さて、前回書いた白眉道人と白眉拳についてもう少しだけ補足するところからお話に入りましょうか。
伝説にある福建少林寺には、五人のマスターが潜伏していて、そこで反清複明の闘士を育成していたと言います。
そこで育った拳師たちが、南拳五祖と呼ばれるニュー・ジェネレーションの五人のマスターたちです。
白眉道人はこのうちの一人です。
ほかのメンツには、至善禅師や、五枚尼姑がいます。
至禅禅師は少林の正統を受け継いだと思わしき人物で、弟子には洪拳の始祖とされる洪煕官や三節棍の開発者だと言われる三徳和尚がいると言われています。
これは非常に面白い人物です。
というのも、洪煕官というのは実在はしておらず、架空の人物だという説が今では主流だからです。
とはいえまぁそれを言い出すとそもそも、この福建少林寺の存在自体がいまだに確認はされていません。
どうも発掘物があったという話も近年あるのですが、いまだ確証となるには至っていないという現状です。
洪煕官は、そのようなあいまいな伝説の中にいる人物で、彼の存在を持って洪家拳(洪さんの家の拳法)という言葉が出てくるのですが、実際はそれより以前から洪門に伝わっていた革命拳法であったという説のほうが説得力があります。
おそらくは洪拳と洪門のつながりを隠蔽するための仮託なのではないでしょうか。
三徳和尚というのも、三節棍の創始者と言われていますが、これこそが棍や双刀の技術、そして盾を兼ねたまさに倭寇武術の総決算のようなものです。
門外にはあまり知られていませんが、実はこれはマスターの中でも上位の者のステータス・シンボルのようなところがあって、年長の大物師父が表演に使う物です。
つまり、南少林拳のど真ん中の大師匠とみなされているのがこの至善禅師だと言ってもよいかと思われます。
片やの五枚尼姑と言うのは尼さんです。彼女が、福建南拳独特の女性創始者伝説のある武術の始祖とみなされています。
おそらく彼女もまた実在度は不明でしょうから、いわばシンボルとしての守護女神のようなものだと捉えればよいのではないかと思います。
福建の女性創始者拳法というと、永春拳と白鶴拳が知られていますが、この二つの荘子伝説を念のために紹介しておきましょう。
まず永春伝説には、厳永春という女性が五枚尼姑から学んだという継承型の物と、父から学んでいた物を独自に女性向けに改変して編み出したという物があります。
これに対して白鶴拳の伝説ではより具体的で、半清複明活動家であった羅漢拳の使い手の父から拳法を学んだ方七娘という女性が、鶴の生態を見て拳法を羅漢拳を改変して創始したという物です。
一見どちらも女性創始という以外にはあまり共通点がないようなのですが、この両者は代々中国では同一視されていて、永春の名も方永春としている資料もありますし、また永春の師は至善禅師であるという伝説もあります。
なぜこのように同一視されているのかというと、おそらくは白鶴拳のうちに永春白鶴拳という門派があり、ここが同じ拳法だとみなしているためです。
そもそも福建省に永春という地名があると言う話があり、永春白鶴拳はそこで発祥したのですが、伝承のルートが二股に分かれたようなのです。
海上生活者や海上旅行者などのうち、本職の武術家ではない者の護身術として抜き出されたのが永春拳だと言われています。
そのために、羅漢拳が重視しているような内功による肉体の強化などの要素がこちらでは必要とされない。なくても短期間で身を護る分だけのカテゴリーを重視しているとされます。
そのために、刀や槍という合戦のための兵器が重視されていません。
対して白鶴拳のほうはその後台湾に渡ってなお抗争を続けるに至る歴史の中で、面々とレボレイターを練兵する拳法として継承されてゆきました。
そのような大きな武術から護身術として抜き出されてカテゴライズされたためか、この福建少林系の拳法には永春拳の部分が併伝されていることがあります。
洪拳の簡化された護身術(彼らは防身法という言い方をします)としても伝わっていますし、私自身は白眉拳の中に一つのエッセンスとして入っているものを触りました。
そのため、永春拳を数年でマスターした後で今度は白鶴拳や南派蟷螂拳を正式に学び始めるといった師父の話もよく聞きます。
およそ、香港で看板をあげてる他門の師父のうち、多くが永春拳も教授しています。
そして、それらの武術の多くはこの南拳五祖に由来するという南少林拳であり、客家拳法に代表される並行立ちに構えて驚勁を放つそれらは非常に似通っています。
要約しますと、山東蟷螂拳の短勁の部が福建に伝わり、そこで南蟷螂拳となり、そこから龍形拳や白眉拳や白鶴拳が派生したという可能性があるのです。
南少林寺というのは、おそらく実際に寺としての形があったというよりは、そのような革命結社の集まりがあったと考えていいのではないでしょうか。
至善禅師になぞらえられるのは洪門であり、山東蟷螂から派生した防身術から洪門派の永春拳が生まれたということは十分に歴史的にもつじつまが合います。
となると、これは大倭寇時の戚家軍の拳法、ないし敵対していた倭寇拳法がそのルーツであってもおかしくない。
実際、七星蟷螂拳の伝承者は二世の伝人からはほとんどが広東と山東の人です。
いわば二世の段階から地理的には半ば南派拳法となっているのです。
これは技術的にも共通します。
指先で目を突いたりする戦法は福建南拳の基本拳に含まれているものですが、まさに蟷螂手から来たものだと考えても違和感がありません。
蔡李佛の基本拳である八卦拳や形意拳の基本拳である五行拳の中に、指先で目をつつくなんて言う物はありません。
基本を同じくしているというのはまさに技術の共通性を示すものでしょう。
蟷螂手法という手をからませる橋法もまた、福建南拳に共通するものです。
つまり、拳法の基礎を占める立ち方、基本手法、戦法がかなり近似しているのです。
以上のような理由のため、山東蟷螂拳南進説を聞いたとき、私も非常に納得のいく思いがありました。
ちなみに、海賊の活躍地域であったインドネシアやフィリピンなどの東南アジア地域で盛んにおこなわれている拳法に、五祖拳があります。
これは、達磨大師の拳、宋太祖の拳、孫行者の拳、白鶴拳、そして羅漢拳を一門に合わせて学ぶという派です。
達磨大師は少林寺の開祖、宋太祖はすでに何度も紹介してきた太祖拳の開祖であり、孫行者というのはあの西遊記の孫悟空のことです。三蔵法師がつけたあだ名の孫行者に由来して、猴拳のことを行者門と言ったりします。
白鶴拳は上げた通り、そして羅漢拳は白鶴拳のルーツですね。
と、いうことはつまり、これは伝説にある南拳五祖の拳の実態であると考えても差し支えないのではないかと思われます。
さらに言うなら、達磨大師の拳とその弟子である羅漢さんたちの羅漢拳を同一線上にある物とみなします。そしてそれらが羅漢化鶴して鶴拳になったと考えます。
すると残りは太祖拳と行者拳です。
蟷螂拳のもとになった王郎の拳法を覚えていますでしょうか?
この中に「太祖の長拳」と「孫恆の猴拳」が含まれています。
つまり、ここまでの文脈は大倭寇の時代から脈々と引き継がれているのです。
以上のディティールの総合像として、これらが清末における南派拳法、つまり海賊拳法のアウトラインであると受け止められます。
さて次は、視点を少し北上させてみましょう。