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3月関内ワークショップのお知らせ

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3月のワークショップは20日、いつも通り第三日曜日です。

今回は特に、カラテとの違いなどに着目して勁力の養成と運用を公開していきたいと思っています。

時間はいつもどおり18時から。

場所もいつもの関内駅五分、フレンドダンス教室さんです。

よろしくお願いいたします。


のびた君とキテレツ君

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老荘思想というのが、自由に生きるための思想であり、我々の少林武術とはそのためのエクササイズであるということを書きました。

ここで言う自由とは、「自」らに「由」来する、という意味で、あらゆる感じられる出来事は、自分自身の感覚によるものだと言うことです。

そのような気持になると、心頭滅却すれば火もまた涼し、というのはかなり仏教や修験の荒行のように感じてしまいますが、それはあまりに極端なケースと言えども、実際に暑い夏に呼吸の仕方によって少し体感温度を下げたりするようなことは気功によって行います。

それでも信じられないというような方のために具体的な例をあげますと、打ち身などに貼る湿布薬で、腫れを冷やすような物がありますね。

いまは薬も進化しているのでまた違うのかもしれませんが、昔売っていたものの中には、ミントですーすーとした気分にさせているだけで、実際に温度そのものが下がっている訳ではないものがありました。

もちろん、詐欺ではありません。それでちゃあんと効果があるのです。

自律神経が冷感を感じれば、実際に冷えているのと同じように血管が収縮し、腫れは引いてゆきます。

これが気功の仕組みです。自分の感覚を操作して実際に現象を変化させることは可能なのです。

また、そこから派生した漢方を合わせて使うなら、やはりミントのような冷感のある植物を貼るということになります。

これと逆の例では、寒い時に靴下の中に唐辛子を入れて血行を促して温度を上げるという物もありますね。

このように、自分の感覚を操作するという点に着目すると、意外に本当に自由になれる幅というものはあるものです。

とはいえ、体育会系的なポジティブ・シンキングやスピリチュアルのようなものとは決して混同しないでください。

行なくして目先の気持ちの切り替えだけで気分を操作するというのは、薬物の乱用のようなものです。きちんと処方がないのに気持ちよくなる薬を場当たり的に投与しつづけるのは非常に危険なことです。

本当に手の打ちようがない場合を除いては、麻酔を用いたなら次に適切な対処を行うべきです。苦痛を感じなくなったからといってそのまま放置ではより症状が悪化してゆくのを放置しているばかりになってしまいます。

気持ちを静かにさせながらも、実際に自分の命や暮らしを静かに育んでゆくことが行の本体となります。

そうして目指すのが、安心立命(あんじんりつめい、または、あんじんりつみょう)という目安です。

ただ心が安らぐのみならず、自分の命がきちんと立つということ。あるべきように自分の本質の性のあるべきかたちで生きられるようにする、ということです。

このような状態が天にかなった命のありかた、すなわち天命と呼ばれます。無為自然、天人合一とはこのようなことです。

現状から目をそらすためだけのお呪いをとなえて自己催眠を塗り固めてゆくポジティブ・シンキングやスピリチュアルでは決してそうはなりえません。

それらの果てにたまたま社会的成功や自己実現などを得ても、本質である自己が変わっていないのですから、必ず虚しさから逃げられないはずです。

その大切さを示すのが、みんなの大好きなドラえもんに出てくるのび太くんだと感じます。

彼は毎回、なにがしかの欲求を持ってドラえもんに頼るのですが、それは常に社会的な欲求です。

自分自身の本質から湧き出てきた欲求ではありません。

対して好きでもない野球で活躍していい格好をしたいとか、平素山が趣味でもないのに友達がハイキングに言ったからうらやましくなるとか、本当の自分の欲求ではなくて社会的なステータス上での欲求です。

嫉妬や虚栄心、逃避願望に攻撃性など、常にほかに対象があって、それに反応する形でしか動いていません。

そのために、それらの欲求がかなえられた結果、足りるということを知らずに欲望に取りつかれて破滅するまでいってしまうのです。

自己の内から訪れていない願いは、そもそもが自分自身の物ではないのでとどまることがありません。

彼と対象的なのが、キテレツ君です。

彼は発明が大好きで大好きで、自分のお小遣いをやりくりしては好きな発明に没頭している、非常に自己の確立された少年です。

野球がうまくなくて馬鹿にされても、それは自分の持ち分ではないのだからと理解しています。

この、自分の欲求をきちんと理解して自分の人生をきちんと生きている、ということが大切なのです。

彼のような生き方のことを禅では三昧と言います。彼の場合は発明三昧ですね。これは禅においては大事な暮らしのありかたとされています。

日常の作務や行などで、夢中になって何かに集中しているということが大切だそうです。

のびた君とキテレツ君、二人を取り巻く人々は大変に似通っています。

しかし、彼らの人間関係はまったく違っています。

のびたくんの周りの関係は常にストレスフルできわめて敵体性の強いものですが、キテレツ君のはまるでそうではありません。

キテレツ君は運動はできないけれども、尊敬され、頼りにされています。キテレツ君自身も仲間の一人一人の人間性を認めて、快く彼らのお世話をしてあげており、ある意味でお兄さんやお母さんのような包容力のある存在でいます。

これは、彼が物質的に発明を行って役に立つからではありません。現象面だけでいうなら、のび太君もドラえもん経由でいろいろな物持ちでありますが、決してそれによって尊敬はされていません。

キテレツ君は、自分自身を持っているということが重要なのだと思います。

彼は自分が好きなことを自分自身の中核としてきちんと持っていて、独立した命として生を一貫させています。

そのしっかりした人間性が尊敬と信頼を得ているのでしょうし、彼自身も自分がしっかりしているから、他人を思いやる心を持てているのでしょう。

同じような人々に囲まれていても、自己を立てて生きているか居ないかで、これだけ住む世界は変わるのです。

このことが、気功の、そして老荘思想や禅の根本に説かれていることです。









3月20日の関内ワークショップの内容

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 次回のWSでの内容は「勁力強化特集」としました。

 リピーターのみなさんも勁力の根本構造は理解されているようですので、今回は強化を図ります。

 みんな、理解はしてきても心が負けて上手くできないって?

 知るかそんなもん!

 心の弱さはもう自分でなんとかせい!!

 あんたたちゃもうできてんだよ! いつまでも出来ない自分に安住してないで自分の力を認めて次の段階に行くべきなんだよ!!

 そんな訳で、もう強化に走っちゃいます。

 結局のところ、威力が強ければより、勁力と拙力の区別はつけやすいとも思います。

 またそこから発展して、今回はえてして、松濤館空手と似ているとか、沖縄空手のルーツであるという形で紹介されがちな蔡李佛拳を、空手との相違点を比較的に検証してゆく形のワークショップにしてゆきたいと思っています。

 空手の技術が分からない、型の意図が読めないという空手修行者の方にもぜひきていただきたい特集です。


時間 18時~20時

 会場 フレンドダンス教室さんhttp://www.its-mo.com/c/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%95%99%E5%AE%A4/DIDX_DKE,7178697/

 エントランス

  会員     2000

  事前予約  2000

  準会員   2300

  当日     2000

龍の話

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 我々の武術における五獣は、他と違って龍がなくて象が入っているという話を書きました。

 今回はその龍について書きたいと思います。なぜなら、龍というのは中国思想において大変重要な存在であるからです。

 その意味では、我々の武術も充分に龍的な気質に満たされています。それはつまり、気の思想、陰陽思想が中核にあるということです。

 いま、手元にあるポケット辞書で気と言う言葉について調べてみると、おおむね以下のような意味がならべられています。

 1・ガス 2・空気 3・晴れ、雨 4・匂い 5・息 6・心持、気持ち、精神 7・生まれつきの性質 8・ありさま、様子。

 このうち、1のガスと言うのが最も中国で言う気を誤解させる意味だと思います。これは気体のことを差して言う言葉ですね。

 陰陽思想では全てのエネルギーのことを気と表現していて、それは大きく言うと五行という五つの形であらわされます。すなわち、プラズマ体である火、液体である水、鉱物である金、生物である木、土壌である土であって、気体のことを差して気と言っている訳では決してありません。

 このような混同は、マンガで描かれる気体のような光のようなオーラと気の区別のついていないオカルト好きなどによって広められた物のように思います。

 また、立派な日本武道の長老などが、気功を呼吸法のことだなどと一知半解のことを言いきってきた過去が原因のようにも思います。

 五行の根源的物質である木火土金水の間に、五行相生という発想があります。木から火が生まれ、火が燃え尽きて土になり、土から金属が生まれ、金属に結露して水が生まれるという、それぞれのエネルギーの発生の循環を表したものです。

 このように、気の思想はエネルギーの循環を意味しています。

 この五行の上に、陰と陽の二つの大局があって陰陽五行説の骨子を成します

 この陰とはすべてのエネルギ-のうち重い物、沈んだものとされていて、陽とは軽い物、昇る物だという見立てをします。

 古い書物には、雲のことを気と呼んでいたという著述があると言われています。

 陰陽の見立てを合わせると、陰、つまり重くなって雲が下に降りてきた物が雨だと言えますね。

 その雨が川になり、川が集まって海になり、そして陰極まって蒸発して上に登ってゆくものがガスですね。それが空で集まってまた雲になります。

 まさに気の循環の仕組みを象徴していますね。

 この水の象徴である生物が、龍です。

 西洋のドラゴンとは違い、中国の龍は水の守護者です。

 川を下り、海に棲むと言われていて、時に空に登り、また雷や豪雨を伴って地に下ってくると言われています。この、上に向かう昇り龍のことを雲龍と言い、下に降りてくる龍のことを雨龍と言います。

 すなわち、龍とは気の象徴なのです。

 そう考えれば、気の運用を持って身体操法を開発してゆく中国武術において、龍のシンボルが用いられるのは当然のことと言えます。

今週土曜日(3月5日)のお知らせ

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 今週の土曜日通常練習は、いつもの大通り公園で11時より行います。

 雨天の場合は相鉄線和田町駅国道16号線側の、杉山神社前の高架下公園にて行います。

 ご興味ある方、この機会にぜひいらしてください。

野狐禅

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 禅宗のお坊さんが書いた本を読みました。

 大変に面白く読ませていただきました。

 特に面白かったところのうちの一つは、禅というのが老荘思想の後裔であるということがわかったことです。

 佛教、すなわち中国仏教というのが道教、儒教の影響を受けて成立しているとは聞いていたのですが、少林寺のお坊様の話では「みんな同じものだ」という禅問答のような答えを読んだことがあるだけではっきりとした手ごたえが無かったのですが、今回の書見でだいぶ感覚がうかがえました。

 以前から繰り返している通り、我々の拳は思想の体現です。

 その思想が老荘であり、禅であるということの理解がいくらか自分なりに深まったように思います。

 またもう一つ面白いと思ったのが、この作者のお坊様が脳からのアプローチをしていたところです。

 正確に言うと、アメリカでの禅の解釈における脳のアプローチを肯定的にとらえていた、という意味なのですが。

 その説明の中を私なりにようやくしてみると、脳には悟りに関係する八つの習性があるそうです。それらをこの本での解釈を後ろに入れて、このように紹介されていました。

 1・全体視機能 一緒くたに見ちゃう 2・還元視機能  細部ばかり気にする 3・抽象機能 概念におぼれて具体を見ない 4・定量機能 数えたり計ったりして、もっと欲しがる 5・因果特定機能 ご褒美を期待しちゃう 6・二項対立判断機能 つい比べちゃう 7・実存認知機能 大げさに考えたり簡単にあきらめたりする 8・情緒価値判断機能 感情に捉われる。

 このような脳の働きが禅を通した結果、脳機能から悟りが得られる、というのがアメリカの研究者の論だそうです。こ

 このアメリカの論では、そのような脳の働きによる禅の悟りと、修道士などが得ることがある神との合一は別のものである、としています。

 この、後者のうちに、キリスト教以外での神などとの合一体験や、密教での神秘体験も含まれるそうです。

 さらに、禅宗でも曹洞宗と臨済宗ではまた違うと言います。

 少し自分の話をしますが、私もこの瞑想的神秘体験をしています。

 もっともこれは、神秘体験とは自分では認識していません。そこには神秘的な要素はまったくないからです。単に、脳がおかしな作用をしているのだと冷静に認識しています。

 自分なりの解釈では、これはスポーツで言うゾーンという奴だと思っています。

 昔、荒行で脳を酷使していた結果、脳内物質や脳波がおかしな状態になる回路が開かれたらしくて、一定の行為をするとそのような状態に入るのです。

 以前、私と同じようなタイプの人で、ボールがバウンドするのを何度か見るとそうなるという人の話を聞いたことがあります。

 散歩中などに子供がサッカーの練習をしているところなどをうっかり目で追ってしまうと、たちまち周りの時間がスローモーションになりはじめるそうです。

 このような状態はあくまで生理的な物であり、また、禅が個人の確立を趣旨としている以上、決して信仰心からのものではないと思っています。

 私の場合は、気功の結果、ある程度その状態に任意で至れるようになったのですが、それはあくまで肉体的な行の単なる結果にすぎません。それがえらいわけでもすごいわけでもない。

 その私の見解と同様のことを、禅のお坊様が著述してくれたのは安心の得られるものでした。

 すこし話が流れますが、これらのことを書いた章の後、本は野狐禅について述べていました。

 瞑想による三昧経験と野狐禅と言うと思いだすことがあります。

 それを語る前に、野狐禅について簡単に紹介しましょうか。

 昔、臨済宗の百丈和尚という方が説法をしていると、いつもそれを聞きに狐が来ていたそうです。

 なぜそのようなことをしていたかというと、実はこの狐は元はやはりこの山に居た僧だったのですが、雲水の一人に「悟りに至った人でも因果に落ちるのでしょうか」と質問され「不落因果(因果に落ちない)」と答えたところ、どうやらその因果のために狐に生まれ変わってしまい、以後五百回も、狐に生まれ変わっているのだというのです。

 そのため、正しい師匠につかずに自己流で勝手な修行をすることやそのような人のことを野狐禅という3ようになった、というお話です。

 私が、自分の気功の修行の結果、たまたま三昧に入ることが出来るようになったことを、ある友人が聴きつけました。

 この友人は、やはり武術の修行者で素晴らしい地力を持っていたのですが、性格的に難があり、師からその土台の活用のしかたを教授してもらえず、結果自己流の研究をしていました。

 そこまではやむを得ないのですが、自己流であることへの不安からか、他人や他流を知りもしないのに矮小化して見たてたり語ったりして自分を安心させようとするところや、他人の足を引っ張って自分をなだめようとはかる癖がありました。

 師に対する筋道や武林での立ち振る舞いにも極めて不誠実で、私も友のためだと思ってたびたび口うるさく注意していたのですが、その場ではすまながる物の、ほとぼりが覚めれば「うちはそんなにうるさくないから……」などと言い出したりして、どうも心には通じていなかったようです。すぐに元通り、自分をダメにするようなことばかりを繰り返していました。

 この友人が、その私の修行の進捗に対して「そんなのは魔境だ」などとまた足を引っ張ってきたことがありました。

 魔境というのは、自分が悟ったと思っていても、悟っていないという状態のことを言います。

 むろん、私は自分が悟ったなどとは思っておらず、ただ変化があったと言うだけのことなのですが、その友人は「それくらいは俺だってできる」などとまた卑屈なふるまいにいそしんでいました。

 結局、彼は師から破門されてしまいました。

 その後も、自分が悪かったなどとはあまり思っておらず、自己流の道をさまよっているようです。おそらく、五百度生まれ変わっても彼が真実にたどり着くことはないのでしょう。

彼は、特別に邪悪な人間や人の不幸を願う思想の持ち主ではありません。単純素朴な青年なのですが、なまじ武術の才があったばかりに道を踏み外してしまったのです。

 私が常に自己流はダメだというのは、自分が武術に求めているのが個の確立だからです。

 そのための行として行っているのに、自分を依頼心の強い甘ったれた人間に貶めるようなことばかりするのは、本質的に逆行だと言えると思います。

 友人も自分自身を天狗魔道の性癖があるとは語っていたのですが、どうしてもそんな自分をしっかりと見つめて立ち直る意思を維持できなかったようです。

 なまじ初歩の実力が高く、強い地力を持っていたために、やり直すことが出来なかったのでしょう。

 惜しい話です。

 私は十年やった古武術をすっぱり切り捨て、その後に六年やった回族武術も辞めました。

 それは、自分の立場やそこまでの執着を温存するためにしていたからではないからです。

 それが自分にとってよくないものだと思えば、ときに果断を下す必要もあるのだと思います。

 特に、日本の中国武術の世界は伝来の歴史上、内家拳がリードしており、禅の行であるという少林拳のスタンスが明確に認知されていません。

 ただの格闘技や現代武道の代替として知られていると思うのですが、それでは本来の少林武術の醍醐味は味わえないと思っています。

 自己の確立、それによる自由な命を生きることこそが私たちの武術の本来の目的です。

自分自身が確立できないまま他人の価値に振り回されるなら、野狐禅、魔境、天狗道という妄執の中でさまよい続けることになりかねません。

変態します

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この半月ばかり、右の足首に痛みを抱えています。

これは、我々の勁力の特徴であるひたすら静かな定力を強く求めた結果のもののようです。

練功によって足首の関節のつながりかたが強制されて、より強い状態に耐えうるように付け直されたようです。痛みは徐々に治まってきています。

これとまったく同じ現象が起きたケースが、還暦すぎの先生に起きたのを知っています。

このように練功で体が変形することを変態といいます。

昆虫などが蛹から孵ったり、おたまじゃくしがカエルになることなどをこう言います。

中国武術の練功とは技の練習ではなく、体そのものを作り変えることを目的にしています。それが六十を過ぎてもなお起きるというのはすごいことです。それまでの自分とは違う自分に、目に見えてさらに進化が続いているのです。

この変態はまじめに稽古をしていると定期的に訪れます。

そのたびに、以上に腕が重くなったり、やたらに疲労感に包まれたりと体質の変化が起きるのですが、それらは一定の工事期間のようなもので、終わると前より強い自分になっています。

私自身が体力的な問題を感じ始めたのは、24の時でした。

子供のころから格闘技や現代武道をしていたのですが、明らかに19、20の時とは体が違ってきてると感じました。

その後、27のころには腰や膝の故障がひどくなり、引退を決意しました。

中国武術に転向したのはそれが理由の一つです。

はじめは、ヘルニアなどを経験した腰の痛みが緩和されれば儲けものだなあくらいに思っていたのですが、それがまさか20代のころより生物として進化するとは思っていませんでした。

ちなみに、上述の還暦の先生をはじめ、私の先生やその師兄弟の皆さんが中国武術を始めたのは40からでした。そこから肉体が飛躍的に成長していったのです。

内功を積んでゆくと、男性は関節の角張りが消えてのっぺりしたフォルムになり、体の内に膜騰起という現象が起きて肉が暑くなってゆき、ロボコンのような体型になってゆきます。

女性は手足はほっそりとしてゆきながら、胸や腰は張ってゆくそうです。韓国の美意識で言うモムチャンのタイプですね。

おそらく、これらは神経の活性化やホルモンの働きのためだと思います。

東洋医学に基づいた美容と健身効果の研究のたまものですね。

気功には原始信仰の不老思想に影響が強いため、このような効果が高いのでしょうね。

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私の友達は、十代のころから二十年ばかり台湾の有名老師についています。

時々台湾に行って、マンションに泊めてもらって寝食を伴にし、稽古漬けの暮らしをしているようです。

その先生は世界でもトップクラスの有名老師なのでよく日本の雑誌にも出ていたのですが、ある時に套路(日本で言う型)について語っていました。

そこで、最初に習う型は今では一週間で詰め込むが、昔はそれだけを三年やった、とのことです。

「こんなことをいうとホラを吹いてると思われるかもしれないが」と注釈していたところに、伝統武術と現代武道や格闘技との差異を感じます。

私たちからすればそれは当然のことです。

その先生曰く、いまは忙しいのでどうしても一週間で形式だけを教えてあとは練習法を指導することになるがそれでは完全ではない、一つ一つの意味を理解してできるようになるには三年だ。だそうです。

私は三年なら早いと思いました。

超一流の先生の、人類史でもトップクラスの遺産を三年で引き継げるなら、早すぎるくらいです。

これは一生物の宝です。誰でもが手にできる物ではない。それがただ、三年専心すれば身に付くのです。

例えば大学で空手部に入ります。そこで四年間稽古をします。平安を何段もやり、那覇や首里の型をいくつもこなし、卒業までに有段者になって終わりです。「昔空手部に居たんだよね」という人としてすごしてゆきます。

伝統武術はそういうことではない。

一つの套路をずっと練り続ける。

だいたい一つの門派の中に、徒手の套路は四つほどというのが普通でしょう。多くても八つ。

うちは蔡李百套と言われて兵器を含めて百、徒手で四十もありますが、明らかに多すぎる。

本当に必要なのはやはり、四つか五つ。

個人的に言うなら、さらにその内のたった一つでいいくらいです。

あれもこれもと欲しがるのは、人情としては分かりますが決して本道ではありません。

人の知らない型を知っている、人の知らない技を持っている、段位をいくつ持っている、そういうことにとらわれる人は、武術の本道から外れています。

これが魔境です。目先の欲求に目がくらんで道が見えなくなってしまっている。

武術は自分自身を作るための物です。コンビニエンスストアでジャックフードを買いそろえるのとは違います。

前述の有名老師はその記事の中で言っていました。

「套路を盗むのもいけない」

それは、他人がやっている套路と交換教授をしあって自分もできていることにしてしまうことだそうです。

本当に完全に老師から教授されて完成したのならそれでよいですが、不完全にかじっただけで自分ができているかのようにしてしまうことは盗みだというのです。

当時の記事では、DVDや本を見ただけで人に教えだしてしまう人なども含めて盗人扱いしていましたが、いまでいえばYOUTUBEなどで見ただけで人前で演じてしまったり自分の套路だということにしてしまう人もこの類でしょう。

本当に、自分のことを知っている師から、自分にしみこむ形で教え込まれた物意外は、自分自身の物ではありません。

なぜなら身に付いた套路や技術は、自分自身だからです。

功夫は他人には盗むことのできない宝だと習ったことがあります。

形式は盗めても、その本質は他人が物にすることはできません。

それは、与えられ、受け取ることでしか引き継がれない物です。

師を求めることは難しい。徒を得ることもまた難い。これは中国のことわざです。正しい技術を受けついでいる人に出会い、それを相伝してゆくことは、大変に貴重なことです。

そうやって得た物の中から、自分だけのたった一つの本質を見つけて、生涯かけて納得いくまで磨いてゆくこと、それが正しい武術の取り組み方だと思っています。


道を求める

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昨年の夏終わり位から、点馬での勁力と棍に重点を置いて練功していたところ、勁力に大きな徳が見られました。

馬を大切にして、それで兵器を練ると大変に功が強くなります。

刀は父、棍は母とうちでは言われていますが、実際、少林武術として考えたときに、拳術の源流は棍であったということができます。

そもが、少林寺で行われていたのは、気功と棍法だったのではないかと私は考えています。

病気やケガから身を守るためにヨガ(気功、瑜伽行)が行われており、獣や賊から寺を守るのに棍が行われていた、と思っています。

その棍が知られて僧兵化してゆく過程で、周辺の武術家と交流して、少林武術の体系ができていったという話を読んだことがあります。

「すべての武術は少林より出ず」という言葉がありますが、実際にはそのすべてがインドからもたらされた訳ではなく、土着の北派武術が研究されて少林で再編集されてさらに広まったという経緯が思われます。

そののちさらに、現在知られるいくつもの名門各派で再体系化をされ、弊習や合一化がされている形跡が見られます。

その代表の一つが蟷螂拳で、みるだに即戦性を重視した強力な拳法のように感じさせられます。

我々蔡李佛拳も、同様にいくつものルーツから再編纂されたものですが、そのうちの一つ、白鶴拳はまたの名をラマ拳と言い、臨済宗の僧侶に伝わっていたものだと言われています。

ここのところ、うちの派がフィーチャーされた香港映画をいくつか見ていたのですが、どれも妙に抹香臭いのはそのためかもしれません。

私自身も、その、哲学の教えを決して離れないところがもっとも好きなところです。

仏の教えと言うと、なんとなく年寄りくさい物のように現代日本人は印象しがちかもしれませんが、実際はかなりパンキッシュでアナーキーなものです。

インドから中国に仏教の再渡来をもたらした唐の玄奘は、非常に苛烈な人物であったと言われています。

世界的な国際都市であった唐の都に自分以上に経典を理解している人間が居ないと感じた玄奘は、自らインドに行って学んでくる他、中国仏教の未来は無いと考えて旅立ちました。

これは当時では禁止されていたことであり、いわゆる密出国となります。

途中、インドで修行をしてきたほかの国の僧たちのもともめぐるのですが、それらの僧侶たちの理解も自分に及んでいないのを感じると、露骨に態度に出たのだと書き残されています。

いまでいうクチャに居たモーシャグプタという高僧の名を慕って面会にゆくのですが、それに同行した従者の記録には「法師ははじめモーシャグプタを深く尊敬していたが、その言葉を聞いてからは彼を見る目がと土くれを見るような目になった」とあります。

モーシャグプタはインドに20年も居て仏教を修行した高僧だったのですが、会ってみて話を聞いてがっかりしたのだ、ということのようです。こういうことはままありますね。

私もある高名な名門の老師とお会いした時に、落ち着かなげに目をしばたたかせて唇をとんがらかせながら「あなたの知っているA先生は私にいつもペコペコしている」とか「有名な他流のB先生やC先生は、私が気に入らないと言った奴は一走りして殴ってくれる」などと言う話をされて、がっかりしたことがありました。

また別の少林派流れをくむと主張している先生は、酒を飲んでは海外で贖った売笑婦の話を楽しげにしていました。

まぁこの二人は品性の問題ですが、モーシャグプタの場合は、たんに天才であった玄奘には物足りなかっただけなのかもしれません。

なにせ玄奘はまたの名を三蔵法師と言うように、普通は一つでも大変な仏教の極意を三つもきわめていたほどの大天才でした。

さらに、そこで満足するのではなくて、もっともっと深い真理を求めて人生をかけた旅に出たことが、この人の本当にすごいところだと思います。

また、日本に密教を定着させた弘法大師空海も、時に自らより劣る人に冷たいところがあったという話もあります。

もちろん、他人に親切ならそのほうが良いのですが、このようなレベルでの真理の追究をするということは、世間智のようなものよりも優先してしまうものがありうるように思います。

私が会ったことのある人間臭い二人の先生と、冷徹だけど真理に誠実な二人の僧を比べてみれば、やはり後者のお二人は尊敬できると思ってしまうのは、私自身がまた真理を求める部分があったからでしょうか。

真理への誠実さと切実さのようなものを、私はとても美しく感じてしまいます。 

おいしいカンフー

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 筆頭学生のコーコーさんが、ようやく中級に入りました。

 ほんとは一気に私が持っている最高級技法まで一気にやってしまいたいのですが、そういうわけにも行きません。やはりひとつづつ丁寧に組み上げて身体を作っていかないと不可能なのです。

 ようやく、骨格を主体にせず、内勁で動ける身体が出来てきたからこそ、それを使う段階になれる訳です。

 初級では勁を作って身体を変えてゆく段階で、ここからがそれを強化し、使いこなしてゆく段階です。

 この段階の稽古は、套路も練功法も、見ていて実に心地が良いです。

 これぞカンフー、これぞ南派拳法! という動きです。

 以前に書いた台湾の明師は「よい功夫は見ていて美味しいものを食べているような気持になる」と言っていました。

 彼の稽古を見ていると、私も幸せな気持ちになります。

 受け継いだ素晴らしい拳法が、また一人に伝わっていったという実りの手ごたえも感じられます。

 これは、拳風の継承とも言えると思います。

 私が今、八世の伝人で、動画などを見ると四世の掌門の五世の先生の套路を見ることができます。六世の先生からは、直接私の先生が仕込まれました。私の師父は、五世の先生と大変に風格が似ていると言われていたそうです。確かに動画を見るとそのように感じます。

 私自身も四世の掌門と動きが似ていると言われて感激したことがあります。

 その、師門の道系が、また先へとつながってゆくのを見ることには感動があります。

 それぞれの拳法にはそれぞれの拳風がありますし、また系統ごとに違った風格があります。

 これをまた、中国語で味道とも言います。

 まさに味ですね。見ている人が美味しい物を食べているような気持になれるような、術を練ってゆきたいところです。

辿り着きし者(中級に)

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以前にも書いたように、うちの筆頭学生のコーコーさんが中級の段階に入りました。

現在一生懸命覚えているのが、我々香港鴻勝派の蔡李佛拳のベースになった、洪拳、蔡家拳、李家拳、佛門掌、白鶴拳という伝系が表現されていると思しき套路です。

様々な派の基本拳が次々につながって出てくるので、大変に緊張感があり、また覚えるのが難しく、かつ非常に重要な部分です。

これができないと、基本ができていないということになってしまうので、実力が問われてしまいます。

この基本拳の連なりの内に、「弾勁」と呼ばれる物があります。

どこの門に由来するのか不勉強ながら私は知らないのですが、おそらくは北派の少林拳からきたものであろうと思われます。

なぜならこの弾勁という言葉、かつて私が習ったことのある北派拳法でも使われていたからです。

また、蟷螂拳などもこの勁を用いると聞きます。

北蟷螂を使う友達は、蔡李佛拳を初めて見たとき、蟷螂拳に似ていると言っていましたが、確かに様々な門派を合併してできた即戦性の高い拳法となると似るのかもしれません。

ただ、この弾勁という言葉、実は南でも使います。

しかし、他の南派拳法でいうこれはまったく違う用勁を差しているので注意が必要です。

このようないくつもの迷い道を避けながら正しい道を歩くというのは、やはり正統な伝承なしには難しいことだと思います。

いや、この辺りはきちんと習っても難しいところでもありました。

発勁の真実

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最近、古本屋さんで少し前の中国武術のムックを何冊かディグりました。

そこでは改めて、日本中国武術誌をなぞるような記事がありました。

その中で、中国武術とは何か、発勁とは何か、ということがクローズアップされていました。

当然のことだと思います。

中国武術が他の格闘技や現代武道、民族武術と何が違うのかというと、発勁という概念にどうしても行き着くからです。

これは、日本武道の合気やインドネシア武術のシャクティなどと同様の物であろうと混同されてきましたが、本質的にまったく違うものです。

なぜなら、合気道における合気やインドネシアのシャクティは、少なくともその発生の時には確実に信仰の具現化として存在していたからです。

そのような物は、ヴードゥにおけるロアの憑依やネイティブ・アメリカンの串刺しの儀式などと同じく世界中の信仰や宗教の儀式に存在します。

中国武術の勁は信仰のカテゴリに入るものではありません。視力や握力のような、純粋な身体的能力でありその技法です。

この、信仰と体育の混同の結果、火渡りのような物や根性、苔の一念岩をも通すのようなものとみなされ、精神論の机上で語られてきたこともありましたが、決してそのようなものではありません。

中国ではそれら信仰の結果の物は左道として明確かつ自覚的に分類され、それはそれで武術の1カテゴリとして活用されてきました。それらを普通、勁とは言いません。

そのように誤解に満ちた勁の、日本におけるいくつもの誤解のうち、特に最初期の物に「発勁は人格や才能を認められて拝師したものにしか授けられない」という物があります。

これは時代的背景もあるのでしょうが基本決してそんなことはありません。

なぜなら勁を練ることがすなわち中国武術を練ることなので、初歩の内から練習体系の中核に入っているからです。

ただ、このような誤解を招く発言をされたかたもその前後で「正しい師について教えを受ければ決して習得に長い時間はかからない」と言っています。

これはこの方がきちんと本当のことを知って居たことを明らかにしている証言だと感じます。

また、同様に「力はタオルをびりびりと裂くようなもので、発勁は一気に引きちぎるようなものだ」というものがありますが、しかしこれは必ずしも正しいとは言い切れない部分もあります。

なぜなら私たちの暗勁は、ゆっくりとびりびりタオルを引きちぎるようなものだからです。

想像してください。勢いをつけたり加速をしないで、ゆっくりと引きちぎってゆく様を。

これが暗勁です。

前者の一気に引きちぎるのは、短勁のことを差しているのでしょう。

勁力にはいろいろな種類があり、また門派ごとに特色があるので、それぞれに違った性質があります。

それを混同せず、またあれもこれもと欲しがることなく、自分の学んでいるものに専心して自分自身の物にしてゆくことが、もっとも時間を無駄にせず習得する方法ではないかと思われます。

拳学

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古本の武術ムックを一通り目を通しました。

ちょうど、心意拳と意拳がフィーチャーされていたころで、どれを見ても特集されていました。

両方とも、形意拳と同じ血族の拳法ですね。一般に、心意拳が漢化して広まった物が形意拳、そこから進化した物が意拳とされているようです。

その意拳、創始者の王向斎先生は、単に拳学と呼んでいたそうです。

記事に出ていたことに、意拳では筋をはぐくむのだ、ということがありました。

この場合の筋とは筋肉ではなく、腱や靭帯、体の中を通る仮想の線のことだそうです。

これと同じことを、私もさんざん言われてきました。「線を使え」「線を延ばす!」。私たちが言う鉄線功のことです。

この筋と、ひたすら立つことが意拳においては重要なのだと、ある先生の記事に書いてありました。

この立つことが大事だというのは、私がいつもここで書いていることです。

私が言っていることややっていることは、意拳と似ていると言われたことがあります。

また、実はやっていて中身は意拳なのではないかと疑われかけたことさえあります。

しかし違います。それはちゃんと意拳をやってる方々にも大変失礼なお話です。

では、なぜ私の学んでいるものと意拳の先生が言っていることが似ているのかと言うと、それはもしかしたら意拳の南派に影響を受けたという部分なのではないでしょうか。

そして、だとしたらそれは少林寺から伝わった物だということもできると思います。

つまり、俗に内家拳と言われる形意拳と、外家と言われる少林拳の出会いです。

また、立禅、站椿功というのがそもそもは少林の練功だと楊露全師が言っていたということも以前書きました。

この、形意拳のある種の少林拳化のような部分があるからこそ、派閥にとらわれない総合的な理合の学問だということで、王向斎先生はこれを拳学と呼んだのではないでしょうか。

と、そんな感想を持ちました。

ザ・ジェネラルと詠春拳

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 香港蔡李佛拳の世界に、デイヴ・レイシーと言う有名な先生が居ます。

 大柄で長髪でヘルズ・エンジェルズのようなファッションのこわもての先生です。

 この人は実力だけではなく、ブルース・リーと同級生で仲が良かったことでも知られています。

 ブルース・リーは私の見る限りでは蔡李佛が大好きで、創作した拳法であるジュンファン・グンフーでは蔡李佛の技法を大変多く取り入れており、映画の中でも多用しています。

 余談ですが、私の拳法家としてのブルース・リー評価が決して高くないのはそれらの動きを同門の目で観てしまっているところに起因していると感じています。

 そんなブルースとデイヴ先生は同級生だったそうで、私はデイヴ先生が教えてあげていたのかなあと思っていたのですが、実は逆であったことが最近分かりました。

 実はもともと、デイヴ先生も詠春拳を一緒にしていたそうです。

 ことの由来はこうです。ブルースは公園で練習していた蔡李佛拳のグループを見て「あんな大振りなのは使い物にならない」と馬鹿にします。

 結果、武術家らしくそこの人と腕試しになったそうですが、ブルースはまったく歯が立たずやられてしまったそうです。

 そこからがブルースのいいところで、すぐさま教えを求め、以来三年の間、蔡李佛を学んだということです。そして、友達だったデイヴも紹介してあげた、とのことだそうです。

 実にブルースらしいというか、まだ見る目のできてない血気盛んな若い武術好きらしいエピソードです。

 実際、蔡李佛は練習では大きく手を振り回しますが、それはあくまで練習法、実際はその中に便利な使い方がいくつもあり、実際に使い物にならないほど隙だらけの大振りパンチを振り回すような流派ではありません。

 おそらくそのよく出来た仕組みを思い知って、ブルースも関心したのだと思います。

 そして、この辺りが詠春拳との差が大きく出ているところでもあります。

 もともとの詠春拳では、十二の基本技法それぞれが、どのような状況になったらどう使うべきかという用法が固定化されており、日本で言う護身術のようなものだったと聞きます。

 手首をつかまれたらこう、両手で肩を掴まれたらこう、後ろから抱きつかれたら……という次第ですね。

 これは、もともと洪家拳の中にある技法の中から、武術家でない人のために長年の練功を要しない、護身術技法を抜き出して編纂された物だからと言われています。

 そのために即戦性は高いのですが、あくまで身を守るための物、というコンセプトを外れることはありません。この辺りのことは映画「グランド・マスター」でも少し語られていたところですね。

 そのために武術としては省かれている部分も多く、習得するとよりハードコアな他派に転向する人も多く、その多くは同じ福建拳法の母体である白鶴拳や、より攻撃性の高い白眉拳、また、同族の洪拳や我々の蔡李佛に向かう人や、垣根を超えて現代格闘技と併修する人が多いようです。おそらく、中国武術としての濃さがあまり強くないため、独特の癖が染みつきにくいのだと思います。

 実は私自身も、生まれて初めて触った中国武術は詠春拳でした。いえいえもちろん、本当にできるようになるまで勉強したわけではありません。あくまで触りだけです。

 また、私の直接の大師ももともとは詠春拳士でした。そこから洪拳や蔡李佛に広がっていったのです。

 大師の先生が、みんな教えていたのです。

 私の師弟も師父として詠春を教えながら、同時に学んでいます。

 一説によると、現在、世界で最も広がったカンフーは蔡李佛拳から詠春拳に代わったという説があります。

 それはこのような、間口の広さの部分があるからのような気がします。 

 出来ればその人口の中から、より広く、深く、伝統拳術の普及が行われてゆくことを願います。

掃討力ー短い勁と長い勁ー

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 前の記事に書いたように、ブルース・リーは蔡李佛拳を意識した動きを各所に取り入れています。

 しかし、その真髄を獲得できたように見える動きは寡聞にして知りません。

 では、その真髄とは何かというのが、ブルースの証言の中に見ることができます。

 「(蔡李佛の)パンチを受け止めたが、止めることが出来なかった」と言うことを、彼は何度か残しています。

 これこそがいつも書いている蔡李佛の勁力の特徴です。

 蔡李佛の基礎戦法は、相手が受け止めてもそのまま打倒す。打倒せなかったらさらにその上から打つ。というものです。

 なので、ガードをかいくぐったり橋を封じるようなテクニックはさほど重視していません。そのために、大振りの拳法と誤解されるのですが、そうではないのです。あれは当たるところならどこでもそのまま打てるという勁力の用法です。

 スイングパンチだと一般に解釈されている動きも、決して拳面をあてに行っている訳ではありません。手首を目安に打ち込んでいって、たまたま相手が遠ければ拳、近いなら前腕、さらに近ければ上腕、果ては肩や脇腹、果ては背中など、大きく腕を振る動きのどこで当たっても威力を伝えられるように練習しています。単純にパンチのひとくくりにしてしまうべきものとは違うのです。

 日本語版ウィキペディアで蔡李佛拳を引いてみると、ブルースの推薦の言葉が載っています。端的に言うと「多人数戦に最も適した拳法」ということなのですが、それがこの、相手が全方向どの角度のどの距離にいるか分からないことを想定して作られている、という基礎構造の思想に現れています。

 この部分に、相手がガードしていてもそのまま打ち込む、という定石も含まれます。

 蔡李佛拳が作られた当時、戦闘では盾を装備していました。その技法はいまでも残っています。この盾で身を隠した相手に、その盾越しに発勁したり、また自分を盾で守りつつ、その内側から相手に発勁する技法が前提になっているのです。

 ブルースが映画で見せる、平馬になって腕を真横に振り出す技、あれがその盾の技です。実際はあそこから相手に接触させた盾を持つ腕の内側を逆の手でたたいて発勁して効かします。鞭槌と言う動作です。鞭とは紐のことではなく、鈍器一般をさすことが多い言葉のようです。

 自分の盾や相手の盾を貫通することが前提となっているので、素手で受け止められてもそのまま貫通します。

 散打や他流試合でも、そのパターンで勝ちを得たという話を聞きます。

 これを成り立たせている勁力を、我々は掃討力と呼んでいます。ある先生曰く「蔡李佛はごみを掃除するのよ」という言葉が示すように、邪魔なものを払うようにしてそのまま吹き飛ばしてしまいます。

 この勁力をまた、長勁と呼んでいました。

 ある北派の先生の分類では、長勁と短勁の違いは、時間だと言います。

 我々の言う短勁は、たしかに瞬間的に爆竹が破裂するような瞬発的な勁力です。打つ前に用意を用いず、打った後も余韻を残さずに瞬発させます。

 長勁は実際に攻撃を打ち出す前からすでに発されており、打った後もそのまま発され続けています。電流のように、術者の体内をずっと流れ続けています。

 短勁で相手を打つとき、相手のガードや厚い筋肉で受け止められたなら、その鋭い威力の瞬発の内、防御壁で弾かれた物をのぞいた力が相手の内側に響いてゆきます。

 つまり、表面が痛くて、そこから中も痛めつけてゆきます。尖った拳形を併用したり、ねじりこんだりして表面をいかに突き破るかが威力に直結するようです。

 対して長い勁は、突く棒で釣鐘を突くような物です。その表面を打ち壊すのではなくて、威力を伝達させて全体に力量を響かせてゆきます。

 なので、これで打たれると当たったとこと全く関係ない首や股関節などに怪我を負うこともあります。

 ピンポイントを穿つような力ではなく、掃って討ち倒す力です。パソコンに錐を突きたてるのが短勁だとしたら、パソコンを床に叩きつけるのが掃討力です。

 俗に、交通事故にあったときのようなダメージという言い方をします。

 この力を養うには、ぴょこぴょこと飛び回ったり体重を浴びせかけるような動きをすることが向きません。

 しっかりと地に立つことが必要になってきます。

 そのために、ひたすら地面にしっかり立つことが重視されます。

 この勁こそが、私たちの中核であり、宝です。初心者から師父まで、みんなこれを練るための練功をしています。

 これをすると、急激な動きや神経質な反応をせず、のんびりと重厚でかつ重く溶けて流れるような感覚を内側で養ってゆくため、リラックスした心地よさが味わえます。

 各種の凝りや片頭痛などは、筋肉や神経が過敏になっていると起きやすいと思われます。内側を伸ばす体になってゆくと、のんびりとした感覚を持って日々を暮らせるようになると思っています。


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蔡李佛拳の基本技法 1・掃槌

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さて、これまでとは少し趣を変えて、純粋な技法についての切り口から蔡李佛拳を紹介してゆきたいと思います。

本来は禅の行であり、また内勁を活用した拳法であり外形は決して固定化された物ではないのですが、入口としての形がどのような基本で形成されているかを知りたいというみなさんもいらっしゃるかもしれませんので。

まず、蔡李佛の看板技といえば掃槌と言ってよいでしょう。

動画や表演でご覧になった方が「蔡李佛は豪快にロシアン・フックやサモアン・フックみたいのを連発する拳法だ」と言われる理由の技です。

読み方は「サウチョイ」で、意味は払うパンチ。ゴミを掃除するように敵を倒してゆく拳法という言われ通り、腕を大きく後ろに伸ばして、円の軌道を描きながら逆の腰まで周回させてゆきます。

一般には北では圏捶と呼ばれているようです。

この掃槌のポイントは、肘を含まないことです。

北勝館など動きがタイトになった派では少し肘を曲げるようですが、我々は決してそうしません。

その状態で拳ではなくて、前腕、手首辺りをたたきつけてゆきます。

そうすると、強打したときに当然反作用で肘に一人関節技がかかって激痛が走ります。

そうならないためには、腕にしっかりと強い勁が通っていないとなりません。鉄線功です。

その状態で打った時、衝撃はまさに鉄パイプでぶんなぐられたように重く体内にしみこんでゆきます。

また、接触面で威力を爆発させるのではなく、ホームランを狙うようにフルスィングします。そうすることによって、相手のブロックやパリーにかまわずそのまま本体まで貫通させてゆくことが可能です。

速度と連打重視の拳法に対して、ディフェンスごとぶっ飛ばしてKOしたという武勇伝がよくかたられております。

これがあるために蔡李佛は戦法として、相手のスキを作るコンビネーションやフェイントを使わずに、あえて守っているところにそのままぶっこんでゆくという手法を多用します。普通、防御しているところを攻撃されるとは思わない、心理的盲点がつける攻撃です。

蔡李佛の基本技法 2 掛槌

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蔡李佛の基本技、二つ目は掛槌です。グァチョイと読みます。

このグアチョイはいわゆる裏拳打ちで、横方向にも縦方向にも拳の背中側を打ち付けてゆきますが、一般には上から下へが基本動作として練習されます。

帽子や服を脱いで得物掛けに掛けるような動作です。

面白いのは、北派の劈掛拳などでは下から上に打つ動作が掛と呼ばれているのに対して反対だということです。

両腕を鉄線功でつなぐと、前手の掛が12コンビネーションの1に当たります。そのままの動きで次の逆手に勁力がつながるのですが、この場合の掛槌は必ずしも裏拳による急所への打撃である必要はありません。

「蔡李佛に攻防の動作の区別は無い」という言葉がありますが、相手の攻撃への防御としてでも、相手を抑えつけるような動きとしてでも、また相手の手足や顔を払いのけるような動きとしてでも、この掛は多用されます。

極端な話、多人数の乱戦においては、振り回して当たればいい、という発想があります。たまたまそこに相手の顔があればいい。打ってきた攻撃があればそれで受け止めたり払いのければいい、変な距離でかき分けるだけになったら、そのまま次の攻撃につながる径路を開けばよい。なんなら何にも当たらなくても背後を取られないための牽制として十分。

大人数の敵の中を切り開いてゆくための第一歩、それがこの掛槌です。

蔡李佛拳の基本技法 3・挿槌

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今回ご紹介する蔡李佛の技法は、挿槌です。チャーップチョイと発音します。

実はこの挿槌は、厳密に言うと基本技法というより、ちょっと応用編的な技法です。

と、いうのも、まっすぐに挿し込むように打つことをチャーップチョイと呼ぶのですが、このまっすぐにポイントがあって、我々のまっすぐは厳密にはまっすぐではないのです。

上下左右のスイング系の技法の軌道を小さくしたものが、結果としてまっすぐの突きになるわけで、ボクシングのリード・ジャブのようにひじ関節などを使ってまっすぐに突くというパンチとは根本的にことなります。

このようなことを曲中直あり、直中曲ありと言って老子の思想に由来があるようなのですが、そのように曲がっているということを形式的にまっすぐにしたのがこの挿槌です。

曲がっている物をまっすぐに表現しているため、どちらに曲がっているかによって、陰挿、陽挿、平挿、昂挿と種類があります。

なぜこのような複雑な技法をここで紹介したかと言うと、これはうちの看板技の一つで、独特な技術だと武林に知られているからです。

八極拳と言えば肘、というように、蔡李佛と言えば挿槌だと思われている節があります。

と、言うのも、この時にちょっと特徴的な拳形を取るからです。

人差し指から小指の四指の半ばの関節二つを平たく折りたたんだような握り方で、姜子槌や豹拳などと呼ばれています。

そう、これは五獣のうち、豹の拳なのです。

身軽な豹が素早く相手の急所に爪を立てるように、攻撃箇所を切り裂き、貫いてゆきます。

実際に試していただくと分かるのですが、この拳形で威力を出すのはとても難しいことです。指がくにゃっと曲がってしまって正確に的をとらえられません。

そのため、これを正しく行うには、しっかりとした練功できちんと強い握りができるようにならないといけません。

そういう意味では、すぐに使えるようになるという蔡李佛の印象の中では、実は比較的体得に時間がかかる技法です。

もともとはまっすぐ突く、というのが挿槌の意味なので、太平天国の乱の時にはこの豹拳は使われていなかったそうです。

それを三世の大師である譚三師が工夫して、現在の形を編み出しました。

これがのちの時代の腕試しで非常に効果があったらしく、屋上試合などで話題になったようです。

一寸長一寸強、一寸短一寸険という諺が武林にありますが、まさしく指関節一つ分長い距離から相手が打てることは、平時の戦いにおいては大変に有利だったのでしょうね。



蔡李佛の基本技術 4・標撞

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今回ご紹介する蔡李佛の基本技法は、標撞です。

ビゥッジォゥンと読むそうです。

この標憧は、内側下段から斜め上外側に打ち出すものです。心意拳がの挑領にも似ていますが、握拳は掌上に向けて、親指側の前腕を当ててゆきます。

文字通り、標を掲げるようにする動作ですね。

もともと北少林拳に同名の技法がありますが、そちらではまっすぐに突きだすようです。

私たちの動きでは、掃槌などで斜め下に打ちおろした腕が、そのまま行って来いで戻ってくるように遣います。腕が刀や棍と同じように扱われているとイメージしていただくとよいと思います。

そもそも、私たちの拳法は刀は父、棍は母と呼ばれるように、武器術から派生したものなので、体用法は同じなのです。

この標憧、打、拿、摔の法則通り、関節技や投げ技で使いやすいのはもちろんですが、内功が無いとどうも打ちづらいと思います。たんに喉などの弱いところにしか通じない打撃になってしまいがちです。

それを、鉄線功で腕をまさに鉄パイプと化すことができたときに、相手の頭部や胸に痛打を与える強烈な攻撃とできるわけです。


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