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肩こりの真実

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換骨が進んで僧帽筋の凝りが緩和されてきてから、神道にコリが落ちていっています。

わかりやすく言うと心臓の高さの背中側くらいのところでしょうか。

こうなると、足の裏からまっすぐ上がってくる縦の軸と、横に広がる両腕の線が無駄なくつながる身体構造になります。

無駄がなくなれば、肩が凝りません。おかげで僧帽筋はずいぶん楽になりました。可動域はずいぶん広がって、両腕を高く上げて伸びをしてもとても楽です。

調子に乗って片腕を下から、片腕を上から回して背中で手をつなぐというテストをしてみたところ、これが痛い! いままで感じたことのないところに激痛が走って悲鳴が出ました。

結局、凝っていた場所が移動しただけで、日常生活での負荷自体は継続して存在しているわけです。

わかりやすく言うなら、ある物をもちあげるのに10の力が居るとして、それに対して無駄な力みがプラス3あったとします。

すると、3の分コリが発生します。

それが、体が変わったとして、10の物を10の力で持ち上げられるかと言うとそんなことはありません。

実際は、不意の拍子で何かあったりして落としたりしないように、保険でプラス2くらいの力は絶対に加えているものです。

そのために、2の分の余計な負担というのかかり続けます。

そんなわけで、確実に無駄な力は減ったのですが、だからと言ってそれによってすべての筋肉疲労が消えるというようなことはないわけです。

この、手で持つ負荷を体の内側で無駄なくまとめて、そのまま足の裏に落とすというのが、私たちのやっている体の遣い方においてはとても大事です。

それがつつがなく行われるために、筋肉や骨格を澄ませてゆくための訓練を日々しているのですが、いやいや、まだまだ修行が足りません。

日常生活には、稽古以上に多様な負荷の懸かるシチュエーションがあります。

とはいえ、稽古をして正しい体の遣い方を身につければ、ひどい凝りは必ず改善はされるのですけどね。


套路の打ち方

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何気なく、以前教わった表演ぽい套路の打ち方を試してみました。

そうしたら、以外に武術的な暗法の練功ができてびっくり。

世には套路は要らないという派もあるし、套路がメモ帳くらいのものでさほどに重視されていない門派もありますが、うちでは総合力を練るための方法としてやはり套路がとても重要だと再確認しました。

もちろん、ただ型をなぞるだけではなんの意味もないし、花法になってしまえばただの体操になってしまいます。

きちんと真法を知った上で目的意識を持って行うことで、套路は無限の効果をもたらしてくれます。

それはシェクスピアの戯曲のようです。個々人の風格や段階によらず、行うもののあり方が問われて、そして引き出されてゆきます。

中国思想におけるアラフォー

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カント先生の言う、感性的な人間、というのをマイケル・サンデル教授は「宙に投げ出されたビリヤードのボール」と例えました。

自分の欲求や自然の法則の奴隷として、それらの赴くままにしか動けず、理性的な自由を持っていないという状態です。

このボールの例えは非常に面白いものだと感じました。

なぜなら、重力のある限りボールは必ず放物線を描いて落下するからです。

つまり、運動エネルギーがいずれ尽きて、どんどん下に向かってゆくということです。

年月がたつほど、衰えてゆきつづけるということです。そのままだと停止するまで落ちて行き続けてゆきます。

この例えになぞらえるなら、理性的でない人間のピークは、おそらく恐ろしく早い段階にあるのではないでしょうか。

10代か、20代か30代、遅くても40代まででしょう。

それ以後は、もはや衰えてゆくのみとなる気がします。

これは人間の肉体の加齢というものから考えると当たり前かもしれませんが、すべての人間がこのようであるとは限りませんね。

容色が衰え、体力が落ちてゆくからと言って人間としてのあり方が落ちてゆくのだとしたら、それはあまりにもむなしく感じます。

孔子様は古代の段階で「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」と言っています。

その後、六十にして耳したがい、七十にして心の欲するところに従い矩をたがえず。と続きます。

この世代観は中国では根付いたもので、四十代から生き方が定まってきて、七十になって人間としての道を得て外れることがなくなった、という読み方がされます。

つまり、四十過ぎてからの三十年からが、人間としての成熟の時期に設定されているのです。

また孔子さまは、「四十にして悪まるるときはそれ終わらんのみ」とも言っています。

これは、四十代になっても筋道の分別がないなら、もうその人間は終わりだ、ということです。ここからも、孔子様にとっての四十というのが分水嶺であることがわかります。

これはまさに、カント先生の言う理性のない人間のことのようです。

ただ物理法則や我欲の奴隷なのか、それとも理性を持った魂として生きるのかで、その存在のあり方は大きく変わるものだと思います。

老いゆきながらの奴隷暮らしはさぞ苦しいことでしょう。

昨年の警視庁発表によると、高齢層者の犯罪率がいちじるしく増加したそうです。

私のまわりを見回すと、四十代になってから武道や格闘技を始める人が大変に多くおられます。

大量的な危機を感じて訓練を、というきっかけもあるのかもしれませんが、それのみならず、精神的な何かを求めている方が多くあるように思われます。

しかし、もしそれがただ、若さの残を求めてただ動ける自分をイメージしたいというだけのものだとしたら、そこにはあまり発展性が無い気がします。

十代や二十代のころとは違ったアプローチからの取り組み方ができないと、あまりやる甲斐がないのではないのではないかと思います。

中国の気功は、究極は不老不死を求めるものでした。

もちろん、そのようなことは実際には不可能だと思いますが、気功とそれを土台にした中国武術には、若さを保持し、かつ年齢に合わせた向上を促すメソッドが、古代から研究されています。

私の知っているもっともすごい先生の一人は、体は小柄ですが、四十から武術をはじめ、六十になっても私を軽く吹き飛ばす威力を持っています。

これは小手先の技によるものではありません。

肉体の内側を正確に鍛えることによって得られた成果なのです。

まだ若く、比較的大柄でベンチプレスでは140キロ超を上げる私でも、この先生の威力にはまだまだ及びません。

これは決して、特別な例ではありません。五十からが実力のピークだというのは、中国武術では当たり前のことです。

正しい練功を積めば、中国武術にはそれだけの成果を出せる学習体系が整備されています。

これはボクシングや空手には無い特色だと思います。

私自身も、総合格闘技などを30で引退してから功夫を始めました。よい先生方とも巡り合い、もう中年だと思っていた自分に、まだまだ引き出せていない伸びしろがたっぷりあったことを思い知らされました。

実際、西洋的トレーニングのしすぎで両ひざは半月板が摩耗してまともに歩くこことも困難、椎間板はヘルニアだった私の身体には、それらを補うための肉体改造がされました。

中国武術ではそのようにして付けた力を使います。おかげでベンチプレスではベルトやボディスーツ、グローヴなどの補助器具を付けたことは一度もありません。ノーギアです。

これは精神論やオカルト的な神秘の力などの成果ではありません。あくまで東洋式の負担の少ない肉体訓練の地道な成果です。

四十を過ぎてからの人生を、失速したボールとして過ごすのか、それとも更なる向上をしながら、精神的にも肉体的にもさらに充実してゆくのか。

後者が選べた私は幸いだと感じています。

ビリヤード・ボールと性エネルギー

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カント先生と東洋的人生観のお話の続きです。

カント先生は、「理性」に欠ける人間は、自然界の物理法則のみならず、自分の欲求に支配されている奴隷だと言いました。

この状態はもう少し穏当な表現としては、投げ出されたビリヤードのボールに例えられています。つまり、重力や運動エネルギー、空気抵抗や自分の欲求のベクトルをなぞるだけの存在ということですね。

そのような外部と内部に働く力に支配された状態を脱して自律するための方法として、東洋では行という概念が生まれた、ということまでを前回書きました。

その、行の内容について、今回は少し踏み込みたいと思います。

ビリヤードのボールを、自律した人間にするために必要な概念として、まず道(タオ)というものを我々は想定しています。または仏教では法と言います。

これは自然のあり方のようなものです。

おや、自然の法則に支配されるのでは、奴隷と同じなのでは? と思われるでしょうが、支配されるのではなく、のっとるのです。自然の法則にのっとるのと支配されるのではだいぶ違います。

自然という言葉を馬に置き換えてみましょう。

馬の動きに乗っているのと馬に支配されているのとでは大違いです。のっとっていると颯爽とした王子と言った感じですが、支配されているだと西部劇のリンチにかけられている人のようです。

タオと人が一体化することを、天人合一と言いますが、その天の道と人がつながるために重要視されているのが、性です。

動物には発情期があり、季節と性が密接につながっています。そして、季節の移り変わりとは、昼と夜の繰り返しの積み重ねです。そして昼夜の繰り返しは、いわば自然そのものの呼吸のようなものです。

人間は、自我が発達した代わりに自然の息吹と協調する感覚が衰えてしまいました。なのでいつでも発情できます。

つまり、自然の欲求と人間の意志が折半した折り合いの地点がこの性の部分にあります。

自然界が要求する性とは、生命を繁殖させて遺伝子を残してゆくという、あらゆる生命体の中核ともいえる部分です。

人間は、ある意味でそこを超越しえた存在なのです。

なので、ここをコントロールできれば自然に支配されることなく協調をしてゆく手がかりとなるわけです。

そのための手法が気功です。

我々蔡李佛拳は、チベット仏教の行の流れをくんでいるのですが、みなさんはチベットの交合仏というものをご覧になったことがありますでしょうか? 男女が性交をしている姿をかたどった仏像です。

男性には昼間を象徴する陽の気、女性には夜を象徴する陰の気が強いため、両者を合一して天地と合一しようという思想が表現されています。

その、繁殖に向かう性のエネルギーは、あふれだす命の力そのものです。

交合で調和をとるためには、性の力を健全化させなければなりません。そのための気功があります。

そして、良い子孫を残すための良い性の力を養うということは、心身を健康に保つということです。

なので、気功は健康と若さを保つ効果を持ちます。

一説に、西洋式の体育は、新陳代謝を活発にするために、細胞の入れ替わりが激しくなり、ときに老化を早めることがあるとも言います。ガンや白血病なども、その代謝の激しさがかえって劇症を呼ぶとも聞きます。

東洋式の気功では、そこを調節してゆきます。端的な負荷をかけて肉体を疲労させてゆくのではなく、内臓や体液を含めた全身の協調をはかってゆきます。

しかし、そのようにしてただ性的な健康さを維持するだけで止まってしまうわけではありません。

このままでは、まだビリヤードの玉の領域を抜け出しきってはいません。ただ運動エネルギーを長引かせているだけです。人間の本当の偉大さはこの後にあります。

性的エネルギーを支配下に置き、自然を操作できるようになったなら、今度は欲求の支配に移ることになります。

フロイト先生は、あらゆる人間の行動が、性的なエネルギーによってなされていると言っていますね。

これは、東洋思想の影響です。

つまり、性エネルギーを高く保つことができれば、今度はそのエネルギーを活用して、偉大な芸術を作ったり、誇り高い行いをするためのエネルギーとしてそれを遣うことができるのです。

この時に人はもう、ただ投げ出されたビリヤードの玉ではありません。自分の選んだ人生を歩む自律した存在です。

これが、仏教などの徳を重んじる教えが性エネルギーを土台としている理由です。

そのために、我々少林の流れを組む中国武術は、健身と自由な人生を送るための、命の行とされているのです。


護身術拳法と連消帯打

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なかなかにひどい動画を見つけてしまいました(笑)。
https://www.youtube.com/watch?v=oazzUd0T3DE
英語がわからないので詳細が分かりませんが、W拳の先生が蔡李佛との戦い方を説明しています。
まぁあまりにひどいのですが、二つ思ったところがありまして、まず一つ目は、この蔡李佛役の人がまるで蔡李佛ができていないことです。
一般に誤解されている、大振りのスイングしかしていない。
あれはそれを受け止めさせておいてから橋法に持ち込むためのとっかかりなのですが、なぜか自分からそれを仕掛けておいて単発で終わっています。
そのうえで、自分の側だけが橋法を駆使するという設定で講義が進んでゆきます。
このように、橋法で相手を捕まえておいて打つことを、連消帯打と言います。
洪拳にも蔡李佛にもある定番の戦い方です。動画にある、蔡李佛役の人がなんの意味もなく後ろに手を伸ばしているのが実はそれで、実際はあの手は相手の腕を抑えていて、そのうえでもう片手で打っているはずなのです。
そして蔡李佛ではそのまま体当たりや投げなどに持ってゆくことが盛んで、套路にもよく出てくるのですが、この動画ではそれは無いことになっています。
蔡李佛の戦い方は、巨大な鉄球が相手を踏み潰すと表現されますが、それをするために大ぶりの練習をしています。本命は踏み潰す方です。一般に公開されている動画などでも、基礎の練功でまず膀打(上腕、肩での発勁)から学ぶ様子を観ることができます。
解釈するに、そこに持ち込まれる前に、相手の槌(手による打撃)を捕まえて行って有利な形で橋法に持ち込むや、そのまま押し切ってしまいなさいよ、ということなのかもしれませんが、そこでもう一つの問題点を感じます。
他流試合での蔡李佛の勝ちパターンとして、相手がブロックしたけどそのまま浸透して利かせてしまって勝つ、というものがあることです。
これは、ブルース・リーが蔡李佛に敗北したときのパターンで「蔡李佛の打撃は受けても止められない」と書簡に残しています。
これは発勁の特徴で、瞬間的に爆発する短勁ではなく、威力が継続する長勁であるためです。
この勁は相手が受け止めたところからそのままブルドーザーで轢いてゆくような勁です。相手を掃うように用いるため、掃槌という攻撃が代表技としてあるくらいです。
これに対して防御で受け止めろというのは、マイク・タイソンが猛攻してくるのに対して、ブロックで耐えろと言うのに似ています。
ではなぜ、この動画の先生はこのようなHOWTOテクニックをアップしてしまったのでしょうか。普通、こうすればムエタイが倒せる、とか、相撲はこうやってやっつけよう! というような動画を、武術や格闘技の先生は作ってあげたりはしません。
実はこの理由に関しては思い当たるところがあります。
それは、W拳が護身術であるからです。
もともと、開祖伝説において、少林拳を力の弱い人間が遣えるように護身術化したという物があり、実際に武術家ではなくて京劇役者の護身術として伝えられてきたという敬意があるように、一生を捧げて極めるという物ではなく、とっさの時に自分の身を護ることが重視されて来た、というのがこの拳の本質だと思われます。
現在でも、CAの護身術や女性や子供の即効性の高い防身術として知られています。
この即効性というのは護身術の重要なコンセプトでしょう。十年もかけて初めて遣えるようになることを目指す門派とは趣を異にします。
そのような護身術の特徴としては、洋の東西を見回しても「こうされたらこうする」というひな形の存在があります。
これは日本の合気道の護身術でも、海外のセルフ・ディフェンスでも同じです。
フルコンタクト・カラテやグレーシー柔術のような、武道でもありスポーツ競技にもなり、護身術も行うという物では、このケース・スタディの部を「護身術」と別カテゴリーに分けて練習したりもするくらいです。
W拳は、そのようなこう来られたら相手の手を叩き落として片手で打つ、とか、この角度ならこうしゃくりあげて片手で打つ、というような連消帯打技法の集大成のような拳法です。
特に古伝の大陸系の物では、どの角度に対してどの手法で対応するかが厳密に教伝されていると聞きます。
香港にわたって各派の古伝のW拳がミックスされてからは、独自の橋法である黐手が大いに発展し、自由度が高まって格闘性が高まったと言います。
この黐手というのは、太極拳の推手のような、手を触れ合わせたままの状態を長目に維持する独自の橋法です。
もちろん、対多数や多数対多数の戦いではこのような手法はあまり用いられないので、まず身を護ることが大切だという護身術というルーツがありきでの戦闘スタイルと言えると思います。
相打ち重視や猛攻ありきの拳法とは一線を画しますね。
そして、このタイプの護身術系武術はどうしても、相手がこう来たらこうする、というひな形がスタートにあるため、相手が猛烈に早くて対応できない、とか、死角からの不意打ちである、とか、圧倒的に力が強くて最初の段階でやられてしまう、などのケースに対する想定が薄くなりがちです。
背中から拳銃を突き付けられたらどうする、という練習はたくさんしていますが、背中から拳銃を打たれる可能性はちょっと置いておいてしまう傾向が強くなりがちだと思います。
ボクサーのジャブを見てから避けて反撃をするとか、力士の鯖折りを掛けられてからほどく、というようなことはちょっと現実的でないと思います。
どうしても、後手に回ってから勝てる相手限定という方向に技術が発展していってしまう、というのが護身術系武術の特徴になると感じています。
なので、私自身が元ボディガードの仕事として護身術を指導するときには、接触に至るまでの対策を重視しています。
手首をつかまれてから関節技を掛けるよりも、つかまれないうちに逃げられたらそちらの方がよいですからね。
ちなみに蔡李佛拳は兵士のための武術なので、前提として訓練をしていない弱い人間が学ぶという想定がありません。
 そのため、欧米では女性にも人気があるそうですが、護身術というよりはフィットネスとしてだそうです。
内功で肉体を鍛えるところから始まるのが蔡李佛ですから。
決してなんの備えもなく闇雲にただ腕を振り回す拳法ではないので、決して誤解しないでくださいね(笑)。

技撃

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 さて、前回W拳について書いたので、すこしそこかの話を延長てみたいと思います。

 大陸のW拳の護身術性の高さが変化して、香港のW拳はかなり格闘技性が強くなったと言われています。

 武術家同士の腕試しの試合で使われるようになったということです。そのようなことを技撃と言います。

 W拳は元が護身術であるために速習性が高く、若い層に人気があったと言います。その中の一人がブルース・リーでした。

 しかしブルースはある時、仕合の相手が攻めてこなかったために攻撃を当てることが出来ず、W拳に大きく改変を加えることを考えたと言います。

 護身術なのですから、本来は襲ってくる相手とだけ戦うはずなのですが、強くなりたいと思ってしまうと自分から攻撃を仕掛ける要素を求めていってしまうのですね。

 十年W拳をやった人が「これは戦うための物ではなくて身を護るためのものだ」と言っていましたが、それは私のような伝統主義者からすると、大変に正しく感じます。そもそもの体系のコンセプトを否定することは、本質の否定につながる気がします。

 香港に渡った直後のW拳の技撃での強さも、相手が新参者を倒してやろう攻撃的だったところがプラスに働いた部分もあったのではないでしょうか。そのような場合に、カウンター戦法に特化していることは有益であるように思います。

 それからもう一つ。

 一般に、技撃性の高いと言われている拳法は、あまり備わっていないことが多い傾向があるようです。

 I拳などもそうですが、徒手のウェイトが多いほど、剣も刀も槍も棍も奇門兵器も暗器も治療法も、と全般に備わっている門派と腕試しをするときは有利になりえると思います。

 福建で恐れられている技撃の強い拳法も、兵器の多くは失伝しているのだと聞きました。

 一つのことに専心しているというのは、それだけ強いのです。これは功夫を重んじる中国武術らしい答えなのではないでしょうか。

 さて、我らが蔡李佛はと言うと、これが大変に広範囲的に備わっていることで知られているにも関わらず、同時に技撃でも知られていました。

 これは非常に面白い傾向です。

 蔡李佛には、この門は有名なのはあの人、というような腕自慢の名人をあまり聞きません。

 李家拳の李友山や洪拳の黄飛鴻のような代表的チャンピオンではなく、全体になんとなくそれなりに強い、という感じです。

 ここが私は大変に気に入ったところです。

 実ははじめ、蔡李佛を薦められたときは、あんな格闘技みたいな武術はやりたくないと思っていました。それまでに総合格闘技をさんざんやっていたため、もっと伝統武術らしいことがしたかったのです。

 しかし、それは誤解だとすぐにわかりました。

 一見格闘技まがいのようでいて、実は真逆でした。伝統的な身体操法を、誰にでも分かりやすく体得できるメソッドがあったために、誰でもがなんとなくそれなりに形になる、というのが特徴だったのです。

 オンリーワンの、神秘的なまでの超人になることはありません。

 でも、みんながそれぞれに確実に向上する、というのが、ある意味ではこの学問の一番の素晴らしさなのではないかと思っています。

 結果として技撃もいくらかは強くなりますが、それは決して目的ではありません。

 気持ちよくて結果として自己向上が出来るということが、何より私の好きな部分です。

徒手と兵器

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 前の書き込みで、蔡李佛は兵器も沢山あるしいろいろな伝統武術としての要素が備わっている、とのことを書きましたので、今回はそのあたりのことを書かせていただきます。

 蔡李佛がそれだけ徒手とは別のことをしていながら、なぜ技撃、散打でも一定の強さを持っているのか、ということに関する私的な見解があるのですが、それはずばり、タマタマだと思います。

 いや、違います。そういうことを言ってはいけませんね。おそらくそれは、兵器と徒手がほとんど同じだからなのではないのかと思うのです。

 例えばうちでは双刀を行いますが、これは左右の手にそれぞれ一振りづつ刀を持つものなので、ほとんど徒手と変わりません。

 また、棍に関してもそのような特徴があります。

 それが握りの部分に現れています。

 私がかつて学んだ六尺棒や杖を使う武術では、握り方は基本、バットや農具を握るようなものでした。刀と同様と言った方が分かりやすいでしょうか。つまり、前の手の小指と、後ろの手の親指が並んでいるグリップです。

 それに対して、我々の棍のベーシックな握りは、自転車のハンドルを持つような状態、親指と親指が並んでいる状態です。ベンチプレスのバーを握るときのような感じです。

 つまり、先端を振り出すときは基本、逆手打ちになります。

 これは生理的な見方をすると大変に不自然な感じがします。

 しかし、そのような棍の使い方から棍を抜き取ると、拳法とまったく同じです。

 身体の前に構える姿はムエタイなどのオーソドックス・スタンスとほぼ同じですし、横からの振りはフックやストレート系の動き、上や下からの振りは打ちおろしやボディ打ちと同様の動きです。

 つまり、これは棍棒を持って負荷を掛けながら拳法の練習を兼ねており、また拳法を練習してればそのまま棍も使えるということなのです。

 この学習のカリキュラムの整理のされ方が、非常にコンセプチュアルで分かりやすいと思います。

 このような特徴は南派(というか洪門武術)の特徴かもしれません。

 技の名前も、徒手の時は抛槌と呼ばれる技を根を持ってやれば抛棍、掃槌で武器を持てば掃棍です。そのまんまです。

 青龍探海とか、覇王観陣とか、満天花雨というような名前ではありません。

 このあたり、やはり反清復明革命の時期に、まったく未経験の男性や女性を練兵するときに練られたシステムなのだろうなあと感じる物です。

4/17 用法特集の感想

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 今回の関内ワークショップ「用法特集」は、電車も止まる悪天候の中でした。

 結果、普段から来てくれる学生さんの稽古になりました。

 用法の特集ということで、普段単練でしていることの対練(組み稽古)になったのですが、ここでそれぞれがもっている套路の技などの確認になったと思います。

 平素、とにかく数をこなして稽古している看板技の一つ、插槌という物がありますが、これは拳を豹拳という指人関節分長く伸ばした拳を使います。これで人と組んで稽古をすると、思ったより間合いが遠くまで届くようになるので、予想外に当たってしまうということなどが確認できました。

“一寸長一寸強(一寸長いは一寸強い)”という言葉がありますが、まさにその通りです。

 中国武術は、用法がよく分からないということが聞かれますが、今回の内容はその解析が体で確認できるものだったと思います。

 套路に出てくるあの動きもこの動きも使える。それも、こう使えるのだ、というのが自然に出てきました。

 それが連消帯打という概念に至るのですが、それはまた稿を改めて書き直したいと思います。

 次の関内ワークショップは5月15日です。よろしくお願いします。


五月関内ワークショップのお知らせ

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 5月の関内ワークショップは、15日の日曜日にいつものフレンドダンス教室さんで、18時より行います。

 特集は「バタフライ」特集です。

練消帯打対練

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この間のWSで行った練習に、連消帯打の対打があります。

連消帯打は、一つの動作で攻撃と防御を同時に行う物で、攻撃一つにしても打、摔(投げ)、拿(関節技)を平行して行う物で、いわば王手飛車取り的な物になります。

これを自由対打で行うことを別名短打練法とも言います。

方法はいろいろあるのですが、いま行っている物の一つとしては、まず片方が相手に掴打を行います。

以前に書いたこともありますが、蔡李佛でよく見る、攻撃を行うときに後ろに引いている方の手の用法です。陽である打ち手に対して、陰である引いている手で相手を抑えたり、引き崩したりしておいて打つのです。これを蔡李佛では拿と言います。十字訣の一つで大切な特色です。

これに対して、打たれたほうは可能であるなら防御しつつ、掴まれた手をほどきます。このほどくことを解禽と言います。

こうしてまず相手に重心をコントロールされている姿勢を取り返すのですが、そのままでは芸がありません。すかさず掴み返して自分の優位な体制に切り返して、今度は打ち返します。

するとさらに相手がまたそれを解禽して打ち返す、という繰り返しになります。

なれてくれば、掴まれたままそこを活用して崩しておいて最後に掴み返したり、またただその場の優位を争うのではなくて、将棋のように数手先を読んでどんどん相手が返しづらい状況に詰めてゆくという練習ができるようになります。

武侠小説の腕比べのシーンでよく見る、数手に渡っての攻防でしだいに片方が追い詰められて行き、やがて破たんが生じてきて手詰まりになる、というのはこういうやり取りをしているのだと思われます。

このような連消帯打の対練は、他門では秘宗門などで行っているのを観たことがあります。

また、有名なのは鷹爪門で、相手を掴んでコントロールする力を特に重視しているのだと言います。

確かにこの練功法をしていると、相手の中心に力を伝えて取り押さえる力が養われてくるようです。

この力を、把力や抓力などと言うようです。

これらを使う鷹爪の手法は南派拳法ではよく見られるもので、普遍的に用いられているようです。

ただ、なぜかうちでは鷹爪という言葉がなく、これも虎爪に含まれれているという謎があります。五獣に龍が無いことも含めて、女真族の象徴である鷹を避けたのかもしれません。

スパーリングのようなことはうちでは必須ではありませんが、このように自由に動きながらかつ内勁を練って行ける練功法は、大変に徳のあるものだと思います。

套路の技が使えるのかとか、どう使うのかという悩みなども、自然に繰り出せるようになることで解消される優れた練習だと思います。

ちなみにうちの場合、このように組んでいても手管で相手をどうこうするのではなく、いつも通りよくもわるくも勁力で無理やり利かせてゆきます。

なので、終わると内部が大変に疲れて鍛えられます。


抓力と勁力

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中国武術と掴みについてのお話の続きです。

強い抓力で掴まれると、そのまま下に押しつぶされてしまうことがあります。

これは、勁力を内側に利かされて重心をとられてしまうからです。

この時、もちろん勁力は大切なのですが、同時に手の皮膚感覚が必要になっているようです。

このような力を一部の日本武道では小手力などと呼ぶようです。

なんだか小手先の力のようですが、決して弱い物ではありません。剣などを使うには手の内が大事という通り、これは非常に重要な物です。

この力の出どころは前腕にあると思われます。決して指単体の力ではないはずです。

勁力を使うと、その場所の肉がぬるぬると拡張します。これを膜騰起と呼んでいますが、これは経絡に勁が通っている状態だという解釈があります。全身をこれで覆うことが我々の武術の要領で、練功法ではその部分を特に重視します。

前腕はこの膜の伸びる感覚が特に強いところであるため、勁力を獲得するためには小手の力を練るのは重要に感じます。

前腕と掌の勁力を使った技法にいわゆる鷹爪や虎爪があります。鷹爪では指先で相手をひっかけて捕まえる力、虎爪では掌で相手にダメージを与える用法があります。

この鷹爪を活用した方法で聞くのが、断脈や截脈と言われる技術です。

私自身はそのようなことは習ったことはありませんが、体の経絡を抑えることで力が出ないようにしてしまったり、時には酸欠を起こさせたりする物だそうです。

そこまでは行かなくても、鷹爪で脈をとられると手を振りほどくことが難しくなります。

そうやって捕獲された状態で打たれると、ダメージが大きいですし、そのまま打とうとしたときに重心に圧を加えられると威力を出すことが難しくなります。

そのような掴んでの戦闘法を、蔡李佛では拿字訣として重んじています。少林では引き手は皮肉を掴みただでは戻らない、などと言われているそうです。

この拿をされた時に、もし掴まれたところが手首であるなら、自分も小手の勁力(抓力)を出すことが有効です。

こうすると、手首の膜が膨らんで張り、内側を捉える相手の勁力に反発することが出来ます。そのために解禽がしやすくなります。

またこの時のための練功法が世の中にはあり、縄でこすったり、掴んでもらってぎゅうぎゅうひねらせたりします。いわゆる雑巾しぼりです。

通常の連消帯打の対打の時も、抓力と解禽の攻防の繰り返しですので、必然的に同様の効果が少しづつ積まれてゆきます。

なので終わった後、しばしば手首が赤く腫れあがります。

こうして太く成長した前腕は中国武術甲では功夫のシンボルとみなされており、上腕ではなく前腕がポパイのような腕をしているのが威力の証とみられています。

拿と割と撑、拍

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前の記事で、掴まれたら抓力を働かせると書きました。

そのあとどうするかと言うと、基本はすべての動きのベース、掃か掛の動作で振り、相手を逆に崩しながら虎口より尺骨か橈骨を抜き、そのままの動きで掃槌か掛槌を打ち返してゆきます。

もし武侠小説のように脈を取られていて前腕が抜けなければ、橋法を使います。

オーソドックスなのは架橋と言って腕を上にあげて解く方法です。

あるいは、下に落とす截橋。または相手の方に肘を打ち込むようにしてゆく攻橋。

蛇形手の穿橋を使って解きながら相手を捕まえることが出来たらそれもよい手です。

逆の手を使うのなら、割橋といって手をナイフのように使って掴みを切る方法か、相手の脈を撑掌で撃ち落とす拍(パック)なども多用します。

撑掌の拍は套路の中でも多用される動作で、そこから自分が拿をして槌につなげるというのは、初級から学ぶ蔡李佛の基礎戦法だと言ってもよいと思います。

前述したいくつもの手法の中で見ると、拍はいかにも単純な技のように思えますが、侮ってはいけません。

この拍は、重勁がよく働いていないと強い抓力を解禽できないことがあります。ここでもやはり功夫の勝負となるのです。

ある先生は、どんな攻撃がきてもひたすら拍で撃墜していました。

打たれた相手の腕は勁力で吹き飛ばされ、体ごと崩されていました。

手練手管で腕を抜くのではなく、やはり勁力に物を言わせてゆくという思想が蔡李佛です。


バタフライ

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「真実は、愚か者しか傷つけない」

 これは格闘家のカール・ゴッチさんの言葉です。

 ゴッチ氏はプロレス界で活躍し、ドイツ人らしいということでナチの設定などで暮らしを立てていたそうですが、その方やでは競技化以前の武術としてのレスリングを追及していた人です。

 そのためか、決してショービジネスの世界で大成はしなかったようですが、知る人ぞ知る実力の持ち主として一目置かれていたと聞きます。

 武術への追及の結果か、東洋哲学などの造詣も深かったようですが、冒頭にあげた言葉に関しては疑問があります。

 愚か者でなかろうと、真実に傷つくことはあるはずです。

 おそらくは、傷つくことを恐れて真実を離れる者が愚か者なのだと言うことが言いたかったのではないでしょうか。

 我々がカンフーを通じて学ぶ東洋思想では、人を毒する三つの要素として「貪り、怒り、愚か」がお釈迦さまの教えとして挙げられています。

 真実に目を向けないことは、愚かであると同時に、欺瞞の貪りであり、その根源には怒りがあるかもしれません。

 実際に起きていないことを作り上げて自分を粉飾し、その中に閉じこもることを妄想と言います。

 たまたま近所のお寺の前を通ったとき、「仏教とは、自分に都合のいい人生を送りたいという夢から目を覚ませと教える宗教です」との書が掲げられてありました。

 大変に直接的で鋭い筆致に驚きましたが、頷かされるものでした。

 人間、自分に都合のいいことばかりを起こす魔法は使えません。誰しもつまづいたり飢えたり不足を感じたりするものです。時に雨に濡れたりすることもあります。

 そのような出来事を、自分に限っては起きないようにすることは、どんな人間にでも決してできません。

 その事実を受け入れて地に足を付けるところから始めると、実は大地は思ったより広がっており、行こうと思えば思ってもいなかったところまでつながったりしています。

 しかし、魔法を使おうとする人々が沢山います。

 スピリチュアルの人たちの一部や、オカルト思想におぼれる人たちがそれでしょう。

 自分の力で出来ることひとつづつしてゆくのではなく、自分をだまして事実を捻じ曲げて人生を粉飾して乗り切ろうと言う人々です。

 これは非常にさみしいことだと思います。

 自分に嘘をついてしまえば、その方向でできる努力を辞めてしまいます。

 そうすれば、よけいに欠落は広がってゆき、問題は深刻化して行ってしまいます。

 それよりは、事実をありのままに受け入れ、ただ淡々と手を打ったほうが自分のためになります。

失敗をしたら謝って次に備えればいい。勘違いをしていたらごまかさずにきちんと学んで、次に人に話すときには「実は自分もずっと勘違いしてたんだけど」とエピソード・トークにしてしまえばいい。

これが出来ずに大声を上げて押し切ってしまった人は、ただ恥ずかしい人間だという印象を人に与えるだけす。

そうなると、いまひとつ最後のところで信頼出来ない人間だと思われてしまい、いざという時に取り返しのつかないことになりえます。

どうしても家族のためにお金が要り用な時に、他人が信じてくれなくてお金を貸してくれないかもしれない。

自分のためではなくて、社会正義のために動いたときに誰も相手にしてくれないかもしれない。

その時になってからではもう遅いのです。

これを、中国では信の徳と呼んで大切な物の一つに数えています。

他人に動いてもらうために信頼を築いておくなんて、そんなのただの功利主義にすぎないじゃないかと言われるかもしれませんが、中国思想は基本、功利主義です。非常に現実的なものです。

徳というのも、日本で一般に言われるようなモラルではなく、タオの思想において自然の法則にのっとっているという意味のことを言います。

大柄で力がある代わりに目立ってしまう虎が縞模様で擬態をしてをしているのも徳、手も足も無い蛇が牙に毒を持っているのも徳です。

それらと同じように、誠実で、信頼を得ているというのは、存分に実用的な徳なのです。

もしかしたら、それらはたまたま誰にも通じないという環境もあるかもしれません。いわれのない偏見や周囲の無理解で、どれだけ誠を口にしても誰にも信じてもらえないかもしれません。

でも、自分はそれを知っています。

もし、常に嘘をついて自分を飾ってごまかして生きるのが当たり前になっていれば、必ずや何が真実なのかわからなくなります。

本当に自分に誠意を尽くしてくれる人のことも信頼できなくて、さし伸ばされた手を取ることが出来ないかもしれない。

そのようなことにならないためにも、本当のことをきちんと見てゆくべきです。

人生を生き切ったときに、自分は本当の人生を生きたと思うために。

いま、また震災が起きて熊本では大変なことになっています。

日本を救いたいと国会議事堂前でデモをしていた皆さんは、被災地にむかっているところでしょうか。

日本死ねと言われた方は、日本が大打撃を受けて満足されていることでしょうか。

うかつな言葉に自らを託してしまうこともまた偽りです。

日々一つがた、出来る限りに自分の行動に思慮を巡らせて、その結果が自分自身を苦しめることが無いか考えることこそが知恵だと思います。

このようなことを因果と言います。

宇宙意志だとかシークレット・コードだとか陰謀論だとか、とりとめのない物のことを考えている場合ではありません。

自分自身の行動一つ一つが、すべてダイレクトに自分のまわりに影響を及ぼしているという現実をもっと見つめて、当たり前に行動を選択することで、日々はもっと簡潔によくなります。

天に仁なし。と荘子は言いました。

天に導きなどないという意味です。

そこにはただ道があるだけであり、そこに立って歩むのは自分自身です。

その道のりだけが自分の命のすべてです。

そこまでしてもなお、荘子は、人生は胡蝶の夢だと言いました。

それでも自分自身を生き切る。その命だけは本物です。

自ら夢を見て寝言を言っていれば、蝶の夢が覚めるときに後悔しかのこらないのではないでしょうか。

学びと段階

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 最近、連消帯打によく取り組んでいるのですが、これは我々が活動を始めて、だいぶ発勁と練功についてはやってきたからです。

 昔読んだ本に書かれていたのですが、南派と北派では初学の内容と奥伝の内容が逆転していることが多いのだそうです。

 この、発勁と連消帯打に関してはそこの部分なのかなあ、と私は思っています。

 うちでは発勁を基礎の段階から初めていくのですが、連消帯打は上級技法なのです。

 まずは体ごとぶっ飛ばす威力を養っておいてから、相手を掴んでぶん殴る練習をする、という流れです。

 これは、我々の鴻勝蔡李佛が太平天国革命の調練拳法だったためだと思います。方陣を組んで合戦をしている中では、不特定多数の群れに向かってまず押し込んでゆく威力が必要で、特定の相手と取り組む技術というのは後回しになっているのだと思われます。

 おそらく、普通の拳法ではまず一対一の戦い方をしっかり練習してから強い発勁で威力をましてゆくということが多いのではないかと思います。

 うちのカリキュラムだと、攻防技術を学ぶころには威力が上がっていることが想定されます。

 そのために、戦い方の技術が強い威力を前提にしています。

 なので相手をガードごとぶっ飛ばす手法が多く用いられるのですが、面白いのは相手もまた、自分よりさらに強いことが想定されていることです。

 前回まで書いてきた解擒から拿をし返して連消帯打してゆくという自由対打だと、最後の撃つところはそんなにまぁ意味は薄く、難しいのは解擒の部分になります。

 相手が鷹爪功などの強い抓力を持っていた場合、力でそれをもぎ取るのは難しくなると思われます。

 我々には鉄線功があるので、それを活用して対策してゆくのですが、おそらくそれでも抓力の専門家の前では時に、内側に力を通されて足元につぶされてしまうことかと思われます。

 なので、力に力で対抗するのではなく、相手の抓力の方向を感じ取って、その隙間から逃げるという感覚を学んでゆくことになります。

 しかし、どうも人間はいきなり強い力で掴まれるととっさに逆方向に引っ張ってしまおうとするようです。

 抓力というのはフックと同じで、働いている方向に反作用することで捕まえる力なので、そのような反応をするほどがっちりと捕まえられてしまいます。

 力の方向を読み、流すにはかなりの理性の力が必要になります。

 本能と理性、我々の考え方で言うと元神と識神です。

 原則、身体開発は元神の可能性を引き出すことで行っているのですが、元神には非常に騙されやすいとか、混乱しやすいという特徴があります。

 虫が習性的に炎に飛び込んでしまったりする奴です。

 ある種の鳥は群れで大木に宿るのだそうですが、そこに向かって鳥撃ち銃を撃つと、その音で群れは飛び立つそうです。

 そしてその木のそばにある別の大木に今度は宿るのだと言います。

 そこを狙ってまた撃つと、生き残った鳥たちはまた飛び立って、元の木に戻るのだと聞いたことがあります。

 この繰り返しで、猟師はまるまる一群れを収穫できるのだそうです。

 そのように、危険な反復活動をしてしまうところが本能にはありますので、掴まれて反射的に自分の手を引き抜こうとしてしまった人は、それが失敗に終わったと分かるや否や、また同じことをします。

 延々何度も引っ張っては失敗ということを繰り返してはまっていってしまうのです。

 このパニック状態から自分を救うのに、識神が要ります。

 自分を慌てさせず、落ち着かせるのに一つ。力の方向を分析するのに一つ。そこから適切な方向に体を逃がしてゆくことが一つ。

 とっさの計算が必要です。

 これが実は、我々の拳法に取って非常に必要なことだと思っています。

 正しい方法を行っているかどうか、というのが、目に見えてわかるからです。

 感情に流されて動揺したり一つの方法を繰り返してしまったり、迷いであり、執着です。

 そのような感情の暴走を抑えて、ただ感じ、適切にふるまうことだけにします。

 水の流れのように、しかるべきようにただあれるように。

 自分の落とし込まれた環境へのぶつからない適応です。これがタオの言う徳であり、仏法での法を身体で学ぶためのよい方法であるのだと思います。


 4月29日、文京総合体育館にて15時よりワークショップがあります。今回お話しているようなことをぜひ体験にいらしていただけたらと思います。

 http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12144128443.html

お知らせとお願い

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 お知らせとお願いです。

 毎年、横浜市にて源流団体である日本鴻勝館と大口地区センターさん主催の表演会を秋に開いていますが、今年は日本鴻勝館では行いません。
 今回は、私たち、サウス・マーシャル・アーツ・クラブで熊本、大分の被災者の皆さんへのチャリティ演武を企画しています。
 つきましては、演武、パフォーマンス、デモンストレーションなどをしてくださる方、および会場スタッフなどをしてくださる方を求めています。...
 もし、やってもいいとおっしゃる方がいらっしゃったら、ぜひご一報ください。
 また、会場の確保や広報などでお力添えをいただける方やそれらが可能な方を紹介してくださるかたなどもお待ちしております。
 この記事のシェアなどもしていただけると助かります。
 よろしくお願いいたします。


平素、我々の蔡李佛拳は護身術ではなく、ライフスタイルであると繰り返してきました。

また、タオイズムの思想や仏教の法の具現化でもあると。

たくさんの人が困っているこのような時に、行動に出なければこれらを言っている甲斐がありません。

しかし、正直少ない稼ぎから一万円札を送ったところでたかがしれていますし、それ以上に送るのも苦しいところです。

そのために皆さんのお力をお借りすることにいたしました。元手を膨らませて、少しでも多くを被災地に送りたいと思っています。

もちろん、私たちの利益は発生しません。みんなで可能な分のお金を少しづつ持ち寄って届けます。

募金だけでなく、手伝ってやろうでも、見に行ってやろうでも、拡散してやろうでも感謝の至りであります。



                                                         拝 翆虎


陰陽思想から観たバットマンVSスーパーマン

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 先日、楽しみにしていた映画「バットマンVSスーパーマン」を見ました。

 ちょっとネタバレになってしまいますが、感想を書いてみたいと思います。

 劇中、スーパーマンの最初の活躍は、将軍と呼ばれる武力活動家から、人質に取られた新聞記者、ロイス・レーンを救出するエピソードになります。

 救出と言っても、事情がやむないためにはなるのですが、明確に暴力による解決だとは受け取れました。

 続くシーンでは、救われたロイスが、入浴しながら葛藤しています。

 そもそも彼女は公正な立場から将軍にインタビューをしに行ったはずなのですが、結果的には是非を混交させてしまい、さらにはスーパーマンの武力解決が強行されたため、ちっとも是非の解明ではなくなってしまっているためです。

 そこに、恋人であるクラーク・ケントが入ってきます。

 彼がスーパーマンであることはみなさんご存知ですね。

 ロイスは記者としての倫理についてクラークに打ち明けるのですが、善悪をめぐるこの会話は結論も仮設も出ず、そのまま二人の別れ話を経由して性交に及んでしまいます。

 映画というのは、出だしのモチーフが重複して語られると言われます。「これはこういう映画ですよ」というのがまず象徴的に出されるわけですね。

 この一連の流れは、まさにこの映画全体を暗示しています。

 善悪が判別しきれないテロリストとスーパーマンが戦うというのは、バットマンとの戦闘を象徴しています。

 現行最新の映画版バットマンのシリーズは「バットマン・ビギンズ」から始まり「ダークナイト・ライジング」に至るクリスチャン・ベール主演のシリーズとなりますが、この作中、バットマンはテロリストと位置づけられています。

 両親の死によって荒れていたころ、ヒマラヤ山中にある過激派小乗仏教的集団のテロリスト・グループによって訓練を受けたという設定です。

 この訓練において、バットマンは五獣の拳法を使っており、またあのコスチュームの動きづらさもあってなのでしょうが、非常にカンフー的な動きをその後も使っています。

 このシリーズで、バットマンはテログループのリーダーの弟子とみなされており、彼がダーク・ナイトとなったのも、その思想の流れを汲んでいるためであることがうかがえます。

 太平天国や白蓮教的な感じもします。

 作中、正義のために活動をしながらも警察に追われる立場のバットマンは、強行的に自分の正義を実行するある種のテロリストです。

 対して、アメリカの正義の象徴であったスーパーマンですが、彼は地球人以上の存在の世界から人間の世界に降りてきた救世主、という意味で、非常にプロテスタントのキリスト教的なヒーローです。

このタイプの正義は現在、俗にいう第三世界の活動に対する理解が深まっていった結果、揺らいでいるのが現状だ、というお話ですね。

 タイトルどおり、バットマンとスーパーマンは対立から交戦に至るのですが、この対立はやはり、ある女性の介入によって小休止となります。

 さらに、そこにロイスが現れて本格的に終了します。

 その後、二人は力を合わせてスーパーマンのダークサイドともいえる強力な存在と戦うことになるのですが、この戦いにも強力な女性が介入してきます。

 これが、まさに陰陽思想的な物の見方の部分だと思います。

 男性の論理では正義をめぐる対立が常に起きるのですが、それを緩和する女性の論理、母性論理が存在する。これを合一するのが陰陽思想です。

古代ヨーロッパでは女神信仰を中核とした母系社会が点在していたという説があります。

しかし、ローマ帝国以降のキリスト教の伝来により、それらの文化は塗りつぶされ、魔女思想に変化していったとのことです。

ですが、父性論理でできていたキリスト教からは、マリア信仰が現れて土着化してゆきました。

やはり、自然に人間は、男性的な法だけでなく、女性の感覚を規範とした神聖さを求めるものなのです。

仏教における交合物や、明らかに女性的な肉体をした仏像などはその要素の表れだと思われます。

男性的なマッチョな論理が煮詰まったとき、そのまま闘争に至るのはある種の必然です。そこに水を差すように女性性が介入してこそ、バランスが取れる、というのが東洋的、陰陽思想の物の見方です。

そういう意味でこの映画、さすがに二者の対立を描いただけあって、実に陰陽的なものだと思いました。

4・29 文京区ワークショップの感想

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 SMAC、久しぶりの東京再上陸いたしました。

 ワークショップのためか、今回も様々な流派や経歴のみなさんが来てくださいました。

 面白かったのは、私が平素から言っている「腕は肩ではなくて、肩甲骨までだと思ってください」とか「足はお尻までが足だと思ってください」と言うのが、解剖学的には実際に正しいというのが分かったこと。

 足の裏から頭頂までの縦の軸と、両腕を繋いだ左右の線を繋ぐという勁の人体感の裏打ちが取れたことは、大きな収穫です。

 このシンプルに体内を観たてる鉄線功の概念を前半行ったのですが、みなさんにとっても目新しかった様子で、ちょっと困りながらもいろいろ工夫してやってくれているのを見て、やはりこのうねったり溜めたりしない独特の南派の勁は、今後も公開して広めてゆきたいなと感じました。

 後半は連消帯打の自由対打を行ったのですが、これも慣れるまではややこしいものなので、みなさんはじめは戸惑っていたようですが、次第に後ろの死角から掃槌を打ってゆくという基礎の戦法に自然になってゆくのも面白かったです。

 決まった練功をしていると、きちんとその形になってゆくというパッケージングのされ方が改めて確認できました。

 面白かったのは、いつも関内のWSに来てくれているひょろひょろの常連さんのグッジョブぶりでした。

 普段は同じくらいのキャリアで体格に優った人とばかりやっているので気づかなかったようなのですが、今回違う体の使い方をする鍛えられたみなさんと組むと、自分の内側の勁力が如実に感じられたようです。

 もともとの体格が細くても、純粋に功夫で渡り合えるという景色は、見ていてもすがすがしいものでした。

 普段と違う人と練習をすると、いろいろ得るものがあるのだなあと思いました。

 

えげつない

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ここのところのWSのいくつかで、面白く中国武術の良さ、そして私たちのコンセプトを伝えられる方法として、連消帯打の自由対打をよくしています。

ある時、これをしていたところ「これって結構えげつない練習方法なんじゃないの?」という声が聞こえてきました。

いわれてみればそうです。

まず第一に、戦術がえげつない。

一般的な格闘技や武道における、離れたところからいいのを入れるという選択が美意識にのっとったものだとすれば、相手を片手でひっつかんでおいて押さえつけておいてぶん殴るという行為は、いかにも野蛮に感じられます。

さらには、そのつかみ方、抑えつけ方でいかに隙を作っておいて強いのを打ち込むか。というのはやはりえげつないでしょう。

これは中国武術らしさである気がします。

さらにいうなら、その中での選択で、相手を体ごとぶっ飛ばす勁力を活用して、抑えておいて打った相手がぶっ飛んだ結果、そのままひっくり返るような位置を取る練習をすることで、将棋のように詰めてゆくというのはかなりえげつないかもしれません。

また別の角度でいうと、そのつかみ合いが、内勁勝負になっていて、勁を緩める暇なくひたすらせめぎあい続けるというのも、練習法として相当えげつないしんどいものだと思います。

このえげつない練習法を通すと、我々の武術の姿というのが見えてきます。はじめは遠間からぶん回すものだとしか見えなかったものの、別の姿が見えてきます。

軌道上のすべてを薙ぎ払う勁の戦略的な活用法ですね。

このような戦い方はもちろん、太平天国のおりの練兵で意図されたものだと思います。

細かい急所を狙ったり、フェイントなどで攻防したりするよりも、とにかく最短で強いダメージを与えて戦況を押し込もうという合戦の意図が見える気がします。

その視点で見ると、我々のロボコンのような両腕を伸ばした姿勢も、練功のためであるのはもちろんのこと、甲冑を着ていたりする状態でも戦えるということが考えられているのではないかと思われてきます。

休日の遊び

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さて、本日は珍しく連休になりまして、事前の予定もなくなったのでさて何をしようかと思っていました。

ちょうどそれを知ったお友達が呼んでくれたので、向こうの練習会の方々のところに行ってきました。

そう。他派の武術の方のところに顔を出してきたのです。

もちろん、私は他門のことは分かりませんし、武歴の長い大先輩に物を言うような立場では決して無いのですが、流れでいつものワークショップの内容をなぞってご紹介することになりました。

その結果、二時間ばかりで蔡李佛のアウトラインをご理解いただき、かつ、楽しんでいただけました。

この、コンパクトに分かりやすく良くまとまっている、というのがうちのいいところです。

ためしにやってみたら短期間で気持ちよく楽しめる。ここが私の好きなところです。

予定の無い晴れた休日のレジャーに、気持ちの良いお外でカンフーして楽しむ。これはとても体が喜ぶ感じがします。

内側の膜や筋を気兼ねなく伸ばしてあげると、すがすがしい気持ちになります。

南派の看板技

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 中国武術には、内側の力の働きが分からないと何をしているのかまったくわからない部分があります。

 特に南派で言うと、なんだか人形みたいなカクカクした動きだとか、低く構えて力任せなんだろうとかのことをよく言われます。

 そのような誤解の中にあるのが、胡蝶掌です。

 これは我々の看板技と言ってもいいと思うのですが、理解のない方々からは「南派はかめはめ波を撃つ気か」などと言われていますが、これこそが様々な用法がこもっている重要な技法です。

 今回、5月15日の関内WSでは、この胡蝶掌について特集してみます。

 かめはめ波ではなく、勁が出ます。

 これが分かると、中国武術の見え方が変わるかもしれない。


 http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12151714123.html

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