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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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自分のために改める

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 先日こちらでも少し書いた介推に関する小説を読み終わりました。

 自分が使えていた王が政権を取った後、権力の確保に走る同胞たちに絶望した介推は「人の財を盗むものを盗賊という。天の功をむさぼり自分のものにするのは、盗賊よりひどい」と言って都を離れて隠棲してしまいます。

 のち、伝説では仙になったと言います。

 これを読んで、私は人から授かった物を私物化しなくて本当に良かったと思いました。

 いつも書いてきていますが、自己流武術やねつ造武術ではなく、私は昔から伝わってきた伝統武術を継承しています。

 それらを大切にしているので、自分の物のように改変することはしていません。私にとってはそのことに価値があります。

 しかし世の中ではこのようなことが溢れていて、身の回りでもこんなことの話ばかりに接することになっています。

 先日の詐称事件についてもそうですし、それから幾日も経たないうちにお付き合いのあった別の先生(自称)から過去の行状についてのフォローの養成がありました。

 これの先生からはこれが初めてではなくて、あの拳法もできるこの流派も教えると他人に吹聴して活動しているのですが、それが本物にバレると、怒られては逃げ回ったり過去の吹聴の痕跡を消してくれと言ってきたりする困った人です。

 こういう、きちんとした指導資格も無い、何の継承者としても認められていない人が生徒を取っているのはどうしてなのでしょう。

 格闘技ならそれでいい気もします。

 選手や選手を引退した人が自分のジムを経営する。

 話は分かります。

 しかし、伝統の流儀武術に関してはそうではない。

 それは誰か明確な所有者の存在するものです。だから宗家や伝人という物が居るわけですから。

 この先生、以前に別の武術家に正しく伝承していないものを人前で勝手に教えるなと怒られた後も「そういうのが良くないって知らなかったから」と私に言っていましたが、人の物を取ってはいけないというのは基礎的な人間の倫理ですよね。

 それが分からないというのは武術云々ではなくて根本的な人間性の問題だと思います。

 私は個人的にはそこに関しては理解がない方ではありません。

 友達や仲間に発達障害の人が沢山いるせいもあるのですが、先天的にも後天的にも、基礎的な倫理を理解することを非常に苦手としている人間が居るのです。

 私自身が大変に不器用だったり身体が硬くて何十年もストレッチをしてもぺたりと身体を折ったりすることが出来ないように、これは人の出来の問題なので、万人が絶対に同じようにできるということではないように思います。

 例えば私の友人には、イベントの無銭入場の常習者がいます。入口で「ぼくも入っていいですか?」と訊いて案内をされると無料で参加してしまうのです。

 当然怒られることも多いわけですが、相手が気づかなければ踏み倒してしまう。

 イベントを行ってる側もそれでお金をもらって運営をしているということなどにはまったく発想が及ばないわけです。

 平たく言えば泥棒なのですが、泥棒の自覚がない。

 なぜ他の人はお金を払って入場しているのに、自分は払わないでいいと思えるのかは私には分からない。

 でも、それは発達障害のせいなのだと本人が言うのだから、そういう物なのだなと納得するしかありません。

 実際に、このように順を追って説明されると彼は「なるほど」と理解が出来ます。

 このように自分で考えて倫理的に判断することが非常に苦手な人というのは、たくさんいるものだと思います。

 一説には発達障害は三十人から四十人に一人はあるらしく、その外にも奇形や特異体質、アレルギーなども含めると、決してすべての人に通じる「当たり前」などという物はないのではないかと思います。

 私自身も関節の奇形などがありますし、かつての恋人は内臓逆位と言って心臓が反対側にあるという特異体質でした。

 それと同じレベルで、倫理や道徳に対する理解の相違が個々人間んであるというのは疑うに及ばないと思います。

 別に怒ったり軽蔑したりする必要もないと思います。

 しかし、問題はそれを学ぶ気の無い場合があるということです。

 上に挙げた不正入場の常習者の友人は言えばわかるのですが、言われると今度は暴力や強行手段に出る人もたくさんいて、それが問題だと思います。

 苦手なことがあるのは人間当たり前。出来ないこともあります。食べられない野菜の一つもあるでしょう。

 問題は、それに直面した時にいきなりその食べ物を辺りにまき散らしたり提供した人を罵ったりし始めないことではないでしょうか。

 こういう人が本当に多い。

 かつてうちに来ていて人のお金を盗もうとしたので出入り禁止にした人間もそうでした。

 人のお金を取ってはいけないと説諭したところ「ヤダ!」と居直り強盗になろうとしたので、もはや共存が不可能である可能性を検討せざるを得ませんでした。

 また、練習中に無関係な暴力を振るい始めたり他人の邪魔をしたり罵声をあびせたりする人間もそうです。

 自分が出来ないことをそうやってごまかそうとするのですが、それによって余計に当人のしょぼさが強調されてドンドン軽蔑をされてゆきます。

 それを説明して改善するように求めても、あらゆる角度で言い訳をしたり取り繕いを重ねたりして胡麻化そういうことを塗り重ねるばかりで、まったく自分を自分で改良しようという意欲が顕れません。

 そういう人は他人に迷惑をかけるので練習には参加をさせられません。財布が無くなったり怪我などが起きても私が責任を取れないからです。

 あらかじめそのような危険が分かっているなら予防して対策するのが責任者の役割のはずです。

 この、「苦手なことがある人」と「手が付けられないので取り返しがつかない」人の間の違いは「話が通じるかどうか」の一点に掛かっている気がします。

 私が学んでいた先生などは「もう二度と来るな」と突然最後通知を突き付けるタイプだったのですが、私はそうではありません。話が通じればいきなり出禁にするわけではありません。

 うちにも上に挙げたのとは別の人で「じゃ、ぼくだけ料金はまけるってことで」と言ってなんの根拠もなく支払う段階になって値切ろうとしてくる人が居ました。

 レッスンはもう終わった後なので、本来ならそれだけで怒鳴りつけて袋叩きにする先生もいるとは思うのですが、別に私はそうしませんでした。

「みんな同じ値段を払っているので不公平だからそういうことは出来ない」と説明して、それ以後も正規の金額を払ってきてもらいました。

 もし、その場でその人があらかじめお金を持ってきていなかったり、いきなり走って逃げようとしたりしていたらやはり制圧して警送するほかなかったかと思われます。

 そうされなくて本当に良かった。

 強硬手段に対して強硬手段で対応すると言うのは、文明人として非常に悲しい気持ちになることです。

 どうしておかしな人たちが多いんだろうと人に相談したら、武道や格技の関係者にはとても多いのだと返されました。

 その人の関係する団体でも、数回セミナーに参加しただけで勝手に自分でそこの名前を名乗って活動を始めた人が居たので裁判になったそうです。

 初めの介推の言葉に戻ると、それは泥棒です。

 良く言って泥棒です。

 介推の言葉で云うなら、泥棒よりもっと悪いものです。

 もし、スタートが泥棒でも仕方ないこともある。と私は思う部分があります。

 大切なのはそこから改めることです。

 ただ怒鳴りつけて暴力をふるって傷めつけても、やられた人がそこから何も学ばず、同じことを繰り返すのではまったく意味がない。

 また詐称をしてきされて糾弾されてもごまかして逃げ回っていても実力が上がるわけでもない。

 何にもならない。

 時間と命の浪費です。

 すなわち自分で自分を不幸にしている。

 盗人では幸せになれないと学習して、盗まずに自分が幸せになれるように学んでやり方を改善するようにすることを知って欲しいと思います。

 学び、改めるという姿勢の有無こそが、もっとも大きな分かれ道なのではないでしょうか。

 それをするためには、他人ときちんと会話や対話ができること、嘘を吐いたり約束を破ったりしないこと、ごまかしや取り繕いに全体重を預けないこと、ありがとうとごめんなさいがちゃんと言えるということなどが重要なのではないでしょうか。 

 現代の日本の文化では、謝罪と言うのは過失に対して屈辱を支払うと言う意味合いに取られることが多いようですが、これは非常に奇妙なことです。

 世の中を良くなくする傾向だと感じます。

 謝罪とは、自分を改め次に進むことを提示して認知されるための行いなのではないでしょうか。

 もし大変な失敗をしてしまっても、誰にも謝罪を受け入れてもらえなかったら、本当に苦しいし、ある意味においてはもう絶望的でさえあると思いますよ。

 何度でもやり直して先に進んで行ける。そこにこそ人間と言う物の長い長い生涯の救済があると私は思う。


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