タピタピを行うと、武術でありながらちょっと格闘技っぽい感じが味わえます。
棒を使ったお相撲というか、確実に決まるのが当たり前だという手ごたえが得られる。
柔道家にとって人間というものは投げることが出来るのが当たり前だというレベルで、アルニスでも棒があれば人は投げらえるのが当たり前だとか、相手の棒は奪えるのが当たり前だという感じになれると、地力がついたのだなあという気になります。
もちろん、それは技術の中核ではありません。
相手を動けないようにしておいて、打って打って打ちまくっては削り倒すのがラプンティ・アルニスの滅多打ちの哲学なのだと思うのですが、我々SMACにおける本質はまた別のところにあります。
それは、気持ちよく暮らす、ということです。
武術によって心身のリラックス開発してゆくことがそこでは大きな位置をしめます。
そのため、格闘技的なタピタピでの自由攻防でも、瞑想をしているときの感覚を維持したままで行うことで初めて目的にかないます。
一般に格闘技では細かくジャンプし、呼吸を短くし、血行を一定に高めることが運動に適したものとして推奨されていますが、そこは武術の武術たるゆえんで、我々はそのようなやり方を否定します。
攻防中も深く静かな深呼吸。相手に呼吸音を盗まれてはいけません。
小刻みに動いたりもせず、力むことなく、ゆったりとした副交感神経優位の状態を保ったままで居られるようにします。
そこにこそ、我々少林武術の、禅の行としての意味があります。
何をしていても、人生でどんなことが起きているときでも、可能な限り落ち着いてくつろいでいることを目指す。
心頭滅却すれば火もまた涼しと言いますが、理想としてはそのような状態にあるわけですね。
どうもこの言葉は我慢大会のように受け取る日本人が多いようですが、それは近代化以降の努力根性主義の考え方。
実際は火を我慢するかではなく、心頭滅却をするということが大切。
以前も書きましたが、自由攻防になるとちゃんとした社会人のはずの人たちも突然わがままな無法者に転身して他人の安全を省みず危険行為を次から次へと繰り出すルール無用の悪党になることが多々あります。
これは、余裕がなくなって自分のことしか考えられなくなってしまっているからなのでしょう。
目的に囚われて強迫観念に押しつぶされてしまっているのですね。
負けるくらいなら相手を怪我させたほうがマシ、というようなことになってしまいがちです。
もちろんそのようなことを自覚している訳ではなくて、本人の意識の中では「どうしよう、どうしよう!」でいっぱいなだけなのでしょうが。
そのようなときに「まぁなるようになればどうでもいいだろ」と思うゆとりがあれば「とりあえずお互い怪我しないようにしたほうがいいよな」と思えるし、そうなれば「ケガしないで続けてればそのうちうまくなんだろ」という自分の人生の未来への信頼が持てる。これはクレバーですよね。
だからおそらく、仏教では知恵とか賢明さというような言葉を使うのでしょう。
つまり、目先のエゴに振り回されるということの反対です。
何もしなかったり怪我で出来なくなってしまえばそれは0かマイナスですが、やられ続けてもやっていればそれは経験の積み重ねになるので確実な投資と貯金になりますよね。そのことに充分満足していれば幸せなものです。
また「どうしよどうしよ」とでいっぱいになってそれに支配されてしまってる人は本当に「どうしよう」は考えられていないことが多い物です。
どうすればいいかは先にとっくに練習をしているはずで、私自身も繰り返し「落ち着いて」とか「とにかくゆっくりとやり続けることです」と言っているのにそういった示された正しい道を無視して自分のエゴに取り憑かれて人の指導を完全無視の帝王ぶりを発揮したりします。
これは、日本社会における拙速な近代化の歴史からくる教育システムの負の側面が大きいのではないでしょうか。
近代日本の義務教育というのは、富国強兵による国力の成長を目的としているため、人間から考える力を奪って押し付けられたことを果たすだけの機械に変えてゆくことが織り込まれています。
将来の不安をあおられて、恫喝と採点の飴と鞭で操られて少年期を過ごす。
そのようなことを刷り込まれて育ってきた人間が急に「なんでもいいからとにかく落ち着きなさい」と言われても「あわてなきゃあわてなきゃ。慌てることは知ってることだからOKだし慌ててれば他に人にも自分が慌ててるって伝わる」というおかしな万能感に引きずられてしまうのは仕方のないことかもしれません。
でも、私たちが武術として学んでいることは落ち着くこと。リラックスすること。気持ちよくあること。
これは義務教育で押し付けられていたこととは真逆のことですね。
殴られてる状態だろうがゆすぶられて襲われていようが、自分の足でしっかり立ってゆっくり呼吸をすること。
そして、自分の頭で考えること。
そのようにして、襲われている自分、転がされている自分、疲れてきた自分、打たれている自分もまた、いつもの同じ寛いだ自分で居られることを学びます。
そしてまた、襲っている自分、転がしている自分、疲れさせている自分、打っている自分も同じです。
あさましい心しか持てない人間は、そのようなときにはまたさもしい攻撃性や優位さに踊らされて醜い物になってしまいます。非常に貧乏くさい人間性です。情けない。
打っていても打たれていても同じ。
疲れていても疲れさせていても同じ。
一定の安定を自分の内に求めてゆくことこそが、自分の中に安心を持ち、気持ちのいい自分を作るためのエクササイズになるはずです。
それが出来れば、自分として生きる人生は気持ちのいい物となるはず。
それが私たちの武術の本質です。
勝ち負けも技も仮に用いている道具に過ぎない。
必要無くなれば使わなくなってもいい。
ただ、その軽い試練にさらされた時に、自分が自分として心を平らかにしなければいけないのだなという原点に向き合えるという、それだけのことです。
今回は長時間のタピタピをしたのですが、訓練を終えたあとも肩はまったく凝っていませんでしたし、半月板が摩耗している膝にも負担はかかっていませんでしたし、腰もまったく痛めていない。
どうやら一貫してリラックスしてプラクティスの時間を楽しめていたようです。
よかったよかった。