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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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会場が見つからない……。

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 肉文祭の会場が見つからない昨今です。

 メンバーは少しづつ増やしていっているのですが、それに伴って会場規模が変わり、また交通の便などもあるので、使い勝手のよいところを探さないと日取りの決定もできません。

 かといって、あまり高いところを借りてしまうわけにもいかない。会場費も自腹から出す予定なので、その分も可能な限り被災地にまわしたい……。

 参加してくれると言ってくれてる武術家やダンサーのみなさんに、スケジュールの面であまり迷惑をかけるわけにもいかず、日々奔走しておりまする。

 


6/19 関内WSは「二軸特集」です

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6.19日の関内ワークショップの内容が決定しました。

二軸の特集です。

これまで色々とやってきましたが、原点に返った特集をしたいと思いました。

特に、腕の勁が出来ていない方、腕の腺はわかってきたけど拙力ですぐに切れてしまう方、そして腕の勁はできてきてるのだけど発勁にならない方々に向けて、身体の軸への繋げ方をお送りしたいと思います。

それによって全身を徹す勁についてまるっと一気に理解を推し進めてしまいたいと思います。

各臓器に対応した勁について理解を深めて、四肢と体幹の勁を繋げて整勁の把握を目指します。



 時間はいつも通り18時より20時。

 場所もいつものフレンドダンス教室さんです。

  

 エントランスは以下となります。

 

 一般       2500

 会員、準会員 2300

 事前予約    2000

 外国人割引   500



  よろしくお願いいたします。

爆発と非爆発

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前に、ある現代武道の人が言いました。

「うちの先生が言ってたんだけど、うちは発勁と同じ力を発しないで誘導するんだ」

嗚呼、全然駄目です。

ダメダメです。

こういうことを平気で言う先生がいるから嘘や自己流が世間に広まってしまうのです。

あたかも自分が色々な流派を教士や師父レベルにまで体得したかのごとく軽々しく言ってしまって「●●流のやり方はこうだよ。××拳はこう」などと生徒に教えてしまうインチキ先生が。

こういう先生の下で嘘ばかり振り込まれても、効率的に実力が伸びることはまずないでしょう。ちゃんと物を教えられる先生のところに転向することをおすすめしたいです。

昭和の体育会系の先生方にはこういう方が多かったですね。「ボクシングなんて弱いんだよ、あんなもんバーンってやってドーンで終わりだよ」みたいなことをビール片手に平気で公言できるような人が。

大変失礼だし品性芳しくないと思います。

そして何より、指導力に問題ありです。

嘘や真実が伝わりにくい方法で人に物を教えて道を惑わす先生は有害です。

魔境にいざなっているに過ぎない。野狐禅です。

発勁は、必ずしも発しません。

前に書いた通り、少なくともうちの発勁は生の勁力で打ったりするものではありません。

とはいえ、実際のところ、動きとして瞬発する勁とそうでない物はあります。

これは単純に動作の問題で、開合を伴うか、震脚などをするか、という意味での瞬発です。

私がよそから見ている分では、ほとんどの門派が開合や浮沈を用いるようです。

ごく一部の門だけがしない。

うちや洪拳ではまずどのグループもしない。北の門では、同じ拳でも指導者のグループによってはしたりしなかったりというのがあるようです。

明勁から暗勁への転化というのが一部の門では語られていて、勁はやがて動作が見えなくなる、ということのようですが、実際のところこれは動きが小さくなってゆくよ、ということが多いようで。

うちで言えば初学のうちにやる重勁というのがわりに見える勁なのですが、これは一定の段階で重勁での打ち方を辞めるので、実際に重勁を続けているうちに質的に転化して暗くなるということはありません。

暗は初めから暗です。まったく違うシステムのものです。

なので、空手やボクシングをしている人が、チャンピオンクラスになったからと言って突然パンチの打ち方がまったく違う何かになるということはまずないと思われます。

チャンピオンのパンチは大変に上手なパンチであって、それは発勁にはなりませんしその必要はありません。これはチャンピオンにも我々にも大変に無礼な物言いです。もちろん我々はパンチは打てません。両者はまったくに、紅茶とコーヒーのごとくに違う物です。

パンチと勁が違うように、開合を伴う勁と伴わない勁もまったく違います。

爆発する勁と、爆発しない勁。

火薬には火薬の、鉄球には鉄球の威力があります。

鉄球が砕け散ってしまったら、速度は増すかもしれませんが力積が落ちます。

可能な限り誠実に、優劣のような物があるのかないのかで考えてみたのですが、どうしても見つけられませんでした。

どちらも伸びしろが大変大きく、功夫を積めば同じように人を打つには十分すぎる威力があります。

習得の容易さや疲労度の強弱、連打のしやすさや多方向性などは差異があるのだろうとは思うのですが、現状私は爆発する勁がしない勁と同程度まで理解できていないのでいかんともわかりません。同じレベルまでこの二種を体得した人なんているのでしょうか。そもそも、どうやって練度の計測を?

時々、テンポのある爆発系のグルーヴもいいなあ、なんて思うこともありますが、やはり私は静かな爆発のしない勁が好きみたいです。

優劣よりも、どちらが自分を自由に気持ちよくしてくれるかが大切な気がします。

本当の自由と言うのは、正しさに裏打ちされています。ただの思い付きではない。

開合してもしなくても、どちらも正しいのだからそれでいいのだと思います。

大切なのは、真実を正しく理解して身に着けるということだと思います。



なぜ跳ぶのか、グラスホッパーよ

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 私の道号、翆虎というのは、師父になったさいにから賜ったものです。

 よく勘違いされるのですが、翠ではなくて翠です。

 これは中国によく見られる、陰陽を合わせた二語を合わせて一つのくくりを表現したものです。

 例えば蟋蟀などがそうで、雄が蟋、雌が蟀で合わせて蟋蟀です。

 翠翆と書いてカワセミのことだと言います。

 意味は光輝く羽ということだそうで、カワセミの羽が美しいところから着いた名前のようです。

 つまり、光る羽のある虎、という意味で翆虎となった訳です。スカジャンの図柄などにもよく翅の生えた虎が刺繍されている印象があります。

 虎に翼というのは中国のことわざで、強者にさらに勢が加わるという意味で、日本で言う鬼に金棒のような意味です。

 また、虎に翼を付けて野に放つという故事があることから、一度は地についた者が巻き返すという意味もあるようで、人生転落していた私を立ち直らせてくれた師父の想いも忍ばれます。

 ちなみに、飛虎というのはモモンガのことであったりします。

 さて、こんな空を飛ぶ虎ですが、蔡李佛は実はよく飛びます。

 基本の套路ではあまり飛ばないのですが、兵器を学ぶと途端に飛び回ります。

 定力を旨とし、震脚をしない浮かない拳法なのに、ものすごく跳躍して回ります。

 これは一つには、兵器の間合いが関係があるのでしょう。

 自分が兵器を持っている時は、相手も武装していると想定されます。そのため、互いに間合いが遠いので、それを一気に詰める機動力が内包されているのだと思われます。

 初め、これはちょっと基本が徒手と兵器では違うのかなあと思ったのですが、最近いろいろ分かってきました。

 動画などを見ると、うちと同じ套路をしていても、跳躍を入れているさまがよく見られます。確かに見栄えがよくて格好良くも感じます。

 しかし、何かちょっと軽薄なようにも感じていました。

 ですが思い出してみると、ずっと昔に師父から基本套路を習ったときに「これはこう、跳んでもやってもいい」と跳躍で教わったことがありました。

「でも別にやらなくてもいいです」と言われたので、性格的にも運動神経的にもあまり飛ぶタイプではない私はそのことは記憶の引き出しの下の方にしまったきりにしていました。

 ここのところ、学生さんたちに跳躍を含めて練功してもらっているのですが、これをやると軸が明確になります。

 おそらく、北派における震脚と同じような効果があるのではないでしょうか。

 跳躍しての軸の入れ替えをすることで、体内での縦軸の陰陽が大変明確になります。

 これをしていると、大変に定力が強くなりました。

 当然勁力は強くなります。

 動作は同じでも発勁の威力は増す。いつも言っている、功とは技ではなくて術である、というところなのです。結局、私たちのしていることはひたすらに基本なのです。奇をてらった技を求めるのではなく、ひたすらに基本、立つことを追及する。そのために跳んでいたのです。

 始め世界は混沌であったが、やがて重い物が沈んで地になり、軽い物が浮いて天となった、という陰陽の気(エナジー)の始まりの故事が体内で働いたと言える気がします。

 やはり、中国武術というのは思想の体現であり、ライフスタイルなのです。

 自分自身の力ではなく、思想の体現が直に功に現れます。

 となると、よほどの天才は別として、私程度の物であるなら、自我が薄く澄んでゆくほどに体現の度合いはスムースになるため、個の強弱などと言う概念はなくなってゆく気がします。

 それぞれに自然の一部としてただそこにある拳士同士のどちらが優っているかなど、あちらの松とこちらの岩のどちらが優れているかという問答のように感じます。

知ることではなく、出来るようになること

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 大切なのは、オタク的に知識を求めることではなく、行うこと、真理とつながること。

また痛い

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昨日書いたように、最近また定力が強くなっている感じがあります。

これは勁が強くなっているのみならず、軸の集中が強くなっているからだと思われます。

以前、170センチくらいの女性を推したところ、目にも止まらないくらいの速さで飛んで行ってしまって自他ともに驚いたことがありました。

彼女はヨガの先生だったのである程度中身が強いかと思っていたのですが、初めての体験で勝手が違ったため、うまく軸がつかえていなかったようでした。

この、軸の集中というのが大切です。

というか、集中したのが軸です。

もう少し詳しく説明いたしましょう。

上記の女性は身長は高い物のやせ形でした。体重は40キロ台くらいかもしれません。

最近の調査によると、小学校六年生の平均体重は39キロだそうです。

ちなみに平均身長は146センチ。

つまり、見た目の大きさは170でも、中身は子供と変わらないのです。

子供に発勁してはいけません。それは大変に危険です。

とはいえ、あるいは170センチあるからこそ、その女性は飛びやすかったのかもしれません。146センチなら、逆に中身が詰まっていて飛びにくかったかもしれない。

そのようなことを、一般に重心が低いとか安定しているなどといいます。

オートバイなどのデザインをする人は、重心を低くし、かつ倒しやすくしてよく曲がれるようにすごい計算をするそうです。

この、重心が低い、というのは、重心が下に集まっている、と言い換えてもよいと思います。

この下に集まった重心が、まっすぐ柱として上まで通っていることを指して軸と言います。

つまりこの軸というものは、全身に分散している体重を集めて作ったものだと言い換えることも可能ではないでしょうか。

自分の中にある重心を集めて足の裏から頭まで一つに徹す。以前に書いた、勁によるパイプの製造、整勁です。

このパイプを、どれだけしっかりと地に突き刺し、詰まりなく地面の力を通せるかが発勁の良しあしに繋がります。

パイプは太く、頑丈で、滞りがなく出来ているほど強くキレイに勁が通ります。

定力が強くなっている、というのはこのパイプの精度が上がっているということですね。

特別な訓練をしたわけではありません。

平素からきちんとパイプを作って日常生活を送っているだけです。

そうしたら日々強化されて行き、そして今朝目覚めたとき、すごい疲労感が……。

足首の関節と左の股関節に違和感があります。三月の時と同じ、大幅な工事、さらなる強い換勁が行われている最中のようです。

もちろん、性質の悪い違和感ではありません。関節自体は柔軟になって安定感も増しています。

これが、功夫は日常の中にあるという奴です。

特別な場所に行って特別な服装に着替える必要はありません。正しく日常生活を行っていれば、自然に功が積まれてゆきます。

先人の話を聞いても、ただ暮らしていただけで強くなっていたというものをよく聞きます。

ある中国の拳士は銀行に勤めていたのですが、ひったくりにあったときに夢中で身を振りほどこうとしたら相手を打ちのめしてしまったと聞きます。

本人はまるで武闘派ではなく、一見ひょろひょろで健康のために武術をやっていただけで自分が強いと思ったことなど一度も無かったと言って、自分でも驚いたとのことでした。

このような話はたくさんあります。

何気なくちょんとつついたら予想もしていなかった大きな威力が出てしまった、というのは我々の間では普通のことです。

なので、その気はなくても大事になる可能性もあるので、稽古の時もとにかく安全に気を付けるよういつも注意しています。

このような、意味のある日々を送れるようにすることがライフスタイルとしてのカンフーであると思っています。

日々の浪費でも命の消耗でもなく、養生とさらなる好転を当たり前に送れるからこその、新生の中国武術の真価があるのだと思います。

自習会

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 昨日はまたお呼ばれしてよその団体でゲスト講師をしてまいりました。

 主に武気功と対打をご紹介してまいりましたよ。

武林の大先輩のところでおこがましいのですが、そこは私は伝統に特化した師父、内容の良しあしは別として、「伝統的にこう伝わっています」といういつもの形で伺ってまいりました。

 このパターンは、かつて国防関係の特殊任務のみなさんに武道をお伝えした時と同じケースだと自覚しています。

 今回お招きくださった皆さんも、すごい功夫の方ぞろいで重い重い。ここのグループの方々はみなさん勁力への抵抗力が大変に強い。内力が大変に高く、冷汗の思いで役割を務めました。後から伺えばあるかたなどは現代武道の五段の方だったそうで、それは強いわけです。

 このような武林の諸先輩がたの前で私の授かった伝統を披露し、板の上にのせて検分していただくことは学問的に大変な意味があると思います。

 私のような伝統一本やりの若師範は、よくも悪くも広い視野で物事を相対的に見るということをしません。

 ましてや自分の小乗的なライフスタイルとして武術を選んでいる身としては、決して積極的に行うことではありません。

 ですので、このように一つに特化した人間を活用していただくということに、大きな意味があると思うのです。

 多角的に物を学ぶということになれている方々の、短期間で要諦を掴んで消化する力の高さには驚かされました。

 蔡李佛は元々、出家した人間だけの秘伝とされていた少林拳を、良いものなのでこれからは外の人々にも広めましょうということで編み出された南派拳法の一つです(この辺りの流れは映画「少林寺三十六房」で)。ですので、短期間で分かりやすく本質を体得出来るカリキュラムがあらかじめ作られています。

 そのため、このような機会には大変に適した武術なのだと思い、また、本来の蔡李佛師父の役割というのがこのような物なのだと感じました。

 今後も、いろいろなところに行って遊行の武僧のごとく自門の武術を望んでいる人々の手に届けてゆきたいと思います。

 また幸い、今回のグループのみなさんには大変に温かく受け止めていただき、定期的に今回のような機会を設けていてだけるというお話をいただけました。

 おそらく、数階で本門の骨子となる練功法をすべてご提供できると思っています。

 このような形で普及活動ができるのは、おそらく陳享開祖もお喜びなのではないかと思われます。

 伝人の本分を務めているという気持ちに満たされます。

思想の体現

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昨日の研究会に参加されていた方々に「我々の武術は老荘や少林の思想の体現なので、それ以上でも以下でもないのです」と言うことを言うと、そこにいたお坊様から「少林の思想とはなんですか」と質問を受けました。

ふーむ。改めて考えると難しい問題です。

難しいときはひとつづつ考えてゆきましょう。

少林、と言ってもより厳密に言うと、少林拳の思想です。

では少林拳の思想とはどのようなものかと言うと、座学のみならず、行を通して法を感じようといった言い方でだいぶ良いのではないでしょうか。

大切なのはこの、感じる、という部分です。

座学ではなくて身体を使うのはここがポイントだと思います。

そしてその、感じる、というのはどういうことかと言うと、元神の回復だと言います。

これは禅宗が老荘から得たところだと言われていますが、もとの小乗仏教に原型があった考え方なのでしょう。

元神とは本能ですね。動物というのは何も教わらなくても立派に生まれてきてきちんと生きてゆきます。生きて死ぬだけの能力は本来生物は持ち合わせてきているわけですね。この能力が元神です。

しかしこれは、人間の発達した個人意識(識神)が曇らせてしまう部分でもあるので、その曇りをさって本能をきちんと働かせてゆこう、と言うのが元神の回復です。

とはいえ、これは元神に乗っ取られて猿に先祖返りしてしまうということではありません。両者が健全に強調して一個の人間だということです。

この、自分の本能の部分を行で回復させると、人間的な悩みのほとんどは消えます。

なぜなら動物が悩まないのはただ頭が悪いからではなく、肉体に生のリアルな体感があり、それが人間の脳の苦しみを希釈するからです。

本来、動物というのは快に導かれてしか行動をしない。

人間の三大欲求を顧みても、それが危険なまでに甘美であることに思い当たるはずです。

本能に導かれて生きれば、すべてのことが同様の快楽です。

ただ息をし、物を見るということがそれだけで楽境地です。他の五感も同様です。

この状態にあるなら、人間的な苦しみがあったとしても相対化されることは間違いありません。

ここで勘違いしてほしくないのは、決してこれはスピリチュアルのような自分の脳みそをペテンにかけてだますようなうその喜びではないということです。

行によって感性を取り戻した肉体の感じるよろこびは、そんな口先や小手先の物とは無縁です。

例えをだしましょう。よく、コップに水の話がありますね。

コップに水が半分残っている時に「もう半分しか残ってない」と感じるか「まだ半分残っている」と感じるか、なんて話があります。後者が良いですよね、というのがスピリチュアル的な発想です。

元神はどちらでもありません。

感じるのは「水おいしいなーーーーーーーーーーーーーーーーーあ」でしょう。

その感覚でいっぱいに満たされているので、まだあるとかもうないとか妄想(もうぞう)に取りつかれていないのです。いま、そこにある喜びに自然に集中しているのです。

そして水がもう必要なくなるまでに満足すれば、ただもう水には関心がなくなるだけです。必要な物を必要な時に必要なだけ。

コップなどと言う人間が勝手に作った一過性の単位に振り回されない。

このような感受性を持つ元神を育む行が、気功です。動物の身体の使い方を模倣して体得します。

そして気功の身体の使い方で行う運動が、少林武術です。

私の得た、少林の武術の思想と構造とは、このような物だと思いますよ。


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中南米中心に流行!渡航する方の注意点は? 国内でも蚊の発生を抑える対策を

易筋と修身

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 最近、食事を節制しているせいか少し体格が恰好よくなってきました。

 服を脱いだおりについ面白がって上腕二頭筋を力ませてポーズを取ってみたところ、たちまち力こぶが攣りそうになりました。

 私たちの武術は、筋肉は縮めて力ませて使うようなことをしません。そのために日常の運動から、力を使わないような物になってゆきます。

 結果、全身が寛いで伸び、心身とものびやか、ゆるやかな日常の基礎となってゆきます。このような変化を易筋と言います。

 易筋して、力んだ力の代わりに使うようになるのが勁というもう一つの力です。これは意思と気功によって導かれてくる力で、骨格に頼った力み運動とは違うものです。

 易筋して換勁して暮らしていると、日常的に力むと言うことがなくなります。凝りがなくなってゆき、骨格にも負担がかからなくなります。

 そのように暮らすのが当たり前な中で、いきなり思い切り力を入れたのだから攣るのも当然です。

 力こぶのような大きく見える部分が力を入れると攣ってしまうというのは、一般の身体の使い方とだいぶ離れてきたというものです。

 寛いで日々を過ごすために、まずは全身の力みを取ってゆくのは重要なことです。

 そこから力を入れて生きる癖を取ってゆきます。

 それがあってこそ、心も無用な力が抜けるのです。

 うっかり面白がってわざと力を入れてポージングなどと、飛んだ蛮勇でした。

 我々のような武術はたいてい修身を重視しますが、まさに無用なことをせず、無駄な危機は避けて生きると言うのは大切なことでした。

 ただ、それを徹底するのはまたさみしい感じもするのが人間のような気もしますが、しかし、寂というのは身を収める上で重要な言葉でもあるような気もします。

ほんとは出来ても出来なくてもいいのだけれども

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私はいつも、スピリチュアル的な詐術を自分に施すべきではないとここにて繰り返しております。

自分自身が変わらないままで気持ちだけ変えてもいずれその有効期限は尽きますし、嘘で楽になったという自分を不幸にする成功体験が積み上げられてゆくからです。

そうなってはもう、本当に生きて幸せになることへの障害になってゆくことでしょう。

ではどうすればいいかと言うと、自分自身を変えることです。

そう難しいことをする必要はありません。気功などを習慣にすれば、気づいたころには日々がそれまでよりなんとなく気持ちよく感じるようになっていることだと思います。

どこかに参禅にゆく習慣をつけてもいいかもしれません。

そのようなことが面倒なら、別にジョギングでもサーフィンでもボディビルでもいいかもしれない。私はバイクに乗ったりダンスをしたりします。

それらの場合はいずれ有効期限が尽きるかもしれませんが、それでも行動して自分が変わったことで快を得たという経験は残るはずです。

これは言葉の魔法で自分をだまして楽になったという経験とは正反対の良い方向に積み上げられてゆくことかと思います。

それらの行動を選択する場合のポイントとして私がおすすめしたいのは、一つには気持ちが良いことで、もう一つにはスキルがかかわっているということ。この二点があるのが大切です。

技術、という圧倒的に明白な階段が、自分の上るべき方向を決めてくれます。

それを上るためには学びと訓練が必要であり、それをこなすと自分が変わります。

この、階梯が明白であるということを、第3のポイントとしても良いくらいです。ごまかしがなければないほどいい。大切なのは嘘や曖昧さからの脱却です。

私の居るような秘伝系古武術の世界でも、この梯子の段を見失って迷子になる人が大変に多くいます。

先生と呼ばれるような身になっても、自分が何をしていてどこに向かっているのかがわからない人がものすごく沢山いることを近年知りました。

明確さは福音だと思います。

ただ、明確で無いがためにより高く、より深いところに行くことができるというのはあると思います。志が高い人ほど悩むのは当然です。

しかし、それとはまた別のレベルで迷子になっている人が沢山居る。

不明瞭であるということは「自由であれ」とか「答えは自分で見つけなさい」とか言うことなのかもしれませんが、大変に難しい禅問答のように感じます。

旅の終わりは旅人が決めるものなのでしょう。自分自身が納得を得られるところにゆける、ということが大切だと思います。私が最初に教わったのも、答えは自分の中にある、ということでした。

自分が何を欲しているのか、それをまずは知ることが道への第一歩なのでしょう。とりあえず歩こうでやっていると、砂漠や深い森をぐるぐる回り続けて遭難するかもしれません。

私の場合は、初めの目的は発勁という中国武術の特殊技術を体得することでした。

日本古武術の裏当てや格闘技のショートパンチなどの似て非なる物の方にフラフラと向かっていたら、きっと納得を得ることは出来なかったでしょう。そして迷子になっていたと思います。

自分でこれと決めた方向にまっすぐ進んでこれたのは良かったと思っています。

目標をしっかり見据えてきたからこそ、登るべき階段に至ることが出来たし、それを登ってゆくうちに、その先がどこに向かっているものなのかが分かってきました。

私の階段は、天人合一というところに向かっていました。

タオのままに生きる、という道です。

世界一貧しい大統領と呼ばれたホセ・ムヒカ氏は言っています。

「貧しいとは少ししか持っていないということではなく、無限に多くを必要としてもっともっとと欲しがることだ」と。

無限に求める者は、本当には何かを得ることはないでしょう。

タオの思想ではこのことを「知足」、すなわち足ることを知ると言います。

満腹の獣はそれ以上の命を求めない。必要以上に水を与えれば花は腐る。

満ち足りて納得して生きるためにはまず、自分が何を求めているのかを知るのが良いと思います。

そのためには、自分にかかっている誤魔化しや嘘を取り払うのが早いでしょう。

美感

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周りには、意外に沢山、人生に困った人が居るように感じます。

そのせいか、そこにつけ込む輩も多いようです。

書店に言って雑誌コーナーで目についた健康法の見出しなどを見てみようとすると、健康について書いてあるのは最初だけ、ページをめくると占いやら開運を招くという印鑑の通信販売やらのオカルトが次々と出てきたりします。

どうも高齢層向けの雑誌のようなのですが、判断力が下がったり活動力が落ちて気弱になっている高齢者につけ込んで所持金を巻き上げようなどとは大変に卑しい所業です。とんだ開運法もあったものです。

このようなペテンがまかり通っているのは、やはり多くの人が確かな物を自分自身の中に持っていないということなのでしょう。

気功や中国武術が、そのようなオカルトと同列に扱われている可能性を思うと、非常に胸が痛みます。

本物の伝統気功がなぜ普及したかというと、一つにはお金がかからなかったから、ということがあります。

病気になってから大枚をはたいて高額な薬を買うよりも、事前に自然に調和した生き方をしておくことで未病の段階で症状を抑えようという知恵がそこにはありました。

現代人のように、お金はあっても指針が無いというのとは状況が違います。

昔の故事でも、お金は持っている人間が仙人から長生の秘伝を買おうとするも嘲笑られるというような話があります。

それまで不摂生や不善をなしてきたのに、急にお金ですべてを解決しようなどというのは昔から笑われてきたのです。

お金は自然には通じません。

それまでの生き方が問われます。

そのための方法としての自然と強調した生活のしかたというのが本来の気功です。

気功を行うことで身体の感性が変化し、快を感じる能力が開発されてゆきます。

自分の身体が快と感じることをして、深いと感じる物を避けることで、動物はきちんと自分の命を生きてゆけるように出来ています。

この快を感じる力の大きな部分として、美に対する感性が含まれます。

正しい行動は美しい。

理にかなった行動は美しい。

もちろん、美には多様性があるので貴腐や倒錯美などもありますが、その土台となる質朴な美感というのは必ず素直に肉体で感じられるはずです。

倒錯した耽美は、どこかに必ず不快感が伴うと思われます。

人間は生きていると、どうしても醜い物や正しくない物を目にしまい、それらが暮らしの中に入ってきます。

その調和を取るために、美しい物はどうしても必要になります。

もしその美が歪んだ美であったら、生に入った醜いものはさらに大きく育ってしまうでしょう。

虚飾や華美ではないのです。

本当に、ただ心地の良い、気持ちの良い美。

それと共に日々を送ることが、良い生き方だと思います。

気功のあるライフスタイルとは、美しい物と協調した生き方、ということです。

それは、スピリチュアルでもオカルトでもお金で買う物でもありません。

自分の感性の一部が美しくなるから得られるものなのです。

六月の練習日程

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 六月も、通常練習は土曜日、関内にてになります。

 時間の詳細、雨天時の予定や場所などは参加者希望などで変わるため、初参加者も含めてお申込みに一報ください。

 

 12日の日曜日は文京ワークショップです。


 http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12158148623.html


 翌週、19日の日曜日は関内ワークショップとなります。


http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12164039633.html

 よろしくお願いいたします。

伝奇的なお話

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 今回のお話はまったくただの伝聞ですし、ゴシップの類、都市伝説のような話です。

 昔、私が少しやっていた某日本武術には、西派と東派に系統が分かれていました。

 一般に知られているのは東派で、大変に独特な動きが話題に上るのですが、実は西派ではその動きは一切行いません。

 どうもその動きは、明治になってから改変されたものであろう、と言われていました。

 非常に中国武術的な動きなので、大戦時の動乱で大陸から伝来した要素があるのではなかろうかと。

 江戸期には明人から中国武術が伝わって、日本武術に大きな影響を与えたというのですが、私が学んだ西派は幕末に有名になった流派でした。ということは、やはり明治なのではないかというのが妥当な推測のラインです。

 最近、よく私がレクチャーしている内容が、この東派の物に大変似ていると聞くことが重なりました。

 なのでおそらくは少林拳の秘伝が日本に伝わったのが東派なのではなかろうかと思っておりました。

 まぁ隣の国ですし、長い歴史のなかではそのようなこともあるのではないかと思います。

 ところが、驚くべき話を耳にしました。

 ある中国人の老師が東派を見て「なぜ○○が日本にあるのだ」と言ったというのです。

 この○○は少林の奥伝中の奥伝と言われています。

 さらに言うと、少林武術と内家武術の中核を繋ぐ物であるとも言われていて、中国武術全体の中でも全体像を繋ぐ鎖であるとも言われているものです。

 私自身、実はその一派を学んでいたことがありました。

 それはある特殊な少数民族に伝わっていた武術で、非常に特殊な物であるとされていました。

 どこが特殊かと言うと、まず動きが非常に奇妙です。

 ただそれは、禁武政策下での対策として、武術に見えないようにしていたという話もあります。

 しかし、実際はこの武術は秘伝であるため練習は聖地の中でのみ行われていたので、元より外部に見られるものではありません。

 また、その部族の他の武術はちゃんと武術に見えます。

 これだけが特殊なのです。

 門内に伝わっていた話では、これは元々普通の武術をしていた物が、強力な内勁を体得するために後から学ぶものだというのです。

 そのため、外見は関係ない。外に出ない勁を得ることによって、それまでに学んだ武術を行っても、中身はその勁であるということが行われます。

 この、後付けでインストールして中身を換えるためのものだとすれば、それが日本武術にも適用出来て当然です。

 さらに驚くことは、実は蔡李佛拳でも高級になると姿がまるで変わるのですが、それがこの特殊民族武術にそっくりなことです。

 これはまだほとんど世間では知られていないことですし、日本には両方やってる人は私くらいしかいないのだと思うので誰にも共感は得られないのですが、秘密の高級套路を打つたび、似てるなあと思っています。

 ちなみに、中身も同じです。

 これが南の勁の面白いところです。やはり普及を志したおりに、少林の秘伝の勁力をそこに含んだのでしょうか。

伝奇的な話の続き

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 前回に書いた話の続きです。

 昔、日本の中国武術のパイオニアであった先生が、「蔡李佛は特別だ。やっている連中もそう思っている」ということを書いていました。

 南派嫌いのその先生にしては非常に珍しいことです。私自身は蔡李佛を始めても、何が特別なのかよくわからないと思ったままスルーしていました。

 しかし、いまにして思えば、前に書いたアレがあったためなのかもしれません。

 元々、蔡李佛というのは焼き討ちにあって失伝しかけた少林の伝統を引き継ぐために編纂された物です。

 そのために、少林の奥伝が備わっているのは不思議ではない話でもあります。

 いま少林寺に残っているこれを見ると、明らかに他の少林拳とは違う勁がうかがえます。

 そしてその勁というのが、私が日ごろ言っているうちの独特の勁のようなのです。

 蔡李佛でも、そもそもは重勁など、勁にも段階があります。その段階の上級にある鉄線の勁が、この少林の奥伝の勁です。

 うちでは平素から、いきなり奥伝を始めていたという次第です。

 中身はそこだったのです。

 私は別に、何か特別な物をしたいとか人が秘密にしている物が欲しいなどと思っていたわけではありません。

 ただ、この勁を使うと大変に気持ちが静かになり、心地が良いのです。

 それで今までやっちていた武術をみんな捨てて、後の人生はこれだけを静かに打って暮らそうと思っていました。

 そのために師父に「もう色々な套路は要らないので、一生一つだけやって生きてゆきますからそれに適したのをください」と打ち明けたところ、大師に相談してくれました。

 その答えが「○○というのをやってよいという許可が出ました。けれどこれは高級套路なので、まず他の套路を全部やってから教えるということです」というものでした。

 結果、私は想像もしていなかったことに師父になりました。

 そのために、私が教授するすべての動きは、その勁で行われるようになったのです。

 もともとこの少林の秘密の物は、門内では問わず話さずの箝口令が敷かれていたそうで、私のように違う名前で知らぬ間に伝えられていた者が居たり、形は他の拳でも中身はそれになっていたりということがあったと思われます。

 名をかくしてひそかに保存されていっていたのでしょう。

 少し調べてみると、元々は座禅で滞った気血を巡らせるための物だったそうです。

 それをして「護法の宝」と呼んでいたと。

 やはりね、私が普段言っている、静かに心地よく暮らすための物だったようです。


道は常にそこにあり

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先の書き込みで、私が師父となり、ひょんなことから気づけば大きな遺産を預かっていたという経緯を書きました。

中国武術の歴史と伝統を守護してきた人々の壮大な世界に感銘を受けております。

黄河の向こうから、長い旅をして七代を経てこの私の住む横浜にまでこの遺産が届いたことに驚かされます。

いままでこの特殊な勁がなぜほんの一部にだけ見られるのかが謎だったのですが、この角度から見ればどれも同じ一つ所につながっています。

これは学問的に貴重なことであり、俎上に載せて検討すべきことかもしれませんが、それよりも、伝統の保護者として、これまでの方々と同じく、私もまた問わず尋ねず、大切に護ってしかるべき人に伝えてゆきたいと思います。

これが護法の秘儀である以上、やはりこの思想を受け継ぐ人に、そこにまつわる一つの手段として手渡してゆきます。

これまでも、こうして知らぬ間に沢山の人に行き渡ってきたのでしょう。ありがたいことです。

たまたま私は日本人で、伝来して土着した古武術を知っており、またたまたま以前に少数民族系の別派の同根の物をしていたため、これがそれであると気が付いただけです。

人知れず人々の中に染み透り、その心身を支えてゆくことこそ、お山の先師が意図したことなのではないでしょうか。

私のところに来てくれた皆さんもまた、無自覚のうちにこれを身に着けていっていたわけです。正体を知ったらさぞや驚かれることでしょう。

私はあれも知りたいこれも欲しいとやってきた訳ではありません。

ただ、人類が行き着いた真理を知りたかったのです。

それによって、人生に確かな物が欲しかった。

気が付いたら、そこに居ました。

これがタオの働きというものなのかもしれません。

道は常に足元にあると言います。

縦割り構造

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引き続き、伝奇小説的なお話を。

昔このブログでも、クンタオ・シラットと言う物をご紹介しました。

五祖拳という福建鶴拳の一派がインドネシアに渡った物で、最終的には形意拳を学ぶという体系だそうです。

中国武術というのは段階によってまったく外見が変わるというのはままあることですが、この、最後に形意拳というのが今ではポイントのように感じてしかたありません。

中国の高名な武術研究家の先生曰く「回族武術は初級が査拳や弾腿の長拳、中級が短打の八極拳、高級は心意拳だ」だそうです。

ことの真偽は私には分かりませんが、このような研究が発表されているというのは事実です。

ご存知の方も多いでしょうが、形意拳と心意拳は、同種の拳法です。

回族の物が心意、漢化したものが形意と言われることが多いです。

どちらも伝説的な武術家、姫際可https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E9%9A%9B%E5%8F%AFの伝えた武術の伝系です。

この姫際可師、一時期は少林寺に滞留してそこで拳を練っていたという説があります。

また、この拳がいわゆる内家拳と言われる太極拳や八卦掌に影響を与えた元祖内家拳だという説もあるようです。

このように考えると、今日に伝わる中国武術の高級技法というものの原型が心意拳にある、と考える学説が出てくるのも不思議ではありません。

この視点から見ると、膨大な広がりを持つ中国武術の縦の文脈が見えてきます。

巷間に言うように、本当に「すべての功夫は少林より出る」のだとしたら……。

知らない間にあちこちに心意拳のエッセンスは広まっているのでしょうか。

まるで武侠小説のようなお話でした。

修業期間

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私自身、あまり他派について興味がないので、これまでそんなに調べたことがありませんでした。

しかしよその先生方とお付き合いが出来てきて、少しづつ調べてみたりするようになってきました。

とはいえ全然予備知識が足りません。

なのでこの間の中国武術全体にかかわるかもしれない発見をした、名前を明かせない拳についてネットで検索などしてみました。

するとどうも、日本のネットではほとんど情報が無いようです。

どうやら本当に秘伝で問わず語らずで扱われてきた物だなあと関心しました。

いろんな拳法に関して憶測や半可通の知識ででたらめを流したがるようなネットの人たちの間でさえ、まったく知られていないということなのでしょう。

それにしても今回調べてみて驚いたのは、日本の中国武術の相変わらずの苦難の状態です。

いや、中国武術だけではないのかもしれない。私が10年ほどやっていた空手もそうでしたが、とにかく進捗しない。

空手で言うなら、入門して半年もすれば一通り型も練習をしているのですが、こなれてはきても空手というのが何なのかがまったく分からない。

ミットを叩いたり組み手をしてみたり、グローブの試合に出たり総合格闘技に臨んだりしてもまったく分かりませんでした。「空手」ってなんだろう?

バスケットボールやスケボーならこんなに悩むことはないのでしょう。自分のプレイスタイルで楽しめばいいだけです。

でも、何かルール以外の本質のようなものが空手道ってものにはあったのではないのでしょうか。

結局それは分からないまま終わってしまいました。

中国武術にしても、どうも目にした限りではやっている人たちの多くが、何年経っても分かるようになっている気がしない。

私が中国武術をはじめた時は、とにかく発勁だけ出来るようになればなんでもいいと思っていたのですが、結局その時は六年ほども経っても、全く何も出来るようになりませんでした。套路だけはものすごい数教えてもらえたのですが。

その後に今の鴻勝蔡李佛に入ったのですが、ここでは最初からきちんとカリキュラムが組まれていました。

養生功から始まり、陰陽思想による物の見方、いくつもの段階を経て定期的に行ういくつもの練功法。

そしてあんなに出来なかったことが明確に出来るようになっていきました。

分からないのが精神的な修行なのだ、という方々にはしいておすすめすることはありません。

けれど、明確に目的をもって入った人間を、迷路に閉じ込めて引きずり回すのはやはりいささかむごい。

きちんと来るたびに次の段階に進んで、次の課題を持ち帰ってという繰り返しで一定期間できちんと出来るようになる、と言う方が私は好きです。

よく自動車学校の免許の習得カリキュラムに例えるのですが、南派ってそういう感じです。

もちろんそうなると人次第ですから、自分の課題をやらないでさぼる人や、誤魔化してやってるふりをするひと、オタク的に知識だけ求めて自分の物にしてゆかない人は免許は取れないでしょう。

雑誌や動画で見たものを真似して勝手なアレンジをしてしまうのも近年ありがちな罠です。「いまその練習しているんじゃないから」というミスをやらかして、本質を習得できなくなってしまう。

一度、入ってきたばかりの初心者に棍を持たせて体幹を作ろうとしたら「おれさー、喧嘩すんならステゴロでやりてーんだよ。こんな棒なんか使わねーよ」と言われてしまったことがありました。

この彼はのちに、組手の時間にはおびえて固まってしまい「練習だから出来なくてもいいので習った動きをしなさい」と言っても「ち、違うんだよ。敵じゃねえからなぐれねえよ」という主張を繰り返していました。

別に当てて撃ち抜けと言っている訳ではなく、ただ動く練習をしていただけなんですが。

こういう言い訳や誤魔化しをしながら、自分の中の勝手な思い込みで伝授をキャンセルしてしまうタイプの人は非常に不便なことになります。

ただ、言われたことを良く理解し、淡々とやることが中国武術には必要です。

目から鼻に抜ける才能のような物はなくても良いのです。実直で誠実であることが大切。

最初に南派の師父に入門の面接を受けたときに言われたことが三つあります。

「代わりに練習は出来ない。自分でしなさい」

「同じことは二度言いたくない。自分で聞いて覚えろ」

「余計なことはするな。言われたことをそのまま身につけろ」

個人的な思い付き戦法を編み出すのではなく、伝統を受け継ぐというのはこういうことなのだといまでも思います。

現在、サウス・マーシャル・アーツ・クラブでは、半年ほどで発勁を理解し、一年ほどで身に着けて、三年目には中級の段階に入って一人前の功夫を持った武術家としてひとまず卒業、というペースで練習をしています。

まぁ一年で初段位、三年で三段くらいと言ったところでしょうか。

その後、五年目くらいになったら例の宝を受け継いで卒業です。

何年も先の見えない稽古で同じところでグルグル繰回るということはしません。

そんなことをしてスポイルしてはいけない。

私は学生達に良く言うのですが、三年位で暗勁を身に着けて、そこから他のもっと複雑な拳法のところにでも行くなり、武術をもって世界を旅するなりして楽しめばよいと思っています。

自分の武館を開いたっていい。

うちでは、ここのところ良く書いているあの系統の内勁を初学からやっているので、どうしても習得が早い。

せっかくだからそれを有効に活かすべきだと思っています。

いかに生きるかを学ぶための手法なのですから、それを学ぶことに人生を浪費するべきではないと思っています。

さっさと身に着けて良い人生を送っていただきたいと願ってやまない次第です。

サークル、練習会設立のお申込みも受け付けておりますので、お気軽にお問合せください。


深まる伝奇

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 あらららら、なんだかおかしなものを見つけてしまいました。

 http://sustainedreaction.yuku.com/topic/443#.V1JS2zhJmXi

 どうやらカルロス・カスタネダが、蔡李佛をやっていたというお話のようです。

 カスタネダはこれまでこのブログでも書いてきたような、現代思想の文脈からやはり東洋思想やオカルト、薬物の方にいってしまった人です。

 そっち方面の中で多大な影響力を持ってきた人で、特にシャーマニズムの研究などが知られています。

 そのカスタネダが「呪術の実践」と称したテンセグリティという瞑想のような物があるのですが、これが蔡李佛だ、というのが今回のトピックです。

 繰り返しますが、先に書いたように東洋思想は神秘主義的にキリスト教圏社会に広まったのでその際には神秘性が特筆されているのですが、これもあながち一笑にふっすることも出来ない気がしてきました。

 と、いうのも、呪術などと言うねじ曲がったアプローチではなく、もう少し穏健に瞑想を暮らしに置くのが本来の禅や功夫だからです。

 そして、ここのところ書いてきた例のアプローチで捉えるなら、蔡李佛はそもが上乗の瞑想法、リラクゼーションです。

 しかしこれが妙な形でオカルトやスピリチュアルなどとして伝播してしまったのは嘆かわしいことです。

 そのような魔境(間違った悟り)があるから、伝統は正統に体得してゆかないといけないのです。

 前の記事に書いた、いたずらに長年体得もできずに同じことをしているというのも魔境の入り口です。

 正確な伝承をきちんとしてゆけばそんなに停滞したりはしません。

 間違ったやり方で間違ったところに行ってしまった迷子が本当に多いようです。驚きました。まさかこんな極北にまで。

 効果の強い正しい方法は、きちんとした用法を守らなければいけません。

 関心のあるかたはぜひ、お声かけください。

 安全で正しくすべて伝承いたします。

CHATHER IN THE RYE.

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 前の書き込みにも書いたように、どれだけ道場に通っても工夫をして練習をしても、自己流の範疇を出ず、どこにも行けずに悩んでいる人があまりに多いことを憂います。

 私自身も、20年以上もそんな中に居ました。

 そのために、相対的な強弱に身をよじるような思いをしていたころもありました。

 その焦がれから離れようと武道や格闘技を辞めることにしてもう十年です。

 最後に中国武術の謎を体験してみたいと思って今に至りました。

 ある時、師父が言っていたことを思い出します。

「ぼくにはかくしんがあります」

 その時は確信だと思っていたのですが、いまにしてみれば核心であったのだと思います。

 いま、その核心は私の中にあります。

 なぜ、私の学んだ武術だけ発勁が特別なんだろうとずっと思ってきました。

 別に発勁は武術のすべてではありません。

 たまたまそういう物だと思うしかありませんでした。

 また、武術の世界には技撃や医術、点穴や断脈など、高級な物はいくらでもあります。

 とくに気にするほどのことでもないと思っていました。

 しかし、この核心は発勁でした。

 その手法に、大きなメッセージが隠されていました。

 それは仏門の「護法の秘儀」でありカルロス・カスタネダのような輩の言うところの「呪術の実践」でした。

 私がずっと言ってきた禅の行であるということが、形を持って備えられていました。

 これは決してそんなに難しい物や、選ばれた人間にだけ出来る物ではありません。

 篤実に理解を進めていれば、虚弱な人や女性や老人にでも可能な物です。

 むしろ、拙力に充ちている頑強な者ほど迷い道にそれて行ってまっすぐ得ることが難しいかもしれない。

 これが自我による迷妄です。

 これまでも、いろんな人を見てきました。

 自分を救おうという妄執に捉われている人もおそらくダメです。

 以前居た同門は、その思いが強くてなんでも安易に自分にとって都合が良いよういに解釈してその場の自分の機嫌を救済しようとするスピリチュアルな者でした。

 先生が「何も感覚が無いように。どこにも力感が無いように」と指導すれば「なんにもないんだー」と言って、いい加減に振りだけの稽古をして「俺は○○拳の拳士なんだー」などと吹聴して自己満足に浸っていました。

 才能もあり、フィジカルにも恵まれていたのですが、精神が向いていなかった。

 目先のご機嫌ではなく、誠実さを優先しなければいけません。

 自己の都合はおいておいて、本当のことを知りたいという思いからくる行動、その積み重ねが、確実に人を真理に届かせます。

 浅ましさは足を引っ張るだけです。

 たくさんの誘惑があります。

 拙速に結果を求めて格闘技的な動きでごまかしてしまったり、よその動きを接ぎ木してそれぞれが喧嘩してしてしまったり。

 そういう真実の追及の阻害になる欺瞞をすべて捨てる。

 やるべきことをただやる。

 それが禅の行であり、その昇華として宿るのが我々の功です。

 たかだか一、二年。

 早ければ半年。

 長い人生の内、それだけの期間をわずかに誠実に過ごすだけです。

 とびぬけて苦しいことをする必要はありません。

 ただ普通に日常を送る中で、ほんの少し自覚を持つだけです。

 それだけで大いなる遺産を受け継ぐことになります。

 私はいつも、この宝を多くの人に分かちたいと思っています。

 頼むから変な道に行かずに、幸せになってほしいと思って頭をひねっています。

 おそらく、こういうことが伝人の務めなのでしょう。

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