偶然、朝がたに目覚まし代わりにテレビをつけた時に見たこのCMで驚きました。
ショウ・ブラザース風のCMの最新版です。
ちゃんと白眉道人も出てくる。
白眉道人を日本のテレビで見るのはここでも何度か話題に挙げているキムタクさんのCM以来です。
一体なんだって定期的に日本のCMには白眉道人が……。
香港の人たちも驚きでしょう。
このように以外にも身近に時々目にすることもまぁ無くはない中国武術の世界ですが、さて、日本で中国武術をしているというみなさんは、本当に中国武術の文化をご存知でしょうか。
日本武術は、明治以降の創作である現代武道も含めて世界中でよく知られている有名な物です。
海外のマーシャル・アーツ雑誌を読むとたくさんの日本に関する記事が出ている。
また、フィリピンやインドではブルース・リーはいまだに日本人のカラテの使い手であるとされていて、彼の創作であるJKDなどはまったく知られていません。
このように、誤解も含めて印象が圧倒的に独り歩きしている日本武術ですが、これは士族社会において支配階級の特権として発展していたという設立に関する歴史的な背景が強く影響しているのではないかと思われます。
決して趣味でも単なる軍事や自衛の手段でもなく、国体その物と不可分な物として成立していたという世界的にも珍しい例だと思われるのです。
これと同じように、中国武術というのも世界的に見て非常に特殊な背景を元に伝承されてきています。
イタリアにおけるカトリックのような宗教性と強い国民心理への影響力を持ちつつ、マフィアのような第二の政府的な実行力を持ち、また正史そのものの一部である軍閥諸派であり、かつ民族運動そのものであるという、世界的に例を見ない特殊な存在です。
おそらくは、中国共産党が文化大革命によって国政から断ち切りたかったのは、このような、制度とは別の形で国民に強い力を持っている文化そのものだったのでしょう。
それは、あるいは国と言うものその物の姿であったかもしれない。
現在、世界的に華僑と言う中華系移民の皆さんがいますが、このルーツは近代における軍閥の亡命にあります。
そして彼らの活動母体は、いまだに自分たちのルーツを少林寺が清朝の焼き討ちにあったときに落ち延びた五人の僧であるとしています(冒頭の動画に出ている白眉道人はその焼き討ち事件の手引きをしたキャラクターです)。
その五人こそ、南拳五祖として知られる人々であり、私たちが学ぶ南派拳法の流祖たちです。
こんな武術が世界的にあるでしょうか。
武術と民族の歴史が直結している。
日本で言うなら飯篠長威斎や宮本武蔵が歴代首相として国を治めてきた、というような話です。
実際に、彼らの歴史観の中には武術家が自ら編み出した拳法で国を興した王朝が宋の時代だというような物があります。もちろんこの流儀は現在でも伝承されています。
中国で生まれた仏教の泰斗である禅宗にしても、達磨大師が少林寺で作ったもの。少林寺と言えば武術の郷であり、物を知らない人は面白観光地だと勘違いしがちですが、いまなお世界中に広まっている禅宗の総本山です。
これを読まれている禅宗の檀家の皆さん、ご理解されていますか?
このようなことを踏まえた上で自分が何を学んでいるのかを理解してこその中国武術であると私は思っています。
そして、そのようなことをきちんと伝えている師父や老師の話はあまり耳にしない。
日本の草創期の中国武術界では、格闘技や映画のエンターテイメントの真似事として扱われることが多かったためでしょう。
しかし、振り返って当時の雑誌や書籍を読んでみれば、それらのドサクサに紛れていくつかの北派の名拳と呼ばれる物を学んでこれたことは私にとっては非常に恵まれたことでした。
分からないながらも若造のうちにそれらに四苦八苦しながらしてきたことが、いま南派の武術をしていることの基礎になっています。
一説には何百とあるという中国北部の民族武術の数々を、編纂して昇華させ、カリキュラムを確立させた総合武術としてまとまった物を学んでいるいま、この手はあの時にならったあの動きの昇華ではないかとか、あれルーツでこういう風に変化したのかとか、またこれはあの時のと同じ名前だけどまったく違った物になってるからパッケージだけが残ったのだな、などと厚みを持って理解に臨むことが出来ているように思います。
私の武術人生は、非常に幸運な物であったのでしょう。
幸運な者の役割は、自分が多年を要して得た物を手短に次に引き渡すこと。そしてまた、その人たちが学問を深めてゆく。
そういったことによって我々は、人類の歴史の一部として存在してゆくことであると感じています。
文化を受け継ぎ、文化の中で暮して生きることで、自分自身が文化となってゆく。