「真実は、愚か者しか傷つけない」
これは格闘家のカール・ゴッチさんの言葉です。
ゴッチ氏はプロレス界で活躍し、ドイツ人らしいということでナチの設定などで暮らしを立てていたそうですが、その方やでは競技化以前の武術としてのレスリングを追及していた人です。
そのためか、決してショービジネスの世界で大成はしなかったようですが、知る人ぞ知る実力の持ち主として一目置かれていたと聞きます。
武術への追及の結果か、東洋哲学などの造詣も深かったようですが、冒頭にあげた言葉に関しては疑問があります。
愚か者でなかろうと、真実に傷つくことはあるはずです。
おそらくは、傷つくことを恐れて真実を離れる者が愚か者なのだと言うことが言いたかったのではないでしょうか。
我々がカンフーを通じて学ぶ東洋思想では、人を毒する三つの要素として「貪り、怒り、愚か」がお釈迦さまの教えとして挙げられています。
真実に目を向けないことは、愚かであると同時に、欺瞞の貪りであり、その根源には怒りがあるかもしれません。
実際に起きていないことを作り上げて自分を粉飾し、その中に閉じこもることを妄想と言います。
たまたま近所のお寺の前を通ったとき、「仏教とは、自分に都合のいい人生を送りたいという夢から目を覚ませと教える宗教です」との書が掲げられてありました。
大変に直接的で鋭い筆致に驚きましたが、頷かされるものでした。
人間、自分に都合のいいことばかりを起こす魔法は使えません。誰しもつまづいたり飢えたり不足を感じたりするものです。時に雨に濡れたりすることもあります。
そのような出来事を、自分に限っては起きないようにすることは、どんな人間にでも決してできません。
その事実を受け入れて地に足を付けるところから始めると、実は大地は思ったより広がっており、行こうと思えば思ってもいなかったところまでつながったりしています。
しかし、魔法を使おうとする人々が沢山います。
スピリチュアルの人たちの一部や、オカルト思想におぼれる人たちがそれでしょう。
自分の力で出来ることひとつづつしてゆくのではなく、自分をだまして事実を捻じ曲げて人生を粉飾して乗り切ろうと言う人々です。
これは非常にさみしいことだと思います。
自分に嘘をついてしまえば、その方向でできる努力を辞めてしまいます。
そうすれば、よけいに欠落は広がってゆき、問題は深刻化して行ってしまいます。
それよりは、事実をありのままに受け入れ、ただ淡々と手を打ったほうが自分のためになります。
失敗をしたら謝って次に備えればいい。勘違いをしていたらごまかさずにきちんと学んで、次に人に話すときには「実は自分もずっと勘違いしてたんだけど」とエピソード・トークにしてしまえばいい。
これが出来ずに大声を上げて押し切ってしまった人は、ただ恥ずかしい人間だという印象を人に与えるだけす。
そうなると、いまひとつ最後のところで信頼出来ない人間だと思われてしまい、いざという時に取り返しのつかないことになりえます。
どうしても家族のためにお金が要り用な時に、他人が信じてくれなくてお金を貸してくれないかもしれない。
自分のためではなくて、社会正義のために動いたときに誰も相手にしてくれないかもしれない。
その時になってからではもう遅いのです。
これを、中国では信の徳と呼んで大切な物の一つに数えています。
他人に動いてもらうために信頼を築いておくなんて、そんなのただの功利主義にすぎないじゃないかと言われるかもしれませんが、中国思想は基本、功利主義です。非常に現実的なものです。
徳というのも、日本で一般に言われるようなモラルではなく、タオの思想において自然の法則にのっとっているという意味のことを言います。
大柄で力がある代わりに目立ってしまう虎が縞模様で擬態をしてをしているのも徳、手も足も無い蛇が牙に毒を持っているのも徳です。
それらと同じように、誠実で、信頼を得ているというのは、存分に実用的な徳なのです。
もしかしたら、それらはたまたま誰にも通じないという環境もあるかもしれません。いわれのない偏見や周囲の無理解で、どれだけ誠を口にしても誰にも信じてもらえないかもしれません。
でも、自分はそれを知っています。
もし、常に嘘をついて自分を飾ってごまかして生きるのが当たり前になっていれば、必ずや何が真実なのかわからなくなります。
本当に自分に誠意を尽くしてくれる人のことも信頼できなくて、さし伸ばされた手を取ることが出来ないかもしれない。
そのようなことにならないためにも、本当のことをきちんと見てゆくべきです。
人生を生き切ったときに、自分は本当の人生を生きたと思うために。
いま、また震災が起きて熊本では大変なことになっています。
日本を救いたいと国会議事堂前でデモをしていた皆さんは、被災地にむかっているところでしょうか。
日本死ねと言われた方は、日本が大打撃を受けて満足されていることでしょうか。
うかつな言葉に自らを託してしまうこともまた偽りです。
日々一つがた、出来る限りに自分の行動に思慮を巡らせて、その結果が自分自身を苦しめることが無いか考えることこそが知恵だと思います。
このようなことを因果と言います。
宇宙意志だとかシークレット・コードだとか陰謀論だとか、とりとめのない物のことを考えている場合ではありません。
自分自身の行動一つ一つが、すべてダイレクトに自分のまわりに影響を及ぼしているという現実をもっと見つめて、当たり前に行動を選択することで、日々はもっと簡潔によくなります。
天に仁なし。と荘子は言いました。
天に導きなどないという意味です。
そこにはただ道があるだけであり、そこに立って歩むのは自分自身です。
その道のりだけが自分の命のすべてです。
そこまでしてもなお、荘子は、人生は胡蝶の夢だと言いました。
それでも自分自身を生き切る。その命だけは本物です。
自ら夢を見て寝言を言っていれば、蝶の夢が覚めるときに後悔しかのこらないのではないでしょうか。