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拙力と重勁と鉄線功

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 最近、武林の先輩と勁力を合わせる経験がありました。

 他門で長くされている方なのですが、実戦派かつ高度なことで知られる門の方で、長らく他の流派の研究もされてるかたでした。

 私はよそのことはまったく分からないのですが、師父になって初めて、勁力をぶつけ合って動かせない相手に出会いました。その功の深さで信頼のできるということが分かります。

 その方が曰くには、私の勁は某○○流などに似ているそうですが、一方でそれらより柔らかいそうです。

 これはうれしいことです。尖りのない、丸みのあるなめらかな勁というのが私の求めてきた物だからです。

 私は長い間同門の先輩方から、力みすぎ、固いと叱られてしつけてもらってきましたので、だいぶ良くなったのだと思えました。

 この勁が柔らかいのは、おそらく途切れがないことが一つ。それから瞬発しないことが一つ。あとは、拙力が少ないからだと思われます。

 もちろん、私自身はもともとはひどい力み体質ですし、完全に力みを捨て去ってゆくことは人間には難しくて修行の上では一生のテーマだと思っています。けれどそれでも、いくらかは私もましになってこれたのでしょう。換勁という奴でしょう。

 これは拙力に換わって勁を使う身体になる、ということです。

 これが厳しい。

 と、いうのも、拙力を抜かないままでも勁力は使えます。

 しかし、その場合勁は濁ります。

 なので、勁をより純化していきたい、というのが功夫の方向性なのですが、人間どうしても力を抜くのは入れるのより難しいのです。

 平素より力が入らない体にして、最低限の力で日常を送るような暮らしをしていくことでこれは行われてゆきます。

 例えば、自分の身体を支えるのに5の力が必要なら、普通はどんぶり勘定で7か8くらいの力を入れます。

 それは何か予測外のことが起きたときの保険にもなりますし、疲れないからです。

 おかしいじゃないか。5で済むところを7も8も出したら、2か3の分疲れるんじゃないかと思われるかもしれません。

 ところが、5の重さを5の力で持つと、ものすごく重く感じるので疲れるのです。2か3の余裕がない。

 それを、あえてギリギリで持って重さを感じるようにすると、身体を重く使えるようになります。

 例えば手で何かを撃つとき、拙力で手を支えないで最低限の力で振るほど、重さが相手に伝わることになります。

 寝てるときの子供が重いとか、振り回された鎖が威力を持っているとかのものです。

 この威力の使い方を、重勁と言います。

 なので我々の門では、初めは重勁を学んで力の抜き方を学びます。

 この段階では遠心力の力を借ります。

 腕が重く使えるほど遠心力は強く働き、遠心力が強く働くほど、腕を支える力は必要なくなるので(遠くに引っ張られるから)、威力は増します。

 一般に知られている蔡李佛拳の威力はこのような物だと思われます。

 しかし、大切なのは次の段階です。

 力を抜くことを慣れ覚えたら、次はそこに鉄線の勁を入れてゆきます。

 拙力が抜けているほど、この勁が純粋に強く働いてゆきます。

 これが出来るようになれば、もう遠心力は必要ありません。ゆっくり、短い距離で、なんの予備動作もいらずに打てるようになります。  

 重くてぐんにゃりしていた鎖が鉄線、つまり鉄パイプになったためだとイメージすると良いかと思います。

 持ち上げるのにも苦労するような、ビルの鉄骨だと思ってもいいかもしれません。

 そんな物なら勢いなんてついていなくても、ちょっとつつかれただけでフっ飛ばされてしまう。

 とんがっている必要も硬い必要もないのです。


心身を澄ます

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なんでもかんでも擬人化するというのは、人間の傲慢ではないのかなあ、と感じることがあります。

荘子の教えには、万物斎同と言って、あらゆるものは同じく無機質なものであり、価値は個々の受け取り手が勝手につけているに過ぎないという考え方が中核にあります。

そして「天に仁なし」と言って、物理的な現象の積み重ねである世界の構造そのものには、なにがしか人格的な意思も存在しないという考え方になります。

気というものの思想について、人は何かとオカルト的な物を求めたくなるようです。あるいは現代社会から落ちこぼれた自分を救済する手段だと思いたいのかもしれません。

しかし、基本的には気というのは、ただのエナジー、物理的な力のことを言っているにすぎません。

熱の力も気、空気の力も気、電気、蒸気、ただの「力」の意味です。

この気の働きを当時の見解で分析したのが陰陽論であり、五行説です。

我々の武術は、この精神で物理的な力を扱う学問です。

そのための方向性としてあるのが、人間を陰陽の二つに分けること。すなわち識神と元神に分けます。

前者は後天的な学習や経験で作られた自我。後者は本来持っている資質や本能の部分です。

この元神は、人間自身の生来持っている物なので、いわば内なる自然だと考えられます。

そのため、この自然と外の自然はつながっていると考えます。

つまり、内側に自然に働いている自然の力がそこで勝手に活動しているというわけです。

意識しなくても呼吸はしていて、体内では分解や通電などの化学変化が起きています。

その自然に働く部分を、人間の自我は時に阻害します。

好き嫌いを言って栄養素を偏らせたり、快楽のために睡眠を後回しにして休息時間を減らしたり。

結果、体内時計が狂ったり、それに伴ってすべてのあるべきサイクルが崩れていきがちです。

自我が本能の働きを妨げてさらに暴走をしてゆけば、物事を自分が勝手に見たいようにでっち上げたり、自分自身をだましてありもしないものをこじつけで見出したりしはじめます。

このようなことを繰り返しているうちに、どんどん世界の真実から自我が離れてゆき、手前勝手な思い込みの世界に耽溺してゆきます。そのような人はたいてい体を悪くしています。本能による自浄作用を自ら妨げているのだから当然です。このような状態を、魔境と言います。

この部分を避けて、内側の自然の働きに身を任せて、健康と爽快な日々を送ってゆこう、というのが気功の思想です。

この気功の考え方を土台に、身体を動かしてゆこう、というのが武術です。

世の中を見渡せばどうも、不自然な生き方をしながら自分の作り出した信仰にすがりついて、どんどんすべてを悪くしてゆこうという人々が沢山いるようです。

武術においても、闇雲な努力や工夫という信仰に凝り固まって必要なやり方を学ばないで自己流に陥り、いつまで経ってもできるようにならない人がいっぱいいて苦しんでいるようです。

オカルトやスピリチュアルの妄想に迷い込んでしまって気持ちの悪い暮らしをしている人も、武術で悩んでいる人も、うちに来てくれたらなあ、と思います。

自我がまさるほど、本能は濁ります。本能の働きがよどんでゆく。

結果、ほおっておけば働く物が作用しなくなって、どんどんダメになってゆく。

私たちの武術は、自分自身を澄ませてゆくものです。

余計なことが邪魔をしないよう。

うちなる自然にまず則ることで、世界全体に働く大きな自然と同調することを習慣化してゆきます。

まぁ、素材の味だけでは物足りなくなるので、食べたい時には化学調味料や人工甘味料も使っても良いです。

ただ、アルコール中毒やニコチン中毒、ひいては薬物中毒のように、常にゴッテリと劇物まみれにしていないと日常の味が分からないというのは心身の病気です。

こういうのを「病の身」と言います。武術はそれを治すために行います。

余計な物をどんどん引いていく。

そういう物の無い状態で見ると、景色はとても美しく感じます。季節が変わるときの風や花の香りは内側を通り抜けてきて大変に気持ちがよいです。

これらは、自分の内側が虚、つまり、余計な物が詰まっていない状態だから入ってくるのです。

混沌より生じて虚無へと至る。つまり、撹拌ですね。

濁った物が沈殿して澄んだ部分が広がれば、桜の季節には、自分の中に桜が咲き広がります。

自分と世界が自然につながるのです。

余計な迷妄で自分を濁らせるのはもったいないです。

いらないものをでっち上げたりせずに、透き通った暮らしを送る。

食べ物はおいしく感じます。眠りは深く安らげます。

そのような感覚を忘れてしまっている方は多いのではないでしょうか。

一度、自分をきれいに空っぽに片づけてみると心地よくなると思いますよ。

それにね。

そうなってから時々、すごい甘いものやゴッテリした味付けの物を味わうと、ものすごーーーーーーーくおいしく感じますよ。

伝えることは伝えられること

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 ここのところ、より積極的に外の人から接していることでいろいろと学ぶことがありました。

 例えば私はいつもワークショップの時に肩ではなくて肩甲骨まで腕だと思ってくださいとか、お尻までは脚です、などと言うのですが、実際にお医者さんが解剖学場それは正しいと言ってくださったり、勁力に触れてくれた先輩がどこの門と似ているなどとテイスティングしてくださったり。

 人にお伝えするということは、自分もまた別支点からの知らないことを教えてもらえるということなのだなあと思います。

 私は中国武術には後から入ったので、数少ない教わった先生がものすごい功夫の持ち主だったので、自分がどの程度なのかがまるで分からないところがあります。なにせあまりにも上すぎる同系の術の使い手の人との差は、ちっとも増した気がしない。

 いろいろな人と、自分の持ち物を隠さずテーブルに乗せて接することは大切なのだなあと思います。


 そんな訳で、次の日曜日、15日は10時から茅ヶ崎レッスン、18時からは関内WSとなります。

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12131625973.html

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12151714123.html

6・12 日曜日 文京区ワークショップのお知らせ

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 おかげさまでまた、都内でワークショップが行えます。

 場所は前回と同じ文京総合体育館さんですhttp://www.bing.com/local?lid=YN5286x3378661223958427016&id=YN5286x3378661223958427016&q=%e6%96%87%e4%ba%ac%e7%b7%8f%e5%90%88%e4%bd%93%e8%82%b2%e9%a4%a8&name=%e6%96%87%e4%ba%ac%e7%b7%8f%e5%90%88%e4%bd%93%e8%82%b2%e9%a4%a8&cp=35.7082405090332%7e139.763259887695&ppois=35.7082405090332_139.763259887695_%e6%96%87%e4%ba%ac%e7%b7%8f%e5%90%88%e4%bd%93%e8%82%b2%e9%a4%a8 。二階武道場にて15時より17時までとなります。

 よろしくお願いいたします。

 

  エントランス

 

  一般      @4000

  事前申し込み @3000

  準・正会員   @2300

  外国人     @ 500

五月、六月の練習のお知らせ

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いま決まっている、五月と六月の練習の予定を列挙します。

まず5月の15日、朝は10時から茅ヶ崎レッスンです。どなたでも参加できます。

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12131625973.html



同じ15日の18時よりは、関内ワークショップです。

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12151714123.html



ちょっと未確定なのですが、5月の21日の午後、晴れたら代々木公園で稽古会などしようと思っています。こちらも誰でも参加歓迎です。もしよろしければ、前回の文京ワークショップでいらしてくださった皆さん、ご連絡ください。場所と時間の詳細などお知らせいたします。



6月は、12日にまた文京区総合体育館さんで15時よりワークショップを行います。ご新規の方も、ぜひおいでになってください。

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12158148623.html

以上取り急ぎですが、現状の5、6月の練習予定日でした。

お茶を飲む

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朝、お茶を一杯飲んだだけで出ると縁起が悪い。というお話を聞いたことのある方はいらっしゃいますでしょうか?

これは主におじいさんおばあさん世代の方にあった風習のようで、私たちの世代の物でも子供時分に出がけに熱いお茶を入れられて二杯目を飲み終わるまでは家を出さしてもらえない、といったことが割にあったと聞きます。

意味的にはどうも、お茶をゆっくり飲むゆとりも無いような状態で行動していると失敗をするから、というようなところが真意であるようです。

この話を聞いて、大変に気功的なので意識に引っかかりました。

少し調べてみると、岡倉天心先生の「茶の本」の中に答えがありました。

この本は、新渡戸稲造の「武士道」と同じころに、日本という国を西欧社会に紹介すべく、英語で書かれたものです。

この書の中で天心先生は、この茶の心こそが柔術などの日本武術の心である、とも書かれています。

それは、虚ということの大切さだというのです。

ますます以て気功的な話になってまいりました。

陽、実だけでなく、陰、虚こそが日本の心、武術の真髄、茶の真意だというのです。

その茶はそもそも、中国の仏教において、薬として用いられていた抹茶というものに始まるとのことです。

薬と言っても特効薬のようなものではなく、漢方的に精神を落ち着ける物として飲まれていたそうです。

ここから中国茶道があったようなのですが、これは他国の侵略の焼き討ちや文化弾圧などによってひとたび失伝してしまったようです。

それが後世に至って、老荘思想の影響を受けた佛教、禅宗によって再興されたとのことです。

やはり、老荘のものであったのだと納得がいきました。

この、必要な仕事の中に入れるお茶の時間が大切だ、というのは、まさに私が日ごろから思っていることです。

伝統的な中国武術の練習では、一つ何かをするたびに小休止を入れて、お茶を飲みます。これを功夫茶と言います。

また、この時に煙草を吸ったり、人によってはお酒を飲んだりします。

日本人の感覚からするとちょっと驚いてしまうのですが、この時にいただくお茶のもたらす空気の流れや感覚がとても重要であるようです。

私も師父になって稽古を開始するおりに、このための茶器セットを支度したのですが、忙しい中を来てくれている皆さんの中で、なかなかお茶を淹れる時間がうまく取れていません。いけませんねえ。

でも、本当に一番大切なのは、どれだけ一生懸命な時でも、忙しい時でも、定期的に立ち止まってお茶を飲む時間を持つ、という生き方を身に着けることのはずです。

稽古の中でお茶の時間が取れないとしても、効率性最重視、仕事仕事で忙しい現代人の暮らしの中で、カンフーの時間が一服のお茶のような役割をはたしてくれたらと思っています。

お茶を飲んで暮らしてゆきましょう。

少林拳のイメージ

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南派の中国武術の普及活動をしていて驚かれるのは、少林拳でこんなに遣えるなんて知らなかった! ということです。

どうも日本では、少林拳は外家拳だから力任せ、速度任せ、低級、という印象があるようです。

内家拳が高級で、一方的に優れている、という印象が日本には強いようです。

内功が多いのも驚かれますし、硬功ばかりしてるんじゃないかなどと思われてもいるようです。

あるいは、表演武術で少林拳と言っている物の、飛んだり跳ねたりだけの印象があるかもしれません。

この誤解を解いていかなければならないなあと思っています。

私自身は自分の門の中ではずっと、ものすごくできる人たちに囲まれてきたので、世間での印象がはじめはまったく分かっていませんでした。

自分が外に出るようになってから、このような偏見の存在に気付いたものです。

少林拳だけでこの印象の悪さなのに、ましてや南派ときたら!

この誤解を晴らしてゆくためにも、もっと対外活動を続けていかなければならないなあと思っています。

湘南クラス練習感想

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 さて、本日は天気の良い初夏の茅ヶ崎で練習。

 美男美女に囲まれて、気持ちよく、楽しく練習をしてきました。

 こちらのクラスはいわゆる道場に居る人々ではなく、たまたまダンサーさんばっかり。スタイルの良いみなさんが集まって、なんというか実にスタイリッシュな空気が充ちます。

 中国武術の真価は、こういうところにある気がします。

 勝った負けたや強い弱いではなく、心地よい時間を持てる、と言うところです。

 テーマは身体開発の方向に集約されて、内側の力をどう使うかに向かいます。

 そして、そうなると、東洋医学的にはどのような結果が起きるのかということなども話します。

 気、血、水と言う体内の分泌物の循環がよくなり、むくみや凝りが解消される、というヘルス&ビューティを楽しみながら求めてゆきます。

 この空気の中で、思想や文化に触れていく、ということが、私が大切にしたいことなのですよねえ。

 個々人の身体を整体のように伺って、どこが詰まっているからどこを開くとどこの血管が浮かんできて流れがよくなる、なんてことをしていると、とても有意義な気持ちになれます。


5・15 関内ワークショップの感想

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 今回の関内WSは、胡蝶掌をフィーチャーしました。

 うちとしては珍しく、用法の練習です。

 蔡李佛と言えば、ファイト一発の一撃猛烈系拳法なのですが、しかし同時に結構橋法が沢山ある拳法でもあったりするのです。

 技法の序列で言うと、段階の後のほうで取り組むもので、強力な勁を、相手を捕まえといてたたっこむという豪快かつえげつない物になります。

 この捕まえることを拿と言い、拿して撃つことを扣打(こうだ)と言います。

 この扣とはどういう意味なのかと、香港帰りのうちの外語担当の三妹に聞くと「トンポーローだ」という答えが返ってきました。

 彼女は北京語も広東語も出来る才媛なので何かと言語の疑問に答えてもらっているのですが、彼女の日本語をもう一段階分かるように翻訳する技術が必要になるのがポイントです。

 質疑応答の結果、トンポーローのことを扣肉(コウロウ)とも言うらしく、どうやら固める、というのが扣のニュアンスであるそうです。

 なので扣打とはおそらく、相手を固めておいて打つという意味なのだろうと思われます。

 胡蝶掌はどうも昔の本などでは二か所を同時に打つなどと紹介されている物もあるようなのですが、我々の物は扣打として行います。

 この扣そのものも侮りがたいもので、勁を伝えられるとそれだけで倒されたり引き崩されたりしてしまいます。

 崩れると、整勁が切れて発勁が出来なくなってしまいます。

 整勁が出来ていると、排打功が効いて相手の攻撃を内勁で受け止めることが出来るので、それが切れると打たれた時にもろに効いてしまいます。

 二重、三重に扣は恐ろしい技法なのです。

 しかし、そこは我々は楽しく気持ちよい、ビューティフル・ライフ・スタイルとしてのカンフーを行っていますので、楽しく知恵の輪のように行います。

「そもさん!」「せっぱ!」と相手の拿のどこに逃れられる隙間があるかを悟って逃げ、そして逆にどうやって相手が逃げられない扣打を放つかのパズルのように楽しみます。

 どうも手首が細いせいか、この辺り女性が妙に上手い傾向があるようにも思えます。

 組んで練習をしていると、あぁ、今のは完全にやられたな、という瞬間があります。実に美しく、頼もしい気持ちになるものです。

 WSの後は近くで九月に計画しているチャリティイベントの打ち合わせをしました。

 イベント名が「肉体文化芸術祭」に決まりました。

 共同開催団体であるカリ練習サークルさんが専用のページも作ってくれました。https://sites.google.com/site/kalisdf2014/home/tokusetsu

 打ち合わせの後は、払いのおつり数百円を、さっそくお店にあった募金箱に入れてまいりましたよ。

 来月も関内WSは19日の日曜日に行います!

あれに似ている。これにも似ている。

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うちの練習を見ていたよその拳士が「八卦掌に似ている」といったことがありました。

また、この間私は肘打を遣っているのを見て「八極拳みたいだ」と言われました。

うちはいろいろな拳法に似ているようです。

その理由はおそらく、五つの少林拳をルーツに持っているためでしょう。

洪拳をはじめとして、白鶴拳に、蔡家拳、李家拳、佛門掌。さらにいうなら、そのどれもが北派少林拳とつながりがあるといわれているため、総合少林拳的な色合いのあるうちはどれにも似たところがあるのだと思います。

特に、肘打に関しては少林三十六肘という物があったといわれる通り、肘打ちにはそれを得意とする門と似たところが出るものだと思われます。

また南派拳法の中ではうちは高い蹴りや飛び蹴りが多くて珍しいとも言われますが、それもまさに少林の長拳類の流れをそのまま組んでいるのでしょう。

もともと、少林は武術の研究施設として、一帯の武術家を招いては技術を研鑽していたと言います。

太極拳、形意拳と言った少林のカウンター的門派と言えども、スタートは少林拳だったと言う話もあります。

うちの開祖、陳享師はおそらく、焼き討ちにあった少林寺から落ち延びた各派の明師たちから拳を学んだあと、それらを後代に残そうとエッセンスを凝縮して蔡李佛を作ったのではないかと思うところがあります。

その中心となっているのが、鉄線の勁であったと思っています。

外国だと中国武術の奥義と言えば、点穴や断脈と言った相手の経絡を攻める物がよく口に上るのですが、私たちはそれらを聞いたことがありません。

また、鉄頭功や童子功の類もです。

おそらく、生まれながらの武術家のみならず、一般への普及を試みたときにそれらは省いたのではないでしょうか。

それらの物は体ができる前から日常的に練功していないと大成しなそうなので、大人になってから中国武術を始める人間には体得が難しい部分があると思われます。

そのため、後からでも体得できる主要兵器として発勁を中核にすえたのではないでしょうか。

これは、発勁好きな日本人にはちょうど向いているところであるという気がします。

6・19 関内ワークショップのお知らせ

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 次の関内ワークショップは、六月十九日の日曜日です。

 時間はいつも通り18時より20時。

 場所もいつものフレンドダンス教室さんです。

  

 エントランスは以下となります。

 

 一般       2500

 会員、準会員 2300

 事前予約    2000

 外国人割引   500



  よろしくお願いいたします。

勁が見える

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 先日のWSでも、普段の通常稽古にはいらしてない方々に明確な進捗が見られました。

 これは組んで稽古をしている時の技のかかり方でも分かりますし、一人での練功を観ていても分かります。

 発勁の様子を見ていて「お、今のは勁が澄んで伝わっている」と言うのもありますし、逆に「あー惜しい。今のはもうちょっと後ろの軸に寄せてればもっと澄んだ勁が初めから透りました」というのも分かります。

 また、今回で二回目の参加者の方は、勁を発する動作をされてときに見ていると、前腕にむにむにと動く力が見てとれました。

 そこは骨が目立って大きな筋肉がないところなので、それだけにうすーい肉付きの中を勁が通るのがよく見えます。

 まずは勁とは何かの具体的な説明から始めて、次に具体的な方法に入り、それからその純化と活用法を実際的に行うことによって、確実に一人一人が発勁を身に着けていっています。

 全員を並べて漠然と反復運動をさせるのではなく、自分が何をしているのかをしっかりと理解して目標にしっかり取り組んでゆけば、蔡李佛拳は確実に身に着けることが出来る伝統武術です。

 私は、そこが実に素晴らしく思っています。

今週土曜日21日 代々木公園

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今週の土曜日、昼まわりの時間で、代々木公園で稽古をしないかという話が出ています。

参加希望のかた、このページにメールください。

一般 2500

外国人 500

です。

都内やお近くの方、お気軽にいらしてください。

関節を殺す

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昔お世話になっていた先生が、手首や肩甲骨を使って発勁だと言ってる連中がいるけど、あんなのはダメだ、と言っていました。

当時はわからなかったのですが、今ならわかります。

もちろん、それらのやり方が一般の格闘技的なやり方とは違うとは思うのですが、一言で言うなら不完全なのです。

これは、うちの根本である鉄線の勁を理解していくうちにわかってきたことです。

力は骨より発し、勁は肉より発する、という古典にある言葉が大いにヒントになります。

これを私は、骨格運動を拙力、鉄線からの力を勁と解釈しました。

もちろん色々な門派の色々な勁がありますので、すべて私の門での解釈になります。

肘を屈伸したり、膝を屈伸したりすることで、一般には力を出します。これが私の言う拙力です。

この、骨格の角度の変化によって加速や体重移動が発生して、それによって威力が生じる。そのため、運動量と威力は比例します。

一般に、打撃の威力というのは速度と力積から生まれるそうですが、骨格運動は速度にフィーチャーしたものだと思います。

それに対して、我々の勁は力積の物だと言えばわかりやすいでしょう。

つまり、重さを主体にしたいわけです。

その重さを出すにはどうすればいいのか、ということですが、骨格運動の場合は自重を浴びせます。いわゆる体重を乗せる、というやつですが、少なくとも私たちの発勁はこれをしません。

極端な例を出して想像してみたいと思います。

例えば、三節棍です。

これ、そのまま一振りして当てても、加速が乗っていなければ的に負けてはじかれてしまうことでしょう。

それを、加速させて、それによって遠心力で一本の状態に重心をつなげるから威力が出るわけです。

これが骨格運動の状態です。動いてることで加速と一本化が成立する。

それに対して、鉄線の勁は文字通り鉄線なので、三節棍の接合部分に鉄パイプをかぶせてまっすぐな棒にしてしまいます。その状態でぶったたけば、普通に鉄で補強された棍としての威力がでますね。つながることで力積が発生しています。

我々が使う鉄線の勁というのは、このようにして使うものです。クッションしてしまう関節を固定し、全体を一つにまとめてしまう。

このことを、最初に挙げた先生は「関節を消す」と表現していました。

人間は全身に関節、つまり骨の継ぎ目があります。これを全部勁でつないで消してしまいます。

そうすると、全身が一つの塊として成立します。これが我々の言う「全身を勁力に満ちた鉄球にする」です。

しかし、固まっているなら身動きが取れないではないか、と言われるのが当たり前のことです。

そこで、どこか一か所くらいを切って動くようにして、打てば、ほかの部分がつながっているのだから威力が出るだろう、というのが初めに書いた手首発勁や肩甲骨発勁なのでしょう。

当然、手首と肩甲骨は動く分クッションにもなってしまい、反作用に負けてしまう場合が発生します。

これが我々としては納得のいかないところなのです。どうにかしてそれも消したい。まんべんなく完全な丸につなぎたいのです。

では、どうすればよいのでしょうか。

関節運動を骨格に依存しないことです。

関節を勁で固定して、その勁を動かして角度を変形させるのです。

これによって、動いているのに動いていない、というわがままな願望を実現します。

重くて強い動かない関節を作るのです。

頑丈なワイヤーでしっかりと固定した、動かしたい分は動くけど反作用にはびくともしない関節です。

これが鉄線功の理屈です。

このために我々の套路はなにか人形じみた不気味なものになり、発勁で人を打つ時も動きは極めて小さいものになります。

余裕ぶって小さい動きで打っているのではありません。

そもそもの構造が、動かないことで力を出しているからです。

トラックも戦車も移動しますが、車体そのものがぐねって移動力を出しているわけではありません。

それに対して、蛇は自重を分散させて全身をくねらせて動きますね。これは動くことを主体とした方法です。

我々は、重くて固い威力を求めます。そのために最低限しか動かないことを主眼として練功をしてゆくのです。

どこか、バッティングセンターのピッチングマシーンに似ているような気もします。

もしピッチャーのように全身が動いてしまっては、マシーンはボールを打ち出すことはできないでしょう。

我々は鉄でできた人間を目指してゆくのです。

技と術 運動エネルギーと位置エネルギー

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 前の記事で書いたことをさらに掘り下げてゆきたいと思います。

 動くための力を拙力、動かないのが鉄線勁というのがおおむねのいいでした。

 私は科学的なことは分からないのですが、これって運動エネルギーと位置エネルギーって奴の話なのではないかと思います。言葉が間違っていたらすいません。

 ちょっとイメージしてみましょう。

 小学校四年生くらいの男の子がプロレスごっこに興じていて、同じくらいの体格の男の子に向かって、机の上からフライング・ボディ・アタックを掛けるとします。飛び降りての体当たりですね。

 この場合、全体重とジャンプの勢いがあれば、相手を打倒してそのままつぶしてしまうことがあると思います。

 この場合のフライング・ボディ・アタックが動く力です。勢いと体重が生でぶつかる力になっています。

 体重を乗せた攻撃や、勢いのいい当たりというのはこういうことですね。実際、格闘技にはスーパーマン・パンチといってこのようなやり方でパンチをする方法があります。

 このやり方は、体重が同じくらいの相手には有効かもしれません。が、しかし、相手が大柄な力士のような人だったらどうなるでしょう?

 逆にはじかれてダメージを受けるのは自分ではないでしょうか。あるいはヒョイと受け止められる?

 これと同様のことは、ローラースケートを履いて加速しての体当たりでも起きると思います。

 相手の体格が弱ければ強烈な体当たりになるかもしれませんが、自分より強ければグリップが効かないので、転倒するのは自分の方になってしまいます。

  もし、自分と同じくらいの体格にこれらの攻撃を食らうとして、よけることが出来ない状況だったらどうするでしょう?

 きっと、本能的に足を踏みしめて身体を強く固めて衝撃に耐えて跳ね返そうとするのではないでしょうか?

 その選択を洗練したのが私が言っている鉄線の勁力、動かない力です。

 この、動かない力を定力と言います。これは拳法用語です。物理用語ではないです。

 またイメージしてください。

 お相撲関係の地方ニュースなどで、ちびっこ力士と大相撲の力士が土俵でぶつかりあう光景をみることがありますね。

 ワンパク力士がいくら頑張っても、お相撲さんはびくともしません。

 あの時の力士の状態が定力の利いた状態だと思ってください。

 もちろん、厳しい訓練を積んだ本職とちびっこたちでは違うのですが、それをさっぴいた上での話です。

 しかし、このたとえのままでは、フライング・ボディ・アタックの話でもローラースケートでもお相撲でも、参考になりません。

 とっさに相手より体重を増やして定力を増すことは出来ないからです。

 ですが、くだんのお相撲のパターンで、ちびっこたちがしまいには十人がかりで挑んでも、お相撲さんはびくともしない、というシーンを見たことがないでしょうか?

 子供が一人、30キロから40キロあるとして、それが十人。全員分の体重を足すと明らかに力士より重くなるでしょう。

 おそらく、平均的な体格の力士は200キロ以下だと思われます。

 だとすると、子供たちの方が単純な総重量では勝ります。

 しかし、子供たちが勝てないのはなぜかと言うと、これはその体重がバラバラに分散しているからです。

 この、重心がまとまっていないということが、定力が弱いということです。バラバラの400キロは一つになった200キロに対して、40対200の繰り返しに過ぎません。

 ここに定力と拙力の差があるように思われます。

 拙とは自分を差す使われ方のある言葉です。自力、自分のナマの力だと言ってもいいでしょう。

 それに対して、定力は他力です。重力などの自然の力を活用しています。

 拙力の活用は、フェイントをかけたり弱いところを狙ったり、いくつかの方向から合わせて用いたりと、いろいろな手法があります。

 これが技です。40の力の使い方をあれこれ工夫した動作で用います。

 対して、定力、勁の動作は、練功で勁力や定力を作って無い人間が行っても、なんの効果もありません。

 いわば電気の通ってないような状態で、その形や構造そのものに威力はないのです。

 そのなんでもないところに勁力が通るから効果が出るのです。このために我々の武術は技ではなく、術だと称しています。

 なんの変哲もない突きやタッチが相手を吹き飛ばしたり猛烈なダメージをあたえるのは、その動作そのものに技があるのではなくて、中に働いている力のためです。

 どうも日本人は小手先の技やトリックが好きなようで、たねや仕掛けを探したがったりまねをしたがったりするのですが、そういうことではないのです。

 そこは金塊と金メッキの差で、中身と重さがまったく違うのです。

 本物は本物なので、それを得ようと思ったらまずはメッキとの違いを理解する目利きを得てゆかないといけません。

 昨今、動作のやり方で簡単に高度な技法が使えるというアプローチが、主に自己流の先生方によって紹介されがちですが、中国武術はそのようなものではないのです。まったく概念が違う。

 例えば日本人が軽視しがちな硬功、やり方を覚えればその瞬間に鍛えたところがたちどころに固くなるということではありません。

 時間をかけて身体を作り変えてゆくのが練功法です。

 日本武術には技法の考え方が強くて、この練功の概念が薄いと思います。

 日本人が中国武術を学ぶには、この練功を理解するところから始めなくてはなりません。

 工夫や頓智ではありません。独自のブレンドでタレを作るのではないのです。時間をかけて煮込んで出汁を取るようなものです。

 その間、火加減を見ることを怠ったりしてはいけません。灰汁取りはまめにし続けます。

 武の道は湯を沸かすごとしという言葉の通りです。ちょっとの工夫でこの旨さ、という物ではないのです。時間が熟成させる物があるのです。

 初期の内にひたすらやらされる平馬での鍛錬も、空気椅子ではありません。

 あれそのものが勁を作っているのです。

 日本人は直接的な練習方法でないと、極端に精神論の方にシフトしてしまう傾向が多いように思いますが、そうではありません。練功法には練功法で具体的な目的が必ずあります。それを追及してゆかないと意味がありません。

 平馬では内側に働いている勁を見つけることが出来れば、あのまま触るだけで発勁となります。

 動作はありませんがちゃんと中で定力が働いており、それを鉄線の勁で伝える訓練がされているからです。


筒を形成する力と他力と天神合一

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前回までのお話のさらに続きをいきたいと思います。

前回では、大切なのは動きでは無くて重心を集める定力を自分の内側に作ることであり、拙力による技ではなくて練功によって体に宿った術だと書きました。

そういえば、手偏に出ると書いて拙と読みますね。まさに自分自身から出る力が拙力であるということを彷彿させます。

この拙力をいかに使わないか、どれだけ消せるかが大切なことです。

手首発勁、肩甲骨発勁、体重浴びせ発勁のほかに、肘発勁というのもあります。

これも、屈曲させた肘に力をためておいて一気に瞬発させる方法です。

手首、肘、肩甲骨と、三つの関節の屈伸を連動させる派もあります。

これらはうちの発勁とままったく違います。屈伸はうねりです。

これらのやり方がベーシックだとすると、靠が打てない。

関節が屈伸しないところで発勁ができないことになってしまいます。

となると、法則的には屈伸派なら膝関節でも使うのでしょうが、そういうことを我々は嫌うのです。もちろん背骨も使いません。

拙力を原理主義的に忌避するのです。

我々の勁力の意図が根本的になんであるかということを、一言で言うなら、それは全身を一つにつなぐことです。

勁とは動く力では無く、止める力です。それも、全身をパイプのように形成してとどめる力です。

勁力で全身を強固な砲台にすると考えればいいのかもしれません。これも誤解を招きやすそうな表現ですが、一般に誤解されているのとは違って、勁は弾ではないということが言いたいのです。

抜骨して正しい姿勢を作り、それを勁でしっかりと補強して固定します。

この固定こそが勁の目的です。

なので、決して鉄線功を学ぶ皆さんは勁力を打ち出そうとして力感を感じようとどこかを詰めたり体をうねらせたりしないように気を付けなければなりません。それは拙力です。自分が出している力です。野球のような代表的なスポーツで行っている力は勁とは言わないのです。

そのような一般的な体の用法と区別するために、勁という言葉があるのですから、スポーツや格闘技と混同をするほどに真実からは遠ざかります。

では、体を筒として固定するのが勁だとして、打ち出すのはなんでしょうか? 一体何を弾に使えばよいのでしょう?

それは、反作用です。

前の記事で、ローラースケートの例えを出しました。

それで思い切り加速してぶつかってゆけば、同じくらいの体格までの相手なら轢けるかもしれないと。

しかし、それで思い切り壁にぶつかったらどうなるでしょう?

ダメージを受けるのはローラースケートに乗った方です。一般にそういう現象を事故と言います。

勁という言葉を訓読みすると「つよい」となります。

中国語には色々なニュアンスのつよいがあり、それぞれに字が違います。強、豪などが日本人にも身近なつよいでしょう。

その中で勁とは、植物のような根の張った、弾力のあるつよさのことだそうです。

石のような砕ける強さではないのです。

柔らかさのある鉄の強さは、勁の語にふさわしいと思います。

ですので、ローラースケートがぶつかるのは壁ではなくて地面深くまで突き刺さった鉄柱だと想像してみましょうか。

思い切りローラースケートで加速してそこぶつかるのと、その速度でこの鉄柱にぶん殴られるのは、理論的には同じダメージですね。確かこれを作用反作用の法則と言ったはずです。

だいぶ話が遠回りをしてしまいましたが、これが我々の鉄線の発勁です。

地面の下まで深く突き刺さっている部分の強さが定力です。

この定力を、足から腕の先まで(できれば頭の先まで)一貫して通して繋げると、これが鉄の強さが腺となってつながった状態、鉄線功の利いた状態になります。

最初の記事に書いたように、鉄線功は繋がったまま曲がることができますので、全身繋がったまま変形して相手を打つことができます。

その衝突の時、打った方と打たれた方には作用と反作用が働きます。

この時、基本、比率はフィフティーフィフティーのはずですね。確か。

しかし、根の張った定力がある方は、自分に受けた反作用でぶれることがありません。

そうすると、体を通った反作用は地面で跳ね返ってまた相手へと帰ります。

これによって、相手だけが作用の分+反作用分の威力を受けることになるのです。

こう書くとなんだかいったん行って戻ってなんて感じで遅い感じがしますが、実際にはそんな感じはないです。

タガネをものすごく固くて重い物に当てておいてハンマーで打てば、その固くて重い物と一体化したタガネに一瞬でハンマーは跳ね返されますよね。それと同じじょうたいです。

我々の勁力は自分をこのタガネにするためのものなのです。

また別の角度からいうなら、地面と自分をつないで一体化させるためのものです。

この定力=鉄線功の、勁力純化主義こそが我々の根幹です。

ここに働いている相手を打つ力は拙力ではありません。まさに自然科学の力、物理の力です。

このような力=エネルギーを、古い中国の言葉では気と言いました。

蒸気、電気、爆鳴気。磁力、電力、火力、摩擦力、あらゆる力を気と言います。それらの力を五種類に分類するところから五行説が生まれました。

決してオカルティックな意味での「気」ではありません。

これらの自然に働く力=気が、他力です。

なので、我々は勁をまとって身を筒にして、そこに他力を通して打つのです。

この時の、自然に働く力と一体になった状態が自然と自分が協調した状態であり、稽古の目的そのものなのです。

拙力を用いれば用いるほどこの状態から離れてゆき、わがままな自我を振り回しているだけの状態になってゆきます。

そこには限界があります。そうではなく、力は自分自身を抑制するためだけに用い、そのためにかえって自然と一体になって大きな力の一部になれる、という真実を体現するために、私たちの武術はあるのです。

だからこそ私は、この素晴らしい体験をより多くの人と分かち合えればよいと思って常々武術を公開しているのです。

まとめとおまけ

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 総論です。

 我々の発勁は、全身を勁で延ばし繋げて一つに繋げ、さらにそれを定力として地面と一体化、最大限に力積を作って活用するものです。

1・その時、拙力は勁力を区切る役割を果たすので用いるべきではない。

2・体重を浴びせる行為もまた、地面との定力の切断を意味するのですべきではない。

3・発勁という言葉が存在しているのは、拙力との区別であるため、一般的なスポーツ的な力や技法はすべて勁力ではないというところからスタートしないといけない。

4・練功で作られた力が勁であるので、見た目から真似しても出来るようにはならない。

5・勁力は内側に他力を働かせるために用いるためのもので、生のまま直接相手にぶつけるものではない。

 と、いったところがポイントでしょうか。

 ここでちょっと引っかかるのが、2の部分です。

 これはフライング・ボディ・アタックやローラー・スケートでの体当たりを例えにして表現した部分なんですが、不安定な状態を作って重心に単一の方向付けをさせる行為は、ある程度の強さの定力に似た同様の働きを持たせることが出来ます。

 ブルース・リーのノートには「パンチは相手に向かって踏み出して打ちだし、当たる前にその足を着地させてはならない」とのことが書いてあったようですが、これは発勁ではありません。

 どちらかと言うと、日本っぽいやり方だと思われます。空手などで用いられる方法で、剣道でも行われる動きのようです。

 結論から言うと、スーパーマンパンチです。

 なぜなら定力が遣われていないからです。

 私自身、古武術時代にはこのような動きを使っていました。これはこれですぐ出来るようになるしよいのですが、体重以上の力を使えないために比較的頭打ちが速いです。つまり、これは3と4によって技と見なすべき動作です。

 この飛び込み動作の後に、着地した後に撃つやり方があります。

 これは発勁です。

 なぜなら、そこには定力が働いているからです。

 飛び込んだことで重心をまとめておいて、激しく着地したおりにその重心を地面にぶつけると、その反作用が重心をまっすぐ登ってきます。

 この時、重心は地面に深く突き刺さったのと同じ定力を持ちます。

 なのでこちらは発勁だと思われます。

 こちらの場合、単に体重を活用しているのではなく、身体の内側でどう重心をまとめるかという部分に勁が働いており、その練功によって威力はましてゆきます。

 本当に、動作のタイミングで言うと着地する直前かした後かのわずかな差なのですが、ここを間違えると大きな違いになってしまいますのでお気を付けください。

 発勁を体得しようとしている方は、きちんとそのシステムを把握して、間違った道にはまることなく自分の物にしていって欲しいと思う次第です。

三昧

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昨日もいつもの練習日だったのですが、月に一度の遠方からの学生さんが来ているので、なるべくおみやげを持たせてあげようと思ってやっているうちに、気づけば四時間練習してました……。クレイジー……。

短打錬法という自由対打をやっていると、いつもついつい時間が飛び去っていってしまいます。キング・クリムゾン!!

この練習は、勁力を維持したまま自由に動く身法を練るのが本来の目的だと思うのですが、それを鍛えるための負荷として雑念を活用します。

相手の隙を取りたい、うまく勝ち手を身付けたいと将棋を打つように識神を働かせて、それでも整勁が決して切れないようにしておく、という習慣づけの稽古を行います。

この、相手を捕まえておいて打つという扣打の戦い方は、一般の武術ではあまり表面化していないように思います。

そのためか、いざやってみようとすると結構戸惑う方が多いようで、いきなり手の接続が切れて勁がぶちぶち断線してしまいがちになるようです。

さらに、考えてやろうとした結果かえって思考停止に陥り、えーとえーととなって立ちすくんでしまうことも多いようです。

しかし、これはあくまで基本通り、禅を組んでいるように平常心を維持して、雨が降っても犬が吠えてもただあるがままに自分の本分をまっとうすればいいのです。

そうすると、拿(掴む)をする手も、打つ手も勁で繋がった一つのものだと思い出せるので、バラバラになって勁が切れることはなくなります。

繋がったなら、扣(掴み崩す)と打は一つの動作になりますので、また混乱することもなくなります。

混乱状態にあろうとする心そのものが実は識神(自我)の陥る魔境です。

相手と身体が繋がっていれば、答えは元神(本能)が感じ取っていることがかなりの部分であるのです。

川の水が自然に淵に向かってそこで渦巻くように、相手と勁を合わせればしかるべきところに自分の勁は向かってゆきます。

もちろんそれを学習するためには識神が必要なのですが、最初に元神で感じることがまず大切です。

このようにして元神を開放してその働きを回復させてゆきつつ、新しい形で識神との協調を再構成してゆくことが、我々の中国武術の目的です。

それがかなってゆくと、自然で、そっけないともいえるような無駄の無い動きが身についてきます。

ストン、となんでもないように動けるようになる。

見世物としては面白いものでは無いかもしれませんが、そこには枯山水や水墨画のような趣があります。

これが禅の武術、瞑想の武術の核心だと思っています。

扣打の文化

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少林寺には、有名な白衣殿の壁画という物がありますね。

僧たちが練拳している様を描いた歴史的資料です。

ここの描かれている姿を見ると、まさに蔡李佛拳はスタンダードな少林拳の直系だなあと思わされます。

この絵を見ると、姿勢は我々と同じでも、嵩山少林寺では開合を使っているのがうかがえもして、それをしない鉄線功がやはり南進してからのものなのかもしれないとも想像できます。

この絵の中に、扣打を行っているものがあります。

色黒の僧が、右手で相手を拿(掴む)していますね。

近代の拳法ではスタイリッシュに進化したのか、ひっかけるだけで露骨に掴まない技法がだいぶ進化したようですが、この相手をしっかりとらえる扣打は素朴にして実に強力な戦法です。

中国武術が動物の動作などを参考にしたことを考えても、抓力(掴む力)を用いることは自然なことだと思います。

我々の五獣の中でも、蛇や虎、豹、鶴などが相手をしっかりと捉えて捕食します。

このようなことを撲食と言います。中国武術ではよくこの言葉を使った技名を聞きます。

鶏撲食、熊撲、虎撲など。

この撲とはなぐるという意味ではなくて、中国語では「とらえる」と言う意味だそうです。

鶏がミミズを嘴でとらえる動作、熊や虎が手で獲物を捕まえる動作に技を例えたのだと思われます。

相手を捕まえることが攻撃のメジャーな手段であったことは、中国武術のシンボルである包拳礼にも表れています。

片方の手でもう片方の拳を包むあれですね。

あの動作には色々な意味があるのですが、反清複明運動以前は両手をそろえて差し出すことで、相手に対して無抵抗の意を示し、悪意があるならそのまま両手を掴まれてしまう姿勢を見せることで、敵意がないという誠意を現したものだという話があります。

少林系では半掌半拳ですが、道教系の武術だと両手を拳にして手首を合わせて差し出す礼も用いられています。

武術を学ぶことは、身体を通して哲学を実践してゆくことであると同時に、このような歴史的文化に触れてゆくことでもありますね。

このようなところにもまた現代格闘技とはまた違う、伝統の良さがあるように思います。

そのために私はいつも、自己流の再解釈武術と、代々直接に伝えられてきた伝統武術とは明確に区別するべきだと主張してまいりました。

自分が何をしているのかを知ることは、学びの第一歩だと思う次第です。

九月のチャリティ企画「肉体文化芸術祭」のご案内です

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 今回の共催団体の横浜カリ護身術練習サークルさんが、九月のチャリティ企画の専用ページを作ってくれました。

 https://sites.google.com/site/nikubunsai/home

 参加してパフォーマンスやワークショップをやってくださる方と、会場でスタッフをしてくださる方を募集しています。

 チャリティなので、我々も含めて参加する側が五円なり十円なり払って出る仕様ではあるのですが、ぜひに皆様のお力を貸してください。

 よろしくお願いいたします。

 

                                                          翆虎

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