師父と会ってご挨拶をしてまいりました。
いつも練習をする公園で夜待ち合せをして、ここまでの病状の経過と死亡率の数字をお伝えして来ました。
その上で、昔の何もなかった時代の荒み切っていた私から、いまここまでこれたことのお礼を伝えました。
もしあのまま、何もない私が物質や金銭、名声や虚栄などで社会的発展をしてきたとしたら、今回のところに来た時にきっと、またすべてを失うことになったのだと喚き散らしていたかもしれません。
しかし、私はそうはなりませんでした。
自分がいかな物なのか。命とは何か。どう生きるのが良いのか。そういったことをタオと禅の思想で教えてもらってきて、なによりも生きるということの本質を与えてもらってきた。
武術だというとすぐに強いだ弱いだ勝つだ負けるだ技だ力だということになりそうですが、それらはすべて病にも死にも通じません。
そういう通じない物は、少林寺に伝わる修行ではない。
禅の行の一つの形で在り、老荘思想の具体としてこれまで行われてきたのが本物の中国武術です。
技だなんだの段階で止まっていてはなんの意味も無い。
思想活動としての段階に入らないと本当のことは始まらない。
実際、心と命の自由を得るためのライフスタイルとしてこれまでやってきて、医師に死を宣告されてもなお、私の心は揺らぎませんでした。
血栓が静脈に詰まって息が出来なくなって死ぬよと言われた後、それは苦しそうだなあと思ったのですけれども、まぁ息が出来ないなんてのはせいぜいもっても二分程度。そのくらいなら我慢しましょう。
私の母方の祖父や裕福な家の邪悪な老人だったのですが、70年以上生きた末に、それまでの人生と同じく人と世の中を呪いながら長く苦しんで死んでゆきました。
そのようなことと比べれば私の予定している死はずっと楽な物です。当たりくじだと言っていいでしょう。
そう思ってより、私は生きる苦しみの中の一つ、死の苦しみを乗り越えたのだと言う気がしています。
もちろん実際、病状と同時進行している医療処置が間に合って一旦命を取り留める可能性も充分あります。
しかし、近いところまで行って死と向き合ったと言うこともまた事実。
その対面で恐れなくなりました。
これだけでもう、怯えて運命を呪いながら死ぬということは無くなりました。
それだけではありません。
気功や瞑想をしていると、世界に働いているたくさんの命を感じ続けることになります。
この命や自然の働きを古代の人は気と呼びました。
その気を感じる能力を養うことが気功です。
そのようなことをしている身からすると、本当に世界は命に満ちている。気はそこにもここにも常にある。
気集まればすなわち生、気散ずればすなわち死。これは有名な気功の原点の言葉です。
世界に常に当たり前に満ちている気が集まって形になったものが個々の命であり、死ねば命はほどけて気に戻って世界のそこここに帰っています。
苦しみの元でもある重い肉体がほどけてこの世界そのものと一つに還ってゆくことは、とても気持ちが良さそうです、そこには安心感さえ感じます。
それを師父に言うと「それが大周天ということです」と言われました。
気功の段階で、小周天から大周天に至ったのは去年のことです。その過程はここでも書きました。
小周天とは自分の内側で気を巡らして活用させる段階です。小さい意味での武術としてはそれで充分だと言います。
大周天とは、天地と繋がり世界と一つになるということです。
そうなると、安心立命の状態となり、それが武術の大きな目的地であるとされています。
確かに私はいま、常に天地を感じ続けていて、心は安らぎ、命が立っているように思います。
きちんとここまでこれて良かった。
師父の与えてくださった物に対して、それなりのところまで来ることが出来たようです。
出来れば、苦しむ他の命をここまで連れたかった。
しかし、それもまた望んで進みたいという命に対して出なければ無意味でしょう。
なのでまぁ、ここまでこれただけで充分上出来です。
これまでも資料のすり合わせやフィールドワークでいろいろなことを発表しては「本当の武術とはこういうことです」と書き続けてきましたが、今回も同じです。
本物の武術とはここまでくるように出来ています。
世界中のあらゆる学派の哲学、三大宗教などと比べて、まるで遜色のない人類の偉大な遺産です。
生き方によって人間の命を救う力がある、具体的なメソッドです。
そのことをどうか見失わないでください。