現代のフィリピンのエスクリマのメイン・ストリームは、中部ビサヤ地方でバハドというエスクリマドール同士の決闘を中心に発展してきたものです。
しかし、北部のマニラにはそれとは別に、このあいだまで書いてきた、幾度もの内戦の元で発展してきた、ゲリラ戦エスクリマの歴史があります。
今回はそのゲリラ戦のエスクリマドールについて書いてみたいと思います。
その人はベルト・ラバニエゴ先生と言い、私がフィリピンに行ったときに最初に会いに行こうとしていた人です。
しかし、実際には見つけることが出来ず、代わりに今のグランド・マスタルに出会うことになったのですが、このラバニエゴ先生、元は私の滞在していた辺りで教えていられたそうで、グランド・マスタルもどうやら習ったことがあるようでそのスタイル、エスクリマ・ラバニエゴの一部を教えてくれたりしたものです。
このラバニエゴ先生のマーシャル・アーツを知るためには、その先生からたどるのがより明瞭になりそうです。
ラバニエゴ先生の先生は、ベンジャミン・ルナ・レマ先生と言います。
20世紀の初めにビサヤで生まれた方で、当時学んだのはバハドではなくて家伝の剣術を学んだ人のようです。この剣術はもろに古典のエスパダ・イ・ダガだったようで、このころはまだビサヤにはファミリー・アートとして剣術が伝わっている家が多かったらしく、彼は剣士の家の仲間たちと集まって剣術の技術を交流していたと言われています。
その後、日本帝国軍の侵略が起きた時代に、彼は抗日ゲリラ部隊に参加します。
この訓練でルナ・レマ先生はバストンの技術とゲリラ戦の剣術の技術を学んだそうです。
その時の技術をもとに、ゲリラ戦エスクリマの専門家になり、マニラで警察官に訓練をします。
さらに米軍からの要請でグァムに移住して兵士への訓練を担当することになります。
グァムにはフィリピン移民が多く、実はエスクリマが盛んなのです。私に基礎の手ほどきをしてくれたのもグァムの人でした。
軍での仕事が終わると彼はマニラに戻り、そこで指導を始めました。
マニラでライトニング・サイエンティフィック・エスクリマとしての指導をしているに至っても、ルナ・レマ先生のエスクリマはエスパダ・イ・ダガを重視したものだそうです。
これはセブのバハドのエスクリマでは喪失されていった技術です。
この、バハドの物ではないゲリラ戦用のエスクリマにおけるバストン(棒)の扱いは戦争の兵器としての独特の物があるようです。
彼らはパワー・ストライクという強打を重視するのですが、この言葉は私たちのラプンティ・アルニスにもあり、それを養うためのサヤウ(型)さえあり、その名前もまんま「パワー・ストライク」です。
「相手が一度打ってきたのに対してこちらは15回打ち返す」というコンセプトも同じものなので、おそらくはこのルナ・レマ先生のシステムが私たちに影響を与えたのではないでしょうか(あるいは、少年期の仲間との交流やセブのゲリラキャンプ時代にラプンティが影響を与えた可能性もなくはない)。
この技を継ぐのがベルト・ラバニエゴ先生で、やはりビサヤの出身です。
ルナ・レマ先生と同じく父親からエスクリマを学んだそうで、これは古いタイプのラルゴの物だそうです。他にも現地でエスパダ・イ・ダガを学んだそうです。
その後、70年代末にルナ・レマ先生のもとでエスパダ・イ・ダガを学ぶようになったそうですが、やはりバハドのテクニックよりもそちらのスタイルの物に関心が強かったのが伺われます。
ここでの修行を経てエスクリマ・ラバニエゴを開くようになったラバニエゴ先生のスタイルは、腰を低く構えて、コルトの間合いを重視し、エスパダ・イ・ダガを伴うという、バハド・スタイルや他の剣術タイプのスタイルと較べても非常に独特の物です。
そしてこれらを総合すると、ものすごく私たちのラプンティ・アルニスと近いコンセプトの物が見えてきます。
おそらくこれらは、バハドの影響が薄く、ゲリラ戦の元で追求されてきた物の特徴なのではないでしょうか。
このタイプは日本はおろかフィリピンでも珍しい物であると同時に、東南アジアの歴史が顕れた物としても、非常に興味深いものだと思われます。