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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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ラプンティ・アルニスについてこれまで判明している歴史

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 さて、今回のグランド・マスタル・ジョニー・チューテンの発見によって、我々の歴史への見当がだいぶんついてきました。

 このジョニー師の参入がいつだったのかによって、全体像がだいぶ変わるからです。

 いまだに不明なところも多々ありますが、一度ここに現状で見えてくるものを書き上げてみましょう。

 

〇ラプンティ・アルニスの成立した時代

 

 ジョニー・チューテン師父がカブルナイ家に自分の武術をもたらして両者がいまの形に融合したのはどうもそんなに古くないようです。

 70年代のことのようですが、この時代となるとバハド(決闘)時代の後期と言うことになります。

 タピタピの技術やジョニー師がカンフーからいくつものテイクダウンやジョイントロックをもたらしたのだという証言から、かなりバハドのための技術として発展したことが分かります。

 ジョニー師のエスクリマのマスタルはカコイ・カニエテの最大のライバルであったバリンタワック(モダン・アーニスのマザー・アーツ)のリーダー、アンション・バコンであったことからもそこが伺えます。

 また、この時代にラプンティ・アルニス・デ・アバニコという名前になったという説もあります。

 ドキュメント映画「エスクリマドールズ」ではSGMオンゴ・カブルナイが「自分が若いころに父親やおじさんがそう言い出した。それまでは単にエスクリマと呼んでいたよ」とのことですので、60代半ばで亡くなった宗家が20代初期のころでしょうか。

 オンゴ宗家は単にエスクリマと呼んでいたと言っていますが、また別に「アルニス・デ・アバニコ」と呼んでいたという説もありますので、ジョニー師以前からアバニコ技術のコルト(接近戦)の技法であったことはうかがえます。

 このアルニス・デ・アバニコはカブルナイ家の物以外にも数派あったらしく、一つの定型ではあったのでしょう。

 このころ記録にあるドセ・パレスの動画を観ると、現在の物とは印象が違ってだいぶラプンティに近いことが分かります。

 このドセ・パレスのバハド時代のサヤウがラプンティの物とそっくりであり、またSGMのカコイ・カニエテ師が大幅に改変を加えてこの形になった歴史があり、さらにその改変の特徴に大量のテイクダウンやジョイント・ロックの導入があったことを考えると、ジョニー師からの技術がドセ・パレスにも伝わったのかもしれません。

 ドセ・パレスとカブルナイ家の関係は、カコイ師がドセ・パレスを引き継いだ後にその伝統をないがしろにして改変を繰り返す独裁体制に反発をして離反していた時期があり、のちに若いしたとのことなので、その辺りは定かではないのですが。

 

〇ラプンティ・アルニスの伝播地域

 

 近代エスクリマの本場はセブにあり、その理由は盛んであったバハドである、というのが定説だと思います。

 ドセ・パレスとバリンタワックの間で繰り返されていた決闘で技術が進んだという物です。

 それ以前の剣士の時代のエスクリマを保存しようとしたのがこの地であったためだというのがきっかけだと言います。

 ラプンティ・アルニスを継承してきたカブルナイ家(つまり正確にはカブルナイ家のアルニス・デ・アバニコを継承)は剣士の家であり、オンゴ宗家の前の宗家は刀鍛冶をしていたと言います(フィリピンでは自作の文化が盛んのようです)から、その時代にセブに来たのか、あるいはもともとセブに居てこの伝統剣術の保存運動に参加し、そのままバハドの時代になだれこんだのでしょう。

 そういう意味では少なくとも近代以降はセブのエスクリマと言っていいと思います。

 ただ、それ以前のカブルナイ剣術の歴史が、ミンダナオのスールー、モロ戦争にあるのか、あるいは北方ルソン地域での倭寇との戦いにあるのかは現状私にはわかりません。

 しかし、ここでもう一つの視点が持ち込めます。

 ラプンティ・アルニスとなったのはジョニー師が自分の武術をもたらして以降だと言えるために、そちらの武術ももう一面のルーツだと言っていいのではないかと言うことです。

 ジョニー師は空手などもしていたようですが、ラプンティにもたらした武術は洪門武術の蔡李佛拳であり、その師はマスター・ラオキムであることが分かっています。

 このマスター・ラオキム(劉錦)はマニラのトンドに居たことが分かっています。

 南宋の時代から中国人が住む、東南アジア最初期から続く歴史のある中華街です。

 そのディープ・チャイナ・タウンに潜んでいた古伝の中国武術の老師です。

 そこから判断するなら、ラプンティ・アルニスの半面のルーツは洪門武術(東シナ海の海賊武術)であり、またマニラの武術であると言ってもいいかと思われます。

 半分カンフーのエスクリマ、として現地で認識されている通り、これは中国→マニラルートの物であると整理して問題はないでしょう。

 これと同様のことでは、フィリピンでも昨今知られ始めているカリ派のエスクリマが、半分アメリカのエスクリマと思われています。

 フィリピンにおいては土着性と言うのは極めて強く、エスクリマの流派が地域をこえるということはいまだにほぼほぼありません。 

 大メジャーなドセ・パレスもバリンタワックもいまだにセブでの教授だけにとどまっており、首都であるマニラには来ていません。

 これはもともとまったく違う部族の違う島であり、いまなお言語も通じないところに由来しているのでしょう。  

 逆に、マニラで編纂されたカリス・イラストリシモも他の地域には至っていないようです。

 これらのところから現地では、あれはセブのエスクリマあっちのはマニラのエスクリマ、という見立て方が強いのですが、ラプンティはというと本来はセブの物です。

 しかし、なぜかかなりマイナーな家伝系の流派にも関わらず、島を越えてマニラにも伝わっているのは、この中華街の存在のためではないかと思われます。

 現地のラプンティ・アルニスダーの中には、レジェンドであるジョニー・チューテンの後裔であるという意識がるのだと思われます。

 以前のカブルナイ家側のアプローチのみならず、今後さらにこのジョニー・チューテン師方向からの研究も進めてゆきたいと思います。

 


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