さて、まずはこちらの動画をご覧いただきたいと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=LD7Ojl7lDIU
香港の蔡家拳の江冬師父による鉄尺の説明です。
蔡家拳が、アルニスのマノマノにおける非常に重要な存在であるという自説を前回展開いたしました。
今回はそこから引き出された自説を展開したく思います。
まずは、この鉄尺という暗器が一体何かということからご説明したいと思います。
尺というのは物差しのことなのですが、鉄尺という名前で二種類の形状の暗器があります。一つはこちらの三又タイプで、もう一つは本当にいわゆる定規の形をしています。算数で使った30センチ定規のあれです。
算盤や鉄筆と同じく、文房具暗器シリーズです。
そちらの方が鉄尺と言われるのはよくわかると思いますが、こちらはではなぜ尺=物差しと呼ばれるのでしょうか。
これ、実は巻き尺なのです。
和式のタコを飛ばすときなどの糸巻をご存知でしょうか? こういう奴です。
鉄尺とは、こうやって糸を巻いて大きな物をはかるときに使っていた巻き尺のことだと聞きました。
検地の時などに使うのだそうですが、その時には地面に突き刺したそうです。
そんな鉄尺ですが、実は南派拳法の定番兵器です。
南派蟷螂拳や洪拳など、多くの門派の中で使われています。
その結果、沖縄に道具だけは伝わって(用法は伝わらなかったそうな)サイという名前になったと言うくらいのものですが、これはつまり、ようは海賊武術の定番兵器であった、ということです。
海賊ということは、海上生活者であり、当然消耗した船を修理するための船大工が居ます。鉄尺は墨壺として必要不可欠になります。
また、積み荷の積載は非常に重要なことなので、それらを図るためには乗員のほとんどが持っていなければ手際が悪い。
そして、そうなると二か所で糸をステーしたいので、鉄尺を二本持つこととなります。
この、二本持った兵器を左右で回して使う、と言うのはエスクリマの代表的な動きですが、実際のところ両手に同じ兵器を持って活用するというエスクリマ流派は多くないと言います。
練習ではエクササイズとしてやるそうですが、実用時にはスペインから伝わったエスパダ・イ・ダガ、すなわちサーベルと短剣となるそうです。
これはもっとも古い伝来時のスタイルだそうなのですが、それを現代式のくるくる回しに発展させたのは一体なんなのだろうという疑問はありました。
それ、おそらくは鉄尺であろうというのが私が今回提唱する説です。
その根拠の一端はこちらで観ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=bgIZ3sQWuXk
鉄尺は、ディスアーミングを専らとした比較的珍しいタイプの兵器です。
現代エスクリマではディスアーミングやバストンを使った投げやジョイントロックは代表的な技術ですが、それらは当然エスパダ・イ・ダガの時代にはメインではありませんでした。
フランス式フェンシングにはサーベルを絡めて行うディスアーミングがありますが、両手を使うものではありません。
エスクリマのそのようなバストンによる組み技は、剣から棒の技術に変わったバハドの時代以降に作られたものです。
その第一人者が、ドセ・パレス(現カコイ・ドセ・パレス)のSGMカコイ・カニエテです。
カコイ師はこれらの技術を独創していったという印象がありますが、決してそうではないかもしれないという証言があります。
それは、ラプンティ・アルニスのジョニー・チューテン師に関するものです。
チューテン師は、カンフーに伝わる多くのディスアームや投げ、ジョイントロックなどをエスクリマに持ち込んだと言うのです。
そして、バハドの時代、喧嘩別れをしていた時期もある物の、概ねラプンティ・グループはドセ・パレスの同盟グループに居ました。
その結果でしょう、明らかに当時の両者の動作は酷使しています。
カコイ・ドセ・パレス派はその後、さらに変化を重ねて違うスタイルになったようですが、古いスタイルではラプンティ・スタイルとほど同じのように見られます。
つまり、対バリンタワック派の同盟として、技術交流されていたことは間違いがありません。
SASの武術史には、カコイ・カニエテはカンフーを取り入れたとの記述がありますが、カコイ師自身が他からカンフーを学んだと言う話は寡聞にして知りません。
そこも含めて、エスクリドはチューテン・ルートで伝わって創造されたと考えるのが自然です。
となると、これはやはりマニラはトンドの洪門武術であった、と考えるべきなのですが、そうなるとさらにそこからさかのぼれます。
洪門武術は北の少林寺から南進したと言うことになっています。
暗器というのは他の兵器(概ね刀、剣、棒、槍の四大兵器)の技を応用して技術が作られるのですが、鉄尺は少し複雑な経緯を持ちます。
まず、基本となるのは双刀であるのは間違いないのですが、刀にはエスクリドに相当するような技術があまりありません。
間に1ステップ入ることになります。
それが、鉄鞭です。
これはまさにバストンを鉄で作ったような古代から伝わる兵器で、どうやら元は騎上や戦車上で使っていたもののようです。
刃こぼれがしないので合戦には向いていたのかもしれません。
私は初め、この鉄鞭が直接バストンの術の土台になったのではないかと思っていたのですが、そのような北側の黄土の兵器が海を渡った形跡が乏しいのです。
ただ、間で一回このような兵器となったことがこの動画でわかります。
https://www.youtube.com/watch?v=C253fYMSXYM
となると、双刀の技術の影響が強い双鞭から、一端海賊暗器としての鉄尺の技術に応用され、そこで刀や鞭ほど打撃力が弱い(刃が乃至軽い)ところから組み技重視の体系に作り替えられてからのフィリピン入りというのが私の見立てです。
現在のエスクリマにおけるエスクリド技術は、ほとんど南派拳法の暗器の用法の中に存在しています。
ハードコアなカンフーをそこまで学んだ人間が日本にはほとんどいないので、これまで他人と共有することが難しい知識だったのですが、そのような暗器の練習をするたびに「同じのエスクリマにあるよなあ」といつも思っていました。
https://www.youtube.com/watch?v=hiW6DTBbQHE
こちらの動画の後半を見ていただくとご理解いただけるかと思います。
鉄鞭時代には乏しかった組技技術が、三つ又を活用して発展したものが、バハドの時代にプーニョを使った用法に工夫されて現在のエスクリマの技術になったのでしょう。
ラウキム師父→ジョニー・チューテン師→ドセ・パレスのルートを考えると、これは当然のことのように見えてきます。
そして、現代エスクリマで定番となっているほとんどのエスクリド技術がカコイ師からフィリピン中に伝わったことは多くのエスクリマドールがご存知の通りです。