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蔡李佛拳の基本技法 5・抛槌

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 今回ご紹介する蔡李佛の技法は抛槌です。パウチョイと読みます。

 いわゆるアッパーだと言われていますが、肘をタイトにまとめて腰の回転で鋭く打ち出す、という物ではありません。

 蔡李佛の基礎原則にのっとり、大きく練ります。初学の段階では特に、五獣の象の要素を活かして象の鼻のように大きくしたから上に振り上げてゆきます。

 マンガに出てくる怪力の少年、花山薫みたいだとよく練習中に言っていました。

 練功が進んで腕が伸びるようになり、鉄線が効いてくると今度は放り投げずに打てるようにしてゆきます。

 この時のコツは、手首のあたりに水の入った桶を掛けているように意を働かせることです。水を撒き散らかさないよう、静かでかつ強く腕を移動させます。これによって、遠心力ではない威力、整勁が養われます。

 慣れてくると水を増やしてゆきます。

 実際には、おなじみの鉄環をはめてそれを増やしてゆくというのも同様の効果があります。

 鉄環功はどの槌でも行えるのですが、抛槌は特に真下から真上に運ぶものなので感覚が養いやすいと思われます。

 抛槌を用いる時には併用される技法としては、膝をかがめて姿勢を低くする跪馬という姿勢になりながら、掛槌に先導されるというものがあります。

 これは前腕の掛槌で相手の囲いを払っておいて打ったり、また蹴り足を受けて股間に打ち込む技法だとも言われています。

 この技法を通称山羊の角と言うそうですが、低くなって相手の懐に入り込みながら渾身で打ってゆくというのは、いかにも南の船上での技法という気がします。

 また、盾と刀を持っていた時代の定番手法であったという感じがいかにも漂っています。

少林寺三十六房

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 私はよく、子供の頃に観た功夫電影を見返しているのですけれども、先日は「少林寺三十六房」を見返しました。

 実に子供のころぶりの再会です。

 いやー面白かった。

 あらすじはこんな感じです。

 清朝の腐敗から反清運動が起こり始めたころ、仲間を殺された少年が少林寺に逃げ込んで復讐を果たすための武術を学ぼうとするも、得度は認められたものも武術を学ぶことは無く、五年経ってようやく武術を学ぶための道場である三十五の房に入ることを許されます。

 一気に奥義を学びたいと最高位の房である頂房に行くも、そこは老僧たちが経典の研究をしている場所で、あまり熱心にそれをしていなかった主人公は老僧に一喝されてしまいます。

 すると少年の体は宙を舞い、地面に叩きつけられてしまいます。

 その魔術のような現象に驚き、慌てて逃げだした少年は一番したの飯房というところから修行を再開。

 そこはまず、食事を摂るために軽功で浮橋を渡らなければならないというところでした。

 そこでの修行を無事終え、続いて腕力や腿法、棍法、眼法などの修行を何年もかけて修了していった結果、少年はその実力を認められて、どこか好きな房の教練を務めるよう提言されます。

 しかし、総教練である僧がそこにまったを掛け、自分と腕比べをしてからにしろと提案します。

 緫管長の使う双刀の技はするどく、棒などを用いても主人公はかないません。

 そこで工夫を凝らし、これまでの房での修行を一つに合わせて活用できる兵器、三節棍を編み出します。

 その新兵器で見事管長を破った主人公は、房の教練になるのではなく、寺の外の人々にも少林拳を伝えられる新たな房の設立を提案します。

 下山して托鉢を命じられた主人公は、そこで清朝に反感を抱く若者たちをまとめ、見事に汚わい役人を倒し、彼らを引き連れて三十六番目の房での修行を開始するのでした。

 この作品では、少林拳の要諦と、三節棍という兵器の発祥の故事、それから三十六番目の房によって寺の外に少林拳が伝えられ、それがのちの広東での南拳や反清復明運動になったということが示唆されています。

 つまり、私にとってはルーツをたどる内容だったわけです。

 そう考えると、蔡李佛門の大師たちは三節棍を得意にしている方が多いように感じます。これはやはり、反清復明の南少林の精神を象徴した物だったためなのかもしれません。

 これだけでも面白いのですが、素晴らしいのはあくまでも功夫が元は革命兵士のための調練を主としたものではなく、仏教の教えのためのものだということをきちんと描いていることです。

 寺は外界とは無縁であり、外の者には教えていなかったことや、その頂点にあるのは経典の理解であり、臨済宗の教え通り一喝こそがその精神であるということを実に面白くエンターテインメントにしていました。

 私たちにとっては、まさにバイブル、経典のような映画だと感じました。

 法や道は人を選びません。老若男女、運動に自信のないかたも難しいことは考えていない方も、暮らしの中に何か手ごたえのあるものがほしくなったらいつでもいらしてください。

3・20 WS 勁力強化特集感想

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 先日のワークショップ「勁力強化特集」の内容では、みなさんになかなかにお疲れいただきました。

 内容はほぼ、昔の功夫映画の特訓シーンで観るような奴です。

 内勁の強化法の特集なので、ごまかそうと思えばいくらでもごまかせるのですが、自分を追いつめようとすればいくらでも追いつめられるような内容が中心でした。

 なので、うちの筆頭学生さんはじめ、ちゃんと効かそうとする人ほどお疲れのようでした。

 そうすると結果も如実に体感できる物もあって、明らかに途中から軸(定力)の感覚が強くなっているのが見ていて分かるかたもいました。

 この、感覚を発見することを気と言い、気から勁を導くことが我々の拳法のメソッドとなっています。

 定力の気が強くなっているのを見て取れた人々は、のちの対練で明らかに動きが違っていて、ひょいひょいと一切軸のぶれもなく調子を取ることもなく人を勁力で運んでいる姿が見られました。

 その、ぶれずに調子も取らずに勁を発し続けてゆくことが私たちの勁です。

 これを作ってから後半に少し用法の練習をしたのですが、これがあるからこその技というのが蔡李佛らしい戦法を作ります。

 基本の掛槌、掃槌の定番コンビネーションを仕掛けておいてから、そのままの動きで拿(関節技)に入り、ごちゃごちゃしたそれが上手くいかなかったらそのまま掴んだままやっぱり発勁でバーン! という練習をしたりしていたのですが、この辺り、打から拿や摔に行きつつも結局はやっぱ巨大な発勁でぶっとばすみたいなあたり、実に勁力中心の豪快さが顕れていてほほえましい感じがしました。

 参加者の方々からも、ガード越しにそのままぶっ飛ばす現象が発生したりすると苦笑いが起きているところなども、蔡李佛の独特さが如実に出ていて面白かったです。

 これこそがまさに巨大な鉄球が相手を押しつぶしてゆくという拳風です。いったんは相手が受け止めても、そのまま転がりつぶして引きつぶしてゆきます。

 今回、もはや発勁は出来る前提でプログラムを組んでいたのですが、いろいろなやり方を試した結果、実際にそのようになったと感じます。

 そのような人たちを、普段から通ってくれてるうちの学生さんたちがさらに勁力でまさってほいほい飛ばしていたのですが、ここに功夫の面白さがあります。

 発勁のやり方を体得してもイマイチ実感が無いのは、実は功夫の問題だと思っています。

 確かにそれまでの格闘技的なやり方とは違う打ち方をしてるけど、そこまで威力がないよね自分、というのは実は当たり前です。

 そこから、発勁を強化させてゆく功夫を積んでゆかないと、強力な効果は出ません。

 その威力の伸びしろが果てしないというのが、発勁の特徴です。

 なので、打ち方だけ覚えてもあまり意味はなくて、そこから自分で功を積んで育ててゆくことがとても大切です。

 今回のワークショップはそのための内容でした。

 それぞれを持ち帰っていただいた結果、きっとみなさん功夫を積んで強い威力を養成していだたけることでしょう。


 次の関内ワークショップは4月の17日の日曜日、今回やったような用法をメインにやっていこうと思います。

四月の関内ワークショップは「基礎戦法特集」です

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 次の関内ワークショップは4月17日の日曜日、18時からいつものフレンドダンス教室さんで行います。

 http://www.bing.com/local?lid=YN5286x11003917756296507518&id=YN5286x11003917756296507518&q=%e3%83%95%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%80%e3%83%b3%e3%82%b9%e6%95%99%e5%ae%a4+%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%b8%82+%e7%a5%9e%e5%a5%88%e5%b7%9d%e7%9c%8c&name=%ee%80%80%e3%83%95%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%80%e3%83%b3%e3%82%b9%e6%95%99%e5%ae%a4%ee%80%81&cp=35.44519~139.638&FORM=LARE

 今回は用法を中心とした内容を考えています。蔡李佛の基礎戦法の手法である掛槌から掃槌の流れからのコンビネーションや、掛槌から插槌と言った動き、その中に含まれる拿、摔への変化とそこに密陽とされる借力技法などを公開いたします。

 いままでの基礎練功中心の内容ではやっていなかった実用法のための用勁などの手法を、初公開いたします。

 中国武術は型が分かりにくいと言われますが、その解析の内容となりますので、他門での修練をされてる方や、空手の型についての研究をされたいかたなどにもおすすめの内容となっております。

 ぜひみなさんお越しください。

蔡李佛の基本技法 6・カプチョイ

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 今回ご紹介する技はカプチョイです。

 カプという字は、日本には無い字で、どうやら中国でも亡くなりつつある字なのだと聞いたことがあります。

 意味は「ハンコを押す」という意味だそうです。

 一般の拳法などだと「印」字訣であらわされる意味のようです。

 このカプチョイは、文字通り(と言っても漢字は出せませんが)ハンコを押すように上から下に打ちおろす槌です。

 主に握拳の下の方、母指丘のあたりで打ちます。

 蔡李佛に攻防なしという通り、相手の攻撃や兵器を払いのけるためにも使うのですが、打つのなら狙えるのは頭部や肩などが中心となってゆくかと思います。

 頭部というのは人間の体の中で一番固い骨があるところなので、上から手で打つのには適した部分ではありません。ましてや合戦の時には兜をかぶっている場合もあります。

 そこで蔡李佛の勁力が必要になってきます。

 重い、相手を体ごと吹っ飛ばす勁力で頭を押し潰すように打つのです。

 そうすると、頭蓋骨は堪えられても、頸部に深刻なダメージがかかるようになります。

 平和な現代では、あまり使うことを考えるべきではない技の一つです。

ライフスタイルと考え方

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 本日は夕方のレッスンまで用事がないため、朝食を摂りながら事務を片づけました。

 以外に時間がかかって大変でしたが、そのあとはジムに行きました。

 二日前に行ったばかりでまだ筋トレをするには間隔が足りなかったのですが、つぎにいつ行けるかわからなかったので行っておきました。

 当然、最大限のメニューはこなせるはずもないので、いつもとは違う準レギュラーメニューの軽い物を行いました。

 そんな状態ででもなぜ私がジムに行くかと言うと、ジムに行くとおいしくご飯が食べられるからです。

 気兼ねなく思う様、好きな物を食べられるというのはうれしいことです。そのためには、食べてしまってから慌てるよりも、常に身体を筋トレ後の状態に保っておいて、回復のために栄養を補給する必要がある状態にしておいた方が好きです。

 抑圧されてから解消にいそしむよりも、あらかじめ前提作りをしておくというスタイルですね。

 私は自分が太っているのが好きではありません。

 だらしない醜い体でいると、とても自分が嫌いになってしまいます。

 もちろん、モデルのようなかっこいいスタイルにはならないのですが、筋肉が発達した体として膨らむ分には、ある種の男性的な美観が伴うのではないかと思っています。子供の頃のあこがれはプロレスラーやスタローン、シュワルツェネッガーでした。

 自分を醜いと思ったり嫌いになったりするのは幸せではない気がします。

 また、本当はそう思っているのにそこから目をそらして自分をごまかして生きていくことを常態とすれば、それはもう歴然と「不幸」であるとさえ思います。

 また、あまりにだらしないおなかをしている状態で私が何を言っても、中にはあんな自己管理ができていない人間の言うことには説得力は感じない、と言う人もあるでしょう。

 鏡の前で自分にうっとりするまでは行けなくても、自分で納得のできるところまではやりながら自分の在り方の落としどころを見つけてゆくことは、実はライフスタイルとしてのカンフーを標榜する私にとって重要なことだと感じています。

 ジムでの準メニューはたった30分間。

 そこまで執着するほど必死でトレーニングはしないのですが、これもまたあり方の折り合いの付け方の一つだと思っています。

 その後、食事はしゃぶしゃぶバイキングで野菜とタンパク質をたくさん摂りました。

 

武徳と誠意

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 ちょっと前の武術雑誌をいくつか読んだという記事をいくつか書きましたが、その中の一冊に、業界では知られているある有名な先生の記事がありました。

 その人は昔からある大きな団体に所属している、実力派で知られている人でした。

 その先生が中国で秘伝の高級套路を学んだときのことを話していたのですが、行くなりいきなりそんな高級な秘伝を教えてくれるのかと大変驚いたのだそうです。

 しかし、その内容に関しては一切教えてくれない。

 これは困ったと同門の師兄弟にこっそり聞いても「老先生がじきじきに教えているのに口は出せない」と誰も教えてもらえない。

 結局そのまま「秘伝の套路を老先生から習った」と言う事実だけを持って帰ることになったそうです。

 ここからがこの先生の立派なところです。

 この実力派で知られる先生は「だから僕は、形だけは知っているけどその高級套路について中身は何も知らない」と正直に雑誌で言っているのです。

 さらには「ぼくは日本から団体の代表として行ったからお客さんとして礼儀正しくお土産を持たせてくれただけだ。中身を教えなかったところに貫禄とすごみを感じる」と冷静に、そしておそらくは正しく分析していました。

 なんという誠実さだろうと思いました。

 そして、これこそが私がいままで学んできた、武術家というものの物の考え方です。

 このような物の考え方が出来るかどうかが「できる」武術家か否かということだと思っています。

 世の中には、この手の武術家のしたたかさにホイホイ踊らされて、秘伝をもらった自分は使い手だと都合よく解釈して周囲に喧伝してさも偉そうにふるまっている自称武術家が沢山目につきます。

 さらにひどいケースになると、少しかじったことやメディアで観たことを自己流で教え出す先生がたも沢山いるようです。

 正統な武術家というのは、伝統の継承者であるべきだという私の考えは、このようなところに由来する気がします。

 すなわち、師がどのように自分を捉えて、どのように自分を導いてくれたのか、ということです。

 師の意図をかみ砕き、推測し、意図を読んでこそ、師の継承者の自分が見えてくるものだと思っています。

 そのようにして師の作品の一つとして活かされてこそ、武術という伝統芸術を満たした存在になれるのだと思っています。  



蔡李佛拳の基本技法 7・鞭槌

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 今回ご紹介するのは鞭槌です。ビンチョイです。鞭とは中国では鈍器全般を表す言葉のようです。

 これはまた基本技法の中で独特な要領のあるものです。

 動作としては、主に伸ばした腕を内側から外側に水平に払うものです。

 その時、肘のそばにもう一方の手を添えておきます。

 蔡李佛では插槌などでも片方の肘の内側にもう一方の手を添えておくのは基本スタンスの一つなのですが、実はそれはこの鞭槌の要領を暗法として潜ませています。

 と、いうのも、これが実は太平天国の時の盾の技で、水平に振る腕がまず盾の使いを意味しています。これが、相手の攻撃を防いだり身体を押さえつける壁になるわけですね。

 そして、その内側に添えた方の手で、浸透する発勁を盾越しに叩きこんでゆきます。

 こうやって押さえつけて見えないようにしておいて打つというのは、実は重要な戦法です。

 蔡李佛はやたらに腕を振り回すスイングパンチ系の拳法だと誤解されていますが、それを支える基底になるのがこの短距離の浸透勁の存在です。

 あらゆる攻撃にこの内側の打が隠されているため、初めの打ちが相手を捉えたところから、その腕越しに打が撃ち込まれるという二段構えがセットになっている訳です。

 私が蔡李佛を紹介するパフォーマンスでよく披露するのもこの発勁です。腕ごしに数メートル人を飛ばすと、時々八百長なのではないかと疑われてしまいます。

 もちろん、ワークショップでは参加者の方々にきちんとこれを体験していただいて、そしてご自身にも体得していただくようにしていますよ。

蔡李佛拳の基本技法 8・劈槌

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蔡李佛拳の基本技法、今回ご紹介するのは劈槌です。これはいわゆる手刀の技です。

とはいえ、いわゆる北派の劈とは違っています。

有名な北の門派などでは、上から下に振り下ろす手刀を劈と呼ぶそうですが、こちらの劈槌は、掌を上に向けた手刀を横なぎに振ることを言います。

これは五獣でも鶴に相当する、大きく広げた翼を振るような要領が求められます。

また、鴻勝館の象徴である鴻という大鳥の姿でもあります。

このような姿勢は門派のアイデンティティにつながる問題として、実は重大なことであったりします。

そしてこの鳥の翼というのが、勁力面でのアイデンティティである鉄線功にもつながっています。線を伸ばすことはすなわち、翼を広げるということでもあるのです。

そのため、これら鳥の動作は勁力を強くするための重要な練功であるともいえます。

私自身も、この翼の動作によってずいぶん勁力の訓練ができました。

腱を引く

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うちの学生さん、体のメンテナンスの仕事をしていると聞いてはいましたが、それの種類が腱引きというものでした。

これは筋引きとも言われるようで、もとは日本武術の活法だったようです。昔の弟子も、古武術の長老から習っていると言っていたことがあります。

ここで注目したのは、腱とも筋とも言うということです。

私たちの中核である鉄線功は、体の内に内功で線を作るというものですが、この線のことをうちの先生などは腱とも筋とも習ったというのです。

ただ、これは単純に現代医学で言う腱や筋のストレッチでは無いようです。

これらの物言いは少林寺から伝わっているようで、一般に言う筋肉などは皮肉と呼んでおり、腱や筋というのは内側のいわゆる勁道のことを差していると考えられています。

だとしたら、この腱引き療法の腱や筋も、同様のものであると考えられるかもしれません。

日本の柔術は江戸時代に渡来中国人から理論的な影響を強く受けたと言いますが、もしかしたらこのあたりがそこの部分のことなのかもしれません。

4/29 金曜日祝日 文京区ワークショップ開催のお知らせ

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 GWの4月29日、都内で蔡李佛拳のワークショップを開催いたします。

 会場はこちらhttp://www.shisetsu.jp/city.bunkyo/sogotaiikukan/index.htm  文京総合体育館さんの第二武道場です。

 

 時間・15.00-1700目安

 

 参加費 

 一般         5000円

 会員 準会員   2300円

 事前予約      3000円(制限人数あり)

 

 となっております。ぜひ、あらかじめお申し込みください。


 空手の原型とも言われている、日本ではまだ知られていない蔡李佛拳の身体操法を本格的に公開し、段階を追った発勁法を練功します。

 武術未経験の方も、スポーツや格技を実践中の方もぜひ体験されていただきたく思います。

蔡李佛拳の基本技法 9・盤と拿

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今回は、二つの基本技法を紹介します。

一つ目は盤です。

意味は円盤です。つまり、回るとか、円を描くことを意味します。

対多数戦を想定した蔡李佛拳では、基本の歩法がすでに輪を描いています。そのうえで体を回転させて基礎を練り、いつどの方向に対しても対応できるようにしてゆきます。

独特の震脚や移動をしない発勁は、この全方向性に合わせる形で進化してきたものかもしれません。

腕での動線も円が多く、特にこのことを差す場合は盤橋(プンキウ)と言います。

払いや受け、平手打ちなどに用いられることが多いです。また、虎爪や蛇形手、鶴頭手などの手形を合わせて用いることも多いです。

また、この円を描く盤橋からそのまま巻き込んで関節技に持ち込むことも多いのですが、それが今回の二つ目の基本技法、拿です。いわゆる禽拿です。

中国武術では一つの動作で打、摔(投げ)、拿の三つを兼ね合わせます。

投げも多用されるのですが、なぜか基礎技法で取り上げられるのは拿です。

この、拿はまたゆっくりと言う意味もあるらしく、練功において重要な漫練を意味しているとも言われます。

今回ご紹介した盤、拿とこれまでに紹介してきた手法を合わせて、十字訣と言い、鴻勝蔡李佛拳を構成する十大要素と規定されています。

備え

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私はいろいろと考えをめぐらす習慣がありますが、これを助長したのはおそらく古武術の修行でしょう。

日本の武士の精神を引き継ぐ古武術では、つねにいろいろなことを考えておくという習慣があります。仏教の問答や頓智の影響があるのかもしれません。

お前はいつも賢らしく物を考えているが利口ぶっているつもりかなどと言われることもありますが、そのような浅はかなものではありません。

これは備えなのです。

士族階級主義であった日本の武術では、この有事の備えこそが兵法者のアイデンティティであったと思われます。

例えばある時に、おっとり刀で戦に駆けつけなければならないことがあったとします。

家人とともに早がけに山道を行くも、折あしく鉄砲水の後で橋が流れています。

やむなく不安定なつり橋を一騎づつ強行突破しなければなりません。

荷物も分散させて重りを減らし、渡った者から陣にはせ参じる必要があります。

この時、長槍やかけやを諦めて弓と薙ぎなたのみを携えてつり橋を渡り、家人一同に先んじて無事参陣がかなったとします。

そしてそこで夜襲を掛けられたとします。

その時「莫迦め、弓など持参しよってなにごとの薬にも立たないではないか」というような味方はおりません。

もちろん、より厳密な倫理に照らし合わせればそのようなことは無限にあるでしょうが、ひとまず役には立たない弓ではありましたが、だからと言って携えてこなかったほうが良いということにはなりません。

このようにたとえ結果として使わなかった物でも、必要を想定しているとしていないでは大違いです。

そのようなことを備えというのでしょう。

武士というのは、この備えのある身のことです。ですから「いざ鎌倉」ということが武士の存在意義となり、そのまま江戸時代が終わるまで体裁として続いたのです。甲冑のことを備えと呼ぶのもこのような意味があるのでしょう。

また、このようなことを覚悟とも言います。辞書によると、危険なことや好ましくないことを予想してそれに対応できるようにしておくこと、とあります。武士と言えばこの覚悟があって当たり前とされる存在でした。士道の不覚悟と言えば時に死をもって贖わなければならない罪でした。

このように、物事を自分の観点からみて、それなりの答えを常にいくつか用意しているというのは、武士の出来不出来を図る物差しです。織田信長などもよく小姓達にふいに問答をして検分をしたと言う話があります。

ご飯に二度汁を掛けたから見限られたという故事なども、このような武士の思想が前提にあったからこそのお話でしょう。

現代武道や格闘技ではこのような発想はだんだん重視されなくなってゆきました。

例えばものすごい威力のかけやのような物を得意とする武者が居たとして、それが重すぎて合戦場まで運ぶ方法が無いとすれば、それは使えない武者です。

局所的な意味で極めて強いとは言えるでしょうが、使えない武者は居ないも同じです。

しかし、人間の持つ可能性の極を測る物として、そのための仮想条件を設定して同じレギュレーションで確かめるというのが現代武道や格闘技です。

ですので、日曜武道家、休日格闘家という物が成立します。

これが古武術であれば、そのようなことはありえないでしょう。現代武道家のように稽古場で畳のへりを踏みまくっていたら師匠からさぞ怒られることと思います。

身動きが取れないほど全力で練習するのも同じ。そこで敵に襲われたら元も子もありません。

もちろん、いま私が歩んでいる中国武術ではそのような考え方はしません。

稽古はあくまで禅の行。自らの心身の拘束を離れて自由に生きるための方便です。

しかし、備えではないですが、さまざまな物の見立や思考をするというのは、やはり観を養い、ひいては心の自由を得るために大切なものだと思います。

同じ覚悟という言葉を、仏教では悟りを得るという意味で用います。いまの私に望ましいのはこちらの方の覚悟でしょうね。

使える? 遣えない

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私が武術の操体において言っていることは、意拳の教えと似ているとたまに言われることがあります。

私はほかの門のことはわからないのですが、いろいろな先生の書いた文を読む限り、あまり似ていると思ったことはありませんでした。

ただ唯一、大成拳と銘打っている派の先生の文章を読むと、確かに体の遣い方に大変似ている部分をあるように感じたことがあります。

意見、大成拳など同じ門派でも時代によって名前が変わり、その先生がついていた時期によって呼び名が異なると聞いたことがあります。

だとしたら、その大成拳派の先生の時期は我々南派の色が強かったころなのかもしれません。

私は非才の身なので、同時にいくつもの武術を学ぶということをまずしません。

それどころかかつて学んだ物のうち、いまの自分と合わないものはどんどん捨ててきてしまっています。教えてくださった先生方には申し訳ないのですが。

と、いうのも、私の体の中に一つの武術の功が積まれてゆくと言うことは、少なくとも中国武術においてはその武術の体になってゆくということだからです。

そのような人体改造法が私の門での武術の練功です。これは前述の大成拳の先生のお話にもあったように思います。

別の派の意拳では、「細胞の一つの動かし方にに至るまで正解があり、それ以外はすべて間違いなのだ」という考えがあるそうですが、この大成拳派では段階を経て少しづつ体がつくりかえられてゆくことが語られていました。

その発想とその改造の仕方が、私が共通点が多いと思った点でした。

体の動かし方そのものは功のできる前とまったく変えたつもりはないのに、体が術の体に変っているから結果として威力が大きく変っていて自分でも驚いたことがあると、その先生は言っていました。

私たちの門もこれとまったく同じことがあります。

それをもって我々は功と呼んでいます。決して、何か特別な加速法や体重のかけ方を編み出したりするわけではありません。

このようなことを、易筋や洗髄などの言葉で表現しています。すなわち、筋(すじ)がかわり、また神経が洗われる、ということです。そのための内功を延々します。

単純に部分的に突き蹴りの技がうまくなっているということではないのです。よって、単純にただ数稽古で突きを練習しても功は成りません。

花拳繍腿という言葉があります。

見せかけだけで使えない拳法という意味ですが、これは必ずしも特定の門派を指して言っている言葉ではないと思っています。

有名なマンガ家の方は、もともと国体レベルのボクサーで、マンガが売れるまでは格闘技雑誌の記者などをしていたそうですが、どの大会に行っても控室にはものすごく勇猛果敢にシャドーをしている選手がいるそうです。

それに対して、とつとつとした静かなシャドーをしている選手もいるそうです。

勝つのは後者のほうだそうです。

実際のリング上で、そんなにものすごいシャドーのような動きはスタミナが減るばかりでなんの役にも立たないのだ、とその方はいいます。それよりも、試合前の段階ではきちんと使える実践用の練習を的確になぞっている選手の方が当然勝ります。

同じボクシングという流儀の中でも、その無意味に激しいシャドーボクシングのようなものも、花拳には含まれると思うのです。

すなわち、真芯を捉えていない練功、形だけの練功です。

我々や大成拳の練功では、中身を重要視しているため、見た目からは何をやっているのかまったくうかがえないことがあります。

形だけ真似してなぞってもそれは決して蔡李佛にはなりません。

我々が学ぶ蔡李佛拳というのは、内側の功のことだからです。

そのため、私のように不器用な人間は、肉体と神経が蔡李佛になってしまっている以上、形として何をしても蔡李佛になってしまうので、多門との弊習ができないのです。

これは易筋の武術の多くがそうかもしれません。

A拳にB拳を加えれば鬼神もこれを恐れると詠んだある拳の先生は「ただこのB拳はあくまで我々のA拳の中でのB拳であって、B拳門のB拳ではないのでその区別は大切だ」と言っていたと聞きます。A拳の体に、易筋、易骨されているからではないでしょうか。

私たちの門は蔡李百套と言ってどんどん他門の物を吸収してきた歴史がありますが、それもこのような経緯があるからではないでしょうか。

であるからこそ、私は自信を持ってこれが功夫の拳だと言うことができます。

よく、中国武術の技は使えないと言う人が居ますが、私たちの考えに限って言うならそれでよいのです。

その技をかける内側の力やかける神経の操作がこの門の本質であるため、技そのものに特別な物はありません。

使えない人が真似すればまるで使えません。

体が遣える人間が行うから、無理矢理に効かせられてしまうというだけです。

私のような非才の凡人を、遣えるようにしてくれたカリキュラムにこそ、蔡李佛という門の真価があると思っています。







アリストテレスに学ぶカンフー

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最近反省していることがあります。

伝人になるとき、師父とは何かを常に考え続けるように言われ、そのようにしてきたのですが、やはり若輩の身、どうしても力が入りすぎてしまいます。

伝統の保持と継承に携わるというのは責任が重く、どうしても学生さんたちが伝承者としてふさわしいのかどうか、厳格な目で見てしまいます。

しかし、ここのところ少し、やわらかい哲学の本など読んでいて気が付いたことがありました。きっかけはアリストテレスです。

アリストテレスやピタゴラス、アルキメデスなどは「禅とオートバイ修理技術」などで目にするくらいで、あまりに古典すぎて直接接するのに二の足を踏んでいたのですが、このたび触れることができて大いに目の開くところがありました。

アリストテレスは、都市およびその法と政治の目的を、単に円滑に治世をなすことではなく、人々の善性を導くためだと考えていたそうです。

初期のギリシャ哲学は、神の存在を撤去してその役割を学問に求めていたので、そのようなすごい発想が成り立ったのでしょう。

我々はすでに政治というと利権や汚わいが当たり前の必要悪とみなしてしまっていますが、ポリス社会においては必ずしもそのような物だとはみなされていなかったのですね。少なくともアリストテレスには。

「都市国家は集団で生活をするための物ではなく、目的は善なる生であり、社会生活はその手段でしかない」というのがその主張です。いわば巨大な修道院のような印象でしょうか。

では、その善とはなんでしょうか?

それは、幸福だと彼はいいます。

その幸福とはなんでしょうか?

それは、喜びと悲しみをしかるべく感じられる状態なのだと彼は説きます。

つまり、喜ぶべき物に喜びを感じられ、悲しむべき物に悲しみを感じられる状態になることをして彼は徳と詠んでおり、その状態にあれることこそが目的だと言うのです。

例えば、人の不幸に対してはやし立てたりほくそえんだりするのは徳にかなった状態ではないし、悲しむべきことを自己防衛のために無理やりスピリチュアルな言葉で思考停止させるのもまた徳にかなっていません。

それらは悪徳であり、幸福の真の源ではないと想定しています。

崇高な物に喜びを感じ、卑劣な物に苦痛を感じることが幸福であり、それは心の状態ではなくて人としてのあり方なのだと解いています。

この考え方は、達磨大師のもたらした少林寺の拳の思想に大変似ています。あるいはシルクロードを経て影響があったのかもしれません。

少林拳は人を幸福な状態に正常化するための禅の行の一つです。

作務などと同じく、無心に正しく行為を行うことで、自ら転がりやすい精神の、フラットな状態を体に覚えさせるのです。

アルキメデスは徳を身に着けるためにどうすればいいかということを「習慣の結果による」と言っています。

「美徳を身につけるには実行することだ。それは技能を身に着けることに似ている」

このアルキメデスの姿勢に、改めて蔡李佛拳の伝人としてのあり方を見直すことになりました。

私もまた、高度な技能の継承者であり、守り人でありますが、その精巧さを引き継ぐことだけが任務ではありません。

少林の拳は悪用を避けるため、出家者のためだけの門外不出のものだった時代もあるようですが、蔡李佛拳は数少ない、普及を目標として編み出された伝統武術です。

それは、多くの人々の心と生を救うということを目標としていたのではないでしょうか。

菩提達磨という人物が、実在したというのは現代の歴史学では否定されている見解です。

しかし、その人物像に説話として仮託されたのは、世の人々の心を救う行の伝播に違いありません。

その末席を担う者としての本道を見失ってはいけないと思いました。

高等技術も大切ですが、やっている人が気持ちよく、心身がクリーンになるということをより重視して行っていきたいと思います。

もっとも、その指針としての高等技術がありますので、皆さんにはそこを目指して進んでいただくべく公開しているのですが。

骨が換わる。かも

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 昨年の夏終わりから、点馬と呼んでいる立ち方の練習に重点を置くようになりました。

 ある意味で最も立ちにくい、非常に強力な打撃は発しにくい体制です。

 そのため、拙力は使いにくく、純化した勁力が求められます。

 有名な杭の上で立つ稽古などはこの延長にあるものだと思います。

 並行して、棍の学習に重きを置き始めました。

 棍を振るときにも、点馬の勁力を強化するように行います。

 そうしているうちに次第に下半身の骨格が変わってきました。

 初めは少し痛いかなあくらいだったのが、次第にものすごく痛くなってきました。

 そして、痛くなればなるほど勁力の集中が強く感じられてきました。

 しかし、その後、めっちゃ痛いことに……。

 一説によると、上下運動を伴った歩行時には、人間の足には瞬間的に体重の三倍の荷重がかかるそうです。

 いわゆる震脚系の発勁というのは、その力をうまく打に活用した物だと聞いたことがあります(もちろん鵜呑みにはできませんが)。

 それに対して、震脚を伴わない我々の発勁では、任意で足に延々荷重をかけ続けることになります。

 これが、私の言う南船の勁力です。

 震脚や開合のタイミングではなく、任意で勁力が出っ放しになります。

 蔡李佛が疲れる拳法だという所以です。

 右足首に痛みを感じながら稽古をし続けているうちに、だんだん可動域が広がってきました。骨格が強い安定した発勁に合わせて矯正されてきたようです。

 痛みを感じ始めてから半年後ほどのころ、急に左の胯のあたりが痛くなって歩けないくらいになりました。

 いままで体験したタイプの物ではなかったので驚いたのですが、三日ほどするとそれも収まりました。

 すると、いままでより一層馬の安定が生まれてきました。

 おそらく、右足の骨格の変形に合わせて左足も骨格が変化したのでしょう。

 我々の武術は易筋と言って筋肉を変化させたり、洗髄と言って神経をクリアにしてゆくことがコンセプトにあるのですが、易骨という物もあるのだと聞いたことがありました。

 抜骨、いわゆる骨格を正しく据えるのではなく、骨が換わるのだと言うのです。

 聞いたときには今一つピンとこなかったのですが、もしかして今回の骨格の変化のようなことをそういうのではないでしょうか。

 熱心にうちで稽古してくれる学生さんは、短期間で驚くほど体型が変わります。

 これは易筋と抜骨のためです。

 さらに長く稽古をしていると、きっとこのように根本の骨格も変わってゆくことがあるのかもしれないと思い始めました。

 換骨羽化と言う言葉が中国思想にあります。

 骨が変化して次の次元に進化するという言葉です。

 人間の肉体を深く研究した中国武術は、そのようなことが十分にありえると思います。

カント先生と東洋思想 1

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 以前、フランス革命を以後の西洋人文主義が、東洋哲学から影響を受けて行った歴史を記事にしたことがありましたが、今回は革命前夜のある哲学者の思想と東洋哲学を比較してみたいと思います。

 それによって、東洋哲学との合併以前の西洋哲学の姿が浮き彫りになり、鏡像としての東洋思想が見えてくるのではないかと思うためです。

 その、哲学者の名前は、イマヌエル・カント。カント先生です。

 キャッチ・コピーを「プロシアの道徳の権化」と呼ばれてしまう彼は、私の好きなマンガの柳沢教授のようなちょっとキュートな人です。

 そのカントの思想は、前回少し書いたアリストテレス同様、私が日ごろから否定している今どきのスピリチュアルの真反対のものです。

 いまどきのスピリチュアルやコーチングというのは、要は功利主義です。

 成功哲学や人脈作り、自己啓発など、最終的に損得勘定で割り切れるためです。

 そのような考えに対して、古代西洋哲学の巨人であるアリストテレス先生の批判は非常に簡単です。

 それは、独特的ではないから、という素朴な物です。損得ではなく、人間を善なる存在へと導くものこそがアリストテレス先生にとっては重要な意味を持っているのです。

 神への信仰以外の物に、神の代理を求めていた初期哲学としては必然の考え方だと思います。

 しかし、さすがに西暦も18世紀になってのカント先生の利己主義への否定はそのような物ではありません。

 カント先生がなぜ利己主義を否定するかと言うと、それが人を自由にしないからです。

 この発想、ほぼまるで仏教や道教などの東洋思想のようです。

 しかし、そのいわんとすることは実はまるで違います。

 利己主義というものが、幸せを追求することにあるのに対して、カントの説く「道徳」は幸せを追求するものではありません。

 では道徳とは何かと言うと、人間の人格の尊重そのものを究極の目的としているものです。

 ある人間を幸せにすることと、その人間を善い人間にすることは、まったく別のことです。

 そして善い人間ととはどういう物かと言うことか、というと、それは理性のある人間、ということのようです。

 この理性があるからこそ、人間の人格は尊重されるべきである、というのがカント哲学の肝だと思われます。

 理性の反対を、カントは感性と設定しています。

 両者の間には「悟性」と言う概念があるのですが、ここではあえてそれを外して説明してみたいと思います。

 例えば、目の前に三種類の食べ物があるとします。

 どれを食べるかを選べるとします。

 食べ物の前には「ご自由にお選びください」と書いてあることにしましょうか。

 カントからすると、この状況はちっとも自由ではありません。

 すでに、他者から三択を迫られてしまっているからです。

 この設問は、昔の映画のように、上の子供と下の子供、どちらを収容所に送るか、というのと本質的には変わらないものです。

 外因によって突きつけられている選択です。

 カント先生はこのような状態を他律的な状態と呼びました。

 それに対して、自分自身で判断して選べる、自律的な状態こそが、自由な状態だと言うのです。

 ここまでは分かります。

 しかし、例えばおなかがすいていて何かを食べたくなるようなとき、これもカント先生は他律的な状態であると言います。

 すなわち、自分の欲求に操られているからだ、というのです。このようなことを欲求の奴隷と呼びます。

 つまりカント先生にとっては、本能的な欲求もまた、自律するべき自分自身の理性とは対立した存在であるのです。

 この考え方が、今回カント先生をフィーチャーしたくなった部分です。

 感性などの本能の欲求に操られたままでは人間は動物と変わらない。理性による判断というものを得て、人は自由になってゆくべきだ、というのがカント哲学です。

カント先生の言う他律について、ハーバードのサンデル教授が面白いたとえをしています。

それは、宙に投げ出されたビリヤードの玉のようだと言うのです。

完全に物理法則にしたがって落ちるだけの状態です。人間も、もし高いビルの上から投げ出されたら、重力や慣性、空気抵抗などの自然の法則に任されるばかりです。これが自然の奴隷である、他律の状態です。

その場合、着地点に物や人があれば激突して大変なことになってしまいますが、落ちている人自身にはそれはどのようにもしようがありません。あるいは、頭を囲ったり体を丸めたりすることはできるかもしれません。その数少ない選択が、カントの言う外因から突き付けられた選択であり、自由ではない選択なのです。誰だってそもそもビルから投げ出されたくはないですものね。確かに大変不自由そうです。

では、自由であるところの自律とはどういう状態でしょう?

それは、自分自身の法則によって物事を判断するということだそうです。

それが可能であるために、人間は動物とは一線を画し、そして尊厳があるのだと言うのです。

自律はどのように可能でしょう?

カント先生は、目的そのものを目的とすることだと言うようです。

例えば、○○をすることを選んだのは、それ自体は好きじゃないけどそうしておくと後で××になるから……というような選択を我々はよくしますね。それが功利主義です。

結果の損得で、戦略的に物事を逆算しています。

このような他律の状態では、我々は目的を達成するための奴隷なのだとカント先生は言います。

対して、●●がしたくないからそれはしない。××がしたいならそれをする。というのが目的そのものの目的化です。

自然やほかの状況が押し付けてきた選択から逃れるには、自分で決めた自律で行動するしかない、というのがカント先生の考え方のようです。

これはある種の解脱思想のようにも感じます。

釈尊と同じく、カント先生もまた、現世の出来事の渦から脱出する方法を探って居たようです。

面白いのは、カント先生は他律の時、その人には責任がないと考えているということです。

ただこれは、無責任だからなんでもいい、というようなものではありません。

ビルから落ちた人の例で言うなら、着地時に何に衝突するかは外因が決めることで当事者が選んだことではないので、責任は生じない、というのです。

この法則があらゆる他律選択にも発生します。すると、あらゆる選択の結果に人は責任を持たないということが起きえます。

そしてカント先生は、自律にこそ自由があると言っているわけです。

つまり、他律に流される人に責任はない。なぜなら自由ではないし人格の尊厳もないということになります。

それは、道徳のない人間であるということです。

自律という道徳こそが、人を外因から自由にする道だとカント先生は考えます。

しかし、道徳なんて人それぞれです。それに対する答えはどうなのでしょう?

それでいいのだ、とカント先生は言います。

カント先生曰く、結果はどうあれ、動機が善であればそれは善なのだと。

功利主義を否定するカント先生らしい強烈な割り切り方です。

このような思想がまず西洋文明が神の支配という価値観から離れつつある過渡期の18世紀にあり、人間主義の象徴であるフランス革命が起きます。

しかしそうやって王権神授を否定して人間主義の文明を築こうとした結果が、ナチの台頭につながるというのは以前書いた通りです。

カント先生の言う、動機が正しければ結果はどうあれそれは正しい、という姿勢は、そこに重苦しく重ねあわされるように思います。

つづく






 



 






カント先生と東洋思想 2

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さて、前回まででプロシアの道徳の化身、イマヌエル・カント先生の思想を私なりに分析、要約してみました。あくまで専門家ではないので間違っていたらごめんなさい。

改めて書くと、自然界の外因や自身の身体的な欲求にしたがってしている選択はすべて自由なものではない。それらは欲求の奴隷に過ぎない。本当に自由な選択とは自分自身の理性によって内側に設定された法則にしたがうものであり、それが道徳であり、それができるから人間は動物ではない人格を持った存在として尊厳を得るのである、というものです。

アリストテレス先生は、生まれつき奴隷にふさわしい人間が居るとし、「自らは理性を持たないが、他人の理性を理解する程度には理性に関与する人間は、生まれつきの奴隷である」としています。

18世紀のカント先生と古代ギリシャのアリストテレスとではだいぶ時代がことなりますし、理性の定義づけも違うかと思いますが、カント先生が西洋哲学の正統継承者であることがうかがえるかと思います。

この、正統の西洋哲学においては、自然は野蛮で克服すべき物、開拓するべき未開のものととらえることが主流でした。

そのため、カント式哲学では、その威力から離脱した理性を持つことが自我の自由であるとしていたのでしょう。

このようなカント先生の理性主義は、個人的に大変好もしく思いますし、大いに敬意を抱きます。

先日「オデッセイ」という映画を観てその原作の小説も読んだのですが、まさに西洋教養主義の良いところが全編にあふれた、ヒューマニズムの傑作であると感じ入りました。

しかし、近代哲学においてはこのような人間主義の姿勢は現代ちょっと古いものだと目されている節があります。

ニーチェ君の実存主義や心理学の深層心理思想などで、東洋思想の影響が強くなったためです。

我々蔡李佛拳の原点である少林禅の思想がそこからは不可分となります。

一般に老荘と言われる思想とインドから渡ってきた釈尊の思想が融合して、いわゆる佛教思想と言われるものになります。

そこでも重視されるのは、カントされるのと同じく人の自由です。

まずは自然界の外因、物理法則に対して、老荘では「天に仁なし」と言いきりました。

仁とは人格、すなわちキリスト教のような人格神や天の意図のような物は存在しないということです。

すべてはただの物理法則であり、運不運のめぐりあわせに過ぎないというのです。

このハードボイルドな考え方において、自然の法則のことを道(タオ)と呼びました。

カント先生はこの自然の法則やそこに通じる人間の本能からの超越を理想としましたが、東洋においてはそうはなりませんでした。

タオに従い、そこと一体化することが自由への道だとされ、道と一体化することを道の徳、すなわち道徳と名付けました。

カント先生と真逆の発想です。自然の一部として一体化してしまえば自由だというのです。

カント先生は人間の自然欲求の部分を感性、尊厳ある自律された部分を理性と呼んで区分しましたが、タオの世界では自然の部分を元神、理性の部分を識神と呼びます。

神とは神経、精神などと言うように、心を意味します。その心に陰陽の分類をして、元神と識神に分けたのですね。



西洋式が後者の理性を徳と呼んでいるのに対して、東洋では前者の方を徳と呼んでいるのが対照的です。

識神の方は自我であり、自然の運行から離れていってしまう物とみなします。妬み、迷い、妄念や執着など、仏教でいう煩悩のようなものはみな、人ならではの識神の内にあるとみなしています。

それらに振り回されることなく、木石や水の流れ、炎のひらめきのように、己のあるべきままの様を生き切ることが東洋思想における道徳となります。

このような、自然回帰思想のことをナチュラリズムといい、カント先生のような人間主義、ヒューマニズムとは違う視点の思想となります。

カント先生の場合は自律を自由への道としましたが、タオの思想ではあるがままの自然回帰を自由への道であるとします。

そのための具体的な方法としてあるのがいくつかの行です。

その中に、ヨガや気功、瞑想、そして武術があります。

自然に変えるためには、自然にそもそもある動物や植物などと共通性のある呼吸や動き、感覚の追及などをしてゆくというメソッドです。

この、身体性があるというところが、東洋思想の厚みであるように思います。

もちろん、お釈迦様の言うようにひたすらの苦行はそれはそれで妄想への入口となって意味がないのですが、日常的な習慣としての範囲での有効な身体的行は、頭だけに偏りがちな文明人に感性の洗練をもたらしてくれます。

この場合の感性は、カント先生の言う感性と同じものだととって差支えないかと思います。

とはいえ、闇雲に先祖返りを促しているわけではありません。

そこは東洋の陰陽思想、元神と識神の調和を至上としています。

さすがは歴史の古い中華文明。人間が社会において生活していると、どうしても内側に入り込んで行ってしまったり頭でっかちになって煮詰まってしまうということをよく理解しています。

社会において経験を積んだり戦略的思考を働かせようとするほど、視界は狭窄してゆく気がします。

そのようにして隘路にはまり込むことをさけるために、各種の行で身体そのものは生きていることを喜んでいるのだ、ということを感じなおさせようとしているのだと思います。

カント先生も、時計のように正確に毎日の散歩を欠かさなかったと言います。

もし、東洋思想に深く触れていたら、さぞさらにすごい思想が生まれて、人類史を大きくかえていたのではないか、と思うところがあります。

ただの運動不足解消や自我の拡大ではなく、命の手ごたえを感じさせて、精神の正常化をさせるためのものだと言うのが、本物の伝統中国武術の目的です。

武術解析本について

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昨今また、お医者さんなど科学畑の人たちの視線からの武術本が出ているようです。

私も通りすがりに手に取ってみたのですが、いやはや困ったものでした。

あまり人のしていることに批判ばかりしたくはないのですが、こればかりは少し苦言を呈する責任があるかもしれないと思いました。

まず個人的な事実としてなのですが、門外漢の科学者がそちらの視点で武術を解析した本で、的確な物には一度もお目にかかったことがありません。

これはテレビなどの番組でもそうです。

おそらくその原因は、彼らが武術家ではないからだと思います。

私も伝統武術の伝人として気功や推拿なども学びましたが、だからと言って伝統医療の視点であらゆる病気を治療できるなどと思ったことはありません。

それは私が専門家ではないからです。

それとまったく同じで、現代武道の二段三段くらいの方が本物の達人のような人の技を外からみたりして解析しても、実際には何が行われているのかがまったく理解できていないのは間違いないと思います。

秘匿性の高い伝統武術の世界では、自分ができない技については理解ができないのは当たり前です。極限まで厳格な例としては、意拳の先生は「指導者がやっていることを真似しても、細胞一つの動きが違えばそれはもう間違っているのだ」という言葉があるくらいです。

西洋体育的な理解に落とし込んで無理やり高級技法に理屈をこじつけるのは、矮小化以外のなにものでもありません。

そのような形で本物の伝統武術が貶められて、大したことのないものだと巷間に喧伝されるのは大変に困ったことだと感じます。これは、自己流技法を教えている先生にも言えることです。

もちろん解析者の先生や自己流先生に悪意があるわけではなく、武術を愛好し、あこがれているからそのような活動をするのだろうとは理解できるのですが、やはり伝統武術の解説を本当にされたいと思うのでしたら、まず自身が正統継承者となるまでしっかり稽古をして、自分ができることを独白する形での公表にしないと、客観性にかけるのではないかと思います。

悪意がないので責め立てる意図ではないのですが、この文を目にしてくれた方が一人でも二人でも、外野の憶測をうのみにして伝統武術の真相を見誤らないようにと願う気持ちでこのようなことを書かせていただきました。

ぜひにぞ賢明な皆様は、正統な伝承者の意見にしか耳を貸さないよう願います。

ただ、われわれ伝統側の問題としては、多くの場合自分が行っていることを普遍的に他人に通じるような学問上の言葉でうまく表現するすべを持ち合わせていないということがあります。

そのようなジレンマの中で、いずれ言葉を語る力と武術の実力の双方に優れた偉人が現れて世に広まる誤情報を改めてくれる日がくることに期待をかけたいと思います(もっとも、本当に秘伝を公開するかはまた別の問題ですが)。

なお余談ですが、中国には医学博士で大成拳の老師という方がいらっしゃり、その方の発表された研究成果は大変に有徳なもので感銘を受けたことを付け加えておきます。

そのような方にしか、信憑性の高い形で本当のことは語れないと思います。

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