなれていないのです。
目の前を取り囲んでいる手の届く範囲のことから先の大きなことにつながることが、幸せに通じます。
目の前の救いに飛びつくことは非常に危険です。
一過性の利益や快楽を求めることがたいていの場合、後々での不幸の蓄積となります。
ものすごくわかりやすい話をしますと、ダイエットあたりがよいでしょうか。
チョコレートが大好きで際限なく食べ続けると、どんどん太ってしまうけれども、ストレス解消でつい食べてしまう、という女性が周りに結構います。
その多くは実際にはそんなに太ってはいないのですが、テレビなどではこのパターンで大変なところにまで大きくなってしまった人を見たりします。
チョコレートには、ストレスを解消する成分があるので、ついついストレス解消として食べてしまうのですね。
しかし、そうすることが今度はストレスになってしまいます。そして悪循環、というのが本当に太ってしまうことの原因にあるそうですよ。
もし、チョコレートにストレス解消の要素がなかったらどうでしょう?
少なくともチョコレートで太る人は減るでしょうね。
このようなサイクルも、陰陽思想で見立てます。
陰陽は一体となったもので、一つの物ごとの二つの面を見る場合もありますし、あることをしたさきの結果を見る場合もあります。後者を因果といいます。原因と結果ということですね。
チョコレートを中心に因果を見れば、ストレスが因、肥満が果です。
じゃあチョコレートを我慢する?
できるかもしれない。
でもできないかもしれない。
できなかったらどうする?
因果を、経済的な取引だと考えると話が分かりやすくなりそうです。
チョコレートを手に入れるために、肥満を支払う。
肥満が嫌なら、肥満をしないことを買うために、別のことを支払います。
例えば運動?
しかし運動は疲れるし、時間もかかります。支払うものが多いように思えてきました。
では別の貨幣では支払えないでしょうか?
疲労しない程度の運動を、時間をかけずに行うのだったら可能かな? 少しづつの運動を数日にわたって行うというのはどうでしょう?
一括払いではなく、ローンといった感じです。
しかし、ローンには利子が付きます。
一気にカロリーを消費するより長期間に渡る可能性のある作戦は、その期間の間に消耗してしまって次のローンを組むような誘惑に接する可能性が高いような感じもします。
では、ダイエットのための運動ではなくて、何か娯楽として純粋に楽しめるようなもので結果として運動になるものを探してみてはどうでしょうか。
水泳やダンスなどやっていて気持ちの良いものもありますし、あるいは愛犬と走り回るというのもいいかもしれません。
このようにして考えていくと、我慢というのはほとんど意味がないように思えてきたりもします。
ただチョコレートを我慢してストレスをこらえるという自己への拘束を一人で部屋でじっとりとするのと、ダンスをしたり愛犬と走り回ったりするのは、イメージがまったく違うのではないでしょうか?
これが、目の前だけではなくその先を見るということです。
遠くに視点を持つことで、世界が広がります。大きな物とのつながりを、陰陽の計算で持つことができます。
ダイエットの苦しさと向かい合っていたOLさんが、世界を駆け回るダンサーになったというケースは、実は意外に耳にします。
どうも要領が悪くて会社勤めが苦しかった。そのようなところから、刀鍛冶やトップダンサーになった人を知っています。
ちなみに私もその一人です。
まったく何もえらいところのないひっそりと暮らしている地味なカンフー・マスターなのですが、何も持たないくらいの中で、毎日あほのように幸せに暮らしています。