骨相の話の続きです。
骨の形と、人となりや能力が繋がっており、またその形を気功において変えられる、ということは、ものすごく人生における可能性の広がりを意味しています。
私の知っている人の中で数人、精神疾患の治療で整体に通った人たちがいます。
これはどの程度まで正しいことなのかは私には判断しかねることなのですが、彼女たちが行った整体師たちは頭蓋骨と精神の状態の関連を発言しています。
顎関節や頸椎の矯正によって、精神の病状は改善するのだと整体師たちは言うのです。
確かに言われてみると、彼女たちの顔は曲がっています。一見ものすごい美女でも、口を開けた時に横にずれて下顎が開くような人もいます。そのような人は精神の病である傾向がある。
顔が曲がっているので有名だったあるアイドルは、最近になって昔からの精神の病を告白しました。
このタレントさんは、やはり骨格の矯正で精神疾患を改善したのだと言われています。
人間安易に見た目で判断をしてはいけないと言いますが、観相と精神の関係は存外に正しかったという例が多いように思います。
私はこれまでに何人も発達障害の友人や恋人を持ってきましたが、そのうちの一人でうちの団体で世話を見ていた若い子を連れて稽古道具の調達に行ったところ、そこの店員さんから一目見てその子が発達障害であることが分かったと言われたことがありました。
確かに障碍者手帳は持っているのですが、別に行動に不審な点があるようなタイプではありません。しかし、観る人が見れば一発でそうと分かってしまうのです。
もちろん、外見でわかるタイプばかりではありません。
見た目はまったくの美しい青年や女性でありながらひどい発達障害ということも珍しくはありません。
うちの従弟も黙っていれば好ましい若者なのですが、中身は上の若者と同じ、一時間一緒に居ればすぐに障害が分かります。
彼らの傾向については、かつての恋人から体験談をもらったことがあります。
彼女はおっとりとした性格でとても知的な女性だったのですが、いわゆる天然なところがある。学生時代から知っていたのですが、仕事をするようになってからストレスで精神をやられてしまい、医者に行ったところ発達障害が見つかりました。このパターンは非常に多いです。
彼女が曰くには、小学生の頃から自分には分からないことが多くて周囲との間に違和感を感じていたそうです。
そのために彼女は、常に自分の人生はクイズの連続のように感じていた、と言います。いつも何をするのが正解なのかを探し続けているのだ、というのです。
ここに発達障害の人の世界の受け取り方の典型が見えます。
彼らは相対的に自分を観ることが苦手なのです。
どうしても他人をノンプレーヤー・キャラクターだと思って受け止めて、自分のストーリーに登場した試練やチャンスのように受け止めてしまう。人間を人間としてみなさない。
これはキリスト教の考え方に近い物があります。だからキリスト教圏の人たちにとっては、自然や外国人は克服すべき試練と受け取れてしまう。
決して自分と相対的に同等な同じ価値の存在だとはみなしません。
逆にいえば、発達障害とキリスト教の親和性は高い。充分に救済たりえると思われます。
同時にこの人を人とも思わない傾向によって、自分と世界を相対的に観る禅との相性は良くないように思います。
一級障碍者手帳を発行されている上述の子さえ、自分と他人の意見が違うと他人がおかしいのだと決めつけます。
試してみようとも考えてみようともせずに、自分と意見の違う相手は「そんなわけねぇだろ、バーカ」となります。
また、自分に親切にしてくれる相手に対しても「んなもんいらねーよバーカ」などと感じます。
一つの独立した命が、その人生の途中で労力や心をさいて自分に何かしてくれようとしていることや自分の判断で何かをしていることに対しての敬意というものを抱くことがありません。
だからこその障害であるようで、この、他の人がそう言っているんだからそこに正統性はあるのかもしれない、と見なすことが出来ないために学習して状況を改善するのが難しいのだそうです。
ちなみにこの子は最終的にユーチューブで観て太極拳を体得すると言い出していました。
多くの他人が労力を割いて時間や支払いをささげて学ぼうとしている物に対して、なんの掘り下げも理解も持とうとしていない。自分は動画を観ればマスターできると感じて疑うことがない。
このような思い込みの固まり方が発達障害であり、それは脳を包む骨格による部分があるという考えがあるのです。
これはちょっと半分シャーマニズムのような感じにも受け取れかねないことですが、私自身はありえると思っています。
最近私が頸椎の膜を季節障害と運動の失敗で傷めたと書きましたが、それだけのことでも気血(体内の循環成分)の巡りは悪くなり、私は普段とはまったく違う精神状態にありました。
いつも感じている、ただ生きているだけで供給し続けられている多幸感が得られず、非常に苦しかった。
幸福感というのは脳内のホルモンの分泌によっておこる感覚です。
これが頸椎の辺りの関節がずれて供給が滞れば、普段より感じなくなっても不思議はないように思います。
同じことは骨格のずれや膜の歪みだけでなくて、アレルギーの発症などによっても当然でるでしょう。⦅そういえば昔、アトピーの患者がアレルギーで正気を失って猟奇殺人をするって小説があったけどあれクレームつかなかったのかなあ。それとも何か根拠があったのだろうか。
そのような病状の発症によって幸せでないときの私は、幸せな時の私とは少し人格が異なるかもしれない)
その幸せでなさが恒久的に続けば、人格の差は大きく広がることでしょう。
このような部分に体からのアプローチをして幸せ感を与えて、幸福な人格にし、人生を幸福な物にしてゆこうというのが気功や禅の考えです。
だから、それらに付随する東洋医学の見地からすると、やはり精神疾患や発達障害は骨格と無関係ではないということになります。
ただ注意が必要なのは、頸椎に関して言うと他人から施術を受けるのは事故の判例が多く非常に危険だということです。
時間はかかると思いますが、気功を長期的で行うことがいずれ骨格をも変えて有効であるかもしれません。
また別に私が注目しているのは遺伝子治療です。
骨格が新陳代謝するとはいえ、膝の関節は損傷してしまうと自然治癒はしずらい場所として知られていますが、最近遺伝子治療によってこれが治療できるということが言われているようです。
この系統の研究が進めば、直接に発達障害や疾患を抱えた精神に手術をするようなことは出来なくても、頸椎や頭蓋骨の骨相を改変して脳の働きを快癒することが出来るのではないでしょうか。
発達障害というと嫌がる人も多いかもしれませんが、実際にはクラス一つに一人か二人は発達障害がいるくらいに珍しくない物です。
また、百人いれば百通りの奇形や発達障害がどこかにあるという話もあります。
もちろん私自身にもいくつも思い当たるところがある。だからこそ先に書いたように改善や矯正をしている訳です。
先日いつもの遊んでいる踊り場で、偶然一緒のパフォーマンス・チームに居たことのある女性と出会いました。
話しているうちに彼女が「あそこにいる人、すっごい変なの」とあるお客さんを示して言いました。
その人は以前から私が発達障害っぽいなあと思っていた男性です。
私は昔からそういう人たちに囲まれてフツーに付き合ってきたから自分にだけそう見えるのかと思っていたと彼女に言うと、彼女は「ううん。みんなそう思ってる」と言う答えが返ってきました
身なりの良い、人品卑しからぬ中年男性です。しかし、その場にいるダンサーの女性たちからはそのように観られている。
もし本人に自覚が無ければ、これは悲しいことなのではないかと思いました。
偏見に阻害されず、きちんと認知されて改善への前向きな取り組みがされれば、どれだけ現実は改善されることでしょうか。
どれだけ対症療法が進んでも、当人からの改善の意志が無ければ有効にはなりません。
発達障害の敷居が下がることが、本当の意味でバリアフリーが有効に働くための第一歩のように思います。