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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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今週はとうとう!!

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 土曜日は、なぜか通常稽古が二回回しとなっております。

 午前の部は10時から。

 午後の部は14時から。水の広場にてになります。

 

 そして、日曜日は東京にラプンティ・アルニスが初上陸します。

 22日  日曜日 ラプンティ・アルニス初伝来感謝祭TOKYOhttp://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12226283879.html

 ぜひいらしてください。

 

 お問い合わせはこちらまでお気軽にどうぞ。


知足

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 マニラから帰ってすごく変わったことがあります。

 それは、アルコールとコーヒーの摂取量です。

 留学中には、ネズミとゴキブリが走り回るコンドミニアムに宿泊して、食事を摂ったらすぐに翌日に備えて早くから眠り、起きてはまた勉強と訓練の繰り返しで観光もしないという生活をしていたのですが、そうなるとさぞ部屋でお酒をたくさん飲むことになりそうなのですが、全然そうではありませんでした。

 日本に居る時には、昼間の仕事の合間合間でコーヒーを飲んで、なんとか一日三杯までにとどめようとしていたのですが、ついつい四杯になってしまう日もありました。

 しかし、そのコーヒーも、フィリピンでは一日にカフェにいるために一杯飲むだけの暮らしをしていたら、帰国してもまったく飲みたくなくなりました。

 ちょっとした甘口の座房生活のようなことをしていたら、自分にとって必要な物だけで自分が満足できるということを知ることが出来たためのようです。

 いまやアルコールは、ホントに舌に消毒用の脱脂綿を押し付けた程度にしか飲まないし、コーヒーは初めの二口くらいでもうよくなってしまいます。

 飽きてしまうのではありません。

「あー、おいしかったなぁー」と思って満足してうれしくなって、で、もうそれ以上飲まなくてもよくなってしまうのです。

 満たされて充分になっています。

 これ、タオでは知足、足るを知る、と言います。

 人間はエゴに振り回されて、本来必要で無い物を欲しがったり、憎む必要のない物を憎んだりして人生を浪費してゆくというのがタオや仏教的な見方です。
 解脱思想においては、そのようなエゴを離れて自分が本当に望むものやその度合いを知ることで満足した人生を送ってゆくことを目標としてゆくのですが、実際に古典にあるような教えを参考に生活しているとそのようになります。
 このことには、ただ教えだけでなくて行の部分が直接に作用していると言うのが私の見解となります。
 その行というのが、気功であり、武術となります。
 天気が良いだけで内側から悦びがわいてくる。そよ風が当たるだけで人生に満たされる。そのような状態になるのは、自律神経と脳内ホルモンの働きに、気功や武術の内功が作用しているからであると言われています。
 常にリラックスして気持ちよくいられることで、免疫力や回復力が上がって健康にいい、ということです。
 それどころか、常に喜びに満たされて生きているということは、それ自体が人生を大きく変えることになると思います。
 私自身は、かつて十年ほど睡眠障害を患っていましたが、いまは誰よりもあほのようによく眠る人間になっています。
 心身の健康のために、快適な人生が悪い訳がありません。
 そんな訳で大抵の時は充分に幸せなので、一口のコーヒーでもう十分に内側が満たされて、それ以上は求めなくなってしまうのです。
 先日、五つ星お米マイスターという方のお話で聴いたのですが、本当においしいお米というのは、季節や場所、一緒に食べる物などで常に変動するのだそうです。
 この辺り、気功の思想と一致するのが面白いです。
 気功と言うのは、自分の内側に働いている物である内気と、外の自然界の外気が協調すると調子がいいよ、という考え方です。
 自然界の植物や農作物も外の気の結晶なので、それと季節や場所が関係するのは実に理にかなったことです。
 そして、それを内に取り入れる際に、協調していれば快を感じるので、おいしいと思うわけです。
 お米マイスターというのはそういう調整をするお仕事のようです。昔で言えば方術ですね。
 そのマイスターが言われるには、子供に最適なお米を食べさせていると、食べ残しが無くなるだけでなく、満足して欲が満たされるのでジャンク・フードやお菓子などを求めなくなるのだそうです。
 大人の場合は、同じ理由でダイエットになるのだと言います。
 人生に満たされていない部分があると、そこからくる足りない物を埋めるためになにがしかの物が欲しくなることがあります。
 これが食欲やアルコール、煙草、ゲーム、買い物などに反映することが多々あります。
 その欠落を補い、人生に満たされると、結果として欲が薄れます。
 私はいまの自分のこの状態がとても気に入っています。
 かたやで、ラテン系の人々にはパッションという考え方もあり、欲望のままに命を燃やすのもまた一つの生き方として認めてもいます。
 どちらにしても主体は自分にあり、周りに流されていないことで自分の人生を確立していますね。
 
 
 
 
 

 

 

 

二月の予定 随時更新

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 2月の12日、日曜日は朝の10時より茅ヶ崎での練習になります。

 

 19日の日曜日は、フレンドダンス教室で18時から関内ワークショップです。

真伝と功と道

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 最近偶然見た興味深い動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=8Vtzi-jk9HU

 大変に私たちの学ぶ蔡李佛拳に近い用法連です。勁も同様に見受けました。

 また、同時にこれは、非常にラプンティ・アルニス的です。

 ラプンティの土台になっているカンフーと何か関係があるかもしれないと思っていたのですが、そもそもこれは……何拳?

 見ているうちに蟷螂かなあと思ったのですが、て本場で学んだ友達からもそのように確認を得られました。

 その蟷螂拳、総合少林拳なので蔡李佛とはもともと似ているようです。それもその友達が最初に私の拳を見たときに言っていました。彼自身は蟷螂が本門ではないのですが、師父が世界的な蟷螂の高手なので、非常に近しく知って居るのです。

 となると、総合少林拳に似ているラプンティということは、やはりそのような物が流れ込んだのでしょう。

 地域的にも、少林武術をまとめて広めた南派である可能性は高くあります。

 また、フィリピンの少し北が台湾であることを考えると、様々な少林拳が伝来してもまるで不思議はない環境です。

 ちなみに蟷螂は、私たち日本人は完成された物から見てしまっているので高級な技法のある有名な拳法と言う印象がありますが、実は現地での姿はちょっと違うのだそうです。

 とにかく習ったその日に使える喧嘩殺法みたいなものを寄せ集めたような拳法、というのが現地での姿なのだと何か所からの方面から聞きました。

 その上で、段階を追って高級技法を入れてゆくのだそうです。

 なので、段階によってまったく中身が変わることが想定されます。冒頭に貼った動画ではきれいな暗勁を放っているので、かなり高級な段階に進んでいることがわかります。

 武術には、段階とカテゴリライズがあります。

 我々外国人はどうしても、大人になってから武術を始めるので内功や発勁が練習の中心になります。

 そのために、回族武術が日本人には適した体系だと言える気がします。

 中華圏だと本当の家伝武術を学ぶ人は子供の時から練功をします。

 それらを童子功と言います。

 暮らしそのものが中華武術を体現するための物であるため、その中で骨格や靭帯、筋、内臓の配置などもすべてそのため物に変えてゆきます。

 以前もここに書いたと思いますが、台湾の鶴拳の老師も幼いころから木の枝に逆さづりにされて、下に置かれた石に向かって釣瓶落としにされて頭の硬功夫を鍛えさせられたと言います。

 その上で技法に入ります。

 甘やかされたそこら辺の現代社会のサラリーマンのおじさんが手わざを覚えて振っているのとはまったく話が違います。

 鉄掌をやって指が曲がらなくなり、物を掴むときには指を横に開いてカニが挟むようにしてつまむという人や、抜き手(穿手)の鍛錬で親指をのぞく四本の指の長さがそろってしまっている少年などを目撃したという話を、現地で修行した人々から聞きます。

 中国武術の練功法が人体改造術である以上、生まれたときからそのようなことが行われている人間に、後付けで技を学んだだけの人間が及ぶわけがない。

 街の道場や練習会に通っている程度の現代人が、そのレベルで強いだ弱いだ勝つだ負けるだ実戦だ護身術だと息巻いたところで、そんなものを何十年やっても、家伝武術をしつけられてきた子息の前に立てば気づきもしないうちに倒されているでしょう。人生の浪費です。

 中国武術の都市戦においては、暗器の使用が中心になっている傾向があるそうです。鍛えた功を使って、見えない道具に威力を持たせるのです。
 呼吸法をひたすら練習している人は、強力な含み張りを打ち放ってきたりします。
 小手先の技がいくらか仕えたところで、そのような物にはまるで無意味でしょう。
 だからこそ、以前も書いたように、そのような自らのエゴに由来するような欲求のために稽古をするということは無意味なのです。
 なぜなら、その欲求は絶対にかなわないからです。そこらへんで練習をしてサイキョウなることはありません。
 大人なんだからホントは分かってるでしょうに。
 初めから叶わない欲求に向かってる振りをして自己満足をするというモラトリアム行為が本質である、という人にはちょうどよい需要と供給の関係が出来るのでしょうが。
 だからこそ、いつも書いているように、そのような相対的で功利的な物とは別の価値を見出さないとならないのです。
 私は本物の世界を知り、本当のことを学ぶことが出来たので、そのこと自体に満足しています。
 それは先に書いたような家伝武術の継承者からしたら「間違ってる訳じゃないけどそれだけしかできないの?」というような物でしょう。
 ましてや、正伝や真伝でもないような物など、失笑物の世界でしょう。
 このようなことを言うと、とてもそんな人たちがが居るとは信じられないというような世間知らずが居ます。
 中国雑技団を見たことがないのでしょうか。
 信じられない超人技を、子供の頃から仕込まれて行える人たちはゴロゴロいます。
 それは特別なことではありません。
 私の祖母などは、よく中華街に行くと纏足をした女の人を見たと言っていました。
 戦後までは普通の存在だったのです。
 薬と矯正具で、人体を改造するという風習が、武術家でも芸人でもない一般家庭で当たり前に行われていたのですよ。中国文化というのはそういう物なのです。
 ただの日常的な風習でそのレベルなのです。能動的に術を極めようとしたら一体どこまでいくことやら。
 そのような、人類の歴史や学問、可能性と世界の広がりを感じることで、私たち現代人は自らの精神を閉じ込める窮屈な社会通念から解放されることができます。
 それを体感することで、魂を自由にして命を活かしきることができます。
 社会通念に対応するのに、ヴァーチャルやウソでも良いのでしょうが、本物はちゃんとこの世界の、手を伸ばし、足を運べば届くところにあるのですよ。

ラプンティ・アルニス 初伝来感謝祭TOKYO 感想!!

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 以前から楽しみにしていた、ラプンティ・アルニスの東京上陸がとうとう果たせました。

 スペインからセブに着地し、そこで中国から来たものと融合されて、さらにマニラに北上した物がようやくさらに日本の首都にまで来れました。

 ここまで四百年以上かかった。

 フィリピンの文化母体と言うのは、スペイン、アメリカ、そして日本なのだそうです。

 街を歩いていると、この三つの国の言葉が氾濫しています。

 パンのことは英語でのブレッド、ではなくてスペイン語でのパンです。

 日本人はジャパニーズではなくてスペイン語でハポネス。

 街の標識などはみんな英語で書かれています。

 そしてあちこちにラーメンや牛丼などの日本の食べ物のお店があります。

 日本で言うカルビーみたいなメジャーなポテトチップスのブランド名は「オイシー」です。

 それを売っているコンビニのホットスナック・コーナーではカリパンという日本のカレードーナツが人気です。

 しかし、そのようなことはほとんどの日本人は知りません。フィリピンの人々にとっては日本というのは、アメリカにおけるイギリスのような存在なのですが、日本側はあまり彼らに親族意識を持っていない。

 だからね、この二つの国のつながりがほんの少しでも日本で知らせられるのは私には意味のあることなのです。それも良くしてくれたフィリピンのみんなへの恩返しです。

 そんな訳もあって、今回のワークショップの内容を決めるにあたって、すごく注意したのは、ラプンティ・アルニスの全体像をなるべくばっくりとでも把握してもらえるようにすることでした。

 普段もワークショップではなるべく広範囲的に全体像が伺えるようにはしているのですが、特に今回はほかのどこでも誰もやってことのないものをやるので極めて注意しました。

 エスクリマの特徴として、そもそもがシチュエーションがきわめて多様性に富んでいるということがあります。

 兵器と兵器、兵器と徒手、兵器二つで左右長さが違う、など、シチュエーションが入り乱れます。

 そのような様相の違いにどうしてもエゴは囚われてしまうのですが、そこに惑わされずに根幹を理解することを私は推奨しています。

 そのためには、ある程度の展開の深度の深いところまで通して経験していただかないと、一体これが何をする武術なのか分からなくなってしまうことを懸念していました。

 そのため、戦いの展開が深まるのに合わせて、基本からその状況ごとの戦況の見立て方とその展開の仕方をちょいちょい区切って説明してはもう一歩次に進むと言うことを繰り返しました。

 これは結構面白いことだったのではないかと思います。

 私も、単に直線的に勝ちを求めて猛攻してしまいそうになる剣術に、そのような段階的な状況の観方や誘導の仕方があるとはマニラで教わるまでは知りませんでした。

 そのような口訣を一つ一つ知ると、皆さんの動きがまるで変ってゆきます。

 初めはただ受け止めるのも難儀していたのが、きちんと段階を踏んで学んでゆくと、受けられて当たり前、反撃出来て当たり前、という世界になっていきます。

 練習が終わるころには、未経験の方たちも戦い方を自分なりに理解してうまく活用して戦えていました。

 そのようなマニュアルのあるところも、家伝系剣術の面白いところだと改めて感じました。

 来てくれた皆さん、会場を用意してくれたドクトル、そしてフィリピンのマスタルとブラたち、本当にありがとうございました。

 心の満腹になった一日でした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今週の予定

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 今週は29日の日曜日、山下公園で朝10時よりアルニス・サンデーです。
 マリンタワー前の信号を渡った芝生の辺りで、一般1500、会員と外国人は投げ銭にて行っています。
 どうかお気軽にご参加ください。
 

アルニス、東京WSの記録です

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 先日の東京WSに、いつもお世話になっている無極堂さんが来てくださいました。
 さらには体験のレポートも書いてくださいました。ありがたいことです。
 こちらの動画とも合わせてごらんください。
 機械の苦手な私ですが、協力してくれるみなさんのおかげでようやく21世紀らしいことがかないました。

恐竜と怪獣

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 最近の恐竜は、私たちが子供のころに本で読んでいた物とは違うそうですね。
 なにやら毛が生えていたりするそうです。
 と、いうのはもうかなり古い話で、最近の子供は毛が無かったことも知らないくらいの常識だそうです。
 薄くなる一方の私とは逆に、恐竜はふさふさに。うらやましいことです。
 またどうも逆に、ブロント・サウルスなどは一時期、ホントはいなかったと言う説があったそうです。
 ものすごくメジャーな恐竜なのですが、別の恐竜とサイズが違うのは成長過程の個体差だということで一つの種類としては成立していないとされたそうです。
 大変です。ブロントサウルス絶滅の危機です。
 と、思ったらのちにその説も覆されて、やっぱりブロントサウルスは居ると言うことにいまはまた落ち着いたそうです。良かった、ブロントサウルス滅びなかった。
 私たち伝統武術の継承者とは、いうなれば恐竜を研究し続ける学者のような物です。
 過去の真理にだけ忠実に学問を進めてゆきます。
 そこには、自分に都合の良かれと言うようなエゴが混じるべきではありません。事実を捻じ曲げるようなことは学問の本道に反します。
 ただひたすらに、あったことだけに誠実であろうとします。
 そのためには正しく積まれた学力が必要です。基礎教養によるものです。
 この基礎教養がどうして大切かというと、これが無いと引き算が出来ないのです。
 自己流や才能任せにしてしまうと、足し算しかできない。
 足し算しかできないと、ひたすらにマシマシだけが目的になってしまいます。
 そのまま発展してゆくと、さらに効率の良い加算法である掛け算を覚えてゆきます。
 基礎教養が足りないと、とにかく目についた物をどんどんそうやって増やすばかりになってしまいます。
 そうすると、あまりに増えすぎた物によって自分が一体どの状態にあるのかを把握するのが難しくなってしまいます。
 さらには、そうなると自己のバランスが危ういことになっても調整ができない。
 我々の武術はタオイズムで陰陽思想ですから、当然陰の部分と陽の部分でバランスを取ることを重視します。
 なんでもかんでも肥大させればよいとはせず、不必要な部分や過剰な部分を削り取ることを大切にし、むしろ最低限の単位で調整をとることを目標としていたりします。
 あれもこれもと取り込むことはしない。
 むしろ、そのあらゆることに共通するたった一つだけを見つけにゆきます。
 それこそが真実の探求と言う物ではないでしょうか。
 蔡李佛拳もラプンティ・アルニスも、私のしているものはその、たった一つを学ぶための物です。
 無限の可能性の中での、すべてに通じるはずのたった一つ。
 それがあることが、古伝といわれる物の価値なのではないでしょうか。
 それは自分を肥大させるための物ではなく、真実を知るための学問です。
 真実を無視して思うがままになんでもかんでも足していっては、そこに出来るのは得体のしれない怪獣です。
 怪獣はロマンがありますが、実在はしていません。
 実在しないものは、無です。
 掛け算で一度0を掛けてしまった物がいきつくのはそこです。
 学問は真実を知り、本物になる道です。0ではなく、絶対の1に至ります。
 
 

3月5日 ラプンティ・アルニス東京WS 2ND 12アングル・アタック のお知らせです

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 前回の東京ワークショップが好評につき、リクエストにお答えして3月も東京ワークショップを行います。
 場所           文京江戸川橋体育館 剣道場
 時間           15時30分~18時00分
 費用           
   一般             5000
   事前申し込み       4000
   肉文祭参加者、協力者  初回無料
       2度目以降     投げ銭
       外国人        投げ銭
 
 今回はタイトルの通り、12アングル・アタックの使い方を中心に行おうと思っています。よろしくお願いいたします。

剣士たちの時代

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 エスクリマのルーツを、もう一度話してみましょうか。
 もともとは、スペイン侵略時代の15世紀くらいに、ヨーロッパのフェンシングが伝わったのがルーツです。
 この頃はエスグリマと呼ばれていたそうです。
 現代ではスペイン語ではフェンシングはエスクリムと呼ぶそうなので、これもちょっとフィリピンなまりがあるのかもしれません。
 なにせアフタヌーンがアプタルヌルルン、ヒアがヘルになり、ワンピースの主人公はラピーになる国ですから。
 その言葉の問題で言うと面白いのが、表記としてはアーニスなのですが、ルソンではアルニスと発音し、マスターはマスタルと発音します。そのため、インストラクターの使う用語によって習ってきた地域がフィリピンなのか欧米なのかが少しわかるということです。
 文字だけで読んで得た知識だとクルバダなんて言っちゃいますが、本場に行かれた人の発音ではクルパタでした。
 本当に知ってることってこういうとこから分かる気がします。手伝え、口伝えで伝えられてきたものはやっぱり一味違いがでます。
 そんなエスグリマは、近隣のイスラム諸国や台湾経由の貿易船などを仮想敵として普及しました。
 南国の諸島の文化と言うのは、ようは海賊たちの文化です。
 フィリピンの英雄でありアルニスダーの象徴とされているラプラプも、別の視点から見れば現地の略奪者だと言う学者もいます。
 そうした外部との軋轢においては、必ず武力と言うのが必要だったのでしょう。
 ところが、植民地というのは根本的に支配者の方が数が少ないと言う構造があります。
 まぁ当然ですよね。支配階級の方が多かったら儲からない。社会階層のピラミッド構造です。
 そのために、防衛兵は現地で徴発しなければなりません。抗争でどんどん数が減って行ってしまってはいけない。
 そこで、スペイン人たちはフィリピンで現地人に自警団を組ませて訓練を奨励したわけです。
 この頃の植民地活動は名目としてキリスト教の布教として行われていました。
 日本にも来たザビエルのイエズス会がそれです。
 イエズス会は別名を戦う修道士会、教皇の精鋭部隊とも言われていて、その背景には創設者が元騎士であったことがあるようです。
 そのような元騎士だったイエズス会の物を中心に、エスグリマは普及されていったようです。
 結果、剣を体得した物の中から特に剣士という人々が現れました。
 この人達は、20世紀まで存在し続けることになります。
 その間に、エスグリマは独自発展を遂げて現代もまだ残る古伝のエスクリマとなります。
 これらは前述の剣士の人達の家に家伝武術として伝えられてきた物です。
 イラストリシモ家やサアベドラ家、カニエテ家など、剣士の名門の家と言うのが知られています。
 我々の学ぶ物も、カブルナイ家という名門に伝えられてきた物としてフィリピンでは知られています。
 これらの剣士たちというのは、さぞ現地の人々にとってはまぶしい存在だったであろうと思います。
 街中で酔っ払いや荒くれ者が狼藉を振るったら仲裁に入り、ちょいちょい襲ってくる海賊との戦いには率先して出て共同体を守護し、みんなにも剣術を指導してくれる。ほとんど神話的なカッコよさと言ってもよいでしょう。
 中には家伝の名剣を使うことが有名な物が居たかもしれない。
 両刀が得意で名を知られた人も居たことでしょう。
 カブルナイ家にいまでもあるような、必殺技を目撃したらきっと感激したことでしょう。
 まるでアヴェンジャーズのようなヒーローです。
 スペインから取り入れたかっこいい甲冑を身にまとったヒーローが居たかもしれないし、怒りん坊の巨漢が居たかもしれません(あれ? こういう剣士は心当たりがあるな)。
 そのような背景が日常にあったためか、娯楽としての演劇でも剣術は盛んに扱われたようで、その殺陣は本物の剣術家が指導してそうです。そのような演劇での剣術を指してアーニスという言葉が始まったという話があります。
 しかしのち、剣士たち、エスクリマドールズの時代は斜陽を迎えます。
 一つには支配者がスペインではなく、アメリカに換わったことがあるようです。
 本身を持つことが奨励されないようになり、また治安維持も本土から派遣された兵士たちに任されるようになってきたのでしょう。
 もはや、中世ではなくて法治国家の時代が始まったのです。
 そこで剣士たちはそれぞれの名門同士のライバル意識を超えて共同で剣術を存続させるべく普及組織を作ります。
 それがラパンゴン・フェンシング・クラブです。
 この頃にはスペイン語由来のエスクリマではなく、フェンシング、という言葉を使っているところに、彼らの剣術に対する意識が見えます。
 この後、世界大戦がはじまります。
 アメリカ領となっていたフィリピンでも徴兵が行われ、剣士たちは戦場に派遣されます。通常のアメリカ兵であれば銃剣で行う任務を、普段から使い慣れている刀剣を支給されて戦場に送り出されたとのことです。
 いまでも言い伝えられる話では、この頃の剣士たちに対する信頼はかなりの物だったとのことです。
 しかし、そうなると当然最も危険な先頭に出る役割を任されることが多く、結果、多くの剣士が命を落としました。
 そのために、戦後のフィリピンに戻ってきた剣士たちの業界では、再度のテリトリー配分が行われることになるのですが、そこで下剋上やお家騒動が発生してしまいます。
 これが、剣士たちの時代、大戦の時代に次ぐ、バハドの時代の始まりです。
 剣士たちは世界中で行われるマフィアの闘争のように、派閥に別れて勢力闘争に奔走することになります。
 街中で違うグループ同士が出くわすと乱闘が始まり、遺恨がある相手には決闘を申し込むという時代です。
 この決闘をバハドと言います。
 このバハドが剣士たちの目的化してゆき、同時に彼らは国のために戦った英雄であると同時に、荒くれた厄介者とみなされるようになってゆきます。
 この印象は21世紀になってアルニス・フィリピネスがイメージアップ活動をするまで続きます。
 このバハドの時代は、先のアヴェンジャーズのたとえを引き継いでいうならシヴィル・ウォーと言ってもいいでしょう。
 ヒーロー同士があい闘ってしまうのです。
 しかし、そのような闘いは同時にちょっとワクワクする側面もあります。超人オリンピックのようなもので、本物の英雄同士が戦ったらどうなるのだろうという気持ちは不謹慎ながらわいてきてしまいます。
 そういうこともあってか、決闘は興業化されてゆきます。
 フィエスタのイベントとして剣士同士が戦うのです。
 このような企画は荘子にも出てくるしローマの剣闘でも有名なので、普遍的に世界中に見られたものなのかもしれません。
 ただポイントは、これが古代ではなくて20世紀の話だと言うことです。
 実際にこの戦いで命を落とす人も居たそうですし、試合後に遺恨から真剣による闇討ちなども起きたようです。
 これまでの、剣士たちの時代から大戦の時代、バハドの時代、そして現代は、フィリピンにおいてはたかだか100年ばかりの間に起きた変遷です。
 日本人の感覚では室町時代のような街中での本身での切り合いをしていた世代が、ついこないだまで生きていたのです。
 そのような経験を生で経ている武術を、日本で直接学ぶことはおそらく不可能でしょう。
 江戸時代の段階ですでに日本武術は一旦現代武道化してすでに幕末には競技が隆盛しており、さらに明治の近代化で一気に塗り替えられたためです。
 本当の合戦、決闘をしていた古武術を手伝えに教わるということはまずない。
 古伝のエスクリマを学ぶということは、そういうことです。
 私が伝承を受けたカブルナイ家の剣術、ラプンティ・アルニス・デ・アバニコの稽古を通して、時代ごとの動きとその思想を身体に通すことができます。
 これは決して、平和な現代人のコンビニエントな感覚で簡単に改変したりしては、取り返しのつかないものではないかと思います。
 そのために、これを慎重に次の人々に手渡してゆくことが、我々のアルニス普及活動の重要な目的となっています。
 剣士たちの息遣いを、一つ一つの練習から感じ取る日々を送っています。
 
 
  
 
 
 
 

兵器とエゴ

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 中国武術では、武器は手の延長、ということをよく言います。
 では、手とはなんでしょう? 心の延長?
 これが実は中国武術の本質に迫るところなのです。
 中国武術と他の武術の決定的な違いとはなんでしょう?
 発勁?
 いえいえ。それはやらない門派もあります。
 中国武術と外国武術の違いは、中華思想です。
 日本武道とその他の違いは大和魂、みたいな話ではないですよ。
 中華思想は単に観念的な物ではなく、中華的な宇宙観にある人体観が含まれます。
 どれだけチャイナ服を着て指導をしていても、この部分が説明できない指導者には気をつけてください。それは中国武術を指導しているとは言えません。
 中華の人体観では、分かりやすく言うなら人間を肉体と心に分けます。
 これは、人間の動物の部分と自我の部分と言っても良いでしょう。
 この両者は、つながってはいても独立した別の物だと感がえます。
 内臓の働きや睡眠時の寝言や驚いた時のとっさの行動などを、自我がコントロールをしていないと観る場合があります。
 それで考えるなら、手はまさに手と言う肉体の管轄にあるものです。
 この文章を読んでいる自我とは別の部分の物です。
 そのために、自分は肉体を使いこなせてないんだ。立ててない。歩けてないというところから中国武術はスタートしないといけません。
 赤ちゃんの時になんとなく覚えて以来手癖で行っている立ち方や歩き方では、術として使いには拙すぎる。
 その、自分が自分の体を遣えていない、ということは、兵器を使うとはっきりと体感できるようです。
 無機物が間に介在することで、生まれ持っての運動神経の良さやちょっとした小器用さでは補えない部分が表面化します(まぁ実際にはちょっとした慣れで補えるのですが)。
 不確定要素が増すために、コントロールの意識が及ばずに自分の体や相手の体にうっかり打ち付けてしまったりするのは序の口です。
 あるいは末端に意識が行きすぎるために、自分の体の意識がおろそかになって兵器に振り回されてしまったり。
 果ては途中で全体を把握したいと言う自我の誘惑に負けて自分が何をしてるのかわからなくなって急にスイッチが切れたように止まってしまったりする人もいます。
 また、相手との練習になって約束稽古で打ち込んでくるのを受ける、という前提でやっているのに打ってこられるという状況にいっぱいいっぱいになってルール無用に相手に対して打ち返しまくってしまう人も多々でます。
 それは相手が可哀想。
 約束事で相手の練習に付き合って打ち込んでいるだけなのに、それを破って勝手なことをする相手に問答無用で小手や体をビシバシ殴られる羽目になります。
 そうなると大体私が怒ります。道具を使うといつもにもまして事故が起きる可能性が高くなるので、練習相手を思いやることを忘れてはいけません。
 しかし、普段の生活では決してそのような人々も人への思いやりを忘れるということはないのでしょう。
 それが、道具を持って混乱し、さらに形ばかり程度とはいえ攻撃を受けると、自分がそもそも何をテーマに何をしていたのかが頭からぶっとんで適当な大暴れをしてしまうのです。
 結構な高確率で初心者の方がこれをやってしまいます。
 どうしても、打たれたから打ち返さなくちゃ、というエゴに負けてしまうのですね。
 本能的に身を守るための肉体のエゴです。
 過剰な防衛性、その反面としての攻撃性。そう言った物と向かい合うことが、実はこのような武術の練習においては非常に重要かつ、独自の物だと思われます。
 そうやって自分自身のうつろいやすさと向き合い、そのような状態の中で自己を落ち着かせるところから始めて、外部の刺激につられることなく静かな心を維持することを目指してゆきます。
 我々の古流武術が目指しているのは、猛烈に攻撃して敵に勝ることではありません。
 練習相手が動揺して滅茶苦茶をしてこちらの頭を割ってきても「危ないですよ」と静かに言いながら落ち着いて止血が出来る冷静さです。
 これは、人の持つ弱さの克服になるとは思いませんか?
 内なる弱さに飲まれなくなると、心静かに生きてゆけると思います。

東京初伝来の模様その4

水辺にまつわる二つの話

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 みなさんは、サソリとカエルという寓話をご存知でしょうか?
 どうやら元は戦争中のベトナムで生まれたお話だそうです。
 物語のあらすじはこういうものです。
 
 川を泳いで渡ろうとしていたカエルの元にサソリがやってきて言いました。
「川の向こうに行きたいんだ。君の背中に乗せてわたってくれないか」
 カエルはサソリの尻尾にある針で刺されるのを恐れて一度は断ります。
 しかし、川の途中で刺されて自分が死んでしまったら、サソリもそのまま溺れてしまいます。
 そのために信頼してカエルはサソリを背中に乗せて泳ぎだします。
 そして川の真ん中あたりまで来た時、サソリはカエルを刺してしまいます。
 毒が回ってカエルは動きが取れなくなってゆきます。
「なんでこんなことをしたの?」
 断末魔のカエルに、溺れてゆくサソリは言います。
「ごめん、刺すつもりはなかったんだけど、これがぼくの本質なんだ」
 
 この、本質というところに、タオの意義を見る気がします。
 荘子雑編の中に、漁夫編という故事があります。
 これはこういう話です。
 孔子様が旅先の川だか湖だかのほとりで楽器を吹いていると、側にいた弟子の顔回に地元の漁師が「あれは誰だ?」と訊きます。
 顔回はあれは高名な孔太夫だと答えます。
 漁師の老人は、惜しい、とつぶやいて去っていきます。
 演奏を終えた孔子が顔回からそのことを聞くと、彼はその老人こそ真理を得ている哲人に違いない、と教えをこうために漁師を探します。
 やがて老人の背中が見えてきて、孔子は呼びかけますが、老人は歩みを緩めずに歩き続けます。
 どうにか追いついて孔子は、あなたは真実を得た先生だとお見受けしますので自分に真理を教えてくださいと丁寧にお願いをします。
 すると老人はそれを拒絶します。
 老人は説明をします。
 お前はなまじ知恵がありそれで知られているために、自分が真理を伝えたとしてもそれを自分の解釈にとどまってしか理解することが出来ず、さらにはそうやって歪曲した物を人に広めて世の中を悪くするだろう。だからお前のような人間にあったなら、私は何も言わずさっさとただ逃げることにしているのだ。
 そうして老人は去ってゆく、というのがこの漁夫編という話です。
 
 以前、師父から聞いたのですが、相手を善くしてあげようとしても、それをものすごく拒絶する人というのが必ずいるのだそうです。
 そういう人と言うのは、間違ったこと、悪いことから力を得ているために、それを失うことをひどく恐れるのだ、というのです。
 いろいろな人に出会ってレクチャーをしてゆく中で、そういうことが分かってきました。
 自己像保存の法則と私は名付けています。
 例えば、人生で失敗ばかりしてきて自分は負け犬だと思っている人は、いつしか成功を恐れるようになります。
 勝つことに恐怖を覚えはじめるのです。
 練習をしていても、このような人はちょっと難しいことが成功しそうになるとワザと自分から動きをとめて安心できる失敗を作り出したりします。
 そういう人がたまたまうまく行ったときにそれでいいと言うと、必死になって「いまのはダメです! 出来てない! ぼくは出来てないんです!」などといたくうろたえて熱弁することさえあります。
 陰陽思想で言うと、もっとも大事なのは陰陽の二極に代表される様々な要素の調和なのですが、それぞれの人にその人なりのバランスのとり方があります。
 それが崩れるというのは、怖いことであっても当然なのでしょう。未知に踏み出すのですから。
 これが、エゴと理の対立なのです。
 たとえ正しくて自分のためになる理を与えられても、自分のエゴに安逸している人はそれを拒絶する、というのが人間の自然な姿でもあるのだと思います。
 それを変えるには、意思の力と行が適しています。
 意思の部分は個人の決意でどうにかなりますが、適切な行と言うのはすでにそれを知って居る人によるリードが必要です。
 それが、私たちにとっては武術なのです。
 そのために使命として私は伝人をしているのですが、やはり自己のエゴに囚われて先に行けない人はちょっと驚くほどたくさんいます。
 先にあげた二つのエピソードは、そのような人々に対応する際の知恵を伝えているようにも感じます。
 漁夫の話では損な役回りをさせられてしまっている孔子様も、女人と小人は養い難しと言っています。
 これやちょっと女性に失礼ですかね、タオの教えとはその見方は逆行します。だから孔子は教えてもらえなかったのかもしれない。
 性別は問わず、小人に真理を得ることは難しい。
 理よりもエゴに囚われて生きるのが当たり前になっていては、真実には至れないとされています。
 このような思想が底辺にあるために、中国武術の老師たちは一般に教えないと言われているのでしょう。
 それはケチなのではなく、教えるだけ無駄どころかかえって悪いことになるということが語り継がれているからなのだと思います。

今週の予定

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 2月5日 日曜日は朝十時から、山下公園にてアルニス・サンデーを行います。

 アルニスにご興味のある方、ぜひいらしてください。

 なお、外国人は投げ銭のレッスンフィーとなっておりますので、よりお気軽にどうぞ。


東京WSの動画5

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 サヤウの練習風景です。
 いわゆるフィリピン武術の印象とはだいぶ違った動作だと思います。
 古伝の剣術らしい低いスタンスとえげつない技の攻防を孕んでいます。

タオと因果と

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 私は常にスピリチュアルやオカルトを現代病として否定していますので、これを決してそのような話としてとらえてほしくないのですが、最近とみに思うのが、行動には反響があるなあということです。
 これはあくまで物理的な話の上でしてますので、繰り返しになりますが鏡の法則だとかそういうウロン気な話をしている訳ではありませんからね。
 昔、私が本当に悲惨な状態で最低の人生に行き詰っていたころ、休みの日は朝からお酒を飲んでしまって、一日をほとんど無駄にしていました。
 少しでも多く眠りたかったので、飲んでしまっていたのですね。
 先がある状態でもありませんでしたし、ひたすら現状に堪えながら消耗してゆくばかりでした。
 しかし、部屋にこもって寝ているばかりというのは、いまはちょっと違うのではないかと言う気がしても居ます。
 と、いうのも、タオや仏法の考え方だと、物事というのは円環するというのが基底にあるのです。
 ものすごく卑俗なたとえになるのですが、私自身は一切ギャンブルには関心はないのですが、ほんの少しならそのようなことをしても、実は自分のお金の流れに変化が出る、という話です。
 私自身はきちんと計算して貯金をしたり支払いをしたりしてしまうのですけれども、それはそれでいつまで経っても経済状態に変化と言うのは出ないのですね。
 それが、例えば株式投資でもいいのですが、何か不確定な部分に投資したりすると、お金の流れに動きが出ることがある、と最近感じ始めました。
 ギャンブルや投資でなくてもいいです。友達におごるとか、そういうことでも何かそのアクションに対する響きと言う物が出てくるというのを強く感じるのです。
 私自身はちょっと素敵なライフスタイルみたいなことにあこがれがありますので、もちょっとデコって例えば小さなパーティを主催して友達を招くとか、あるいは何かアクセサリーのような物を友達にプレゼントするというのでもいいなと思います。
 そのようなことの、一見無駄に思えるお金の使い方が、実は自分自身ではなくなにがしかの他人を巻き込んだことで何種類かのバウンドを挟んで思わぬ形で自分に返ってくることがある。
 私自身は、自分を隠者だと名乗っていて社会から一歩引いたところに隠棲している身なのですが、そうして一般的な経済活動には最低限しかかかわらず、その代わりに自分の関心のあることに取り組んだりしていた結果、周りの人から信頼されて、自分の好きな分野で海外の方々の関わる仕事を頼まれたり、毎日のすれ違う人々から面白い経験をさせてもらったりするようなことが増えました。
 ただ勤め先の仕事だけをしていたころより、ずっと中身のある、面白みの在る人生経験をさせていただいています。
 それも、自分から首を突っ込んで行っている訳ではないのです。
 ただ自分は自分のことをして、自分として生きているだけです。
 直接何かを追いかけるだけではなくて、自己をきちんと追及しているとその反応がより自己の自己性のようなところに返ってくる物があると感じるのです。
 私はそういう人生が好きです。
 好きでボンゴを叩いたりダンスをしたりするのですが、そのどちらも共通するのは、音楽と言う物と響き合うことです。
 おかしな力や過剰な思い込みで濁ってしまうと上手くできません。
 力を抜いて、音楽の力に身を任せていないと、ボンゴは音が出ないしダンスでは体がなめらかに動きません。
 これはある種の感性の部分の話のような気もするのですが、周りにある流れを感じて、それに乗ることはタオにおいてとても重要だとされています。
 勘違いしてはいけないのは、それは多数の人の流れに迎合するという意味ではないですよ。
 人為とは別の流れです。
 武術や気功というのは、その流れを感じるために自分を澄ましてゆくエクササイズだと思います。

走ると歩く

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 陸上の日本記録保持者で、三回のオリンピックに出場している為末選手は、現在後進の指導に力を入れていらっしゃるようです。
 その為末さんが面白い話をしているのを耳にしました。
 為末さんは指導において、まずは走ると歩くの違いについて明確に認識させるそうです。
 すると、劇的に走力が増すのだといいます。
 さて、みなさんも考えてみてください。
 走ると歩くの違いはなんだと為末コーチは言っていたでしょう?
 正解を発表します。
 走ると言うのは、ジャンプが含まれている、と言うのです。
 曰くには、筋肉と言うのはゴムボールのようなもので、まず着地で圧縮してやるのだそうです。
 するとバウンドが起きます。それがジャンプですね。それに任せて次の着地点に重心を飛ばすのです。
 その、圧縮、バウンド、ジャンプという流れに自分は乗っかるだけでいいのだと言います。そうすると速くなるのだそうです。
 それを為末さんは、受け身で走ると言っていました。
 能動的に自分の筋力で走るのではなくて、最初に発生させた勢いのバウンドに受動的に乗るのですね。
 これは心身を澄ませて物事の流れにのるというタオの考え方に非常にのっとっています。
 そして、我が蔡李佛の勁とは最後のところでまるで違います。
 開合を伴う明るい勁なら、その勢いで良いのだと思いますが、私が指導している見えない勁、暗い勁ではいかにその勢いを無くすかがポイントとなります。
 為末さんの例えに乗っかると分かりやすいので便乗してみましょう。
 まず、私たちは圧縮した物をバウンドさせません。
 バウンドさせないのでジャンプもしません。
 これを為末さんは歩くと言っていました。歩くと言うのは、停止を続けてゆく行為なのだと言います。実際にそのように歩けている人はほとんどいないでしょうが、考え方としては分かります。
 多くの武術ではこのバウンドとジャンプを活用するようですので、それをしないところにこの威力のミソがあると思われます。
 ではどうするのかというと、圧縮させたものをどんどん圧縮してゆきます。
 そうすると、内側への圧が極まって外周が拡大してゆきます。
 ボールにどんどん空気を入れてゆくのと一緒ですね。
 これによって、足だけでなく全身に圧が広がってゆきます。 
 これを私たちは、これまでも何度も書いてきている表現で、勁力を圧縮した巨大な鉄球と呼びます。全身が勁力で張り詰めた塊になります。
 これで打てば、勢いは使わなくても内側に力がみなぎり続けているので、その力で相手を打つことができます。
 これにより、私たちは止まり続けながら相手を打つことになります。
 止まった状態を維持しながら歩いて移動します。
 このやり方の発勁をするためには、二つの要素が必要になります。ゴムボールの例えで言うなら、ボールの強靭さと伸縮率です。
 それが無いと、圧に負けて力が自分の弱いところを決壊させてしまいます。
 だから我々は内功を行って自分と言うゴムボールをひたすらに強くする練習ばかりをしつづけるのです。
 理屈は簡単ですね。
 そして同様の理由で、自爆して自分を傷めるだけなので、練功をしない人には伝えられないのです。
 これも簡単な理屈ですね。
 しかしこの簡単な理屈を簡単にやれる人は存外に少ない。
 なぜだか知りませんが、出来るようになりたいが練習はしませんと言う人が非常に沢山います。
 とても複雑で難しい話です。 
 
 
 
 

2月の予定 随時更新

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 2月の練習のお知らせです。
 
 5日 日曜日はアルニス・サンデーです。朝10時より山下公園になります。 
 
 12日 日曜日 朝10時より茅ヶ崎練習会です。
 
 19日 日曜日 18時から関内フレンドダンス教室でワークショップです。アルニスとカンフーを行います。
 
 25日 土曜日は通常練習 関内大通り公園水の広場で14時からになります。
 
 26日 日曜日はアルニス・サンデーです。山下公園で10時からです。
 
 各週土曜日は申し込みのありしだい通常練習になりますのでお気軽にご連絡ください。
 
 

因果と広がり

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 ついこの間、世の中の因果の流れに干渉してゆくと、思わぬことが起きる、というようなことを書きましたが、さっそく起きました。

 友人からの急な声掛けで、自分にはなんのかかわりもないと思っていた、台湾の名門武術会の三代目候補にもなっている若手の先生と、合同セミナーを開くことになりました。

 もともとは、自分の兄弟分に必ず日本の古武術界を代表する、世界に名をとどろかす予定の男がいるのですけれども、それの継承している流儀と台湾の若先生の流儀が歴史上つながりがあるらしいというので、比較検討をしてみたい、という話があったのですね。

 その世話人を私の友人がしていまして、そこからちょっとお膳立てを手伝ってくれとのお話がありました。

 基本、身内のことや武術界のこととあれば二つ返事で首を突っ込む性質ですので喜んで手伝っていたのですが、ご本尊の両先生の顔合わせをするかたやで、せっかく海外から来日していただくので今回も企画セミナーを開こうという運びとなり、日本武術をするでもないのに私が対バンのお相手となって、合同ワークショップを開くことになりました。 

 日時は、4月2日の日曜日、12時30分から18時00分まで、文京江戸川橋体育館剣道場となっております。

 その内容は、台湾に伝承される倭刀術と、台湾のすぐ下のフィリピンにあって、西洋剣術と中国武術のハイブリッドとして生まれたラプンティ・アルニスの、海賊武術祭となります。

 海賊武術ってどういこと? どっちも防衛する側だったんじゃないの? とかいろいろな疑問もあると思いますが、これからおいおい書いてゆこうかと思います。

 これは実に面白い学術的な記録に残る企画です。

 かつて倭寇が盛んだった時代について調べてゆくと、これまで私の中で主流となっていた、シルクロードを大動脈とした北半球の文化の伝来史を、透かして裏から見たような、まったく別の視点からの人類史が見えてまいりました。

 大航海時代の貿易ルートを軸とした、海上の人類史です。

 ユーラシア大陸の巨大さに目を奪われがちですが、いまにいたるも水上で生活している人たちと言うのは存在していて、そこで交わされる文化と言うのも綿々と続いていたのです。

 その、海の上での生活者である、海賊と呼ばれる人たちと、そこに伝わってきた武術の実態と歴史を体感できる機会です。

 よく、裏側に目がいかずに物事の半分しか見えていなかった、などと言いますが、私はこれに気づくまで半分どころか三分の一しか見えていなかった。

 地球の表面の何割は海です。

 南船北馬とはよく言ったもので、北半球上側の騎馬民族による文化の伝播だけでなく、船を介した同様の物が存在していたのです。

 期せずしてぞれが浮かび上がってまいりました。

 セミナー当日まで、少しづつこちらにて発表してまいります。

 ご期待ください。

 

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