今回の関内ワークショップは、来月が稽古の無い月になるので特別サービスの投げ銭企画でした。
一人づつの伸びやすいところを見て、いない間に練習がしやすいように内功の素養を置いてゆき、後半ではここのところよくやる兵器を使って体動を見直す練習をしました。
左右の手に違う物をそれぞれ持って使ったりすると、慣れていないのでものすごくかさばります。
そのような中で最終的にはあらためて両手で一つの物を持つ棍というものの、すっきりした良さに還る構成にしました。
少林は棍法、という言葉がある通り、どれだけ奇抜な頓智兵器が編み出されても、その根幹には棍があります。
それは、基礎の拳術が棍の影響を強く受けてなりたっているからです。
やはり体の内側を練るには、基礎となる兵器の練功を行うのが効率的です。
11月ワークショップの感想
畜生道
仏様に成仏できる前の六道の一つで、三悪道という芳しくない状態の一つに分類されるもので、動物に生まれ変わったありさまと表現されることが一般的のようです。
意味的には、本能に振り回されるだけで知恵が無い衆生の状態を表現しているものだとも言われます。
仏教は哲学的に洗練されて大変に複雑な部分が多いように思うので私には正確なところはわからないのですが、自分の及ぶ範囲のタオ的な陰陽思想で解釈するなら、この畜生道には心当たりがあります。
いわゆる偏差というのがこの状態です。
中国武術を格闘技や武道の一種だと思って取り組むと一番面喰うのが、収功という概念だと思われます。
これは内側の力や感覚をリセットして無に戻そうとする行為で、本格的な中国武術では何か一つの練習を15分ほどするたびにこれをして一休みします。
拳法は火を焚くがごとし、収めることを知らなければ必ず我が身を焼き尽くす、という教えがあるのです。
陰陽で言うと、武術の稽古という活動が陽となります。陽の状態が続くとバランスが崩れるので、ところどころで意図的に陰に戻すのです。
特に、内側を練る内功では、反射神経や運動能力に大きな効果がありますが、その分だけしっかりとした収功が必要になります。
これは、陰陽思想で自分自身にも識神といういわば人間として生まれて教育された常識や知識の部分と、元神という本能の部分があるという分類があって、その後者の部分を内功で活性化させるからです。
野生の環境でもたくましく生きる動物のように人間の見失いがちな野生の本能を呼び覚ますのです。
しかし、ここからが難しいところです。
長らく日本において中国人老師たちから教えられていなかったのがこの部分なのだと思われるのですが、本能は活性化させたら今度は収めなければならないのです。
身体開発や能力開発だと言って起こすところまでだけ教えられると、確かに効果はあってまるで超人にでもなったかのうような錯覚を起こすのですが、それではただの先祖返りです。
それでは人間として生まれてきた甲斐が無いといいます。
先祖返りして野人状態になって強くなっても、一般にはそれを狂人と言います。
人としての生活に難が出て、返って精神の健康状態も不安定になっていき、寿命を縮めた日本人拳師が沢山います。
本来は精神的な安寧を得るための武術が、それでは元も子もない。
しかし、封建的な世界の中国人老師はそういうことをするのです。
信頼の確定していない外国人などには、自分が出来ることを知らせるために半面だけは与えるのですが、それを受け取った人がその後どうなるかなどは案じてはくれない。
有名な話では、ある日本人拳士が一流の台湾人拳師から伝を受けた物の、信頼が完全に築かれて後継者として育てられる前に裏切って他門の後継者になってしまったのですが、それから数十年しての日本人拳士の動画を見た拳師が「なぜ誰もあいつに本当のことを教えてやらなかったのだ。あんなことをしていたら大変なことになる」と嘆いたというのです。
その少し後に、その拳士は早く亡くなりました。
解釈はあると思うのですが、武林の通説では収め方を教われなかったからだと言われています。
その亡くなった拳士の世代の先生がたの多くは、同様の扱いを経てこられているようです。
そのため、収め方を教わっていない先生の生徒がたも同様に不調を起こすということをよく耳にします。
それらの人々に共通なのが、元神を呼び起こすだけ起こしてどんどん動物化していってしまい、制御を失って貪り続けるような人格になっていってしまうということです。
陰陽相斉、片方が強く大きくなれば、もう一方も同じだけ大きくなることで、分母が大きくなりながら成長してゆくものです。
片側だけが肥大することを偏差と言います。それによってバランスは失われ、やがて持ち崩れることとなります。
力強い猛獣をきちんと飼いならし、ともに歩んでゆけるようにならなければなりません。
タオの開祖である老子は牛に乗った姿で描かれます。
その歩みはゆうゆうとしており、両者ともに安逸の心持であることが伺えます。
それこそがタオの理想像です。
山月記のお話のようにただ傲慢から虎になることは、道に迷って獣に落ちた恥ずかしい過ちとみなされています。
どうか世に広まっている誤解が改められ、正しい練功で多くの人々の心に平安が訪れるために、中国武術が用いられますよう。
厚誼
先日のワークショップ、お世話になったみなさんに旅立ち前にお礼と思って投げ銭制にして、おひとり様500円くらいでいいですよと思っていたら、あつまった封筒が心なしかいつもより厚い。
しまったこれは返って気を使わせてしまったかと思いつ確認もせず、翌日銀行でキャッシュディスペンサーに中身を流しこんだら、おかしな数字が!!
ナニコレ! ちょっと、みずほさん機械壊れてるッ!?
違う、皆さんが、餞別でそれだけ気持ちをくださったんだ。
あ~。恥ずかしい。
よかれて思ってなのに、返って真逆になってしまった。
私は長い間、最低の環境の中で自分の力だけでなんとかいろいろなことを善い方向に持って行こうとするのが当たり前になっていて、ちゃんとした人たちがこんなに周りに居て、心をくださってることが見えなくなっていました。
これが平素言っている、感じた物で自分が作られているというヤツです。地獄ばかりみて問題を抱えてる人たちを助けようとそちらばかり見ていたから、私を助けてくれようとしている人たちが感じられていなかった。
恥ずかしいことです。
そして、ありがとうございます。
おかげで少し、目が覚めました。
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慧能禅師 1・無相
達磨大師の最初の弟子に、慧能禅師という方がおられます。
入門を願い出たときに、本気を出すために禅を組んでいた大師の前で自ら片腕を切り落としたという逸話で知られています。
この方が、禅における三つの大事を残されています。
その三つとは、無相、無念、無住です。
少林武術とは禅の一形態であるので、この三つは少林拳の三つの極意であると言っても良いと感じています。
まず無相とは、形(相)に囚われないということだそうです。
これを武術的の口訣で言うなら、打人不露形に同じということでしょうか。
自分なりに細かくかみ砕きますと、相とは骨格の設置です。
中国武術では架式などと言います。
この形の設置と変化そのものの運動で打たないということが、独自の力である勁の運用には重要です。
慧能禅師 1・無相 ②
前回話した無相の話の続きです。
相が無いということは、形が無いという意味だ、というところまでは書きましたが、その秘訣は骨肉分離にあります。
これは、骨の設置と肉の動きを別にするということです。
つまり、肘は曲がっていても腕全体の肉は伸びている、と言ったようなことです。
有名な古拳譜にも「力は骨より発し、勁は肉より発する」というように、この肉の使いがポイントです。
ここに、我々が言う膜という概念があります。
膜を操ることが内勁だと言ってもいいのではないかと思っています。
これが出来ると、拳骨を握って拳を作るのではなく、肉の膜を使って拳を作れますので、実際には指は握りしめなくても大丈夫になります。
また、同様のことを胴体でも行うことができますので、脇腹や背中などの膜でも拳を作ってそれで的を殴りつけることが出来るようになります。
これでもう、関節を瞬発的に屈伸させて骨の運動で殴るという行為から離れることができます。
慧能禅師 2・無念 ①
無相の次には、無念という物も挙げられています。
これはかなり難しい言葉です。
普通に考えれば無念とは何も考えないということのようにも取れますが、禅で言う場合は若干ニュアンスが違うようです。
物の本には「外部のことに流されないこと」とありました。
他の資料を当たっても同様のことが書いてあります。
これをタオ的に解釈するなら、陰陽思想という、物事をなんでも相対化して区分してゆく考え方に照らし合わせて、 内と外という区別をまずつけるという前提があるように思われます。
タオでは、世界のことを大宇宙、人間のことを小宇宙と言います。
宇宙とは空間という意味です。
つまり、世界そのものと同じ仕組みの小さいものが無数に世界に充ちている、と考えます。
この、小宇宙の確立こそが無念なのではないでしょうか。
もちろん、大宇宙と小宇宙は協調してゆかねばなりません。そのためには、まず区別が明確にならないといけないのです。無自覚な混沌のままではいけません。
この区別がつくことで、自分とは何かという感覚がつかめます。
さらに自分の中で、本能と自我に区分してゆくのですが、それはひとまず置きましょう。
ただ、この自分を区分するためには、まず内と外の区別がついていないと始まらないことは明確です。
これが出来ないことを魔境と言います。
つまり、自分が見えている物と実際に存在している物の区別がついていないということです。
疑心暗鬼の言葉の通り、人は存在していない物をいくらでも感じ取ることができます。
その中には、電波を受信できる体質の人が居たり、猫よけの高周波が聞こえる人がいたりするので、実際に自分だけに感じられる物が存在していないとは言えないのですが、その区別をつけるためにもこの段階が必ず必要なのです。
感じられる物を存在する物だと短絡するのではなく、感じられる物の中に自我の繁栄である迷妄と実際に存在する物があるということを区別できるようになってゆくことを、分別と言います。
すなわち、真理を得る智のことです。
お釈迦さまは、愚か者を旅の道連れにしてはいけないと警告しています。
この場合の愚か者というのが、この迷妄と真理の区別がつかない物です。
自分の中だけでのことと外の世界のことの区別がついていない。
では、これが具体的にどうカンフーと関係があるのかということを次で書きましょう。
慧能禅師 2・無念 ②
外の宇宙と、自分という宇宙の区別とカンフーとの話です。
外と内の区別がつき、内の中で自我と本能の区別がつくと、自我より沸く迷妄によって術が濁ることを避けられるようになります。
術とはすなわち、自然の法則=タオと自分を調和させることで行われる物です。大宇宙と小宇宙の協調です。
この時に、迷妄があると邪魔になる。
技撃への拘泥も迷妄のように思われます。
内外の協調を主体にせず、他人と優劣を競って勝敗でだけ物を計っていると、どんどん真理から遠ざかってゆきます。
勝負は水物だからです。
単純な話、自分より弱い相手とだけ戦っていればいくらでも勝ち星は増えます。
しかし、それが果たして向上と言えるでしょうか?
自分の生徒とばかり勝負をしている先生も居ます。難しい話です。
また、その勝ち方にしても、正々堂々の地力の太さを用いるのではなく、ダマシ技や相手のデータの研究による弱点を突いて勝ってばかりいては、上手になっているとは言えても功がついているとは言い難い部分があります。
そのような物を俗に喧嘩武術と言います。
以前居たキックボクサーの生徒さんから「喧嘩武術じゃいけないんですか?」と訊かれたことがありました。
その方は私と戦って実力を見込んでくれていたので通ってくれていたのですけど、それは本質ではありません。
喧嘩武術では、 勝てるようにはなるかもしれませんが自分が成長をしているとは言えない。術がついてないのです。
硬い頭や肘膝で相手の弱いところを打ち付けるような物も技の中にはありますが、ではそれと、柔らかい掌や胴体で相手を打ち倒す技を比べたら、どちらがより高度だと言えるでしょうか。
私たちが行っているのは、後者のような内側の勁を用いる物なのです。
もし即物的な効用だけを求めるなら、暗器や打人法などだけ行っていればよいでしょう。
もちろんそのような要素はどの武術にもあり、また専門の門派もあります。
しかし、それは我々の行っている正道の武術とは言わない。
あくまで武術のカテゴリーの中の一部の護身術の類です。
その発想で行くのなら、毒の使用につながって、計略だ政治だ財力だという世界に発展していってしまいます。
ほら、真理から離れた。現世利益の世知辛い世界に帰結してしまったでしょう。
我々が求めているのはまったく逆。
求めている物が「強さ」だとしたらそのような類の物ではありません。外の何にも流されない、自己の存在の強さです。
そのために禅の行によって自らを確立し、外宇宙と対等の個人としての協調を求めてゆきます。
というわけで、無念とは、外の世界に振り回されないということ、だそうです。
慧能禅師 2・無住
慧能さんの三つ目に言われた言葉は、無住です。
これは、囚われの無い心の状態のようです。
とても大変大切そうです。
カンフーに限らず、禅にかかわることのすべてはここにあるのではないかと思います。
と、言ってしまうと終わってしまうので、少しつけたりをしてみたいです。
達磨大師は、禅において一番大切なのは晴れ渡った空のような心だと言いました。
おそらくは、無住とはそのようなことでしょう。
タオにおいても、すべては変わり続ける物だと考えています。その円転する物にしがみつかづ、流れその物の上に乗っていることが、やはり晴れ渡り、悠々としたものであるように思います。
晴れ渡った空のような心、それこそまさに気功を行っていると得られる気持ちそのものです。
習慣化してゆくと、やがていつでもそのように気持ちよく過ごせるようになります。
これは思想や思考などで誘導しようという話ではありません。
そこがいまどきのスピリチュアルと気功の違いです。人の心を晴れさせるのは、行だと考えます。
そのために気功の行を日々行うのです。
もちろん武術はその一部であり、ときに他人と組んでともに瞑想状態を得ようとしますが、やはり本質は気功です。
それなくしてただ技撃の練習をしても、そこでは空が晴れ渡りはしないでしょう。
勝敗や巧拙は確かに指針ではあり得ますが、核心ではありません。
気功を行うと、脳や神経が気持ちの良さを感じる状態になります。
それを癖にしてゆくと、気が付けばいつでも気持ちよくすごせています。
ストレスフルな環境になったり焦るような事態になったときにも、比較的落ち着いている部分がありますので、気持ちの良い状態に戻ろうとしてそのためには実際にどうすればいいのだろうかと考えるようになります。
そこで初めて「あ、これは実は大したことではないな。囚われてもしかたない」などと言うようにおのずと見るようになりえます。
外気を取り入れる
先日の茅ヶ崎レッスンは要望あって、午後にも続けて二回戦目を行いました。
スタジオは午前しか借りていなかったので、気持ちの良く晴れたビーチで行います。
しかし、気持ちがいいからと言って油断してはいけません。
中国武術はそもそも外で行う物で、その根本である気功も同様なのですが、しかし、外で気功を行うには少し注意がいります。
その日も、その部分を、筆頭の学生さんに確認してもらいました。
すると「今日は日差しが強すぎるので辞めておきましょう」との答えが返ってきたのでそうしました。
気功には、外の物を内に取り入れ、内の物を外に出すという基本があります。これを換気と言います。窓を開けて空気の入れ替えをするあれのことです。
外の物、つまり外の気、外気を取り入れるとは、単純に呼吸のことではありません。
感じられる物を感じ入れるということです。
例えば景色。気持ちのよいビーチの景色を取り入れれば、浮かれたよい気分になります。
これは心の気、喜びの感情の増加です。
この場合の景色という気は、食べ物を摂るように、物質を体内に取り込んでいる訳ではありません。眼球に映った物が脳内に反射しているのです。これも外気の取り入れです。
また、波の音は母体の時の音と波長が似ており、人を落ち着かせると言います。
音というのは、振動です。これも、物理的に何かを入れるのではなくて、元からある空気が震えている、その震えを体内に取り入れています。
また、海の周りの湿度も外気です。空気中の水分は人をリラックスさせるという説もあります。
このように、五感と六感で感じられる物はすべて気です。気のせい、という言葉もあるくらいです。
つまり、環境が自分に及ぼす影響を自覚的に判断する、というのが私が筆頭さんに頼んだことです。
瞑想、禅は気功の行において欠かすことができませんが、やるべき場所を選ぶというのも大切なことなのです。
よく、芸術の評論などで耳のごちそう、目の保養と言ったような言葉がありますが、まさにそれも気功的な思想です。
仏教は、美という物を大切にしてきた思想です。美とは調和の中にあり、そのために芸術をはぐくんできた文化です。
この過酷な世の中を生きる上で、心がすさんでしまっては問題があります。美しい外気を取り入れる必要があります。
人間は取り入れた物で出来ています。
美しいもので心の美しい部分を養いましょう。
気功の三原則は、調息、調身、調心です。心を健やかにすることは、健康に直結しています。
そして、それは美によって行われます。
フィリピンのカンフー
http://nicoviewer.net/sm4871134
私どもはサウス・マーシャル・アーツ・クラブを名乗っておりますが、これは主に、さわやかな南の風の感じられるようなライフ・スタイルをイメージしてつけた名前です。
暑苦しさや苦行ではなくて、気持ちよくてオシャンティーな感じ。
サーフ・カルチャーやヨガ・カルチャー、バイカーやウェッサイなどをモチーフにしている部分があります。
これは、我々の鴻勝蔡李佛拳が、伝統を保存しつつ外国に持ち運ばれて行き、世界最大規模の中国武術になったという歴史を土台にしています。
もともとこの武術は、広東という近代中国における最大の外交貿易都市で生まれた物で、世界に開けた視野を持っていました。
そのため、いち早く北南米やヨーロッパに広まり、カントニーズと言われる広東系の人々のチャイナ・タウンを足掛かりに普及されてゆきました。
日本の中華街は、立地や政治的な条件から、福建系や台湾系、東北(満州)系の人々を中心に生まれました。
そのため、福建拳法に直結する空手が生まれたり、台湾、東北地方で盛んな太極拳や八極拳が根付く土壌がありました。
東南アジアには福建、広東系の南派拳法が伝播し、私が向かうフィリピンでは特に鶴拳類の五祖拳が根付いていると聞きます。
この拳法を見ると、おそらく多くの日本人には空手に見えることと思います。
しかし、套路を見ると明らかに中国拳法で、さらに言うなら、福建系の短勁の拳と広東系の長勁の拳の動作がシャッフルされて編纂されています。
多くの動きが、私が学んできた動作そのものです。
そしてこれらの動きの用法が、そのままアーニスやエスクリマと呼ばれるフィリピン武術の徒手の技にそのまま流入されています。
もともと、遠間で純粋にフェンシングをする物だったフィリピン武術が、実際にサーベルを携帯して暮らしている時代を終えて徐々に変遷してきたのです。
その過程で、中国武術のトレースして、ほぼ簡化の中国武術と言ったような物になりました。
一般に言われる、アメリカ映画などの「カリの動き」というのはこれのことです。
しかし、それも実際のところはここまでの流れで、現在ではさらにサーベル代わりの棒を携帯していることも減ってきたので(戦後まではホントに護身用に持ち歩いていたらしいです)、徒手での取っ組み合いに重点を置き、レスリングからの技術が重視されてきてまた違ったヴィジュアルの物になってきているようです。
私はそれらにいはあまり関心がないのですが、出来ればフィリピンでは土着化した中国武術の動きや、可能ならそのままの形で行われている五祖拳などに出会えたらいいなあと思っています。
フィリピンの記
昨深夜、無事マニラに到着いたしました。
途中、飛行機の中で気功をしていました。
エコノミークラス症候群というのを耳にしますが、確かに動かないでいるというのは気血が廻らなくなるというのが禅でも聞くことです。
それを巡らせるために、座禅と対にる動禅、動功、心意把などの武術が出来たと言います。
ちょっとトイレに立ったときなどに、あぁこれまで体がこんなに固まっていたのだなあと痛感したりしました。
シートでの静功では飛行機の周りは空、下は海という、実に壮大な環境を感じて瞑想をすることができました。
すると、もし何かの折で(結構乱気流で揺れた)飛行機が墜落したとしても、それはもしかしたら実に壮大で贅沢な気分でゆけるのではないかなどと感じました。
もし魂というものがあって、そうして肉体より解放されたなら、きっと喜びに満ちて自由に舞い踊るのではないでしょうか。
死とは生より良いものであるかもしれないのだ、と語った荘子の教えです。
とはいえもちろん今回飛行機はきちんと着地したのですが、降りてきたときの気圧差で左の耳だけが破裂するほどに痛くなりました。
いまでもそちらだけうまく聞こえません。こういうことは初めてです。
あまり敏感に感じるほうばかりを伸ばして、何も感じない方にもってゆく行を怠っていたためでしょう。
感じやすい方にばかり伸ばしてゆくのも、自我の欲であり、魔境ですね。
フィリピンの記 2
私が滞在しているのは、ケソン・サークルという公園の近くです。
このケソンという名前は、アメリカからの独立戦線での英雄にちなんでいるそうです。
中央にケソンさんを祀る大きな塔があるのですが、そこにはいくつものレリーフが彫られていました。
その一つに、刀を持って革命軍を率いるケソンさんの姿もありました。
この公園は、フィリピン武術の練習が行われている場所だそうで、それを当て込んで散歩に来たのですが、練習のしやすそうな場所を求めて歩き回っていると、ありました。頭にバンダナを巻いたおじいちゃんが、小さい女の子とバストンを打ち合わせています!
現地のエスクリマ、感動いたしました。
その後、もう一人のまだ若い男性との練習に入ったのですが、私が日本で経験していたのとまったく同じタイプの、ディスアームを重視したスタイルです。つまり、セブで生まれたバハドというデスマッチを主軸として発展したタイプの物のようです。
当たり前ですが、見覚えのある動きばかり……。いやぁ、感慨深い。
その後、お話を伺ったところ、たまたま今日は二人で練習をしていただけで、普段練習しているグループは土曜か日曜日にしかいないのだそうです。
平日に練習できるアルニス(マニラの人はそう発音していました)のオフィスもあるけど、場所は分からないと言っていました。
また、一番大きなグループの先生はほかの都市からやってくるとのことで、この近くにジムは構えていないそうです。
あ、それ、もしかして本で読んでたエスクリマ・ラバニエゴのことじゃないだろうか。
週末が楽しみになってきました。
ただ、それまでに出来れば平日の練習場所も見つけたいところです。
また、フィリピン武術に強い影響を与えた五祖拳や、その中間のクンタオ、我らが蔡李佛などのジムなどもないか、引き続き調査をしてゆきます。
フィリピンの記 3
英語というのは、中学で習ったようなやりかたではまるで体得出来ないであろうということがよくわかってきました。
本場の人が英語で学ぶときは、もっと丁寧にしっかりと教えるメソッドがありました。
本日感動したのは、その中での発音の部分です。
THを発音するときには、舌を歯で挟んで息を吐きながらTHと音を出します。
これ、私の感覚から言うと音であって声ではありません。
この「音」を出すときには、唇を横に引く動作、歯で舌を噛んでいる動作、舌を引く動作、息を吐く動作が同時進行して行われる必要があります。
しかしやってみると分かるのですが、息を吐くと言うことは意識は外へ行こうと向かうのに対して、舌の動きは内側に入ろうという意を持っています。
そして舌が内に入ると言うことは、唇は閉ざされようとし、伴って歯も閉められそうになります。
しかし、それをやってはいけません。
バラバラが求められるのです。
これは、ある意味で骨肉分離ではないですか。
よく昔の情報でしか発勁を聞き知らない人は「全身の動きを協調させる」などと言いますが、実際にはそれは半分しか正しくありません。
動かない部分や、逆行する部分も多々あるからです。このTHの発音のように。
それも含めて大きく言えば協調ではあるのですが、ほとんどの人がそれを誤解しているのではないかと感じます。
とにかく加算的にいろいろな要素を追加してしまうケースが多いようですが、実際には求められているのは引き算であったりもします。
例えば、塩おにぎり?
こちらの人はおにぎりが大好きで、マクドナルドでもケンタッキーでもおにぎりがあります。
そして、おにぎりに付ける塩だれが出てくる。
これはハロハロ文化と言われるミックス文化の国風がよくわかる気がします。
対して、日本や中国では時に余白や虚が尊ばれます。禅の影響かもしれません。
そのせいか、日本では究極の料理は塩おにぎりだなどと言われたりします。
もし塩おにぎりの完成形を求めたなら、その状態に塩だれを足したならおそらくしょっぱすぎるでしょう。
それ以上の物を足せないところまで均衡のとれた完成、それを持っているのが究極の塩おにぎりなのではないでしょうか。
そのような、限界まで無駄をなくし、普段から人間がもっている力や感性、反射神経などを抜いて行ったところに、我々の求める最大の力がおそらくあります。
ある先生は、病気で力が出ない時が一番勁が強かったと言っていました。
そのような引き算の中国武術、それに対して、中国武術のエッセンスも吸収して拡大してゆくフィリピン武術。
武術と民族、社会形成というのも面白いテーマです。
フィリピンの記 4
さて、とうとう、月曜日にケゾン・セルケルで練習していたおじいちゃんが言っていたアルニス・グループの捜索に本日は行ってまいりました。
途中、おそろいの黒いシャツを着た若者たちがアルニスをしているのを発見。
女の子たちもいるしこのグループもいいなあと思ったけど、しかし、たぶん、この感じはあのKAMAOではないかと思われた。
数あるエスクリマの中で、唯一私がやらなくていいやと思ってるスタイルだ。
私がステイしている街にある大学で発展している、スポーツ競技としてのアルニスだ。
なにせ競技には興味がないもので。
そして、おそろいのユニフォームというのも外部の人が入りづらい感じがしたので横目で見ながら公園の奥へと進む。
すると、先日のホリデーにあのおじいちゃんがいた場所に発見、10人ほどのアルニスのグループ。
赤い、中国の道服のような物を着ているのが先生だと思い、胸に手を当てるサリテーションをして彼に挨拶をし、ここで練習をしていると聞いたので伺いました、入れてくださいとお願いする。
練習グループには先日のおじいちゃん(アヤ)も居て、上機嫌で紹介をしてくれた。
俺のBroのハポネスだ、みたいな感じで後押しをしてくれて、無事200ペソで練習に参加が出来るようになった。
他にまだ20代くらいの若先生も居たのだけれど、赤い道服の先生、マスタル・ラピーがマンツーマンでついてくれて、ベルシクを教えてくれた。
これが面白い。
最初に私がセントルイスでアルニスを習ったときには、シナワリからやった。
日本で習った最初もシナワリ。そしてシングル・スティックでは12アングル。
でも、ここではシングルでまずファイブ・アングルを習った。
ホーム・ポジションは左上腕をバストンで囲った包拳礼のようなスタンス。
チョッピング(ウィティック)、アッパー・スプリング(縦回転のウィティック)、サイド・スプリング(右へのウィティック)、ウァーディング(右に持ってゆきながらスピンして地面を打つ)、ロング・レンジ(縦の大きな回転)、プランチャー(アンブレラのような大きな横のラプティック)。
場合によって、最初のチョッピングがサイド・スプリングに代わったりして5カウントになる。
これでおおよその基本の5、6種類が学べるというわけだ。
面白かったのは、すごく姿勢が低いこと。
映画なんかでで割りに見るすっ立ちのエスクリマではなくて、腰を低く落とせと言われて平馬で行う。
そして、常に身体をクローズしてバストン(現地の人はアルニシャーと言っているように聞こえた)で身体を囲っている。右左の構えが明確なのだ。
これは、私が今まで習っていたエスクリマというより、カンフーに近い考え方だ。
この後、16アングルに入る。
ものすごく多いよね、16カウント。
1で横のチョッピング、2でアッパースプリング、3でウァーディングなんだけど、面白いのはこれ、足が我々で言う紐馬。クロスしている。前後が明確だから、打つ角度によっては、足を踏みかえるのではなくて体をツイストするのだ。こんなのはエスクリマでは初めてだ。まさに南派カンフーそのものではないか。
4ではホームポジションに戻るんだけど、ここでのスリングは先端で突くトルソー、5では縦のラプティック、6では右上がりの斜めのルーフで下から打ち上げる。この時の左手を出すのはカンフーの撑掌とまるで同じだなあと感じる。
7ではホームに戻り、8では左前に上馬してウァーディング、9ではそのままの馬で下から股間への打ち上げ。グフみたいなのだね。
10は9で出たところからスピンして戻して、右上腕外にアルニシャーを添える。11で左足を引いて元のスタンスに戻って横に打ちながらホームスタンスに戻り、12では右足を引いてウァーディング、13でまたグフして、14で10と同じ左前の構えに戻って、15でスタンスを戻して左に打ち、16ではそこでロング・レンジという縦の大きな打ち。
右前と、左前で明確に構えが決まっている。
これ、明らかにバストン・テクニックなんだけど、すごく刀術っぽい。
おそらくは右前のアルニシャーをフルに活用しようっていう、バハドのテクニックの匂いがプンプンする。
この後にまた別の12アングルを習ったんだけど、この動線がすごく独特。
右前でまずはそちらに、後ろ足からクロスして進む。その後、今度は前足をクロスして戻ってくる。五輪馬だ。
その後、平馬での背中側に、右足、左足と下がる。これもモロに少林拳じゃないか。
ついで、行ったのを左足、右足と戻ってくる。
それから今度はなんと、左側に身体をねじって紐馬、ついでそれを解いて逆の紐馬をする。
もろに五輪馬での套路なのだ。
こんなんフィリピン武術で見たことない。これ、サヤウに入るのかなあ。
PTKのカスレ先生は初めうちの五輪馬に懐疑的だったから、少なくとも他のエスクリマでの常とう手段というわけではないのだろうと思うよ。
この辺りで、マスタル・ラピーは仕事に戻る、と帰ってしまった。
マスタルは一時間ほど離れた場所にある街の床屋さんだそうで、火曜日が休みなのだという。
weekdaysのレッスンを申し込んだら、特別レッスンを受け入れてくれた。楽しみだ。
マスタルはしきりに、ラピッド、ラピッド、と高速を主張していた。「ラピッド、ラピッド、私の名前じゃないよ(笑)」あ、確か、ラピッド・スタイル・エスクリマってのあったよな。もしかしてそこの関係なのかな?
グランド・マスターはGMペピートって先生だそうだ。
帰り際、マスタル・ラピーはすごく喜んでくれて、一緒に写真を撮ろうと言ってくれたのでみんなで何枚も撮った。ここもすごい友好的な雰囲気だ。
紹介してくれたアヤ爺も得意顔で、このハポネスはワシが呼んだんだよ、BroだBro、とご機嫌。
マスタルが帰った後は若先生のクラスでみんなと合流。
こっちでは、27アングルという物をやる。
これは長い。なんだってこんなに長い物を。
と思っていたら、その後の対練で見えてきた。
若先生が曰く、まずブロックしたら相手のアルニシャーを掴んでバシバシとラピッドで打ちまくれというのだ。
うん、やっぱりバハドの技術っぽい。
若先生が教えてくれたテクニックの多くは「マグニート」と言って磁石のように相手のアルニシャーを自分の体に押し付ける物。そうやって相手が得物を使えないようにしておいてバシバシとラピッドする。
この練習の後はディスアームをやった。
そこでもやっぱりラピッドで、相手の武器を奪ってからもそこで油断せず、ひたすらラピッド。これ、レドンダ・アーニスでお世話になっているロメオ・バラレス先生がいつも言うレドンダ(ラドンデって聞こえるときがある?)と同じことなんだろうな。
この、ケゾン・セルケルのグループについて、ここまでの所見を。
そもそもは日本で刊行された本に、この公園でエスクリマ・ラバニエゴってグループが練習しているって書いてあったことが切っ掛けだった。
おそらく、現在はラバニエゴ先生はここではやっていないのだと思う。
ベルト・ラバニエゴ先生、ご存命なら確かいま、76だ。
このラバニエゴ先生の創始したエスクリマ・ラバニエゴは、コルテを重視していて、他のスタイルには見られない低い姿勢が特徴であり、頭の後ろにアルニシャーを構えるスタイルも独特なのだと言う。
これ、マスタル・ラピーが教えてくれたことと大変共通する。
おそらく、GMペピートというのは、ラバニエゴ先生の後継者なのではなかろうか。次の練習日に質問してみたい。
ラバニエゴ先生が学んだ、ライトニング・サイエンフィック・エスクリマというのは「相手が一回打ってきたら15回打ち返す」というコンセプトの物だったらしい。
あのラピッドラピッドや、27カウントの練習はこのための物だと考えると実に納得が行く。
そしてこの、ライトニング・サイエンフィック・エスクリマは、どうもラプンティ・アーニスってのと関係が深いのかな?
ケゾン・セルケルで練習しているグループの動画を探したら、そこがあって、まさに私が習ったことをやっていました。
もう少し遠くのルネタ公園でも、いくつものグループが練習をしているそうですが、今回の滞在場所からはちょっと遠い。
なので継続してこちらのスタイルの方を調査してゆきます。
フィリピンの記 5
本日のケゾン・セルケル。
なぜか消防署の人たちが、アルニスを練習していました。
ひどく不真面目な感じで半笑いでダラダラやっていました。
指導していた先生二人は、グリップをほぼまったく残さないタイトな握り方の人たちでした。
バハド・ズブ・スタイルやカリス・イラストリシモ・スタイルかもしれない。
きっとルネタ公園で練習している先生がたなんじゃないかなと思いました。
たまたま公園で話しかけてきた子供と若いのに、なんで消防署がアルニスをやるんだろう? と訊くと「たぶん火と戦う」と言って笑っていた。
お役所に呼ばれるというのは、やはり国技として認められているのだなというのは分かったのですが、でも、同時に普通の人からはちょっと冷笑されているというのも分かりました。
まぁ、例えばお相撲だってちょっとそういう感じにはなるよなあ。たぶん。
フィリピンの記 6
引き続き、日々練習をしています。
マスタル曰く、ベルシックはまず5つの動作からなるサヤウをやります。
それと並行して、その五つの動作の最初の物を別の動作に変えたバージョンを二つやり、同系のサヤウが三つとなります。
その後、具体的に相手の体を想定した十二の動作を行います。これはフィリピン武術にありがちないわゆる基本の12ストライクです。
これがラプンティ・アルニス・デ・アバニコの面白いことは、この12ストライクにアバニコという動作が入っていることです。
アバニコはアルニスでは必ず入っていると思われる普遍的な動作ですが、基本の12にアバニコが入っているのは珍しい。
ここまでがベルシックです。
このあと、LESSON1、で16動作の、パワーストライクと呼ばれるサヤウ、2では移動系の四方に向かうサヤウをやり、3では三角形を描くサヤウをやりました。
4では、27動作の長いサヤウをやるそうです。
とにかくこんなに長い動作のフィリピン武術はやったことがない。
当然、こんなものをやるので練習のほとんどはサヤウに費やされます。
ディスアームのような組んでやる練習は少しです。
これはどうもラプンティ・アルニス・デ・アバニコの設立に関係のあるライトニング・サイエンフィック・エスクリマが、相手が一発撃ってきたら十五発撃ち返す、という思想を持っているからのようです。
初めに行われる五動作の基本でも、一発目は相手の攻撃を受け止めたりはじいたりするような動作で構成されているようです。
それを考えると、LESSON1でやるパワーストライクが、一つ目で受け流して十五発返すと考えると、ちょうど十六動作になります。
そのような、マシンガンのように乱打する戦術を主としているために、ディスアームよりもサヤウを重視しているのではないでしょうか。
ラプンティ・アルニス・デ・アバニコ
https://www.youtube.com/watch?v=JqCE-x1uZu4
これが現地でいま教わっているラプンティ・アルニス・デ・アバニコです。
足の使い方がもろに中国武術です。
格闘技的な立ち方の多いエスクリマの中では、非常に珍しいように感じます。
またサヤウを重視していることや、サヤウの中に蹴りが入っているところなどもそうです。
どうもこちらの華僑博物館の歴史によると、すでに10世紀くらいには中華街が存在していたそうです。
スペイン統治時代にはだいぶ弾圧もあったそうで、中華街内で自警団が組まれ、護身術の訓練なども行われていたそうです。
おそらくは、そのあたりの影響もあるのではないでしょうか。
バストン(アルニシャー)の動きとしてはクルクル回すスピンが多いのですが、これはおそらく刃物の時代が終わってバストンによるバハド(決闘)が行われるようになってからの動きでしょうね。
相手とつかみ合いをするような短い距離で威力を出すために用いられる物だと思われます。
回さないスイングは「ロング・レンジ」と呼んでいて、スピンとは区別をしていました。
フィリピンの記 7
I MET THE GRAND MASTER
本日は日曜日、ケゾン・セルケルでのグループ・レッスンの日です。
今回は前とは違って、グランド・マスタルのGMペピートが来ると言う日でした。アメリカのマーシャル・アーツ・マガジン、ブラック・ベルトに取材を受けたこともあるという人だそうです。
初めてお会いしたGMペピートは、がっしりした身体に坊主頭、そして迷彩服という軍人さんでした。現職のフィリピン・アーミーに所属している方だそうです。
いかにも上官が部下に接するような口調で「どんなマーシャル・アーツが出来る?」「カンフー? どんな種類のだ? タイチか?」「どのくらいやってる?」「ランクは いくつだ?」などと質問を受けました。
一つ一つ質問に答えてゆきます。
どうやら、マスタル・レピーが事前に話していてくれたようで、何か私の面接をしているようでした。
「必ず練習をしろ。しないのは良くない。分かったか?」「NO MEMBER NO TRAININGだ」など、彼の「MY POLISY」の薫陶を受けながら、書類を渡されます。
それに名前や連絡先、ニックネームなどを書いてゆきます。
そこにあるデータを基に、メンバーズ・カードを作るのだそうです。
一度メンバーになれば終生会員で、一度日本に帰ってからまた来ても、ずっと日本にいてもメンバーだ、と言います。
周りにいたグループのみんなが「これで俺たちは本当にBROだな」と親指を立てて笑いかけてきたり、親指を立てたりして迎え入れてくれました。
また、その後に驚くべきことが。
ペピート上官、いやGMペピートが「明日からマンツーマンのトレーニングを行う。その後、帰ってから指導を行ってよい」と言われました。
なんと! どうやらマスタル・ラピーが、私が日本で十年以上エスクリマをしていて、動きを見るに十分に大丈夫だから、きちんとカリキュラムを覚えればイケると説明していてくれたようなのです。
なので「次にメンバーズ・カードとマスター・ライセンス・カードの二枚を持ってくる」とのことでした。
これまで、フィリピン移民の不良少年たちがやっているようなスタイルのエスクリマをルードボーイ・スタイルとして長らく行ってきましたが、「フィリピンに行って正式なアルニス・マスターになりたい」という希望がいきなり現実に見えてきました。
これからは日本ではおそらく唯一? の、ラプンティ・アルニス・デ・アバニコのシステムを学んだ、アルニス・マスターとなる予定です。
その際には我々サウス・マーシャル・アーツ・クラブは、南派拳法とその影響を強く受けたラプンティ・アルニスを公式に学べる唯一のクラブになります。
会の名前にこめた、南の方の武術をやるクラブなんだよ、というのがより明確になってまいりました。
フィリピンの記 8
本日はいよいよ、グランド・マスタル・ペピートのレッスンでした。
アシスタントの青年と来てくれて、基礎からしっかりと練習をしていったのですが、とにかくラプンティはサヤウが多い!
手数が多くて種類も多いので、延々とバストンを振っていることになります。
途中から腕が重くなっていって、だんだん動かなく……。
相手と組んで行うディスアーミングなども行うのですが、実に僅かです。
それに、その折もブロックするなり相手のバストンをわしづかみにしてアバニコというスイングでまずは相手をビシビシと打ち据えて、その後に武器を奪うという物のため、結局また腕は疲れます。
ちなみにディスアーミングも、大きな動きで行っていると「それはモダン・アルニスだ!」と指導を受けました。
よりダイレクトに見も蓋もない方法で兵器を奪えと言うのがこのスタイルのディスアーミングであるようです。
なぜなら、その間に相手が打ってきたり自分のバストンを掴み返してきたりするからだそうです。
そしてそのようなときは、その時用の掴まれた状態でのディスアーミングがあるのが非常に面白いと思いました。
フィリピンの11月は暑いです。
なんとか今日も無事レッスンを乗り越えました。