世の中には、いろいろな既成概念の刷り込みがあります。
まずは義務教育下での競争社会への刷り込みでしょう。
ここで人を蹴落とさなければいけないとか、邪魔をされないために警戒して政治的対応で世渡りをしながら、生き残りを画策しなければならないような社会だということを周りの大人たちから洗脳されます。
しかし、無事社会人として安定を手に入れると、多くの人が自分の心の中に救っている強迫観念が自分を窮屈にしていることに気づいてゆとりのような物を求めます。
お茶やお花などの文化であったり、海外旅行などの体験や写真などの技術的な物を通して自分の価値観を広げようとする人も多いでしょう。
また、引退後に居合や合気道などもやられるかたも多いようです。
そのほかに、参禅や書などより精神性をちょくに求める方もおられるでしょうし、中には新興宗教などに答えを求める人もいるのでしょう。
一方、社会的な成功を収めることができず、より直接的な形で強迫観念にさいなまれたままでいる人の中には、スピリチュアルや占いなどといった手軽な気分転換に救いを見出す人も多いようです。
なにせこちらはお金も安く済むし時間も使わない、思考停止をするだけで良いのだから時間と体力に追われる生活に追われている人にはお手軽です。
一方は朝からお寺に行って禅を組み、午後は書や茶道で過ごし、片方の人々は満員電車で揺られながら、わずかな時間の合間にコンビニで買った安手のスピリチュアル本やスマホの画面に映る自己暗示ブログで精神の安定を図る。
これは、私に言わせればどちらもそう変わることではありません。結果的に物質に恵まれているかそうでないかの違いで、同じ物の陰陽の両面です。
いま読んでいる本に書いてあったのですが、世界の国々の人々が感じている幸福度のリサーチに於いて、日本は70位以下という大変に閉塞した感情に覆われた国であるそうです。
それに対して、トップ10はほとんどラテンアメリカの国々がしめているそうです。
ラテン・アメリカというと貧富の差が激しく、犯罪発生率が高いという印象が高いようですが、実際のところはそれらのどこの国の内戦や犯罪で亡くなった人数よりも、日本における自殺者数の方が多いのです。
おわかりでしょうか?
同じ死亡すると言っても、犯罪や内戦で亡くなった人々と、自らの意図で命を絶った人は、生きている間の絶望の度合いが違いますね?
ましてや、生きている人にとっては雲泥の差です。
なにせ日本では、自殺をしていないまでもその直前までの絶望に囚われて生きている人々が、実際に死んだ人の数以上にいるのでしょうから。
むしろ、本当に幸せに生きている人の方が日本では少ないのではないかとさえ、私は思ってしまいます。
社会そのものが絶望の平等分配を要求しているような気さえします。
上の二つの生活層の人々が本質的に変わらないと言ったのは、同じ絶望の押し付け合いの上流と下流のどちらにいるかに過ぎないと感じたためです。
前述のラテンアメリカには、こんな話があるそうです。
あるところに、貧しい漁師がいました。
朝起きては小舟に乗って魚を取り、昼に市場で売り、それで自分と家族の生活費を手に入れては、あとは水辺でハンモックに寝そべって、友達とビールを飲みながらギターを弾いて暮らしていたそうです。
ある夕がた、そこに外国のビジネスマンがやってきて言いました。
「なんて素晴らしいところなんだ。私なら資本を投入して大きな船を買って、それで沢山魚が捕れる」
漁師はききました。
「それでどうするんです?」
「魚を市場で売るだけじゃなくて、缶詰にすれば保存食として売ることができる。その工場もここに作ればいい」
「それでどうするんです?」
「遠くの町や海外にも支店を作って、そこでも売れるようにすればさらに儲かる」
「それまでにどのくらいかかるんです?」
「一日十二時間くらい働けば、二十年ほどでできるだろう」
「二十年かけてそうして、それからどうするんです?」
「引退して、釣りをしたりギターを弾いたりしながら、ハンモックでビールを飲むような暮らしをするんだ」
これは笑い話だそうですが、老荘思想家からすると、大変に示唆に富んだ、まるで荘子の故事のようなお話です。
私が中国武術の師父、カンフー・マスターとしてみなさんにお伝えしているのは、単にパンチやキックの仕方などではありません。
それらの動きをいかに自然にかなったやり方で行うかであり、無為自然に生きるということをお伝えするのが本質です。
そして、天地の道に則り、自然とともに生きるとは、ラテンアメリカの漁師のような暮らしをするということです。
暮らせるだけの仕事をしたら、あとはハンモックに寝そべり、友と語らい、ビールを飲んで世界の移ろいを眺める。これが天地自然のタオの生き方です。
このようなことを、無為自然と言います。
初めに書いた二つの階層の人々は、どちらも笑い話のビジネスマンと同じ世界に生きています。
もし、私のところになにがしかの宗教の勧誘が来たなら「自分は南少林の徒であり、老荘のタオイストです。その日々の行い道にかなっているために、触れただけであなたを跳ね飛ばすことができます。どうかあなたのおっしゃる正しさを示すために私に飛ばさせてください。もしあなたが五体満足でピクリとも動かなければ、それからお話を伺いましょう」ということができます。
また、スピリチュアルや占いの類がポジティブ・シンキングだラッキー・アイテムだのと言ってきたなら「天に仁なしで、私は意志の方向づけも幸運に頼ることも必要なく、ただ自分の生き方だけで心身は健康で、充分に幸せな気持ちでいつもいます」と言えます。
何かにすがるところから不安定が始まります。
まずはきちんと立つこと。そこから無為自然のタオの生き方が始まります。
中国武術や気功では、まずは立ち方から入ります。
そして、最後まで立ち方に尽きます。
このことを、現代気功などではグラウンディングと言うそうです。おそらく大地を意味するグラウンドの動名詞なのでしょうね。
そうやってしっかりと大地と一つにつながって安定することが、自然と一つになることの第一歩です。
そして空を眺めていれば、身体が天地と近づいてゆきます。
天も地は、競争をしないし不安にもなりません。