七月の都内練習会も無事終わりました。
おかげさまで身体の調子はだいぶ回復しており、前日に注射を二本打って備えたために無事最後まで座ったまま口だけ出すことに成功しました。
まだそこまでの貫禄には程遠いのに横着して申し訳ないです。
さて、今回のテーマは結果的に内外の気ということになりました。
夏の公園で昼間に練習ということは、血栓が出来てる身ならずとも体温の調節に充分注意が必要な物です。
日差しを避けたり風のあたるところに移動しながら稽古することは、気功の初歩的な実践となります。
気とはあらゆるエネルギーのことで、古代人が世の中には物質とエネルギーがある、と発見した時に付けた名前です。
日差しもエネルギー、立ち上る照り返しの温度もエネルギー、吹く風もエネルギー、これすべて漢字の言葉で言えば気です。
気を特有の物質だと固定化したり、オカルト的にとらえていては功はつきません。気とは念の力を差しているのではありません。
この辺り、中国でも間違っている先生も増えてきているようです。
この気を具体的な力として使う物に、武術では勁があります。
これを養ってゆくことが具体的な練習になります。
これは突きや蹴りの練習をしても別に良くはなりません。それはただ突き蹴りの技が上手くなるだけ。
本質的に勁を使って突き蹴りをするのか単に骨格の運動でするのかはまったく違うことなので、いかに勁で動くかということが肝心です。
その根本の勁を練るのが武気功の段階に入った学生さんたちです。これは少林気功の易筋行によって主に身体の仕組みを作り直します。
勁は初めは小さく弱いので、これを拙力でごまかさないで易筋して丁寧に育んでゆくことが大切です。
同じ動作でも私はこうやってるんだよ、と学生さんに身体を触らせて、中で実際に勁がどのように動いているかを観測してもらいます。
皮膚の下でむにむにと実際に動きがあってそれが伝わってゆくので、直接に勁がどのような物かということを体験できます。
その勁を出したり消したり行ったり来たりさせたりぐるぐる回転させたりすると、非常に触っていてわかりやすいようです。
別に本来そんなことをする必要は無いのですが、あくまで分かってもらうために。こんなことしなくても勁で身体は使えるし武術はちゃんとできます。あくまで伝達のための方便としての芸です。
この、内側での勁の働きを内気と分類します。
自分の内側の気ですね。
これは気功の段階で言うと小周天の段階のものです。
武術としての動きはその段階でほとんどが出来ます。
しかし、実際には小周天までの段階で外の気を感じることは必要になってきます。
先に書いた夏の野外での気の流れのお話ですね。
その感覚が無いと、自分の内側でも同じことが起きていることが分かりにくい。
気の働きの多くには不随意な物があります。体内での風のの流れや水の流れなどは、自分のエゴが知覚したりコントロールしたりして行われているものではありません。
その、うちなる他者を理解することは気功においてとても重要なのです。
そのために外の気から理解してゆくことになります。
外の気というならそれは他人の気もまた同じです。
対打においてはその感覚が非常に重要です。
意図において決まった技を正確に反復するというようなことは私たちは行いません。
相手の動きと言う不随意な力の流れに対して、もっとも適切な反応はそのたびごとに違います
それを咄嗟に無意識に感じて無意識に好い反応をすることが求めれることです。
反応といってもビクビクとした痙攣的な鋭敏な反応ではありません。
もっとぬるぬるしたダルなものです。
落ち葉が風に流されているようなサーファーが波に乗っているような。
相手の気の流れに適切に乗るのです。
力を抜いてぼんやりしてるとなんとなくそこに乗っかります。
やろうとしているとその意がもう拙力となって邪魔になります。
だから慣れてくると、自分が一つ前に何をして技を返したなどということは自分で分からない。
覚えてないし再現も出来ない。
でも、その時にちょうどいいように返している。
それは相手の力に乗っかって合わせているからです。
つまりこれも、ある意味での外気功的な観点が前提となって行われています。
今回の稽古でも、その流れにのる良い練習が出来ました。
人によっては「え、でもぼくなんの技も覚えてにないよ」という感想を持つ人もいるかもしれません。
それでいいのです。
技を覚えるための練習はしていません。
動けるようになったり、感じたりできるようになるための練習をしているのです。
だから、中国武術は形にうるさいというのは実は嘘です。
よく形に関する質問を受けますが答えはいつも同じです。
「それが一番出来るならあなたにとってはそれが良い形です」
形を作るために何かを不自由にするということはしません。
自然の流れに一番乗りやすい状態が武術の良い状態です。形よりも中身が大切です。
我々の基礎的な立ち方、平馬を作るときも、足の角度はどれが一番いいのだとか歩幅はどうだと言う質問があります。
なるほど、確かに足の角度によって、二字平馬、外八字、内八字、一字平馬と区分する人も居ます。
でも、いいのはその時の自分の内側の力が一番働く状態です。
履いている靴や路面の状態、ポケットの財布の重さ、歩いてる途中の重心の位置、その時の状態で一番いいところが自分にとっての良い立ち方です
それは初めから固定化して決まったものではありません。
その時に一番良い状態の自分でいられることこそが、この禅の行としての武術の要点です。