前回のマヨネーズの話の続きです。
マヨネーズってなに? という方は前のも読んでくださいね。
マヨネーズ派の練習生のヒトにはいくつか典型があって、練習をするのだけどマヨネーズまみれ(習ってることと全然違う自己流)にしてしまう人と、まったく練習をしない人がいます。
後者は非常にデリケートな人間心理の問題です。
難しいことだから、練習しても出来るようにならない→だから傷つくのが怖いから練習をしない→当然出来ない→だから安心。という自分の中の既知の構造を保守しようとするのですね。
これがそのタイプの人のマヨネーズです。
だから練習にきても全然まじめに取り組まず、ただ事務的になぞるだけのことをして、当然出来ないので「いや、俺、練習しないんですよ。練習はしないんですよ!」などと謎の空威張りをしたりする。
これではいつまで経っても出来ないままです。でも、それは傷つかないのでOK。
いや、実際はいたずらに時間や労力を浪費していって、他の人が出来るようになってゆくのを眺めているので少しづつ傷ついてゆくのですが、そうやってジワジワ失ってゆくのがそのタイプの人のエゴの癖なのです。
練習をするけどダメな人の場合も実はこれと少し似ていて、先に進もうという一歩が踏み出せない。
次のことしましょうか? と促しても「いや、まだこれを完成させてからでいいです」とそこにとどまろうとする。
一見謙虚でまじめなようなのですが、実はこれも練習しない人と本質的にはあまり変わらないのです。
自分の既知の砂場の中にだけいて、そこから外に出ようとしない。
基本を完成させてから次に進みたいというのは耳当たりが良く聞こえるかもしれませんが、実際には基本の完成なんて死ぬまでに出来るかどうかのことでしょう。実際にはものすごく傲慢で、安全圏に執着していたいというエゴに執着しているだけです。
前に書いた例だと、まだ文法も単語も覚えないでアルファベットの書き方を練習している段階で「アルファベットが完全に書けるようになってから単語は習う」と言っているような物です。
実は西洋にも習字があります。完璧に美しいアルファベットを手書きで完全に書けるようになるまでは単語を学ぶ気はない、というのでは話にならない。習字の達人になってから言語として使えるようになろうというのはかなり倒錯した芸術嗜好なのではないでしょうか。
まぁ、第三か第四外国語としてならそれでも良いのでしょうが。
学問は、基礎を尊びながら学び続ける意欲が必須です。
いつまでもマヨネーズぶっかけるだけのことを「料理だ」と呼んでいてはどれだけ経っても煮物も羹も作れるようにならない。
留まったがために開花しない危機にあったのが、有名な李書文先生です。
彼は本人曰くとても貧しかったそうで、師父にまとまった謝礼が払えなかった。
そのために新しいことが学べず、基本だけを延々と何年もやっていたのだそうです。
ある時、師父の兄弟弟子が遊びにやってきて、ひたすら基本だけをやっている李書文を見つけて「要らないんならあの人うちにくれないか」と言って預かることとなり、自分の八極拳を仕込んだという話があります。
もしそこでそういった縁が無ければ、李書文公は伝説となることなく、自分の才能に気づかないまま基本のアルファベットの書き取りだけに人生を費やして終わったかもしれません。
武林の伝説に名高い猛虎硬扖山に等は永遠にたどり着かなかった。
また李先生には別の面白い話もあります。
そうやって八極拳を身に着けた後、他派の八極拳がやっている奥義を学びたかったのですが、やはりその手続きが踏めない。
なにせ昔の武術家に奥義を学ぶには、山一つ売り買いするくらいの謝礼が必要だったと言います。
そこで李先生は、高名な武術家に喧嘩を売って「お前の必殺技で俺を打ってみろ! 効かないから!」と言って怒らせて実際に打たせたのだと言うのです。
もちろん普通なら大変なことになるのでしょうが、李先生には二つ秘策がありました。
一つは気功の強さです。
彼は貧しかったので、普通は身体を鍛える鍛錬をするのに漢方を使って回復させるところをしておらず、気功だけで身体を作っていた。そのために非常に内功が強く、打っても撃たれても他人より強かったというのです。
もう一つの技は、インチキでした。撃たれても大丈夫なように服の下に瓦だか木材だかを隠しておいて、防弾チョッキのようにしていたというのです。
そうやって彼は身体で相手の有名な必殺技を受け止めて、そのあがないとして奥義を体で盗み取ったと言うのです。
このようなことを偸拳と言います。
拳を盗むという意味です。
中国の名人伝説には、このように事情があって学べなかった奥義を、工夫とインチキをして盗み取ったという逸話が見られます。
もちろん、ただでは済まないことも多かったことでしょう。。報復として命を取られたり、一生武術が出来ないようにされたという話も聞きます。
しかし、それをするための下準備と情熱、努力を積み、あるいは命を懸けていれば、このように見事に拳を盗むことで学び、自己を開花させた、というお話もあるにはあるのです。
ちっぽけな自我に囚われていて、自分の中の安全圏である既知の世界の外に出ようと言う勇気が無ければ不可能なことであったと思われます。