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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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黙然師容

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 中国武術では、よく黙然師容と言うことを言います。

 これは四の五の質問をしたり説明を求めず、黙って師の言うことを聴いて練習しなさいという意味に取られていた時代もあるのですが、実際の意味は「師の動きを脳に焼き付けてイメージしなさい」という意味だそうです。

 これなら非常に実際的な学習法になります。脳内に3D画像を作って、疑問がわいたときにはいつでもそれを再生して師父がどうやっていたかを確認すれば、何が正しいのかを確かめられます。

 いま還暦を越えている日本人の先生、若いころに内家拳の追求をして台湾、香港、大陸と渡ったけれども、求めていた物が見つからなかったそうです。

 その先生が求めていた物は、少林拳的な物ではない、内家拳というイメージの中の物だったそうですが、現地で出会った達人方の強さはみんな少林拳の土台に立脚した物で、自分のイメージとは違った。

 結局納得がいかないまま稽古を続けて、日本に帰ってから生徒を取っていたのだけれども、50を過ぎても実は至っていないと感じていたそうです。

 その中で、実は答えは少林拳の中にあるのではないかと思い当たり、そこからやり直したところ、開眼したそうです。

 その先生のやっていることは、いまわれわれがやっていることと同様に見えます。

 つまり、実は最初から教わっていたのだけれども、勝手な思い込みでこれは違うのだと決めつけていたということなのでしょう。

 30年もの間、大変な回り道をしたものです。

 このように、見せてもらっていても、理解が出来て居なければ身にはならないということもあります。

 また、歴史を学んでいなければ、少林拳から内家拳の歴史が始まっているということも分からないので、別の物だと考えてしまうのでしょう。

 実際には、その先生の解釈では、結局少林拳の用勁が見えなくなっても身体の内側にあるのが内家拳だということです。

 だとしたら、きちんと最初から少林拳を磨いて暗勁に転化していればそれで解決したお話です。

 私自身が幸いだったのは、ほとんど自分のことを考えずに、ただ言われるがままに練習してきたので、ほぼ最短ルートで正しい内容が学べたことでしょう。

 強くなりたいとか、戦って勝ちたいとか自分の身を守るためといったようなエゴはまったくなかった。

 そのようなエゴでがんじがらめになった人がうちにもやってきますが、まるでダメです。

 自分を主体においている限り、昨日までの自分の枠を超えることを学ぶことは出来ない。

 自分の外にあることを取り入れることが出来ないと外にある力は獲得できません。

 あれもこれもとやりたがったり、自分流でいろいろな流派の物を勝手に混ぜてしまって足りないところを補ってしまったりしては、完成された物を受け継ぐことは出来ません。

 特に虚や無を重んじる中国武術では、そこにあるべき空白を他の物で埋めてしまっては、取り返しのつかないことになります。

 荘子ではこれを無用の用と言います。

 箱というのは中がからっぽであるからこそ物を入れることが出来る。物を入れられるから箱としての用が立つ、ということです。

 私が中国武術を獲得したかったのは、静かな存在になりたかったからです。

 要らない物をみんな手放して、ただ静かに暮らしたかった。

 そのような状態だったことが結果的に良かったのだと思います。

 おかげでみんな捨てられました。古武術も総合格闘技も、組技も立ち技も道具を使う現代武道も、みんななんの惜しみも無く消せました。

 だからこそここにたどり着くことが出来た。

 初段二段程度のレベルの物を捨てて、師父になり、マスタルになれた。

 それもまた、私が最初から望んだことではありません。

 ある時、師父が次は何がやりたいかと聞いてくれたので(うちの師父は段階が進むといつもそう聞いてくれます)「もう誰も居ないところで一人で静かに暮らしたいから、そこで出来るために一つだけ○○(套路の名前)を持っていきたいから、他のは要らないのでそれだけくださいませんか」と応えたところ、香港に許可を求めて連絡を取ってくれて、その返事が「与えても構わないがあれは他のことが全部出来てからでないと理解が出来ないので、他の全部をやってからにくれてやれ」という物だったのです。

 それが私が師父になったきっかけでした。

 もしもあの時「すべてをくれ」と言っていたら果たしていまのこの状態があったでしょうか。

 後で聞いたのですが、本場ではやたらと他流や他人の持っている物を欲しがる人間は泥棒扱いをされて信頼を得られず、師父方からは避けられるのだそうです。

 いまの世の中の、低レベルな自己流やYOUTUBEで見たりかじったりしただけの物を教えている自称先生が増えている状況を見ると、そのような劣化を避けるために純粋さを守ろうとして伝統が守られてきたのであろうと推測がされます。

私が貪欲さを持たず、たった一つを望んだからこそ、伝わってきた宝を捻じ曲げて私したりすることをせず、任せられると思っていただけたのではないでしょうか。

おかげで、静かで、心地よく、そして豊かな日々が過ごせています。


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