2018年、最初の練習が二日の朝から無事行えました。
昨今のうちは素晴らしい学生さんたちに恵まれていて、非常に幸せの至りです。
今回は最初の套路を伝授中なので、そちらに専心する結果になってアルニスの方はやらず。
しかし、基本の練功、母拳、歩法などを一緒にやっていると、蔡李佛拳の中身の濃さを改めてなぞることが出来て、大変に満足が出来ました。
遠心力は打撃に使うものでは無くて気血を促す経絡の活性化に用いるものであることを説明したり、定力と歩法の直結など、パーツを繋いで車を組み立てるようにして説明してゆくことは、確固として確立されたシステムの美しさと手触りを与えてくれます。
この拳にはあいまいなところや不明なところが無い。
何がどうしてどこに繋がってどういう結果に至るのかすべて明確にされています。
「なんにも考えずに十年やってれば出来るようになるよ」というような無責任なやり方が私は好きではありません。
また「質問するなど百年早い。その前にもっと練習しろ」というのも危険な形式主義に陥るように思います。
もっとはっきりと、正しいとしていることが何かをしっかり伝えられるようにしていきたい。
通常は始めて少しの学生さんにそこまでの理解は求めないのでしょうが、私はそこを求めて伝えています。
初学のうちは遠心力で殴ってもいいのですが、それは過程であって目的地ではないことも言ってしまいます。
本来はそのように見える一式一式の中に、暗勁による整勁の本体が存在していて、そここそが大切なのだと伝えます。
また、その過程として打以外の摔や拿の用法も伝えてしまう。
そうすると、同じ形式を打っていても意識が変わって要訣がきちんと守られやすくなる。
形は要訣を身に着けるための物なので、そうした方が合理的です。
本当は先に形だけ覚えてもらって後から説明をしてもいいのですけど、なぜか皆さん全然套路を覚えられない。
そんなに難しいことをしているはずはないのですけれども、畜発や浮沈、開合などの溜めが無くて一筆書きで全身から勁を発したままぬるぬる動くタイプの套路なので、どうも脳に印象が残りづらいようなのです。
そのために招式ごとに切り取って説明をして印象付けをしてもらいます。
内力が等しく働いていれば、どの技も結局は同じなのですけれどもね。
そんな訳で、逆に一つごとの拳や足に意識が偏ることなく、常に内側の全体に意が働くようにして套路を打つと、これが動きにも少し反映します。
我々蔡李佛や洪拳の動作を見ると、人形のような奇妙な動きで拳を打っているように見えることが多い。
これはうねったりためたりせず、骨格で動くのではなくて内側で行っているとそう見えるもののようです。
私はこれをよく、動きが消えると言います。
手や足に意が働くとどうしてもそこが目に付いてしまう。
そうではなくて、なんとなく手や足が気が付いたら移動しているという静かな動きが好ましい物です。
これを影が無いとも言い、いわゆる起こりという物がない状態と言えるでしょう。
なぜ無くなるかと言うと、先に述べた畜発という陰陽が無いからです。
陰で溜めて陽で放つということをしない。
もっと大きな陰陽に寄り添って、すべてを陰で行います
暗いところでは影は見えません。
よってこれを暗勁と言います。
これが出来れば、見た目で出ている拳足はただの全体の一部に過ぎなくなります。実際は身体でも肩でもどこででも勁が出でいる。
この時の、目に見えるわかりやすい攻撃を明打、そうではない部分を暗打と言います。
分からない物は明しか見えない。
これは撃つ側も同じです。暗が理解できていないと、本来の式を行うことは出来ない。
そのために私は初めから目に見えないことまで説明してしまいます。
我々は世の真実と共にいき、安静を求めてこれをしているので、上辺に見える物だけに振り回されてはいけない。