最近、武林の先輩と勁力を合わせる経験がありました。
他門で長くされている方なのですが、実戦派かつ高度なことで知られる門の方で、長らく他の流派の研究もされてるかたでした。
私はよそのことはまったく分からないのですが、師父になって初めて、勁力をぶつけ合って動かせない相手に出会いました。その功の深さで信頼のできるということが分かります。
その方が曰くには、私の勁は某○○流などに似ているそうですが、一方でそれらより柔らかいそうです。
これはうれしいことです。尖りのない、丸みのあるなめらかな勁というのが私の求めてきた物だからです。
私は長い間同門の先輩方から、力みすぎ、固いと叱られてしつけてもらってきましたので、だいぶ良くなったのだと思えました。
この勁が柔らかいのは、おそらく途切れがないことが一つ。それから瞬発しないことが一つ。あとは、拙力が少ないからだと思われます。
もちろん、私自身はもともとはひどい力み体質ですし、完全に力みを捨て去ってゆくことは人間には難しくて修行の上では一生のテーマだと思っています。けれどそれでも、いくらかは私もましになってこれたのでしょう。換勁という奴でしょう。
これは拙力に換わって勁を使う身体になる、ということです。
これが厳しい。
と、いうのも、拙力を抜かないままでも勁力は使えます。
しかし、その場合勁は濁ります。
なので、勁をより純化していきたい、というのが功夫の方向性なのですが、人間どうしても力を抜くのは入れるのより難しいのです。
平素より力が入らない体にして、最低限の力で日常を送るような暮らしをしていくことでこれは行われてゆきます。
例えば、自分の身体を支えるのに5の力が必要なら、普通はどんぶり勘定で7か8くらいの力を入れます。
それは何か予測外のことが起きたときの保険にもなりますし、疲れないからです。
おかしいじゃないか。5で済むところを7も8も出したら、2か3の分疲れるんじゃないかと思われるかもしれません。
ところが、5の重さを5の力で持つと、ものすごく重く感じるので疲れるのです。2か3の余裕がない。
それを、あえてギリギリで持って重さを感じるようにすると、身体を重く使えるようになります。
例えば手で何かを撃つとき、拙力で手を支えないで最低限の力で振るほど、重さが相手に伝わることになります。
寝てるときの子供が重いとか、振り回された鎖が威力を持っているとかのものです。
この威力の使い方を、重勁と言います。
なので我々の門では、初めは重勁を学んで力の抜き方を学びます。
この段階では遠心力の力を借ります。
腕が重く使えるほど遠心力は強く働き、遠心力が強く働くほど、腕を支える力は必要なくなるので(遠くに引っ張られるから)、威力は増します。
一般に知られている蔡李佛拳の威力はこのような物だと思われます。
しかし、大切なのは次の段階です。
力を抜くことを慣れ覚えたら、次はそこに鉄線の勁を入れてゆきます。
拙力が抜けているほど、この勁が純粋に強く働いてゆきます。
これが出来るようになれば、もう遠心力は必要ありません。ゆっくり、短い距離で、なんの予備動作もいらずに打てるようになります。
重くてぐんにゃりしていた鎖が鉄線、つまり鉄パイプになったためだとイメージすると良いかと思います。
持ち上げるのにも苦労するような、ビルの鉄骨だと思ってもいいかもしれません。
そんな物なら勢いなんてついていなくても、ちょっとつつかれただけでフっ飛ばされてしまう。
とんがっている必要も硬い必要もないのです。