最近読んでいた本に、面白いことが書いてありました。
古代中国では、馬というのは車に繋ぐもので、直接乗るものではなかったというのです。
そのため、戦争に使うときには戦車戦が中心で、武術もそれが前提になっていました。
私がいつも書いている、古い武術にはその時代の技の痕跡が残っているというのは、そこまでさかのぼれる伝統に由来しているようです。
私はこれまで、戦車戦が盛んであったのは知っていたのですが、騎馬を用いていなかったというのは知りませんでした。
となると、騎馬に時の体の遣い方から震脚式の発勁が生まれたという説は、中度において騎馬戦が成立して以後ということになるかもしれません。
戦車というのは馬を操る御者と、兵器を振って戦車を守る右という役割の人が居るそうですが、この右という人の戦い方が、騎馬戦における発勁法のプロトタイプになっていることはあってもおかしくないでしょう。
しかし、件の本を読んでいるうちに驚くべきことが顕れてきました。
当時、戦車を御する名人や右の社会的地位と言うのは高かったそうです。
現代の車と違ってサスペンションもクッションも無い当時の戦車は、ものすごい揺れで乗っていると振り落とされるような物だったと言います。
その揺れに合わせて馬を操ったり戦ったりするのは珍重さるべき難しいことだったそうで、当時の名人の一族だった趙氏には、特別な練習方法が伝わっていました。
それが、地面に杭を並べて打ち込んで、その上を歩いてゆくというものです。
これ、清朝末にも隆盛した梅花樁と同じものではないですか。
これをすることによって、一歩の足の裏に重心と軸を集中させる方法を学ぶことが出来たというのです。
それ、私の研究では少林の心意把と同様の物です。
南派少林拳の中に伝わってきて、清末の革命で梅花拳として隆盛したおりに広く行われた樁功はこれを意味していると思われます。
そしてこの視点から見返すと、そもそも中国の発勁は動作を伴わない暗の勁から始まって、のちに馬に乗るようになってから乗馬の技術を応用した震脚系の明るい勁が生まれたということになります。
これは、私が心意拳を学んでいたことに習ったことと同じことです。
多くの現代中国武術では、まず明るい勁を学んでから後に暗い勁に転化してゆくという学習段階となっていますが、歴史的な派生順序は逆だったというのです。
つまり、そもそもは暗い勁を持って武術としていたのが、簡便な方法として途中段階の明るい勁が設定されたと言うのです。
これを先生は「インスタントな技術」と言っていました。本当に体得できるまでの取り合えずの技法ということでしょう。ちなみに先生自身は習ったその日に出来るようになったと言います。
この取り合えずの技術のほうが便利なので広まり、現代のように主流となったのだというのがどうも流れのようなのですが、当時はその根拠や論拠を説明をされたわけではないので上手く理解できていませんでした。
ですが、歴史を学んだことでこのように見えてきました。
今一度整理するなら、古代の戦車戦の時代に暗の勁の土台が生まれて、のちの南北朝の時代に胡の服装を取り入れて中華の文化様式が一新されるという改革が起きて乗馬が行われて後に震脚の発勁が萌芽してきます。
だいぶ時代が経って騎馬民族が中土を支配した清朝の頃に、少林寺に心意把として伝わっていた古い発勁が、騎馬民族への反乱結社によって広まり、再普及したということになります。
そして面白いのが、この間に時代の流れに逆らってこの戦車系の暗い発勁を保存し続け、乗馬系の明るい震脚発勁に染まらなかったもう一つの門派が、回族の心意拳だということです。
回族拳法も普及によって漢化して色々な広がりがあるのですが、どうもハードコアな物はもろに歴史や生活様式が繁栄しているのだと言います。
例えば回族は弾圧されていて武術の修練を禁止されていたので、一見武術に見えないような物が秘伝として伝えらえてきた、あるいは同じ理由で剣術や刀術が行われず、兵器は二節棍のような農具が伝えられている、などです。
そのような弾圧政策の中に、馬に乗ることを禁止するという物がありました。
それによって移動力を奪っていたのですね。
そして、馬に乗れないということはつまり、震脚系の発勁にはならないということなのですよ。
これは非常に面白い視点だと思います。
同じ心意拳でも、漢民族に伝わった形意拳が、明勁より始まって暗勁に転化すると言うことを公言していて、ものすごく地面を踏み鳴らす形から始まることを考えると、とても納得がいく話です。