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哲学と社会 2・観測の学問

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 日本はもちろん、いわゆる近代自由主義国家というのはすべて革命以降のフランスの国体を下敷きにして形成されています。

 そのフランスにおいて最も教養の基礎とされているのが哲学だということを前回は書きました。

 そして、その哲学という物が、本邦においてはまったく評価されていないのはご存知の通りです。

 哲学なんてなんの役にも立たない、学歴として飾るためのアクセサリーだと思われていることは間違いないでしょう。

 趣味の類だと思われているとしてもおかしくない。

 しかし、哲学というのはそのような物ではありません。

 私はここではっきりと自分のスタンスを明示します。

 哲学こそが人間を人間とするための基礎です。

 それと言うのも、哲学というのは自分とは何か、世界とは何かということを考える学問だからです。

 古代ギリシャにおいては、それらのことすべては神を中心に考えられていました。

 自分とは何か→神の創造物である。

 世界とは何か→神の意思である。

 そのような問いへの答えを、神を介さずに考えようと言うのが哲学の始まりです。

 どうして西風が吹くのか。

 それはゼピュロス神が戦車に乗って空を飛んでいるからではありません。西高東低の気圧さのためです。

 雷が落ちるのはなぜか。

 ゼウスの怒りでは無くて摩擦による発電と通電の結果です。

 そのような自然科学も、当時の言葉で言うと哲学でした。

 それらの内、いわゆる文系の部分が昨今哲学と呼ばれている物だと言って大きく間違いは無いと思います。

 そういった哲学によって、人は自分がどのような物なのかを知り、また世界がそのような人々と自然科学によって出来ているのだという事実を確認することが可能になります。

 しかし、もし自然科学だけを断片的に取り出して、哲学を省いたらどうなるでしょうか?

 それがいまのこの国のほとんどの人たちの在り方です。

 物質を消費することと生きることが密接ですが、他人をみることもまた物のごとしで、自分と同じ対等の人間なのだと見なすという発想が極めて薄い。

 人間を道具や装置、機会などとして捉えることが多い。

 いまどきのスピリチュアルという物などは、この最たるものです。あの登山家のヒトのシンパも同じくでしょう。

 他人を人間ではなく、自分に得をもたらすチャンスだと見なすように教える。そうやって自分と自分の身内だけの利益を追求する存在になるように働きかける。

 ヴィシー政権の標語を思い出して下さい。

「労働、家族、祖国」

 楽しい仕事、あるいはやりがいのある仕事、家族との時間、美しい日本、置き換えればどこかで聞いたことのある言葉ばかりではないでしょうか。

 近代化した時から日本と言うのはそういう国を目指してきました。だから軍国主義の帝国となり、ドイツを参考に歴史を歩んできたのです。鉄血主義を模倣し、ナチと同盟国としてやってきた。

 違うのは、大戦後のアメリカからの国風の変更を受けなかったということです。

「労働、家族、祖国」この三つ以上に価値のあるものをとっさに挙げられる現代日本人はどのくらいいるでしょうか?

 挙げられないということは、それだけ哲学的素養が無いと言うことです。つまり、自分自身と世界という物について自分なりの答えを出すに至っていない。

 ヒトラーの見下した「洗脳しやすい愚民ども」から一歩も出ていないということです。

 もちろんこれはナチが巧妙だからです。前に書いたように、悪とは足りない正義だと言うことが出来ます。つまり、この主義が正しいからこそ、一歩及ばない限り諸悪の根源になりうるのです。

 パワハラ、ブラック企業、差別、隠蔽主義など、社会で問題になっていることのうち、上の三つの標語から生まれていないものはどれだけあるでしょう。

 三つの標語のアンチテーゼを思い出して下さい。

「自由、平等、博愛」です。

 労働の効率と家族や祖国利益と言う一本につながった強固な価値観に対して、個人の自由やそれらの人々一人一人の平等、そしてそれらに向ける博愛と言う物が、どれだけかち合うことでしょう。

 日本社会というのは、つまりそういうところです。

 自由であること、平等であるということ、博愛であること、これらは――いいですか?――これらは、自分にはなんの直接的な得もないことです。違いますか?

 労働、家族、祖国、これらはすべて自己の利益に直結したことです。

 哲学というのは、その即物的な利益とは別のところにある、自分以外の多くの人々の言葉を考えたことです。

 他人の自由、他人の平等、他人への博愛。主語がみな自分一人ではない。

 これが哲学です。

 自分一人のことではなく、より多くのみんなのことを視野に入れた物を求める。これは明らかに利己主義より高度なことです。

 哲学とはそれをすること。三人称の視点で世界を観測する学問であり、世界と自分、他人と自分の距離を観測する学問こそが哲学だと私は言います。

 なので、これこそが教養の基礎であるということは人類社会の構築の上でとても重要なこととなるのです。

 これなくして、まともに物を考えることなど出来なくってもおかしくはない。

 なぜなら一人称視点での夢の中の景色と変わらないからです。

 日本社会において会話が通じない人や物の道理が通じない上司が多いのは、これがためだと思われるのです。

 私は個人的にはフランスと言う国にまったく興味がないのですが、この姿勢はさすがに近代国家の祖だと思わされます。

 だからこそ再三繰り返しているように、我々は思想の実践団体であることを標榜し、それが現代社会で生きづらい人には必要な物であると信じて活動をしているのです。  

 自分が誰であるのか、世界が何であるのか。その基礎が分からずに物を考えることなどできるはずがない。

 自分も世界も分からないのだから、いまがいつなのか、どこにいるのか、何が起きているのか、自分がしたことがどのようなことなのかなどが分からないのは当然です。分からないからあてずっぽうにその場の気分と周りの空気だけを判断基準にどんなことでもやらかします。もちろん結果のことなんてうかがえるわけが無い。

 これまでの文でも書いてきたように、物を考えることは幸せに直結しませんし必要でもありません。

 でも、考えてしまわざるを得ない人間であるならば、それは正確に考えてゆかなければやはりただ煩悶の迷い道をさすらうことにならざるを得ないと思うのです。

 タオと禅の哲学を学ぶということは、座学だけが手法ではありません。

 身体を伴って学問を積むことが出来ます。

 そのためにこそ、多くの人々が体得をしやすい部分がる。

 身体を通して学ぶ哲学であるからこそ、私には学ぶ価値があり、また必要としている人々に届けたいと思う物なのです。

 これらの学問を通して、平等と博愛が体得できるかは分かりません。

 しかし、自由であると言うことはじかに学ぶことになると思われます。

「自由になるためにカンフーをするんだ」というのは師父との稽古の間で何度も聞いた言葉です。

 そのことを私は、自己の確立という言葉で書き表してきました。

 世界と自分という物を身体と精神で学ぶことは、自己という物をこの世界に立たせることであるからです。


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