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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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虎僕と定力

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先日の練習で、特別に私がかつて学んだ拳法を蔡李佛の勁力で行うということをしました。

その時に選んだのが形意拳の虎僕です。つまり、蔡李形意拳です。

虎僕にもいろいろありますが、とくにこの時は両手の立掌を並べて丸く拭き掃除をする程度に小さな円を描く、いわゆる虎僕子と言う形を使いました。

我々の武術は暗勁で行っているので、当然掌を大きく引いて突き出すような必要はありません。これで充分なはずです。

しかし、学生さん同士で行っていると「いまのは……空手の手刀みたいな力でした……」という声が聞こえてきました。どうやらまた、骨格運動をしてしまったようです。

それは勁ではありません。ただ叩いているだけです。

発勁と叩くはどう違うのでしょうか?

我々のやり方からすると、一つには鉄線、もう一つが定力です。

この場合の鉄線は主に橋(腕)、定力は胴体と足(馬)から来ます。この両者がつながって本来は鉄線功です。

腕の鉄線はみなさん来たその日から要領をつかむのですが、どうも立つのは苦手です。初めからきちんと立てる人はほとんどいない。

その、立つということを次の関内ワークショップでは練習します。

きちんと立てれば定力の勁が身体を徹ります。

それが出来れば暗勁の虎僕も打てます。飛び込んで体重を浴びせているだけではいつまでも触れるだけの発勁にはなりません。

立ち方の根本を変えるこの企画、ぜひ皆さんいらしてください。

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12118770237.html


自我の眠り

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私は大変に深く眠ります。

自分でも目を覚ました時に、あんなに深い眠りからよく戻ってくることが出来たものだと驚かされます。

そのまま死んでしまったとしてもなんの不思議もないような眠りの中に、一度も目を覚ますことなく沈みこんで夜を過ごしています。

しかし、もともとこうだったわけではありません。

子供のころから眠るのが下手で、お昼寝の時間はただ何もせずに時間が過ぎるのを待っていなくてはいけないので退屈で仕方ありませんでした。

長じてからは過労と心労の著しい環境で、ながく睡眠障害を患いました。常に神経が張っていて、わずかな刺激で目が覚めてしまうので、眠りに入ることが難しく、その後も長く寝ることが出来なかったのです。

これを克服できたのは気功のおかげなのですが、ただ物理的な意味でだけではないかもしれません。

気功は中国において、陰陽思想と一体の物として行われてきました。

心身の陰陽の調和を取るための体操と言って良いと思います。

身体は眠りという陰の状態、休止を摂ることで活動という陽の状態をより活発に行えて陰陽の調和がとれます。

心も同じです。

陰陽は虚実であり、特に陰陽思想では陰の部分、虚を重視しています。

西洋思想ではより積極的、より沢山、より高く、よりポジティブ、というような実、陽の部分がフィーチャーされるようですが、そうではないところに東洋の特色があります。

広い虚のあることこそが、より大きなところでの調和、バランスの安定をもたらします。

今朝、目を覚まして驚いたのは、起きている間はずっと頭を占めていたことが、寝ている間はまったく消えていたことに気づいてためです。

まるで何も持たない状態でいま生まれたかのように目を覚まして、少しづつ記憶を取り戻してゆき、自分が誰なのか、今がいつなのかを噛み含めてゆきました。

このようなことが、極めて健全であり、偉大な天地の運行に人間が則った物であるという思いにまた改めて驚きました。

夕に死に、朝に生まれるという故事の通りの目覚めです。

日々の暮らしには、大切な仕事や取り組んでいる課題、愛している人などの存在があります。

その充実が手ごたえと疲労を同時に生みます。

かつては私も、寝ているときも苦悶の表情を浮かべていると言われていました。

しかし、日が昇り、また沈むことと命が同調しているうちに、眠りの中で心が虚になってゆけるようになったのでしょう。

虚の間に、心は洗われ、静まり、柔らかくほぐれてゆきます。

そして目覚めたとき、また大切な物を一から得なおして、その幸せに新鮮な気持ちで喜びを感じ、出来立ての人生の最初の一歩目を踏み出します。

この思想の大家である荘子は、寝ている間にまた別の人生を送るという胡蝶の夢という故事で有名ですが、眠りの時間と起きている時間は一対に等しく大切な物です。

濃密な眠りがあるからこそ、その柔らかさや静けさを内に抱いてまた昼間の暮らしを送れます。

穏やかなライフは、良き眠りがもたらすのではないでしょうか。

門の向こう

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 自分がなぜこんなにも真伝を公開するのかには、いくつか理由があります。

 一つには自分が苦労したので他の人にはそれをさせたくないと言うこと。もう一つには、世にあふれている誤解をまず払しょくしなければならないので、真実を広める必要があるからです。

 しかし、そのためには伝えるべき人を選ばなければならないと有識の友人たちから言われます。そこが悩めるところでした。

 後継者を選ぶというのは伝統武術に付いて回る問題のようです。

 ある先生は、三つの条件を満たさない者には教えなかったそうです。

 その三つとは、熱心であることと、聡明であることと、才能があることだそうです。大変に厳しいですね。

 条件を満たさない場合、大金を積まれても入門を断ったそうです。

 腕比べで有名だった先生ですから、弱い後継者を持つわけにはいかなかったのでしょう。

 逆に、考えられない状態から後継者になった先生もいます。

 超名門拳法の有名な先生は、学生はたくさん抱えていましたが非常に保守的で弟子は取らないことで知られていました。しかし、その数少ない弟子の一人が、なんと日本人です。

 何年も手紙を送り続け、土下座をして願ってとうとうかなったというのです。

 その老師の元では、学生と弟子はまったく違う扱いだったそうです。

 ある日、老師が言ったことには「お前がうちの門を選んだことは正しい。世の中には沢山の人がやっている拳があるが、みな間違いだ。本当に奥まで行った者から学んでいない」。

 いわく「先が閉じている門に入れば必ず行き詰まる」。

 私が思うに、格闘技や現代武道でならそれでもかまわないのかもしれません。やること自体に意味があるのでしょうから。

 でも、しかるべき内容を学んで至るべきところに至りたいと思うのならば、目につく限り誰も至っていない門派に仲間入りすることは無意味です。

 中途半端なレベルでいくつもの流派を教えている先生などは、まさに行き詰まった場所の人なのでしょう。それは不幸なことのように思います。そこにさらに多くの人がそこに訪れてはまた行き詰まって溜まってゆくのも不幸に感じます。

 私が最初に発勁を公開するのはそのためです。

 自分はその程度までには至っていて、それを伝えることが出来る。そのことを訴えているのです。そのうえで、それがやりたいと思うならやればいいし、出来るようになったなら出て行けばいい。

 なので初めにどの程度までやりたいのかを聞きますし、それをするためにはどの程度の期間がかかるかを説明します。

 教練になりたい人なら、およそ三年から五年でいいと思っています。

 私は自分のやっていることがもっともレベルが高いことだとは当然思っていません。

 もっと難しいことや複雑なことも世の中にはあるでしょうから、関心があるなら、その後でまたすればよいと思っています。

 私自身はいま居る段階で非常に満足していて、他のことをしようとも思っていません。ただ、自分の門の優秀な部分を人に理解してもらい、それを広めることが出来る人材に分けたいと思っているだけです。

 この公平な関係を結ぶために、最初に自分の門の中を公開するのです。

 行きづまりを感じたことはありません。我々の門派は「備わっている」からです。

 もし、護身術や健康法、パフォーマンスや技撃に特化した門であるなら、必ずやどこかで行き詰まるでしょう。

 しかし、我々の門はあるがままの生き方の支えとしての武術です。

 心の自由を得るための行です。

 そこに行きづまりはありません。

 素直で正直に生きているからです。

 できていない物をできているふりをすることは、その段階ですでに欺瞞で自分を縛っていることになります。

 その先に何かが開けているはずはありません。

 自分自身の命を生ききるための道であることが、私たちの武術の真のテーマです。

最前線

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 以前、関内ワークショップで「骨と肉」特集というものをお送りしました。

 偶然なのですが、その前後に身体操法においては筋肉ではなくて骨を使うことが大切なのではないか、という研究が発表されて話題になっていたようです。

 遅ればせながら、その研究の新書に目を通しました。

 書いているのは、古武術研究の第一人者のK先生とその一派の元アスリートの方です。

 後者の方は、もともと筋肉信仰の強い世界でかなりの地位まで追及された方のようで、引退されてからボディケアなどを通して古武術式のやり方に目覚め、骨を使うという方向性を主催している方のようです。

 骨を使うというのは、私が日ごろ戒めていることです。骨格運動は決してしてはいないと厳に注意をしています。

 しかし、ここに古武術と中国武術の違いがあるのではないかと思っていました。

 私はK先生を大変に尊敬しています。

 自分自身も古武術の出身ですので、名前は常に意識していました。

 ですが、自分がしていたのは下町の古い道場を回っては乱れ組み討ちをしていったり、軍隊武術を3学んだりする世界で、K先生のような単発の動きの精度を追及するものではなく、連続する流れの中で勝機を見出すような泥臭いものであったため、直接的な技術として触れることはありませんでした。

 それでも尊敬していたのは、K先生が強弱に囚われず、自流を研究者の集いとしている姿勢の一貫性が素晴らしいと思ったからです。

 その後、私も実用の世界から身を退いて研究に入ったのはK先生の姿を見習ったところがあったのかもしれません。

 私の研究は、それまでとはまったく違ったことをしようと思って中国武術となりましていまここに至っています。

 中国武術は日本の古武術とはまったく違う価値観とメソッドを持った世界で、何度も驚かされました。

 ここからが今回読んだ本の感想の趣旨となります。

 K先生がこの数年、どのような研究をされているのかは私はまったく知りませんでした。世界が決定的に変わったからです。

 しかし、周りの人間からどうも、いまは中国武術の外家拳のようなことをしているらしいというようなことを小耳にはさみました。

 以前にも書いた通り、南派では外だ内だというようなことをあまり言わないので何が外家なのかは知りませんが、たしかにK先生のしていることは中国拳法的になってきていました。

 中国武術で言う手形によって、力の出方が変わるというようなことをされているようでした。

 骨の先生は、その答えを骨の位置の変化に見出しているようでした。

 また、骨の変形はイメージの持ち方によって強い影響を受けるともされているようでした。

 これは、中国武術の基礎の姿勢の問題と、意のことを言っているようでした。

 骨先生はなぜそうなのかは分からないが、どの指と体のどこの力がつながっている、というようなことを思われているようでしたが、これはまさに人体を通る経絡とそこをつなげる勁のことのようでした。

 中国武術には、日本にはない独自の専門的な概念があります。

 日本で言う力とコツの間に、勁の概念があります。

 また、力と技の間に、練功という概念もあります。

 トリックのようなコツですでに持っている力を引き出すのではなくて、その時に用いられている能力を引き出し、強化することが正伝の中国武術の基礎コンセプトです。 

 中国武術はその部分を長い年月にわたって執拗に追及してきました。

 理論的に体系付けられてまとめられ、パッケージングされたものが門です。

 それらは見た目の形などから力を引き出すことなく、内側だけで処理するレベルに至っています。中国武術が尊ぶ、外から見えないという価値の在り方です。

 我々は、日本におけるその見えない文化の最前線に立っているのだという自覚を持って活動をしています。

 どうしても、門外に伝わるのは見えるものでしかありません。そのためにたくさんの誤解が生まれます。

 中国武術、南派武術の日本における歴史とは、この誤解の歴史と言い換えても良いかと思います。

 それらを払しょくし、真実を伝えるためにも、より多くのみなさんに、分かりやすく真伝を伝えてゆきたいと思っております。

橋  TRAPING

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 中国武術が他の格闘術と比べて特徴的なことの一つは、套路の存在でしょう。

 もう少しよく知っている方は、歴史や文化、思想などを挙げるかもしれません。

 より即物的な技術面で言うと、二つの特徴があると思います。

 それは、発勁と橋法です。

 発勁はご存知の通りですが、橋法は実際に中国拳法を知っていないと分からないかもしれません。

 これは功夫映画での攻防などでよく見る、腕を絡めあったりはじきあったりしての攻防です。

 フィリピン武術などにも取り入れらている、実用面での徳が高い戦法として知られています。ボクシングなどでは見ない手法ですね。

 もちろん中国武術には沢山の派がありますから、扱いの比重にはそれぞれ差異があります。

 一対一での橋法を練習の中核に置いた派もあれば、速度を重視して一瞬しか用いない派もあります。

 福建系の拳法でも、詠春拳は橋を重視していて、ほぼ同種である鶴拳や白眉拳は一瞬系のように感じます。

 橋法の練功には木人が有効なようですが、詠春拳と並んで木人で知られている拳が蔡李佛です。

 蔡李佛では特徴のあるからくり仕掛けの木人を使って橋法の練習をします。

 ただ、これも蔡李佛の中での派によってその重視のされ方が変わっています。

 私たちのグループではさほどに橋法にこだわってはいないのですが、本来は洪拳をはじめ蔡家拳、李家拳、佛門掌に鶴拳などを統合した、全方位的に備わっている門派のため、教程の中に含まれているのです。

 特に、腕試しで知られる北勝館系列の蔡李佛では橋法を多用するようですが、多人数の乱戦を重視する鴻勝館の私たちは、さほど橋法に執着しません。

 喧嘩の北勝館、練功の鴻勝館、言われる通り、練功で練り上げた勁力でフっ飛ばしてゆくことを主としています。

 土台となった洪拳でもはじめは橋法などを行いつつも、功が養われてゆくにつれて鉄線の勁の威力を重視するようですが、私たちはまず強力な勁を求めつ、それがあった上で勝手が良いように橋法を学んでゆきます。

 相手のブロックの上から発勁して倒してしまうような戦法もこの思想の上にセットされています。

 また、全身を勁力の鉄球にするという勁力が成ってくると、交差する時点では橋法を用いることがあっても、そのまま鉄球で轢きつぶすように密着の距離から体ごとぶつかっていって倒してしまうため、距離を維持して橋法で攻防すると言ったようなこともしなくなります。

 あくまで橋法は予備の教養的な位置にあると感じます。

 このために近場で攻撃をしあっては手さばきでしのいで打ち返す対打練習を短打練法と言います。これを練ると戦いのタイミング感や距離の感覚を身体に慣らすことがしやすくなります。

 決して囚われてはいけませんが、経ておくべき段階の技術です。

 ここにも五獣の相が現れているように思います。

 離れては象のように薙ぎ払い、間合いがあるときは鶴のようにはたき、または蹴り、蛇のように滑り込み、豹のように飛びかかり、虎のように喰らいついてゆきます。

中国武術の学び方

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 ある日、日々世界中を飛び回っているビジネスマンの友達が言いました。

「忙しくて稽古が出来ない。なかなか暮らしの中で修行というわけにはいかない」

 なるほど。これはまさしく現代武道、格闘技ならでは見解です。

 私たち中国武術は広東語で時間を意味する功夫という言葉で呼ばれる通り、暮らしそのものが稽古になるようにできています。

 立つ、歩くということが術なのだといつも書いている通り、立って歩く生活をしていればそれは重要な稽古になります。

 また、字を書く、お茶を飲むというのも内功です。

 空気の匂いを感じる、夕方の空を眺めるのもしかり。

 ご飯を食べる、性交をするなどということに至っては、練功のもっとも重要なことだともいえると思います。

 それは私たちの武術がそもそも宗門の行であり、中国思想の体現であり、その基底となっている気功の哲学で生を送るライフスタイルだからです。

 すべての物を感じたときに生じる感覚、つまり気持ち、気の働きに自覚的になることがその始まりです。

 忙しいなあ。疲れたなあ。栄養ドリンクのもう。しっかり寝なくちゃ。そういう風に感じることすべてが気です。

 私たちの稽古は、そこから始まり、そこに尽きます。

 初めて中国武術に触れたときに、面接をしてくれた師父にそこは言われました。

「武館で稽古をしようと思ってはいけない」

 師父との時間は、練習法を教わり、その修正をしてもらう場です。

 稽古そのものは自分の生活の中で行います。

 ここが他の武道や格技とはまったく違うところです。

 ジムや道場のように、行った場で決まったメニューをこなすというものではないのです。練習着という習慣もありません。

 逆に、格闘技や現代武道の文化はそこに特徴があります。

 特別な服に着替え、特別な場所に入って気持ちを改めて特別な行為をする、ということが、格技や武道のニーズでありうると思うのです。

 ハレとケ、日常と否日常を線引きを設けることに重要な意味があるのだと思います。

 しかし、中国武術はあくまでいつもの時間。日常の中に稽古があります。

 気を働かせて物事を感じる状態にすることを、気功の言葉で「発功」と言います。

 意から気、気から勁、と言うのが私たちの基礎構造です。発功状態での気を勁にすると、全身から発勁している状態になります。

 何か特別な動作で発勁を行うのではありません。たとえ何をしていても、肉体の内側をそのように働かせれば発勁となるのです。いつでも発勁で練功ができます。

 練習と日常を断絶させない。

 働いたりご飯を食べたりデートしたりしながら稽古をしていて、そのままの身なりで師父のところに行きます。

 師父といる時間も、お茶を飲んだり煙草を吸ったり、時にはお酒も飲んだりしながら稽古をします。

 そこに「特別」を設けない。

 修行は日常の中にあります。武術としての側面を強調するなら、戦いも日常の中で行います。

 数か月後の試合に向けて厳しい調整をして肉体を仕上げてテンションを挙げて、というようなものとはまるで正反対のところにあります。

 そして、その日常と平常の中に住まうということが、ただ生きただ死ぬ、平常心であるがままに無為自然に居るという、中国思想の顕れなのです。  

 私のところに来てくれる学生さんたちも、いつも同じ時間に決まった周期でくる人ばかりではありません。

 来れるときにきて、新しい課題を持って帰ります。

 そして自分の生活の中でそれを自分の身に着けて、自分の功夫とするのです。

 だからこそ中国武術は、文化そのものであり、ライフスタイルなのです。

無為にしてしかもなさざるなし

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為学日益、為道日損、以至於無為。無為而無不為。

学ぶということは、日々何かを足してゆくことで、道に則ると言うことは日々何かを減らしてゆくことだ。減らしていきながらにして、何かをなしている。

これは老子の一節です。

ここでは学問を喩にあげていますが、これは武術でも同じことだと私は考えています。

●●法、××メソッド、◇◇勁、どんどんいろいろな物を足して複雑化させて功を積んでゆく人もいます。

また、一つの門のみならず、平行していろいろな物を学んで足してゆく人もいます。

武術をする人にもいろいろな人がいます。

権力や名声にこびへつらって立場を作ろうとする人。自己の経歴や人脈を喧伝して自分を飾るのが好きな人。他人の悪口ばかりを言っているかと思うと、一転相手が目の前にくるとすり寄ってゆく人。また、自分がおだてられていないと期限が悪くなって周りへの嫌がらせに専念し始める人。

おそらく、それはやはり日常的ななにがしかの利益にとらわれてしまっているのではないでしょうか。

私たちの考えではそのようなことをしません。

それどころか、もとから持っている速さや力強さなども捨ててゆきます。

そのようにして、自我が持っていると認識している物からどんどん離れていった先に見つかる物を重視しています。

それが道、すなわち自然の道です。小さな自分のエゴによる束縛から自由になってゆくことを望んでいます。

武術を通して、自然の道に則る体験をしてゆき、常の生き方もそのようにしてゆくことが、私たちの学ぶ武術の在り方です。

ラテンな老荘思想

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世の中には、いろいろな既成概念の刷り込みがあります。

まずは義務教育下での競争社会への刷り込みでしょう。

ここで人を蹴落とさなければいけないとか、邪魔をされないために警戒して政治的対応で世渡りをしながら、生き残りを画策しなければならないような社会だということを周りの大人たちから洗脳されます。

しかし、無事社会人として安定を手に入れると、多くの人が自分の心の中に救っている強迫観念が自分を窮屈にしていることに気づいてゆとりのような物を求めます。

お茶やお花などの文化であったり、海外旅行などの体験や写真などの技術的な物を通して自分の価値観を広げようとする人も多いでしょう。

また、引退後に居合や合気道などもやられるかたも多いようです。

そのほかに、参禅や書などより精神性をちょくに求める方もおられるでしょうし、中には新興宗教などに答えを求める人もいるのでしょう。

一方、社会的な成功を収めることができず、より直接的な形で強迫観念にさいなまれたままでいる人の中には、スピリチュアルや占いなどといった手軽な気分転換に救いを見出す人も多いようです。

なにせこちらはお金も安く済むし時間も使わない、思考停止をするだけで良いのだから時間と体力に追われる生活に追われている人にはお手軽です。

一方は朝からお寺に行って禅を組み、午後は書や茶道で過ごし、片方の人々は満員電車で揺られながら、わずかな時間の合間にコンビニで買った安手のスピリチュアル本やスマホの画面に映る自己暗示ブログで精神の安定を図る。

これは、私に言わせればどちらもそう変わることではありません。結果的に物質に恵まれているかそうでないかの違いで、同じ物の陰陽の両面です。

いま読んでいる本に書いてあったのですが、世界の国々の人々が感じている幸福度のリサーチに於いて、日本は70位以下という大変に閉塞した感情に覆われた国であるそうです。

それに対して、トップ10はほとんどラテンアメリカの国々がしめているそうです。

ラテン・アメリカというと貧富の差が激しく、犯罪発生率が高いという印象が高いようですが、実際のところはそれらのどこの国の内戦や犯罪で亡くなった人数よりも、日本における自殺者数の方が多いのです。

おわかりでしょうか?

同じ死亡すると言っても、犯罪や内戦で亡くなった人々と、自らの意図で命を絶った人は、生きている間の絶望の度合いが違いますね?

ましてや、生きている人にとっては雲泥の差です。

なにせ日本では、自殺をしていないまでもその直前までの絶望に囚われて生きている人々が、実際に死んだ人の数以上にいるのでしょうから。

むしろ、本当に幸せに生きている人の方が日本では少ないのではないかとさえ、私は思ってしまいます。

社会そのものが絶望の平等分配を要求しているような気さえします。

上の二つの生活層の人々が本質的に変わらないと言ったのは、同じ絶望の押し付け合いの上流と下流のどちらにいるかに過ぎないと感じたためです。

前述のラテンアメリカには、こんな話があるそうです。


あるところに、貧しい漁師がいました。

朝起きては小舟に乗って魚を取り、昼に市場で売り、それで自分と家族の生活費を手に入れては、あとは水辺でハンモックに寝そべって、友達とビールを飲みながらギターを弾いて暮らしていたそうです。

ある夕がた、そこに外国のビジネスマンがやってきて言いました。

「なんて素晴らしいところなんだ。私なら資本を投入して大きな船を買って、それで沢山魚が捕れる」

漁師はききました。

「それでどうするんです?」

「魚を市場で売るだけじゃなくて、缶詰にすれば保存食として売ることができる。その工場もここに作ればいい」

「それでどうするんです?」

「遠くの町や海外にも支店を作って、そこでも売れるようにすればさらに儲かる」

「それまでにどのくらいかかるんです?」

「一日十二時間くらい働けば、二十年ほどでできるだろう」

「二十年かけてそうして、それからどうするんです?」

「引退して、釣りをしたりギターを弾いたりしながら、ハンモックでビールを飲むような暮らしをするんだ」


これは笑い話だそうですが、老荘思想家からすると、大変に示唆に富んだ、まるで荘子の故事のようなお話です。

私が中国武術の師父、カンフー・マスターとしてみなさんにお伝えしているのは、単にパンチやキックの仕方などではありません。

それらの動きをいかに自然にかなったやり方で行うかであり、無為自然に生きるということをお伝えするのが本質です。

そして、天地の道に則り、自然とともに生きるとは、ラテンアメリカの漁師のような暮らしをするということです。

暮らせるだけの仕事をしたら、あとはハンモックに寝そべり、友と語らい、ビールを飲んで世界の移ろいを眺める。これが天地自然のタオの生き方です。

このようなことを、無為自然と言います。

初めに書いた二つの階層の人々は、どちらも笑い話のビジネスマンと同じ世界に生きています。

もし、私のところになにがしかの宗教の勧誘が来たなら「自分は南少林の徒であり、老荘のタオイストです。その日々の行い道にかなっているために、触れただけであなたを跳ね飛ばすことができます。どうかあなたのおっしゃる正しさを示すために私に飛ばさせてください。もしあなたが五体満足でピクリとも動かなければ、それからお話を伺いましょう」ということができます。

また、スピリチュアルや占いの類がポジティブ・シンキングだラッキー・アイテムだのと言ってきたなら「天に仁なしで、私は意志の方向づけも幸運に頼ることも必要なく、ただ自分の生き方だけで心身は健康で、充分に幸せな気持ちでいつもいます」と言えます。

何かにすがるところから不安定が始まります。

まずはきちんと立つこと。そこから無為自然のタオの生き方が始まります。

中国武術や気功では、まずは立ち方から入ります。

そして、最後まで立ち方に尽きます。

このことを、現代気功などではグラウンディングと言うそうです。おそらく大地を意味するグラウンドの動名詞なのでしょうね。

そうやってしっかりと大地と一つにつながって安定することが、自然と一つになることの第一歩です。

そして空を眺めていれば、身体が天地と近づいてゆきます。

天も地は、競争をしないし不安にもなりません。




立ってるばかり

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私たちの拳法では、まず基本となる練習が立つことです。

立つ拳法というと、内家拳のようだとか、意拳が代表的だと言うような印象を持つ方もおられるかもしれませんが、何しろ元祖は南派少林拳です。

内家拳の経験者の人がうちの練習を見て「南派はこんなに内功をするなんて知らなかった!」とよく言いますが、まさにこれこそが日本における北派の傲慢、誤情報の流布の結果です。

香港映画の数々を思い出してください。ジャッキーはひたすら立たされて気功をしていましたね。

立つ練功法を站椿や站功、立禅などと言いますが、これ、文字通り禅。つまり、そもそもは少林派の練功なのです。

いわゆる内家拳の実質上の創始者とも言える楊露全は站椿を教えるに当たって「これはそもそもは少林の練功法なのだ」と言っていたそうです。

また、日本で人気のある拳法マンガでも、主人公の少年がひたすらに立つだけの練功をするところから物語が始まりました。

そして、立つ拳法の印象が強い意拳は、南派の影響を大きく受けた拳法です。

主客転倒と言うか、そもそもがひたすら立つというのは我々の専売特許だったのです。

さらに言うと、うちはそれが特に特出した派です。

蔡李佛の中での分類で言うと、洪聖派は套路を重んじ、北勝派は用法を重んじ、我々鴻勝は練功法を重んじると言われています。

多くの中国武術門派でも、套路、用法、練功法のどこに特にウェイトを置くかはわかれるところでしょう。

練功重視、とくに立つことが勁力の根幹であるというのは、比較的短い期間の教練で多人数の兵士を養成するためには効率的な方法だったのではないでしょうか。

立ち尽くして内側を作ることが、人をバシバシ吹っ飛ばす我々の多人数戦向けの発勁を作ります。

タイミングや複合動作のような複雑なことはしません。ただ立つだけのことが勁力になります。

このやり方なら、強大な力が短期間で身につけられます。

いまの学生さんも三年もあれば一人前になると思っています。そのあとは、それぞれ何か複雑なことをする門派に行くなり、套路や実用法の研究を深めるなり、それぞれの興味の向くことをすれば良いと思っています。

なにをするにせよ、強い内勁をまず持っていれば、確実に全体の功によい影響を及ぼすはずです。

立つということ。禅と言うこと。

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 昨日の書き込みで、私たちの拳法は練習の根幹がひたすら立つことだと書きました。

 しかし、立つばかりではありません。

 座ったり寝たりもします。

 ふざけて言ってるのではありません。立っている練習のことを立禅と言うのですが、同じようにそれぞれきちんと確立された練習方法です。座るのを坐功、寝てるのを臥功と言います。

 これは決して、気持ちを落ち着ける、というような日本武道の精神論のようなものではありません。

 静かな状態に自分を置いて、体の内側で起きている微妙な動き(微動といいます)を知覚し、それを操れるようにするための方法です。

 こうして無意識に扱っていた自分と向き合ってゆきます。

 ヨガを彷彿していただくとイメージがしやすいのではないでしょうか。

 達磨大師によってヨガが中国に伝えられたのが、少林寺の気功の始まりだと説話にされています。

 つまりは禅です。

 それらを、動きを大きくしてより健身効果を強調しようとしたのが少林武術の始まりだそうです。

 少林寺の周りは山も険しく獣なども多く出たため、水汲みや薪取り一つにしても、健康な肉体が無いと危険だったというのです。

 仏教では日常の生活作業も作務と呼んで心身を穏やかにするための行だと位置付けています。作務の行をつつがなく行うために、武術で身体を健康にすることが必要だったのだと言います。

 行は暮らしの中にあります。作務を禅の行とした少林は、健康を保つために始めた武術も動禅と呼びました。

 日本武術や現代武道などでは剣禅一致などと言って技を向上するためにあとから禅を足したりしたようですが、本来は後先です。まず禅をする暮らしがあって、その禅の一つの形として武術が始まったのです。

 食べるのも禅、交わるのも禅。心を静めながら暮らします。

 その静けさこそが、私たちがもっとも求めるものです。

 中国仏教は面白い物で、佛教とも言って儒教や道教のような中国の伝統思想がインド仏教やチベット仏教と一体に交わっています。

 このうち、我々が特に重視しているのが老荘の思想なのですが、そこにおける仏教の「悟り」のようなものが天人合一、無為自然、そして安心立命です。

 天人合一とは、世界のなりゆきと自分が一つになって生きること。無為自然もまた、自然に身を任せること。そして安心立命とはその結果、心が安らぎ、命が立つということです。

 あれをしよう、これをせねばならんと力の限りを尽くすのではなく、ただ世界の一部となってその巡りにゆだねて生きることが出来れば、心からは迷いや苦しみがなくなり、その時に命が存分に生ききることができる、という意味です。

 この、命を最大限に生きることを命が立つと表現しているのが面白いところだと思います。

 やはり私たちの稽古は、立つことが大切なのです。

 

鶴の立ち方

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最近、改めて五獣の鶴の重要性に目が行くようになってきました。

私たちの五獣、虎、豹、蛇、鶴、象のうち、鶴だけが鳥です。

そして、ルーツの一つは白鶴拳であり、また流派の名前は鴻勝館でやはり鳥です。身内を示す符牒のうちにも、鳥を意味する動作が沢山出てきます。

これは荘子に由来しているのだと思われるのですが、同時に身体動作のコンセプトそのものでもあります。

同じく動物の要素を身法の訣としたものに、形意拳があります。形意拳では鶏の脚、熊の腕、虎の頭、鷹の爪、龍の腰という考え方をしているのですが、このうち、鶏の脚は実は蔡李佛の鶴に相当します。

トリアシ、という言葉が80年代に一部で流行りましたが、これは膝の曲がり方が逆だということです。

つまり、鳥の立ち方を模倣するということは、膝関節を主体とした骨格運動ではなく、裏側の筋肉の中に芯を求め、それを立ち方の土台にするということだと思われます。

この下盤の土台を上に上がってゆくと、次に腰がありますが、これを形意拳では龍になぞらえています。蔡李佛では実はここも鶴です。

腰の上には首があって頭があるのですが、これを鶴首や鶴頂というからです。つまり、足から首の上までの縦のラインをすべて、鶴になぞらえているのです。

さらに言うと、腕の部分が形意ではクマで表していますが、蔡李佛ではここも鶴です。大きな鳥の翼に例えます。これが独特の鉄線功です。

その腕の先、手の部分を形意では鷹の爪と言います。蔡李佛では、珍しく鷹爪というものがありません。

正確に言うとあるのですが、他門では鷹爪というのを、私たちは虎爪と言うのです。普通はひっかいたり叩いたりするのが虎爪で掴むのは鷹爪なのですが、うちでは両方虎なのです。

しかし、別の鳥の要素を入れる場合があります。

鶴です。

鶴手などと言って、手も鶴の羽先のような形にして用います。

北派のある拳法では、派によって掌を開いて使うところと閉じて指先をそろえて使うところがあると聞いたことがあります。

ある先生が言うには、開いていた方が手に気が徹りやすいから、閉じているのは間違いだ、だそうですが、私は蔡李佛をはじめた時にしきりに閉じろ閉じろと言われました。開くと気が徹りやすいがそのまま逃げてゆくのだ、とのことです。

いまでは指先をそろえていたもきちんと気と勁が徹るようになると言われました。これが鶴手です。

この、足先から頭頂、手指の先まではを一貫して鶴は表現しています。

その鶴の立ち方を練習するのが、今週末のワークショップです。

煙にまかれる

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甲賀市が、忍者の末裔を探しているそうです。http://news.nicovideo.jp/watch/nw2040912

それにこたえて、家から手裏剣が出てきたとか秘伝書が出てきたとか言う反応があるそうな。

これは、よく考えてみるべき案件だと感じます。

これまで実は、ニンジャというのは存在していたという歴史的な証拠が一切存在していませんでした。

資料となるものは、江戸期以降の物がもっとも古いものであり、ほとんどは昭和になって忍者ブームが起きた時に作られた物だそうです。

もっとも古くまでさかのぼれる資料が、このたび甲賀市が募集した、甲賀五十二家の子孫というお話の元になっているものですが、この五十二家と言うものが言われるようになったのが十七世紀、江戸時代からです。

当時の甲賀は生活が苦しく、江戸幕府に女性の嘆願をしたのですが、そのおりに「我々は江戸幕府ができるときに、五十二家という人々が忍者という物としてお力を貸した。だから助けてください」というもので、その時に初めて甲賀五十二家という言葉や忍者という言葉が世に現れました。

つまりこれは、江戸時代には甲賀には忍者というものが存在していなかったという証拠となります。甲賀五十二家というのは歴史に浮上した段階ですでに食い詰めた土豪でした。

それらが、昔は忍者というものだったのだ、と自称したのが忍者の始まりです。

つまり、あくまで自称しかなくて、無心のための名文であり、びた一文実のない呼称です。

忍者の伝書だと言われる「万川集海」もこの時の嘆願文の中で初めて出てきたものです。

この中では、忍者は中国に由来しており、彼らはその子孫だということが書かれているようですが、ここに関しては根拠のないところではありません。

神奈川県には風魔忍者というものが居たという話がありますが、彼らの実態は渡来人であり、独自の技術力を持っていたために忍者だという話が作られたようです。

彼らの住んでいた場所は秦野といい、中国の秦族や朝鮮半島の人々を相称して秦氏と呼んでいたそうです。いまでもこの辺りには、唐人町といった地名などがあります。 おそらく、異国の文化や技術が後になって忍者を思わせるということで、風魔忍者伝説が生まれたのでしょう。

その神奈川県では、現職知事の黒岩氏が、風魔伝説にあやかって外貨獲得のために忍者を観光産業化しようとして活動しています。

黒岩知事はもともとミュージカルをやっていた人で、テレビでキャスターなどの経歴をしてから転身、いまでも舞台のプロデュースをするなどと芸能活動に明るい方で、おそらくは純粋にエンターテインメントとしての忍者、大衆芸能としての忍者を活用しようとしているのでしょうが、私はここに懸念があります。

これは、外貨獲得を目的として「これぞ禅宗総本家の秘伝である」として少林拳を名乗って大道芸のショーを運営していた中国共産党のやり方とまったく同じです。

あくまで大衆娯楽の中での架空の存在として忍者がフィーチャーされることには賛成ですが、ねつ造史観としてそれをわたくしする人々が多々出現することが想像されます。

伝統武術とはまったく違う表演武術が広まって中国武術の誤解を広めてしまい、真実の姿が広まることを阻害している現状のように、政治の後ろ盾を得た自称忍者たちが、あたかも武術を継承している人のような顔をしてくることが心配されてしかたありません。

物事の見方を変えて、それによって気分が変わり、自分の世界が変わるというのは気功や禅の考え方です。

だからこそ、そこにおいては単に我欲を肥大させるだけの都合のいい妄想を魔境と呼んできつく戒めています。

私が平素から、スピリチュアルのようなものを否定するのはそのためです。

本当に良いものを広めるうえで、その威を借りたまがい物が広まって世の中をより悪くすることは、決して賛同できないことです。

本物はちゃんとこの世の中にあります。

自分をだまさず、それを見つめ、そこに手を伸ばして納得のいく人生を送れるみなさんが増えることを願っています。

動物の話の続き

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五獣の鶴についてのことを書いたばかりですが、ほかにいくつもの動物をフィーチャーした拳法に、心意

六合拳があります。

これは前に書いた形意拳と同根の拳法で、イスラム教を信仰する回族に伝わっています。俗に回教徒の物が心意六合拳、漢化したものが形意拳などと言われたりもします。

この心意拳、またの名を十大形とも言い、十種類の動物の要素で成り立っています。十種類。五獣のうちの倍です。

この十種類が面白くて、まず、地をゆく動物が虎、馬、猿、熊の四種類。空を飛ぶ鳥が鷹、燕、鷂、鶏の四種類。それに地を這う蛇と空を舞う龍を足して十大形だそうです。

この分類をさらに推し進めると、大形と小形に分かれるものがいくつかあります。

例えば、龍と蛇は対になっていて、大きいと龍、小さいのが蛇です。

また、鷹が小さくなると燕で、熊の型を小さく行うと猿だそうです。

生まれつき身体が大きく力強い人は、上から叩きつぶすような大形が向いており、小柄で俊敏な人は小形が向いていると聴いたことがあります。

この面白い区分の背景には、イスラム教の世界観があるそうで、実に面白い発想だと思います。

我が蔡李佛門の五獣は、前も書きましたが虎、豹、蛇、鶴、象です。

少林拳には五獣を持つものが多いようですが、これはおそらく、気功法の五禽戯から来ているのでしょう。

しかし、普通はそれは虎、豹、蛇、鶴、龍です。

あるいは、猿が入る場合もあるようです。

ではなぜ、この龍が消えて象になってしまったのでしょうか。

龍こそ中国文明を象徴する動物なのに。

これはもしかしたら、龍が皇帝を象徴するものであり、革命勢力であった太平天国の拳法である鴻勝蔡李佛では嫌ったのかもしれません。

また、太平天国党はキリスト教革命軍であったので、龍が悪魔の象徴だとキリスト教的に考えた可能性もあります。

代わりに象というのが面白いですが、実は広東省には割りと近年まで野生の象がいたそうです。

中国の南というのはタイやベトナムに通じていますので、きっと身近な動物だったのでしょう。

象はそれらの国では仏様のお使いとされていて、仏陀の教えの深遠さを象徴した動物でもあります。

耳や鼻、胴体に脚などがそれぞれ違う生き物に見えるというので、物事を様々な角度から見る英知になぞらえられて「象」という名前が付いたのだと言われています。

だとしたら、龍に代わる神聖さがあったのかもしれませんね。動きとしては、我々の特徴である腕を振り回す槌、他派で言う圏錘と、それに伴う重勁が象の動きです。

象と仏教的の連想で言うと、蔡李佛の母体の一つになっているラマ拳があります。

これはその名の通り、ラマ僧の拳法と言われていて、またの名を白鶴拳と言います。

この要素が、蔡李佛の鶴になったのは間違いありません。

蛇は蛇拳ですね。

これは独立した門と言うよりは、前述の心意六合拳を含めて中国拳法では一般的な蛇形手の技法群があり、たいてい共通しています。いわば、ある種のコンセンサスとして入っていたのではないでしょうか。

また、白鶴拳の創始伝説などにおいても蛇は対になった存在とされています。

虎は龍と対になる中国の人気生物ですが、蔡李佛に入ってきたのはズバリ洪拳の影響でしょう。

洪拳のイメージは虎であり、餓虎禽羊の相と言う法が伝わっています。

蔡李佛の土台にある洪拳の技法が、虎になぞらえられたのもほぼ間違いないと思います。

なぜなら、のちに蔡李佛が洪拳に逆輸入された時に作られた合一の套路の名前が「虎鶴双形拳」だからです。

ラマ白鶴拳の要素と虎の部分が合わさったというわけです。

残ったのは豹ですが、これは実は蔡李佛のイメージ・アニマルでもあるそうです。

中国では虎豹と言って、虎と豹は本質的に同質の動物だとされていたそうです。

その内、陽の物が虎、陰の物が豹です。

すると、母体の拳である洪拳を陰の要素で強調したのが蔡李佛である、という主張が込められているように感じられます。

カウンター戦法、豊富な変化、暗勁など、洪拳をいわゆる内家拳的に柔らかくアレンジしたのがこの拳法の特徴であるぞとの教えが聞こえてきそうな気がします。

現代社会と過剰な正気

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 私は、ただ格闘技としてや、戦いで身を守る術として武術を広めようと思っている訳ではありません。

 いつも書いているとおり、あくまでライフスタイルとしてのマーシャル・アーツを紹介しています。

 それと言うのも、そもそもが少林拳というのは禅僧の行であり、禅とは中国の思想においては荘子の思想のライフスタイル化としたものであり、行とはその行為です。

 そして、僧とはそのような生き方を選んだ人々のことです。

 もちろん、禅を行うすべての人が出家したわけではなく、在家で禅を行うということは古くから行われていました。

 では、どのような人々が禅を求めたのかというと、それは人生に悩みを持った人々です。

 古代インドや六、七世紀の中国は、世界的な文明大国でした。とはいえ、病気や賊の蔓延、常に攻めてくる敵国との戦乱など、物理的な危険と高度文明社会におけるストレスが同時に訪れる時代でもありました。

 これはもちろん、現代にも通じる問題です。

 特にヨーロッパ諸国やアメリカなどは、戦乱とストレス社会が同時進行しています。

 もちろん、日本も他人ごとではありません。

 なので私は、いまこそ禅行としてのマーシャル・アーツが必要だと思っているのです。

 ひきこもりになってしまう人々や、不登校の子供たち、社会に疑問を感じている大人などの精神的な基底となりたくて中国武術を紹介してきました。

 そのために、常に人々の心の問題には意識を向けているのですが、そのうち、日本でひきこもり研究の第一人者と言われている斎藤環氏の書籍にはいろいろ学ばされています。

 今回読んだ氏の本で示唆を受けたのは、以前に私も紹介したラカンの視点からの展開です。

 そこで語られていることを要約します。

 ラカンは、すべての人間を病質的だと言及しました。

 現代社会において当然とされている「働く」と言うことも、実は現代病の一つだとみなすわけです。

 その文脈で言うなら「勤勉に働くこと」は良いこととは限りません。なぜなら、年金横領をした役場の職員も、架空請求を大量に刷り込んでゆく政治家の秘書もすべて誰よりも頑張って働いている人々だからです。

 そして、ここからが私が重要だと思った部分なので引用します。

“彼らには倫理感が欠けているというのなら、そもそも完全に倫理感を全うできる仕事がこの世にどれだけあるのかという話になってくる”

 その通り。

 この消費社会において、営業職などほとんどが詐欺まがいの誠実さとは縁遠いものであるでしょうし、建築業は手抜きがあふれ、飲食業では食べられる食べ物を粗末にしたり洗い物による汚染を伴います。また、もっともまっとうであろう農業でも生産調整などが行われています。

 ここから斎藤氏が言うには、ラカン的視点で言うと、そのような病弊的な活動に専心していない、ひきこもりがもっとも正気に近いというのです。

 ひきこもりとは、過剰な正気によって苦しんでいるというのがこの流れの着地点でした。

 最近のニュースで、和歌山県のニートに対する施設が扱われていました。

 そこの人々は、月に二、三万円ほどの金額があれば生活ができると言って、近隣の農家の手伝いをしたり期間労働をしたりして、山間で集団生活をしているのだそうです。

 みな無口でお互いに話したりはあまりしないそうなのですが、本やマンガなどを買ってみなで回し読みをしたりして、静かに暮らしている、とありました。

 これは、昔ながらの晴耕雨読の暮らしではないでしょうか。 

 現代式の老荘的な暮らしのようにも思えますし、新しい形の寺院のように受け取れる気さえします。

 もちろん、すべての人がひきこもりやニートに共感するわけではないでしょうし、気持ちはわかったとしても自分が実行に移すというのはまたまるで別の問題だと思います。

 しかし、ラカン的視点からの自らの生活の見直しというものを行ったとき、やはりある種の晴耕雨読精神を心に持つことは極めて正気の感情のように思います。

 ライフスタイルとしてのマーシャル・アーツというのは、自分の内に静かな正気を持ち、篤実で自由に生きるために提唱した言葉です。

 加速する現代社会に疑問を持ち、改めて自分自身の生き方を見直し、たしかな物の上に立って生きてみたいと思った人に、ぜひ門を叩いていただけたらと思っております。

二月関内WS「立ち方特集」の感想

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 今回のWSでは、特に立ち方にフィーチャーしました。

 うちの根幹に迫った内容と言っていいと思います。

 それも、あえてうちのとは違うやり方と比較検証してゆくという形を取ったので、他のやり方と混同せずに理解いただけたのではないでしょうか。

 とにかく動き出ない勁の使いを、お互いに体を触りあって確認しました。

 これをすると、単純に力を混めてスイッチをON/OFF式で筋肉を働かせるのと、勁の違いが分かります。

 勁は電気や水が流れるように、ずっとぬるぬると体の中が動き続けます。それが、私の言う「膜」の働きです。

 これによって、瞬発する一瞬の力ではなくて、働き続ける長い力を用いることができます。

 きちんと骨格を据えて(抜骨)立った上で膜を伸ばして勁を働かせると、我々の用いたい身体の使い方になります。

 これが出来ると、連続した動作で発勁が続けられます。

 基本は前手→後ろ手のコンビネーションなのですが、これ、一発ごとに発勁をしなおさずに、一つの勁でただ手を交互に出すだけです。

 これをやった後は、そこから靠につなぎました。

 これも一つの勁で三連発に行います。

 さらには同じ勁でそのまま掃腿を行うというところまでの練習をしました。

 また、掃腿から別の形の掃腿という連環も行いましたが、これもまた一つの勁です。

 この、切れ目のない一つの勁というのが鉄球の勁、暗勁の重要な点です。

 とはいえ、この連続と同時に、一つごとの勁の強さも大切なので、最後にはすべてコンビネーションなどを否定して、相手が基本技の掃槌を受け止めたら、そのまま発勁を続けてぐしゃっと下に倒す練習でしめました。

 相手がブロックしても、そのまま勁力を伝え続けてゆくのが我々蔡李佛の特徴です。これを、掃討力と言います。

 これが上手くいくと、足をひっかけたり腰に乗せたりせずに、打撃のまま受け止めた相手をすっころばすことができます。

 中国武術の好きな触っただけで相手を倒すシリーズですね。

 このようなことを打摔拿という言葉で表現します。一つの動きは打撃にも摔(投げ)にも拿(関節技)にも活用される、という意味です。

 今回の例では、うまくいけば相手を転ばすことができ、失敗するとたんにすっ飛ばすだけになりましたが、そこはどちらでも良いです。

 大切なのは、タイミングや技を使わずに、勁力だけで相手にぶつかっていって効果をあらわすということです。その練習をしていれば、功夫が積まれて勁力は強くなってゆきます。

 すべてはただ、きちんと立つことの練習です。

 ただ立って、そのままぶつかるだけです。

 天と地の間に、自分自身としてまっすぐ立つこと。それが私たちが武術を行うときの目標です。


技と身体開発

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 うちの学生さんに、整体の専門家の方が居ます。

 私は時々肩や首をひどく凝らせるので、その学生さんに診てもらったところ(ごめんなさい)、「思ったより腕が上がらなくて驚きました。稽古ではあんなに軽やかに動いているのに」という判定をいただきました。

 私の体は長い稽古生活で、まんべんなく脱臼や骨折をしてきました。両ひざの半月板に至っては、すり減ってひと時は立てなかったくらいのものです。

 しかし、それを体内の経絡の通る膜に勁を繋いで、それで稽古や日常生活を送っているのです。

 見えないくらい速く槌を打ったり、ぽんぽん人を飛ばしたりしますが、決してスポーツ的な身体能力ではしていません。

 これが中国武術のいいところです。戦いのための技の練習をしているのではなく、あくまで身体を良い状態にはぐくんで、気持ちよく生きられるようにするための効果が優先されているのです。

 先の記事でも書いたのですが、技が成功するか否かではなく、それによって効果が出ることの方が大切です。

 私たちの膜を使った勁力は、全身をボディアーマーで包むような物です。それで動作を補強するのです。これを日常の動きで行えるのは、大変便利な物です。

 功夫は日常の中にある、とはまさにこのようなことでしょう。

性と気功

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 陰陽思想における気とは、男女の和合における性の力の調和だと言われています。

 生まれ、育ってゆく命の力こそが気です。

 とはいえ実際には、私やほかの拳士が、女性と居ると体が重くなってしまうということを経験しています。

 よく整体の人が「もっていかれる」とか「もらった」と言う症状を口にしますが、そのような状態になってしまいます。

 最近までそれは、好転反応なのだろうと思っていたのですが、整体師の学生さんから新たな説が出てきました。

 一般に女性は、私のようなものと比べれば呼吸が浅いことが多いわけですが、二人で長時間一緒にいると、その呼吸に同調してしまうのではないか、という物です。

 これは思い当たりました。

 私は以前、「気が木みたいになってる」と言われたことがあります。どうも、自然の中で一人で働いている人にはそういう人がいる、とのことだそうです。

 よくわからないけど面白いな、という程度に思ってきたのですが、人間の動物的部分である元神が様々な環境に反応することが気功の基礎なのだとしたら、そういうことはあると思うのです。

 樹木もまた、養分を吸い、呼吸をしています。

 我々の気功では、木と水があるところが、気功をするのに最も適していると言われています。

 これもおそらく、木と水の流れが自分の体の呼吸を同調させるからでしょう。

 特に個人的には、そよ風があるときのゆっくりと揺れる木の葉の動きは呼吸に影響が強く感じます。

 これで、気功の実践者はゆっくりとした深い呼吸が身に付くのだと思います。その結果、膜の伸縮もゆっくりと大きくなり、功夫があがるのでしょう。

 そのような人間が、自分より小さく呼吸の浅い女性と長時間いては、やはり調整が狂ってもおかしくはありません。

 意外なところから気功の本質に迫る話でした。

 

春の湘南練習会の日程です

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 三月は13日、四月は24日、五月は15日でお送りしております。

 場所はいつもお世話になっている茅ヶ崎は鉄砲道のダンススタジオYOU&MEさん、時間は朝の10時からです。

 関心を持ってくださったみなさん、ぜひいらしてください。

己を立てる

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以前、臨済宗の臨在さんについて書きました。

我々少林拳が、達磨大師によって少林寺で興ったと言われる禅宗の行であるため、その禅とはどのようなものかと言うことで紹介したのです。

その時に書いた話をようやくすると、師匠の元で修行をしていた若き臨在さんは悟りの極意を求めようと師のもとを訪れますが、棒で打たれて撃退されてしまいます。

まだ自分は修行が足りなかったかと戻って練りなおしてはまた師のもとを訪れるのですが、そのたびに棒で打倒されてしまいます。

とうとう自分には才が無いのだと山を降りて、師の道友であった導師のもとを訪れて相談をします。

そこで訓戒を受けて、その棒にこそ極意があったと悟り、師のことを「もはや恐るるにたらず」と豪語します。

それに興った師の道友に掴みかかられるも、臨在はその関節技を三度拳で打って撃破します。その三打こそがまさに師と同じものだったことから、師の道友は彼を認めて師に感謝するよう言います。

臨在は師のもとに戻り、師の横っ面を掌で打ちます。

怒った師が怒号しつ襲い掛かるのを、逆に臨在は喝をして押し返します。

それによって師は臨在の実力を理解し、一人前になったことを認める、という話です。

この後、臨在さんは三大禅宗の一つ、臨済宗の開祖となりますが、いまも知られる有名な言葉が「祖に会っては祖を殺し、仏にあっては仏を殺す」というものです。

文字通り、殴り合い上等のスパルタな環境で修行し、実際に師を打って倒して卒業した臨在さんらしい言葉です。

殺す、という言葉がダイレクトすぎるためか、ほかの宗教からは禅宗は恐ろしい宗教だなどと言われ「禅天魔」などと言われたりもしたそうですが、この言葉には実は、己こそが己自身のすべてであり、祖にすがる心が沸いたならその心の中の祖を殺し、仏に頼る心が沸いたら己の心の中の仏を殺して、自分自身によって自分自身を救い、立てよという自立の教えがあるそうです。

ある禅僧の方の本によると、禅とは荘子がもとになっているそうです。

老荘の思想には、安心立命というものがあります。心を安らかにし、命を立てると言う意味です。

外の世界を宇宙と呼び、人間一人一人を小宇宙と呼びます。これは、一つの人間の中にすべてがあるということです。

自分という言葉は本来、自然の分身という意味だったと言います。

この小宇宙思想を理解し、自分の感じることはすべて自分の中のことであるということを体感することを、安心立命と言っているのではないでしょうか。

それがなったとき、人の魂は自らのまま、自由に生きることができるといいます。

我々の武術は、そのためのエクササイズであると言えます。

DEFTEC

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練習していていつも感じるのですが、熱心な人ほど練習で成功しようとしてしまいます。

否定的な書き方ですが、そう、練習にはあくまで練功を求めるものがあるので、必ずしも成功すればいいというものではないためです。

それは例えば、ベンチプレスの新記録を出すために思い切りブリッジしておなかでバーを押し上げるようなもので、記録としては残りますが本当に自分の力が強くなったわけではありません。

そのような目先の成功に囚われてしまうと、本質を得ることが難しくなってしまう場合がある訳です。

これは、我々の武術の根本構造によるものだと思います。

日本武術などでは、発想の違いや人が目をつけなかったような盲点で相手をひっかけることが重視されるために技で行うものが目に尽きますが、我々のは地道に自分自身の能力を向上させてゆくことを中核としています。

変化や奇襲ではなく、いわば横綱相撲のような、王道ど真ん中の地力です。

わかりやすい例で言うと、基本拳の掛や掃は打撃として用いられますが、相手が受け止めけたによってはその威力でそのままなぎ倒すことが求められます。

これは、打がそのまま摔(投げ)になるという中国武術の定番のパターンなのですが、この部分を取りだして練習すると、みなさんどうしても投げの練習をしてしまいます。

基本通りの、掛と掃とは違う動きをしようとしてしまう。

人によっては、タイミングを使って倒そうとしたり、クラッチをしてねじり倒したり、体重を浴びせたり、足をひっかけたり。

そういうことではありません。

あくまで基本通りに、相手に向かって掛、掃を勁力を以て行い、圧倒的な力の差でそのまま潰し倒すのです。

でも、そんなの倒れないよ。という声が聞こえてきます。

それでいいのです。

あくまで、そうやって勁を発してしんどい思いをすることによって、体の膜が鍛えられて発勁が強くなるからです。

その苦労そのものが練功です。

そうやって速度や体重移動でごまかせず、遅くて重い発勁が強くなってゆけば、いずれ同じことをしているだけで倒れなかった相手が倒せるようになります。

これが功夫というものです。

決してトリックや頓智で目先の成功を収めようとしてはいけません。小成は大成を妨げるという言葉があります。

技で人を出し抜いて勝るようなことが目的にすり替わってしまうのは危険な迷い道です。我々は自分の本道をあゆみ、自分自身をはぐくむために練功をしているのですから。

どうも世の中全体が、そのような目先の出し抜きあいを探して血眼になっているような気がしてなりません。それはとても不自由な生き方のように思えます。

私たちの稽古は禅の行であり、老荘思想の具体化であり、自由に生きるための自分自身を作ることを目的としています。

自由とは、もともと自分に由来する、という言葉が縮まったものだそうです。

つまり、幸も不幸も成功も失敗も、すべて自分の感じる世界は自分に由来すると思える精神のありようのことです。

目の前の練習相手が倒れても倒れなくてもどうでもいい。大切なのは自分自身が、自分が、やるべき正しい道の上に立っているということです。

その結果、いつか相手が倒れるなら倒れるでよろしい。現象が変わっただけで、主となるのは自分が正しく立っているということです。

正しく立ち続ける者は天地と同じくあるがままのものになり、あるがままの自由な命を生きることでしょう。

目先の人との比べあいに終始している人生に囚われていれば、ただ自分より弱い人に勝ち、強い人には負けるという状態のまま、いずれ衰えて不自由が増してゆくばかりだと思われます。

技ではありません。求めるべきは功です。

勝敗ではありません。学んでいるのは生き方です。

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