先日、天気のいい休日に公園で練習をしていたら、通りすがった方から声を掛けられました。
表演の武術なのかと訊かれたので違うと答え、太極拳なのかと訊かれたので少林派だと答えました。
すると、確かに太極拳にしては戦闘的だったとのご感想。
心穏やかに慢練でしていたのですが、まだ戦闘性があったかと少し反省しました。
なぜ少林拳などしているのかと訊かれたので、これまで古武術や総合格闘技などをしてきたけど、引退してから中国武術ってのがどんなものか知ってみたいと思って齧ったら、それが生き方としての学問であることを知って、自分の生き方として選んだのだといつものように答えました。
すると、その方、実はヨガを本格的にやってらっしゃるかたで、私に同意してくれました。
ヨガにもまた経絡の考えや、陰と陽の思想があり、ヨガの陽の方の側面は武術としてのカラリ・パヤットであるとのことを教えてくれました。
生き方そのものをコンセプトとして、養生法や身体開発を一つの面とし、もう一つの方を武術にするという少林拳の作りは、達磨大師がインドから持ってきたものだと仮託されています。
達磨伝来説は伝説だとしても、ヨガの中国版が少林拳と気功であるのは間違いのないことだと思います。
現在の日本では、格闘技や武術を修行していると名乗る人達でさえ、多くはそのことを知りません。
知らない程度の知識で、武術がどうの、身体操作がどうのと砂上の楼閣のようなことをかまびすしく述べています。
ほんの上澄みの技のレベルの話だけをしていて、全体を学ぶと言う様子が見えることはまずありません。
立つことも歩くことも息をすることも、生きるということにつなげて考えなければ、それは道にかなっていない。
そういう人たちは、インドからの武術の歴史の大きな流れに伝わる真実を知りえることは無いでしょう。
人が一生に行けるところには限りがあります。
それを越えたところにまで至るには、先人たちが進んできた道を引き継ぐしかないと思います。
そしていまのこの国で、そういった人の心身を正しく活かした生き方の真相を知るのは、武術や格闘技の世界の人々ではなく、ヨガや仏教の世界の人々であると私は思っています。
パンチやキックだけを学ぼうとすれば、おそらくその知識を得られることでしょう。
人生や真実を学ぼうとすれば、やはりそれが得られることもあるでしょう。
私たちが住まう世界は後者の世界です。
ただこれだけ書くと、傲慢な勘違いだと思われることもあるかもしれないので、例を出しましょう。
ここの記事でも良く、身近な人の愚かな過ちを書くことがありますが、そういう人がなぜ自分が愚かしいことをしてしまうかを自省したとします。
そうすると、自分の中に怒りがあり、それが短絡的で直情的な行動に自分を走らせるということがあるかもしれないと思い当たったとします。
そのようなことを、武道や格闘技の先生に相談したとして「努力」や「根性」「気合」しか答えが返ってこなかったとしたら、やはりそこには必要な物が伝わっていないのです。
ミットやサンドバッグを蹴ったりぶったりすることでは、それは解決はしないかもしれない。
私たちの考えでは、人間の感情とは精神と肉体の両方に由来するとみなします。
肉体においては怒りは肝臓に宿ります。
それは肝経という経絡を通って全身につながって走っています。
なので、肝臓の活動を平定させるために、経絡を鍼や按摩で刺激するという方法が一つあります。
私の師父なら、そこに点穴を施して療養を施してくれます。
陰陽思想であるために、肝臓と怒りと言う見立てがあっても、それが過剰であるために怒りがあふれているのか、あるいは肝臓が弱っているために怒りが不安定に湧き出ているのかも調べたほうが良いでしょう。
その上で、場合によっては肝臓の働きを抑える方法を用いる可能性もあります。
肝臓は五行思想で言うと木行であるとされます。木であるがために燃えやすい、つまり火を発するので怒りの源であるという寸法です。
この木を抑えるのは金行であるとされます。斧が樹木を断つように、というお話です。
よって、金行の気を宿す肺の健康を増せば、怒りの発作は抑えられるかもしれない。
だとすると、怒りを抑えるための方法を相談された中国武術の師父なら、ジョギングや水泳で呼吸器を鍛えることや、あるいは単純に深呼吸の習慣を薦めることが出来ます。
言われた方も、そういわれてみれば喫煙の習慣と内心のイライラがつながっているような気に思い当たるかもしれません。
中国ではこのような場合、漢方を用いてアプローチすることも一般的です。
もし、これが武術の世界での生徒と師の話であれば、肝臓の気を用いる技や、肺の気を多用する動作についての指導も入ることでしょう。
それが、中国武術の伝統的な指導方法です。
一人一人の学生(生徒さん)の様子を問診して動作を観て、状態を見立ててふさわしいように指導をしてゆく。
しかし、そもそもこのような陰陽五行思想の信憑性に疑問を抱く方もたくさんいらっしゃることでしょう。
私も同感です。
長いこの思想の歴史には、偏った発想や間違った方向に発展した物もたくさんあると思います。
それらを慎重に踏まえて忌避した上での見立てが大切です。
だからこそ、正統な伝統を継承した師父以外はあてにすると危険なのです。
怒りを助長する練習、鬱を誘発するようなもの、また精神のバランスを招くような練習法を指導されて、効果がないのみならず神経病になった人が沢山います。
そのような症状を偏差と言います。
日本でも先生を称するたくさんの人が偏差に陥っています。
偏差の存在も含めて、すべては否科学的だという意見にも耳を課すべきでしょう。
その通りかもしれません。
そのような物は紀元前16世紀よりも前から続いている中国の土着的な信仰に過ぎないという意見も否定はできません。
その一方で、この21世紀の日本でも、街には整体や指圧、針灸の施術所があふれ、病院に行けば漢方薬を処方されます。
みんな、この陰陽五行説によってなりたっているものです。
このような説による宇宙観を前提として、身体を動かし、生活を送ると言うのがヨガであり、カラリパヤットであり、中国武術です。
また、書もお茶もみな、表現方法において違う選択をしただけで、みな同じことをしています。
このような独自の価値観という差異を持って、我々の特色を語ったという次第です。
以上のような観点を持って、他人と戦うのではなくて自分を省みるのです。
それは精神的な意味だけではないのです。気合や根性は万能の解決方法ではない。
自分の身体とも向き合って具体的に自分の現状を改善してゆく。
伝統の中国武術を学ぶというのは、そういうことです。
自分と向き合うことの出来ない人間には難しいことかもしれない。
目の前に敵が出てきてくれてそちらにばかり向いていれば気がそらせる物の方がいいと言う人も居るかもしれない。