ただいま、太公望の小説を読んでいます。
この作者の方はさすが古代中国の専門家らしく、古代人とは名ばかりの現代人の思考をする人ではなく、きちんと中華思想に則った古代人を描いているという、実に含蓄の深い作品です。
ことにこの太公望という作品では、古代人の考え方を打ち破った人間として主人公の呂望を描いているので、よりその部分が重要になってきます。
太公望の小説、とはつまり封神演義ということなのですが、この解釈が面白い。
封神演義においては悪と設定されている殷の紂王を、始皇帝以前の帝国主義者として描いていて、各部族に対して支配力を得るためにそれぞれが祀る神を奪っていということが書かれています。
この当時の神とはご神体や聖地ということなのですが、それらを略取したり占有したりするわけです。
当時の中国人は自然信仰が主体であって、戦においても直接の兵力のぶつかりあいのみならず、巫呪師を前に推しだして呪詛をしあうと言うことが行われていたそうです。
こうなると、天候がマイナスに働いたり食料が不足したりということもすべて呪いの効果によるものだと考えます。
人同士のぶつかり合いはそのような自然環境の働きの中でのぶつかり合いの一部に過ぎず、決して勝敗を決定する主要要素では無かったと考えていたそうなのですね。ちょっと天候が悪くなれば食べ物が取れなくなったり、病気が流行れば無抵抗に大量の人間が罹患するような環境では、そうなるのが当然かもしれません。
政治にしても祀りごとと言うくらいで占いや祈祷で行います。
世界各国において古代の王とはシャーマン・キングだったと言いますが、まさに当時の中国では一大まじない文化が流布していたようです。
ここに、陰陽思想や気功学の原点を見る気がします。
人間のしうることの限界を知っていて、運命を左右する天の力を本願とするというのは、天人合一を目指して自然によりそう気功の思想に通じていったのではないでしょうか。
太公望と言う人はそのような他力本願の精神世界を脱却して、現代的な努力至上主義を最初に推しだした人だとこの小説では設定されています。
のちの時代の曹操や、日本の織田信長もこのような合理主義的改革者の一人だったのではないでしょうか。
合理性のブラッシュアップを経て、陰陽思想はオカルトから哲学に昇華しました。
気功は具体的なメソッドとして細分化されて(とき過剰なくらいに)、正しい学習によって実際的な力を発揮するまでに至りました。
この、中華文化に合理性を持ち込んだ太公望に対して本文では「人が夢を見ている間に目を覚ましている男」だと記述されています。
オカルト的な夢から目を覚まして具体的なアプローチを持つことは大切です。
しかしそこは陰陽思想。即物的な生産性だけでもまたバランスを欠きます。
その両者の中庸を取れるようにすることが陰陽思想の重要なところです。
しかし現在の日本の中国武術においては、あまりに祈祷の世界に戻ってしまった部分が多いように思います。
何も考えずに一心にやってればいつかできるようになるとか、具体的な方法は知らないけどやみくもに繰り返せば出来るようになるんじゃないかとか、時間と労力を無駄にするような取り組み方が非常に盛んなように思います。
そうなってくるとつきものなのが、出来てもいないのに自分からやられた振りをして飛んでゆくものが現れたりというオカルト化です。
そこにはまり込んだらもうおしまいです。
邪気を感じるだとか霊がどうだとかの妄念の世界に入り込んで、まともな突き一つ打てないただの精神の薄弱な人間への道をまっしぐらです。
武術は真実を追求する道のはず。けっして狭いコミューンを作ってそこの中で口裏を合わせて馴れ合うための道具にすべきではない。
それでは誰も幸せになりません。
確実に出来るようにする。それが大切なことだと思って常に取り組んでいます。