さて、前回は日本の兵法三大源流のお話が陰流にまでたどり着いたところまででしたね。
陰流がどういうことをしていたのかは前のシリーズ「大倭寇の話」に続きます。
こちらのシリーズでは一気に大倭寇後の日本に時間を飛ばしましょう。
大倭寇が終わり、明国は日本を除いて海禁令を解除、日本では秀吉が海賊行為の禁止令を出していたころにです。
戦国時代はほぼ平定されつつありました。
こうなると困るのが天下人です。
なにせこのころの日本は石見銀山によって世界の三分の一の銀を世界に輸出し、逆にそれで世界中の鉄砲を買い集めて世界最大の火器所有国となっていた戦国バブルの時代です。
それが戦による経済の回転をやめたらどうなってしまうのでしょう。
天下人たるもの、家来のみんなを食わさねばなりません。しかももはや本邦初、日本中の全員が自分の家来なのです。
これまでのように他所から持ってきたものを食べさせるという作戦が出来ません。
そこで秀吉は考えました。
この大飯ぐらいの戦国荒武者大軍勢を率いて、朝鮮半島を入り口に志那に攻め上り、そのまま天竺にまで進出してそこに自分の幕府を開こう。
要するに、死ぬまで戦国バブルを続けようとしたのです。
そのころの朝鮮と言ったら、大明の朝貢国の筆頭のような国です。
そこに戦国育ちの日本勢が攻略しました。これが1592年の文禄、慶長の役です。
迎え撃つ朝鮮側は正規兵と否正規兵を合わせて抵抗しますが、装備は弓や槍などです。
これに対して、世界一の火薬庫となっていた日本戦国武者軍団は、最先端の兵器を持って押し寄せます。
すでにあの大倭寇と長い戦国時代の後で、彼らの攻撃力は恐ろしくブラッシュアップしています。しかも人数たるや倭寇の比ではありません。なにせ国策でやっています。
朝鮮側からは天兵と呼ばれる親玉明国の軍団がやってきますが、これもまた兵装においては著しく日本勢には劣っていました。
この天兵は基本、騎馬民族対策として北方に配備されていた兵たちで、南方での大倭寇を経験していないため、あの倭寇の時の二の舞になってしまっていたのです。
しかし、ここで不思議なことが起きます。
なんと、日本勢の中から降倭と言う、朝鮮側に転向する兵士たちが続出したというのです。
一説にはどうもこの一方的な外国での虐殺に対して義が立たないと言ったとか言わないとか。
あるいは、そもが昨日まで敵対関係にあった者同士の混成軍だった事情もあったのかもしれません。
このような降倭の中から、日本式の最新火器の製造技術と使用法が伝えられて、朝鮮側は当初思われたよりずっと粘りを見せます。
この降倭の中で有名な物が、沙也加や恵美里と呼ばれる人たちです。
沙也加に関しては、加藤清正の先鋒で、配下3000人ごと降ったと言われています。
この沙也加、実は雑賀(サイカ)あったという説があります。
だとすると鉄砲衆であったというのが納得がいきます。
さらにいうとこの雑賀衆、往時は和歌山の水軍だったそうです。つまり海賊です。
つまり倭寇のルートで海賊戦法に卓越し、再びそれをもって西側に攻め入ったと言えるのですが、その間にある一大事が起きています。
この雑賀衆、一度秀吉と戦って押し返したのち、徳川と組んで巻き返した混成軍によって壊滅させられたという歴史があるのです。
以来、雑賀衆は根付く土地を持たない小規模の流浪の民に分かれて鉄砲使いの傭兵団としてそれぞれ大名などにやとわれて活動をしていたといいます。
沙也加になったのはそのうちの一派であり、やはり秀吉との間にしこりがあったのかもしれません。
また、数に物を言わせて弱者を押しつぶすやり方にかつて滅ぼされた自分たちの国を思い出したのかもしれない。
さて、この雑賀の近くにいた、同じく鉄砲使いの集団に根来衆というのがいます。
この根来、なんと鉄砲使いの傭兵にして僧兵集団だというのだから驚きです。
どうも僧というのは自由階級であるので、海賊や武士から転職した者が多かったという説があるのですが、そのようなわけでも雑賀とは交流があって、根来から雑賀に仕官したり、逆に雑賀から僧になって根来になったりしたようです。
と、いうことはつまり、戦術面においては基本両者は共通していると考えていいわけです。
そして、武装した僧の集団と言うと、やはりあれを考えてしまいますね。
つまり、ここにも倭寇武術や少林武術の気配が漂っているわけです。
そしてこの両者、昔は雑賀忍者、根来忍者などと呼ばれていました。
この忍者と言う言葉、昭和に入って作られた造語だという説が有力であり、それまでに伝えられてきた古文書にあるシノビノモノという言葉の言い換えであると言います。
そしてそのシノビノモノですが、これは孫子兵法の継承者だと言います。
孫子と言えば世界最古の兵法書です。最初に日本に入ったのは遣唐使のころだと言います。
この中に諜報戦や心理戦に関する部分があるので、シノビノモノを活用した手法がここに由来する、というのはその程度には納得がいきます。
ただ、実際のところの「忍者」のイメージはそのようなシノビノモノとは異なるのではないでしょうか。
手裏剣を投げ、煙玉を持ち、空を飛び壁を上り、雇われては暗殺さえ請け負うプロの特殊部隊というのがいわゆるイメージとしての忍者ではないでしょうか。
そのような忍者に関しては現在の歴史学では実在していたという信頼すべき資料がないというのが現状ですが、しかし、もしかしたら乱破や素破と言われた土豪勢力がそうだったのではないかという話も有力です。
となるとつまり、これは間諜ではなく傭兵なのですが、言葉とイメージが混在してしまってます。
これを切り分けて傭兵集団のイメージを抽出すると、この傭兵部隊としての忍者というのはやはり大倭寇に影響を受けた火器や中国戦術、あるいは南蛮の珍しい技術を得た人たちがもとだったかもしれないと言えるかもしれません。
このようなことは雑賀と根来だけではありません。風魔に関しても言えます。
風魔に関しては小田原の北条氏の記録にその名前があり「200名の乱破を率いて敵陣に夜討ちをかけた」とあるようです。
これ、一言もシノビノモノであったなんてことは書いていません。
もちろん敵陣に至る過程では忍び寄ったのでしょうが、基本的にはたんに乱破衆を率いて夜間襲撃を仕掛けたと書いてあるだけです。
つまりはこういうゲリラ部隊がのちに忍者扱いをされたということなのでしょうが、この風魔が渡来人の一族であったという説があるのです。
私は長く神奈川に住んでおり、北条氏の地元小田原周りも仕事でよく行っていた時期があります。
太平洋沿いに横浜から小田原に向かうと、途中に唐人町という地名や、秦野という市があります。
この秦野という地名、元は移住してきた秦氏が住んでいた土地だったのでこの名になったという話があります。
秦氏とは、古代中国の秦の字があらわすように、中国、朝鮮からの移民のことだそうです。
唐人町という地名については言わずもがなでしょう。
その唐人町を少し北に移動すると、高麗山という地名があります。高句麗からの渡来人が住んでいたということが語られています。
また、小田原自体も「拙者親方ともうすは」で有名な外郎売の歌がありますが、あの外郎さんというのは、もともと中国の人で、外郎と言うのは中国での官職名だったそうです。
この人は一種の方術氏で、薬学にたけていて薬を作っていた。それがいまの「ういろう」の由来だという話を聞きました。
このように、もともとこの辺りは外国から来た技術の担い手が多い土地柄なのです。
これらに加えて、忍者に体術のイメージがついたのは陳元贇の存在もあるのでしょう。
この人は1627年ごろから日本に住み着いた明の人で、江戸の寺に住んでいた時に三人の浪人に武術について語ったと言われています。
「明国に人を捕らえる術あり。余はこれを学びはしないがするところをよく見た」として浪人たちに語ったところ、三人は話を元に独自研究をして日本柔術のそれぞれ開祖になったと言われています。
関口流、天神真楊流、起倒流の開祖です。
昔はこのエピソード、少林拳伝来の話だと言われていましたが、これはちょっと説明の必要があるのでないかと思います。
おそらくは、この時に講釈されたのは拳術ではなくて擒拿なのではないでしょうか。
擒拿とはすなわち、相手に関節技を掛けたり、ツボを押さえて自由を奪うような技術のことです。
王朗の武術や戚継光の拳経に「鷹爪王の拿」などと書いてあったものです。
当身も行いますが、拳術で行う物のように内功などを用いて自分を強くして打つのではなく、相手の解剖学的な弱いところをもっぱら攻めます。
鍛え上げた勁の力で当たるを幸いどこででも打ち倒すなどと言うようなものではありません。
日本柔術がツボを用いて相手を抑えたり関節を外したりするのは、ここから来ていると考えたほうが自然です。
このようなイメージがミックスされて、いわゆる忍者のイメージが出来上がったのでしょう。
身の軽いところなどは、中国武術の軽功そのものです。
これはいまだに中国の特殊部隊に行われているもので、相手がビルを占拠しているところなどに外壁をひょいひょい上って侵入したりする訓練が行われています。
以上の点をもって、忍者イメージ=そもそも中国武術というのが私の現在の説です。
これを締めくくるためのエピソードを紹介しましょう。
このたび、海賊武術研究祭で苗刀の講習に台湾から来てくれる施安哲老師の師父に当たる、蘇老師が子供の頃のお話です。
夜、二階の自室で勉強をしていると、近所に住んでる大陸からきたおじさんが軽功を使ってその家の壁を上り降りしては二階の窓から出入りをしてお酒を買いに行っていたのが見えたのだと言います。
それを見て自分もやってみたいと思って教えてくれるよう願い出たところ、実はそのおじさんは中国から亡命してきた武術の老師で、山東蟷螂拳を教えてくれた、というお話です。
つまり、私たちの体験する苗刀も、その時の軽功がきっかけでいまに伝わって居るものなのです。
なにがしかの縁が働いて術が伝わるというのは、あるいは得てしてこういうことなのではないでしょうか。