我々SMACの学問的な探求は、インド、中国、そして東南アジアへと連なっている武術の文脈をたどるところがあるのですが、その流れの上で最近面白いことを見つけました。
中国武術各派が拳を打つ前に取る姿勢、起式というものはそれぞれの門の歴史とその中での打つ者の身分などを示す物なのですが、これ、太極拳だとただ手を上に挙げて下におろすと言うさりげない物で行われます。
形意拳だと、そのどうさの後に両手を回しながら前に出して同時に片足を踏み出して構えとなります。
この形意拳の動作を、まず最初の段階を無極式、次の手を下ろしてゆく動きを太極式という派があるのだそうです。
つまり、この二動作を起勢とする太極拳では、無極から太極が生まれたという故事を表現しています。
その後の構えに至る動作を、両儀式言うのだと知りました。
両儀とは陰陽のことだそうです。
つまり、無極から太極が生まれ、対極が両儀に分かれたということを表現しているのが形意拳の起式です。
そしてこの両義式を大きくすると、実は蔡李佛の基礎動作になります。
どころか、我々の起式は起式と言っても一つの套路となっているなが~い物なのですが、その動作や要約するなら無極式から太極式になり、そこから鶴法の動作を挟んで最後に鶴と両儀式を一体として行い、そのあとで蔡、李、佛の三祖に礼をし、虎形に至って終わるという物になっています。
形意拳は心意拳の流れであり、心意拳はイスラム教徒に伝わった物を心意六合拳といい、道教に伝わった物が形意拳、仏教に伝わった物が心意把として発展している極意的な拳法だとされています。
そこに入った鶴はラマなのか、虎は革命結社の象徴なのかということが言われたりもします。
その詳細はいろいろな解釈があるのでしょうが、いずれにせよこの武術の来歴が心意把(すなわち少林拳)から始まって鶴をはさんで三祖から来たものであり虎となる、という表現がされていることが読み取れます。
こういった、文化の中に込められている歴史を読み解いて、その流れをたどってゆくということが我々が世界に触れるために行っていることです。
これは現代格闘技や今出来の創作武術では出来ない。
あるいは伝統武術を学んでいても、浅いところのレベルにとどまっていては触れることの出来ないものです。
多くの武術は登る山の頂は同じで、通る道筋が違うだけだなどと言うことを聴きますが、なまかじりで七合目行った程度の物をたくさんコレクションしていても、高いところの本当のことは決して分からない。
それでは何も継承されることはない。
本物の世界と触れ合うには、こうした教えを指導されたり口伝を得たりして、正統な道を通るしかありません。
そのことにこそ我々は意味を見出しています。