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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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 現在、角界が騒ぎになっています。

 実は私はもしどうしてもまた生まれてこなければならないのだとして、日本人の男児としてなのだったら、次は力士になりたいと思うようなところがあるのです。

 というのも、力士と言うのは男が人の手本として理想の姿を追求することに人生を懸けることが許されている生き方だからです。

 現在の他の多くの職業でそのようなことはおおむね許されることはありません。

 善性や美徳というものを体現するということは、実社会において推奨されるものではまずありえないことでしょう。

 これは実存主義以降の資本主義社会の在り方として正しいものだと思います。

 人には自由があり、徳目や倫理を持って人の生き方をはかることはすべきではない。

 医者や教師も待遇から選択すべき職業の一つです。ブラックな雇用など推奨されるべきではありません。

 しかし反面、それらが仁術や聖職であるということから離れて産業となることは、他の多くの人に人生に多大な影響を与えることもまた事実ではないでしょうか。

 先日観た「ジャスティス・リーグ」では、スーパーマンの死後の世界が語られます。

 これがとても悲しくて、私は涙が出てしまいました。

 スーパーマンの正義は果たして現在の自由主義において正しいのかと言うのが前作「バットマンVSスーパーマン」のモチーフだったのでしょうが、彼の「キリスト教的素朴な隣人愛」という正義は、否キリスト教国や高度な政治を要する自由主義諸国の社会においてはすでに有用ではなくなっている、というのがその段階での一説であるようでした。

 これはこの間まで私が書いていた、キリスト教圏諸国のアジアへの侵略の形跡を呼んでいただくと、その否定さるべき部分が多々見えてくるものだと思われます。ちなみにジャスティス・リーグで重要な位置を占めるワンダー・ウーマンの物語はまさにその第一次大戦における人間の政治的倫理の神からの卒業を描いています。

 とはいえこれはやはりとてもさみしいことだと感じました。

 私はキリスト教徒ではないのでスーパーマンが体現しているジーザス的な正義は肯定しきれない部分はあるのですが、それでも善意の塊である彼が大好きでした。

 スーパーマンと言うのは、特定の一人のキャラクターを越えて一つの善の概念の象徴と言ってもよいでしょう。

 キリスト教徒にはなれない世界中の人たちも、宗教上の理由からジーザスをあがめることはは無理でも、スーパーマンになら善意の在り方を見て取ることが出来ます。

 それこそが宗教には出来ない、コミックブックのヒーローに可能な素晴らしい在り方ではないでしょうか。

 力士というのは、同様の存在だと思います。

 象徴としての「正しい物」を体現することを最重視し、個人の自由を公式に許容することのない、数少ない職業であると思われます。

 彼らは公私にわたってこの日本国の護国の神格として聖職を務める義務を課せられています。

 魂の理想に生きたい人間が、その欲求に従うには非常に適した生き方ではないでしょうか。

 だからこそ彼らは個人としての氏を離れて、ひとたび四股名と言う物を授かって生きてゆくのでしょう。

 

 最近、あるプロレスラーの方のお話を聴きました。 

 この方は私より年上の方で、私は全然プロレスを知らないのですが、ずいぶんと苦労人の方だそうです。

 とても遅咲きでなかなか芽が出ず、頑張っても頑張ってもダメで、同期はどんどん辞めてゆくという環境に苦しんでいたと言います。

 それでもその方が頑張れたのは、子供の頃から人が自分を呼ぶのはどういうことなのだろうという気持ちがあったからなのだそうです。

 プロレスの世界に入って多くの人に自分の名を認識して欲しいとの希望を持っていたそうなのですが、実際は入門してもどうせすぐ辞めるだろうと先輩たちには名前を憶えてもらえはしなかったそうです。

 それでも同期と一緒に苦心していたのですが、それも裏目に出て彼は大けがをしてしまったのが転機でした。

 入院している時にお見舞いに来てくれたプロレス仲間やそのほかの友人たちが一緒に話している姿が、彼には奇跡の絵のように見えたのだというのです。

 まったく違う場所で生きていた人たちが自分を思う気持ちだけでこうして同じ場所で同じように話をしてくれるということが、自分という物を人に知ってもらえるということの意味だと感じたといいます。

 そのために彼は、この仲間たちが自分の友達であることをどこで誰に話しても恥ずかしくない自分になろうと強い決意を固めました。

 その結果、チャンピオンになり、いま現在もっとも有名なプロレスラーとなっているのだと言います。

 昔は人に気づかれても「あ、なーんだ」みたいな反応だったのが、いまは子供たちに出くわすと呼び捨てにされて取り囲まれると言います。

 それがサイコーなんだと嬉しそうに言っていました。

 その、子供たちの呼び捨てこそが彼が求めていたものなのだそうです。

 きっとその子たちは大人になっても、昔すれ違った大きな男のことを忘れないでしょう。そういう思い出に残る存在に自分が成れたことがうれしくて仕方がないようでした。

 

 私自身も、自分の名前に関する奇妙な違和感を子供の頃からずっと抱えていました。

 一体その名前が差しているのはどんな人間のことなのだろう? その名を人が呼ぶとき、果たしてどんな人間を呼んでいるつもりなのだろう? 自分はその名前にふさわしい人間なのだろうか?

 名前に恥ずかしくない人間になれるようになりたいと思えたのは、成人してから少し経った後のことでした。

 自分が好きな人たちが何度も呼んでくれたこの名前が、その人たちの物であれるようにと思ったのです。

 それからだいぶたっていま、私は師父がつけてくれた名前でこのような活動をしています。

 活動の目的は、自分で自分の道を歩もうと誠実に力を尽くしているけれども、まだ一歩及ばない人に手を貸すというものです。

 そうして彼らが、自分の名前に納得のいく生き方をするお手伝いが出来ることが、私の活動目的です。

 私の名前には「そばづく」「さぶらう」という意味があるそうです。

 それは尊い物の傍にいて守るとか、力となると言った意味であるそうです。

 私はそういう生き方が気に入っているので、自分のために流派や技術を利用しようとは思いません。

 逆に、流儀や伝統を守るための裏方として生涯居られたら、それが最高の人生となります。

 生まれつきの気質なのか、人を蹴落としたり騙したりして自分の利益を上げるような生き方がちょっとばかばかしくてやっていられないという傲慢さを抱えていたので、長い間どうしてもいまのこの社会では生きづらくて仕方がありませんでした。

 欲しい物もないし功名心もなく、権力も嫌いで性欲も薄く、小食で趣味もないといった性格では、この生きているだけで支払いの多い世界では苦しいことばかりで何もいいことがありません。

 そこで師父に「私はもう十分長生きしたのでこの命はもういいから鴻勝館で使ってください」と言ったところ、いまの師父の場所に導いてもらえることになったのです。

 鴻勝館は、世の中の抑圧から人を自由に開放するために設立されました。

 その理念のために私はいまこうして生きています。

 あの頃と違い、毎日はとても楽しく心地よい。

 求めるところに丁度良い場所にこれたのでしょうね。


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