私は大変に深く眠ります。
自分でも目を覚ました時に、あんなに深い眠りからよく戻ってくることが出来たものだと驚かされます。
そのまま死んでしまったとしてもなんの不思議もないような眠りの中に、一度も目を覚ますことなく沈みこんで夜を過ごしています。
しかし、もともとこうだったわけではありません。
子供のころから眠るのが下手で、お昼寝の時間はただ何もせずに時間が過ぎるのを待っていなくてはいけないので退屈で仕方ありませんでした。
長じてからは過労と心労の著しい環境で、ながく睡眠障害を患いました。常に神経が張っていて、わずかな刺激で目が覚めてしまうので、眠りに入ることが難しく、その後も長く寝ることが出来なかったのです。
これを克服できたのは気功のおかげなのですが、ただ物理的な意味でだけではないかもしれません。
気功は中国において、陰陽思想と一体の物として行われてきました。
心身の陰陽の調和を取るための体操と言って良いと思います。
身体は眠りという陰の状態、休止を摂ることで活動という陽の状態をより活発に行えて陰陽の調和がとれます。
心も同じです。
陰陽は虚実であり、特に陰陽思想では陰の部分、虚を重視しています。
西洋思想ではより積極的、より沢山、より高く、よりポジティブ、というような実、陽の部分がフィーチャーされるようですが、そうではないところに東洋の特色があります。
広い虚のあることこそが、より大きなところでの調和、バランスの安定をもたらします。
今朝、目を覚まして驚いたのは、起きている間はずっと頭を占めていたことが、寝ている間はまったく消えていたことに気づいてためです。
まるで何も持たない状態でいま生まれたかのように目を覚まして、少しづつ記憶を取り戻してゆき、自分が誰なのか、今がいつなのかを噛み含めてゆきました。
このようなことが、極めて健全であり、偉大な天地の運行に人間が則った物であるという思いにまた改めて驚きました。
夕に死に、朝に生まれるという故事の通りの目覚めです。
日々の暮らしには、大切な仕事や取り組んでいる課題、愛している人などの存在があります。
その充実が手ごたえと疲労を同時に生みます。
かつては私も、寝ているときも苦悶の表情を浮かべていると言われていました。
しかし、日が昇り、また沈むことと命が同調しているうちに、眠りの中で心が虚になってゆけるようになったのでしょう。
虚の間に、心は洗われ、静まり、柔らかくほぐれてゆきます。
そして目覚めたとき、また大切な物を一から得なおして、その幸せに新鮮な気持ちで喜びを感じ、出来立ての人生の最初の一歩目を踏み出します。
この思想の大家である荘子は、寝ている間にまた別の人生を送るという胡蝶の夢という故事で有名ですが、眠りの時間と起きている時間は一対に等しく大切な物です。
濃密な眠りがあるからこそ、その柔らかさや静けさを内に抱いてまた昼間の暮らしを送れます。
穏やかなライフは、良き眠りがもたらすのではないでしょうか。