さて、前回までに東南アジア諸国におけるインドと中華帝国の文化の影響力の強さを書いてきましたが、今回はさらにちょっとその辺りのエピソードをご紹介しましょう。
タイが独立して以後ずっと自主政権を維持しているということは書きましたが、その中で当然王朝の盛衰は発生しています。
タイは独立していると言いましたが、決して他国に敗北をしていないということではありません。遺跡で有名なアユタヤ王朝は実は、外国の侵攻によって滅びています。
アユタヤ王朝はスコータイを併呑し継承したのですが、例のイスラム大改宗の時期に、アユタヤに朝貢をしていた沢山の国が独立を宣言してしまいます。
その後、アユタヤの経済は中国との貿易に依存することになります。外国人のアユタヤへの駐留は許されていなかったそうですが、中国人だけは例外だったそうです。
さらには西にあるマラッカがポルトガル領になったことでポルトガルとの貿易も生まれ、さらに倭寇ルートによる日本との貿易も行われるようになります。
しかし、この倭寇の貿易が曲者で、以前に倭寇の記事で書いた大倭寇の結果、明朝が海禁を解除したために正規ルートによる貿易がはじまり、密貿易中継点としてのタイの需要は減って行ってしまいます。
この後、18世紀になるとビルマによる侵攻によってアユタヤは破壊しつくされてしまいます。
ただ、この情勢を見守っていた中国が、軍が出払っている隙をついてビルマ本国への攻撃を開始します。
この辺りの機微はまさに史記の国と言った感じです。
結果、ビルマ軍は取り急ぎ撤収することになったのですが、この背中を追うようにして逃亡していたアユタヤの部将、タークシンが巻き返しを図ります。
このタークシン将軍、父親が中国人の中華系タイ人で、中国名を鄭信(あるいは鄭昭)と言います。
もともと中国は潮州の人で、タイに養子に出されたという経緯の人だそうです。
この血統を活かして、ビルマへの追撃の時には潮州系の武人を現地で徴収して軍を作ったのだと言います。
そのままアユタヤの国家を引き継ぐようにして新たにトンブリー王朝を打ち立て、周辺小国を次々に制圧してゆき、一時は参加を離れていたカンボジアやラオスを再び属国として配下に収め、かつてのアユタヤの隆盛を回復してゆきます。
学問にも造詣が深く、大変に英明な王であったようなのですが、晩年には暴君へと転換します。
自らを阿羅漢として崇めるように高僧に指示するも断られたために残虐な刑に処すといった血迷い方をするに至り、これで人心は一気に彼から離れて、最終的には国内各地で反乱が起きる事態となります。
最後にはタークシンは処刑されることとなり、トンブリー王朝は彼一代で終わります。
この辺り、ものすごく中国の歴史っぽい感じがします。
ただ彼はやはり功績も大きかったらしく、現在にまでわたって紙幣に肖像画が描かれており、かつては20バーツ、現在は100バーツ札にてその顔を見ることが出来ます。
それだけの影響力のある王様が中華系であり、その王朝の土台が華僑によってつくられたことは非常に注目すべきことではないでしょうか。