さて、予告していた内と外についてのお話を改めていたしましょうか。
以前にも少し書いたかと思われますが、いまいちど別の切り口から取り組んでみようかと思います。
まずもっとも大きな誤解となっている、内家拳は高級で内側を破壊し、外家拳は低級で外側を破壊するというような考えに目を向けてみましょう。
これはおそらく、内勁と外勁という概念と内家、外家という言葉が似た感じなので混同されてしまったということなのではないでしょうか。
内家と外家というのは、出家した少林僧の武術とそうではない自宅に住んでいる人の拳法という意味です。
実際のニュアンスとしては、内家というのはおおむね仏教である外家と対応した形での道教の拳法をさすことが多いようです。
こうなってくると中国武術におけるもう一大潮流である回教系武術が弾かれてしまいます。実際、出家していない系ですが回族武術は一般には内家拳には含みません。
あくまで回族武術という第三のカテゴライズをされます。
内と外という二分が語感がいいので言葉が力を持ってしまっていそうなのですが、やはり第三の存在はあったわけですね。
以上のように外家、内家という区分はあくまで文化的な文脈によるもので、内勁と外勁という身体用法による区分とは関係が無い。
では外勁と内勁とは何かというお話は、まぁ他の記事で沢山書いてきたので今回は省きましょう。
日本における中国武術の伝播は少年漫画が強い影響力を持っていたためか、情報に非常に幼稚な要素が多いように思います。
またそれを真に受けている大変に幼稚な精神性と知性の持ち主が周辺人物に多いように感じることが多く、正直げんなりすることしきりです。
本来は宗教的な精神性や哲理を学ぶはずのものが、しょうもないオタクの妄想のネタに貶められている感がしきりです。
我々が立禅や気功などをしていると、少林拳も立禅をやるのか、などということを平気で言ってくる人が沢山います。
情報を自分の知力で咀嚼すると言う習慣が薄いのでしょう。
少林という禅宗の総本山である場所が、立禅という禅をすることのどこに不思議を感じるのかがまるで理解できません。
楊式太極拳的基礎鍛錬、就是盤架子。有的書上説入手要站椿、那実際上也不是楊式的正宗伝授。因站椿是少林的東西、目的在使歩穏固、是死的呆板的法門。太極門強然也要歩法穏固、但它是動中去求、従不主張立地生根的固定站椿方法。如果以立地生根不動為能、那就必定犯硬頂的毛病、那太極拳最忌的。