昨日、フィリピンで修行していた時のマスタルの一人から、フェイス・ブックでメッセージがありました。
現地で私は三人のマスタルから稽古をつけてもらったのですが、この人はマスタル・ロドンハと言う一番若い先生です。
三人の中で一番背が高くて私に体格が近くて、対人練習でのディスアーミングやタピタピの仕方を教えてくれた人です。
グループ・レッスンでも一人一人をよく見て丁寧に指導をしてくれる情熱のあるかたでした。
また、レッスン後に謝礼を渡そうとしても「グランド・マスタルにもう払ったでしょ? ぼくはいいよ」となかなか受け取ってくれない誠実なお人柄でもありました。
現地にいたころには、私があまりそういうことをしないので特にSNSの連絡先を交換したりはしなかったのですが、どうやら他のマスタルたちのつながり先の中から見つけてくれたようです。
遠く離れた土地のBro のことを気にかけてくれて、次に向こうに戻ったときにはもっとたくさんのスキルを教えると言ってくれました。
大変にうれしいことです。
現地で稽古をしていて思ったのは、グループの中でのおかしなライバル意識のようなものが皆無であるということです。
みんなそれぞれに自分のことだけをやっていました。
そのような風通しのよい環境であるのは、やはり本物をやっているからなのではないかなあと感じる部分があります。
ずっと昔から続いてきている、半ば風習のような稽古の時間の中では、個々人のちっぽけな自我などは意味がない。
あるいは、すぐ南のミンダナオが慢性的に紛争地帯であることから、本当に彼らはゲリラ戦に備えている、というのが男児の当たり前のたしなみであるのかもしれない。
もしそうだとしたら、一緒に練習している仲間たちは、お互いに命を預け合うクルーとなります。足の引っ張り合いをしている場合ではない。
私は他人のことばかり気にしていてすぐに周囲の小さな社会に囚われるような姿勢は、武術には持ち込むべきではないと考えています。
もっと大きな、圧倒的な真実と接してそこに立脚することが武術を学ぶ意義だと思っているからです。
そのようにして大きな物と向かい合っていれば、隣で同じものに取り組む人は同じ真実を観る好学の同志です。
そういう透き通った清々しさが、動きや肉体の透りの良さに通じる物だと思っております。