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古人と内力 4

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 馬歩について書いてきましたが、もう一つの弓歩に話を戻しましょう。

 中国武術には、モンゴル以外にもう一つふるさとがあります。

 インドです。

 少林拳は、仏教に付随して中国に伝来した、ということになっています。

 実際は、ヨガやインド武術が中国にわたり、現地の事情に合わせて交配、取捨選択が行われて土着化したと言ったほうがより正しいのでしょう。

 気功にしても、もともと中国にあった道家系の導引が渡来したヨガと折衷されて少林気功になったと考えるのが自然です。

 そのヨガの中にある、英雄のポーズというのが実は弓歩と酷似しているのです。

 角度には差異があるものの、両腕を大きく伸ばして胸を開くその姿勢において、内側で働く力は弓歩で用いられる勁と同様の物だと推測できます。

 このようにして配合されたインド経由のヨガ武術と、モンゴルの騎馬、弓術が合わさり、徒手格技となったことには疑問を挟む余地がないように思われます。

 この徒手格技は、万里の頂上より南では拳法となり、北ではブフであった訳です。

 ちなみに、日本でも男児のたしなみとして、弓馬の術のほかに相撲がありますが、相撲もまたルーツはモンゴルだと言われています。

 だとするとますます、弓も引かず、馬にも乗らない現代日本人からすると、本当に日本古武術を理解するのは難しくなってゆくことでしょう。

 ただ、それはすでに江戸期の武士にとっても同様で、市中に弓を持ち込むことがご法度となったり馬に乗ることが規制されたりして、多くの武術が道場のみで学べるようにコンパクトに改変されていったのは想像に難くありません。

 そのような経緯を経て、日本武術では内側の練功の要素が消えていったのでしょう。

 結果、手持ちの札の数で勝負を求めるような、秘太刀や秘伝の技に頼る体系に変化が起きたのだと思われます。

 江戸期以前から行われていた本当に古い技を理解するには、弓馬への理解が欠かせないように思われます。

 ぜひ、機会があれば弓を引いてみるのが良いのではないでしょうか。

 また、この長い文の初めのほうに、エクストリーム・スポーツの選手にも勁がある人が居ると書きましたが、これ、改めて振り返ると弓と対になる馬の部分に由来してくる気がします。

 私が知っている彼らは、ボーダーや自転車、オートバイの選手たちでした。

 重心の浮きと沈みを十全に活用している人たちです。

 そっち側からの武術へのアプローチというのも面白そうなテーマです。

 内功による内側の力の発達は、きちんとした指導者がいないと神経に問題をきたしたり健康状態に悪影響を与えるケースが非常に多いです。むしろ、弓とエクストリーム・スポーツのほうが総合的に見て有用であるかもしれません。

 志ある現代の追求者の方、よろしければ、ぜひ!


現代武道の有用性について

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 先に挙げた勁と弓に関する一連の流れは、私にとって非常に重大な発見でした。
 しかし、もちろん一人で見つけられた仮説ではありません。
 たくさんの人とのディスカッションあっての結果です。
 私は普段、あまり人と接することが多くないのですが(なにせ本分は隠者を自称しています)、ごく一部の友達との厳選されたお付き合いが良い結果をもたらしてくれました。
 きっかけとなったのは、私が現代武道の思想的な有用性はもう尽きたのではないか、と言い出したことです。
 まとめます。
 日本の武術には、大きく分けて三つの時期があるというのが私の見立てです。
 まず第零期が、室町時代までの実際の生活上の兵法であった時代です。これはだいぶ長くなってしまいますがお許しください。
 次が室町末からの流儀武術が生まれた江戸初期にかけて。
 最後が明治から戦後までです。
 これは技法的な分類も歴史的な分類もしていなくて、概念でくくっています。
 零期は本当にただの生活手段。まだ術だなんだという概念ができる前です。
 一期で初めてこれが術という考え方が出てきて、武者の戦争での技や市井の喧嘩殺法との区別が出てきます。
 二期で今度は江戸期に隆盛と爛熟を迎えた武術の大幅な方向転換が行われます。これが現代武道です。
 では、なぜどのように方向転換が行われたのかを書いてみたいと思います。
 まず、第一期において、武術という物が特別な行為として棚上げされました。
 支配階層の武士階級という物が確立され、誰でもが武器をもって闘争をしていたそれまでの時代は終わりとなって秀吉による刀狩りが行われます。
 天下を引き継いだ家康によって階級社会はさらに厳密となって完全封建社会が運営されるようになり、刀は階級証明としての物に設定されて二尺三寸の定寸が決まりとなりました。
 刀以外の武器に関しては、戦国時代の主戦力であった鉄砲、および弾丸の材料となる鉄の確保にも制限がかかります。
 また、同じく主力平気であった槍も持ち込み場所が厳しく制限されるようになり、弓に至っては市中への持ち込みがご法度となります。
 このようにしてそれまでの兵器がどんどん取り締まられてゆきます。
 また、新規発明あいならんとのお触れも出て、これを破れば実刑を受けました。
 一方で尚武の気風は推奨されて、結果武士階級は許された規制下の武器の活用法の工夫に専念することになってゆきました。
 このように、あくまで国体の護持のためだけに武術が司法によって管理されていたのが第一期の特徴です。
 歴史上の考証では、いわゆる忍者という物は居なかったというのが定説のようですが、このように厳しい武家諸法度を考えれば当然でしょう。
 あらゆることが法に触れています。
 室町末から江戸期の法の厳しさはなまなかではありません。
 実際、日本でももっとも有名な武術の一族であり、二代秀忠の時代には将軍家指南役どころか幕府全体の大目付の家ににまで出世した柳生家でさえ、一時は領地没収をされて浪人となる憂き目を見ています。
 国の根本を支えるのが、石高と武力と法の行使力であったのですから、そこに直結している武術というのは国の公的な所有物となります。
 この、世界でも極めてまれであろう環境こそが日本を武の国であると世界に知らしめた一員であると思います。
 このような特殊環境が、二期で一気に変わります。
 倒幕という言葉があるように、徳川武家社会そのものを崩壊させた革命運動によって、それまでの国体が一編します。
 時代小説などのキャラクター像として幕末を知っている人はとても多いと思うのですが、これを成し遂げた幕末の志士らの意図は、列強からくる近代化の波への対策であったことを見失ってはいけません。
 隣国である大国のはずだった清がみるみる列強に食いつぶされていることに危機感を抱いていたからこそ、それに対抗しうる新たな国体を創立しようとしたのが明治の御一新です。
 倒幕、佐幕という対立は、この国体の一新に当たって、武家社会をもって近代化を行うのか、まったく別の体制で近代化を行うかという意見の分かれでした。
 このようにして生まれた近代国家日本帝国において、それまでは草莽の人々であった人たちが司法、行政権を握りました。
 すぐそこまで迫ってきている欧米列強に対して、どのように新国家として対等に肩を並べるかという本来の作業に専念を開始します。
 武術に関しては、それまでの専業階級であった(実際には幕末には農民も竹刀剣術はしていた)旧士族が警察官となり、それ以外の戦力が軍に入隊となりました。
 ここで、平民が対外的に活用しうる新時代の武が求められます。
 それにこたえる形で設定されたのが現代武道という物です。
 これを理解するためには、まず近代化というのはそもそも何かということを整理したほうがよいでしょう。
 発端は産業革命にあると考えて良いと思います。
 産業化を社会の中心として、環境を支配してゆこうという思想です。
 この、産業のために環境を支配するというところがミソです。
 つまり、植民委政策が重要な要素として内包されているわけです。
 このために、武力と生産力は近代化の基本的な素養となりました。
 ドイツの鉄血政策などはそれを代表する方針でしょう。
 このようなものを、富国強兵政策と言います。
 戦後までの日本の家では、長男が家業を継いで次男三男は兵隊となるというのが定番だったと言います。
 そうして農業を資本として産業と農業、産業用地を軍力にて獲得してゆくというのが当時の日本の青写真でした。
 そのためにはどうしても中国の広大な領地が必要だったという話を聞いたことがあります。
 このころの、もう一人のヒーローが福沢諭吉翁です。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」階級社会を反面教師として国民全てが国体のために機能するために、学問がススメられました。末は博士か大臣か、という出世価値観が生まれて、博士にも大臣にもならない人は生産力か軍事力として国益に付与することとなっていました。
 このような状況で作られた現代武道という物を一言で言うならば、それはバンカラに尽きるのではないでしょうか。
 バンカラというのは、明治に生まれた言葉で、正調の西洋化である紳士文化(ハイカラ)に対する物として生まれたそうです。
 蛮風の蛮とハイカラを足してバンカラとなったそうで、ハイカラのルーツにある騎士道に足して、武士道を模倣する風潮があったと言われています。 
 そもそもがこの武士道という物、新渡戸稲造が日本の近代化において西欧のキリスト教文化に対抗すべき思想として、キリスト教の考え方を土台に日本の武士の文化を再解釈して創立したもので、そもがバンカラはかなり近代的思想です。
 そして最大のポイントが、このバンカラが末は博士か大臣を目指す高等教育を受けている学生によって興ったことです。
 つまり、幕末の志士の姿を丸々なぞる形で成立していたであろうことが浮き彫りとなります。
 このバンカラ諸氏こそが大学を中心に普及をされていた現代武道の実践層であり、またのちに生まれる体育会系という物の大本です。
 中国の文化大革命では、封建社会的な物を一切排して近代化を推し進めるという思想のもとで、真正な武術の弾圧が行われました。
 その結果、多くの武術家が国民党に賛同して、台湾に亡命しました。
 同様に日本でも本物の武術の正統が受け継がれることを差し押さえるようにして、大学のセンパイからコーハイへの、初めて二、三年の素人先生による指導が盛んとなりました。
 もちろん教えられるのは、そのレベルでも可能な程度の行為だけに限定されます。
 これは、産業化というものがこのようなものであるからです。明治の人は江戸期前の様式のことを旧弊と言って忌避しました。彼らの時代における正しい傾向とは近代的であることであり、近代的ということは産業的ということであり、それはつまり誰にでも短期間で習得ができる物を求めるということでした。
 近代社会を形成する人員の形成のための教育として設定された現代武道が同じコンセプトで組まれたのは当然のことです。
 こうして専門家の家の者のために存在していて熟練を要するファミリー・アートから最大公約的な素人の養成に役立つ現代武道へとイニシアチブは移ったのです。
 柔道を生み出した嘉納治五郎その人が存命中の内から「こんなものは私の生み出した柔道ではない」という言葉が出ていることからも、この素人武芸の野火のような広まりを察することができます。
 自由、平等、大衆化という当時の気風が、このようにして伝統武術を抑圧する現代武道の養分となったのです。
 もちろん、国政としてこの方針は卓見でした。
 現代武道、バンカラ、体育会系の思想は国体を支えるものとして実に有効に機能してきました。
 押忍、根性、欲しがりません勝つまでは。末は博士か大臣となった為政者にとって、この思想が浸透したことがどれだけ都合がよかったことでしょう。
 新渡戸が意図したとおり、列強諸国に対抗しうる思想として、近代武士道は見事に作用したのです。
 しかし、その人的資本も物質的な資本の欠落によって失速し、政策のわきの甘さを決定打として敗戦が訪れました。
 ですが、その後の復興においてこそ、この体育会系がまさに真価を発揮したのではないでしょうか。
 戦後、農本社会は色を変えて、旧財閥を頂点にした商業社会となったこの国では、ほとんどの成人男子が勤め人となるのが当然となりました。
 植民地を必須とする農本ではなく、労働力、すなわち人間そのものを資本とするということを戦中に学んでいたのです。
 人こそが資本だと戦国時代に言っていたのは武田氏でした。土地が悪く作物が捕れないかの領土では、人を資本とするほかなく、また海外への奴隷貿易でも知られていました。
 戦後日本の復興に必要だったのは、その奴隷労働を当然とする国風です。
 国のリードでそれを推奨する覚せい剤が発売されており、また公害問題も多発しました。
 企業はこぞって体育会系部活の出身者と高学歴者を人材として求めました。
 明治のバンカラそのものの人々です。
 百年を経て、まさにバンカラの思想は見事に国の隅々にまで浸透しきったのです。
 戦後の相撲、プロレスブームは、決して経済復興とシンクロしていなかったとは言えないでしょう。
 野球があれほど人気があったのも国風に基づくものでしょう。
 このような風潮は、80年代のバブル期をピークとして続きました。あの頃も若貴ブームで相撲人気でした。
 景気に陰りが見え始めたころ、体育の世界にも変化が見え始めました。
 それまでは坊主頭かスポーツ刈りに成金じみた金ネックレスというまさしくバンカラな印象の野球選手の人気を推し出して、サッカーに注目が集まり始めました。
 長髪、軟派を前面に打ち出したサッカー選手たちには、野球選手には見られなかったコスモポリタンのにおいが感じられました。
 バブルというピークまでは、武道、格技と言えば角刈りか坊主、体育会系という印象だったのが、タトゥや染髪というヴィジュアル・イメージにシフトして行ったのもこのあたりを曲がり角に迎えてだと思います。
 これはもはや、体育会系バンカラ思想という物の有用性に陰りが見えてきたことそのものだったのではないでしょうか。
 体育会系のウチ社会から、単独で世界に向かう人々に世間の評価が移っていき始めました。
 これこそが、日本社会が本当に近代化を果たし始めたころの風景だったのではないかと思います。
 武家政権から近代化の間のクッションとして機能していたのが、新渡戸武士道やバンカラ、体育会系だったのでしょう。
 それからさらに時代を経て、現代ではブラック企業やハラスメントに対してNOを唱えることが堂々と推奨されるようになり始めています。
 これこそが、私が現代武道の思想的な有用期限が切れたのではないか、と言った意図です。
 ただ、語りのその中で剣道の一部高段者と弓道だけは例外の可能性がある、と言いました。
 剣道は勝負第一主義のスポーツ化を未だに否定しており、弓道も同じく的に矢を当てるスポーツではありません。
 特に弓道でいうなら、精神性を第一として置いて、禅との親近性も極めて高いものです。
 このような話をしていたところから、弓と勁との歴史的な相関関係が見えてきました。
 思想と実技はやはり車の両輪です。どちらもできないと少なくとも専門家とはいいがたい。
 そしてこのようなことを人と語らうことで因果が形を結んで、大きな実りとなることがあるものだと強く感じたものです。  

真実と孤独

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 前回で、本邦の武の変遷と近代的自我について書きました。
 書き終わった余韻を反芻しながら本を読んだりして過ごしていました。
 ちなみにその時読んでいたのは、十代のころに一度読んだ野田さんの訳のスター・ウォーズです。
 野田さんと言えば「ひらけ! ポンキッキ」の制作で知られて、日本スペース・オペラの世界では第一人者と言ってもいい人ですが、著書の中でこの翻訳は必死だったと書いてもあり、また読者からの反響もちょっと微妙なことで知られている一品です。
 特に、フォースのことを“力場”と訳してあることに違和感を覚えた人が多かったようです。
 映画では主に理力と訳されており、そちらが公式となって浸透しているので違和感は当然なのですが、それにしても主語が力であるのか、場という空間であるのかは根本的にニュアンスが違います。
 しかし、いまにして思えばこれは翻訳者が訳したのではなく、その後長く有名な作家として活動する人が訳したもの。ただ日本語に置き換えるのではなくて、かなり公式の資料を当たってむしろオリジナルに忠実に訳したのではないかと感じました。
 理力、というのも大自然の理を力と訳した実に見事な翻訳ですが、それ以上にメッセージ性の強い解釈が力場にはあるのかもしれないと今は思っています。
 そう感じたのは、以下のようなことが作中で語られるからです。
 
 力場とは、すべての場所に存在するものだ。制御でき、服従させることの出来るオーラ。
奇跡を行うことの出来る無だ。
 
 また、次のような描写もあります。
 
 お前は自分の行動を意識の支配から切り離さなければならない。
眼でも頭の中ででも、何か具体的なものへの注意を集中をしないように努力してごらん。
心を自由にしてやるんだ。そうすればお前も力場を遣えるようになる。
考えることによってではなく、感じることによって行動を起こせる状態に心を持ってゆくんだ。
考えるのをよして、心を楽にして何も考えないんだ。
 
 私の文をいつも読んでくれている方ならピンとこられるかと思います。
 毎回この場所で書いていることそのものです。
 さらには決定的なのは、ヴェーダー卿がオビ=ワンのことを「老師」と呼んでいることです。
 どうしても日本人は、三船が当初オファーされていたことや、ジェダイというのが時代から来ているという説のためにスター・ウォーズは日本文化をフィーチャーしていると思い込んでしまいがちですが、ルーカスにとってはおそらく、日本は東洋の一部という見方であったのだと思います。
 たまたまアジアのスターとして三船が居たのであり、また世界の言葉としてクロオビという物が浸透していたから活用しただけでしょう。
 ジェダイというのもまた異説があり、ジェダイ、フォースというのはアメリカの独立記念日のことであるジュライ・フォースから来ているのだと昔のスター・ログには書かれていたと言います。自由と独立の象徴としては納得のできる話です。
 アナキンの母親、シミーの名前の由来はインドの女神ラクシュミーから来たと言いますし、ルークの母親のパドメの名前は白蓮を意味していると言います。
 その子供たちが帝国軍に反乱を起こすのですから、これは白蓮教の乱でしょう。
 そう考えると、暗黒卿の称号であるダースというのは中国語の大師から来ていると考えてよいと感じています。
 大きな縦糸として下敷きになっているのは、タオイズムであり、仏教です。
 なぜそう言い切れるのかというと、あまり個人的に前面には押し出していないそうなのですが、ルーカスというのは仏教徒なのです。
 そして、スター・ウォーズを作るときには、ユングの世界観を参考にしたと言います。
 ユングというのは、当時西洋に翻訳が始まったタオの本によって自分の学問を編み出した人です。
 そういった切り口からルーカスは、近代史とタオから壮大な物語を作り出したのだと考えられます。
 おそらくはこのようなディティールは当時ノベライズの翻訳者はじめ、内部で閲覧された資料に表記されていたのではないでしょうか。
 そこから力場というフォースの野田訳が生まれたのだと思います。
 力の場、すなわち、道(タオ)です。
 力、ENERGYとは、中国語でいう気です。
 日本人はよく誤解しがちなのですが、気持ちというか気合という意味ではありません。
 蒸気、冷気など、物理学で使う言葉です。
 電気→電力、磁気→磁力など、置き換えることができますね。
 古代のタオにおける気という概念は、自然現象は見えざる神の采配によって行われるのではなくて見えざる物理的な力によって行われるという科学思想の用語であり、万物に気は存在するというのもまた、そこに働いているENERGYのことを表現した言葉であって、スピリチュアルやオカルトの意図があって言っているのでは決してありません。
 だからこそタオの祖の一人である荘子は「天に仁なし(神様なんていない)」と断言しているのです。
 こうなってくると、フォースを単に気の類としてみなしていたものとは別に、タオそのものと解釈したほうが深いのではないかという気がしてきます。
 ちなみに、理力というのはタオの影響の強い中国思想、陽明学の中に出てくる言葉だそうです。
 また、野田訳でも力場はオーラとして内側から湧き出てもくるが、外側からお前を包んでいるものでもある、と書かれています。
 より大きなタオとしてのフォースの観方は、一層の深みを感じさせてくれます。
 そのようなことを考えていると、まさに先日書いたこと、および私が平素からタオの思想と行で現代社会の閉塞と向き合おうとしていることが、スター・ウォーズで描かれていたことそのものであるという思いがいや増します。
 近代化によるゆがんだ思想による政治的リード、クローン人間やロボットの量産による工業化、巨大な破壊兵器の存在による政治の激動。
 デス・スターによって最初に破壊された惑星アルデラアンが「軍隊を持たない惑星」であったことは私たちには強い戒めをもたらすような気がします。
 また、初めはダース・ヴェーダーの服装というのはナチの軍服のようなものだったそうですが、撮影が迫ってきたころに伊達政宗の甲冑をモチーフとした現在の物に差し替えられたそうです。
 これは、東洋思想の国でありながら思想を捻じ曲げてしまい、産業主義の先兵となってしまった近代日本の象徴のようにも見えます。
 このような、タオ的な伝統文化と近代主義の相克の中で、主人公のルーク少年というのは農夫から土地を離れて行く人として描かれます。
 この、土地を持つということが実は近代思想において非常に重要な意味を持ちます。
 植民地を獲得するということが近代産業化社会においては必須のことであり、また近代的自我の確立につながることであるからです。
 近代化前まで、西洋圏においてはすべての自然と人間というのは神の所有物でした。
 そこに神の意図というものを見出して、自然を克服するべき試練だと解釈したりしていたわけです。
 しかし、近代思想下では神の存在は薄れてゆきます。
 物質的な価値観が優位をしめ始めて、自然も人間も換金の対象となってゆきます。
 このため、他国の土地を略奪することや人間を所有するという概念が広まってゆくのです。こうなると侵略戦争が盛んになるのは不思議なことではありません。
 もともと鎖国政策と封建主義による思考の統制が行われていた日本においては、急速な近代化は仕組みという意味では親和性が高かったと考えられます。
 ただ、極めて強い生理的な反発があったのは、農本社会からの転向という部分なのではないかと思うのです。
 土地を離れて産業を中心に生きるというのは、日本人にとっては極めてストレスフルなことであったのではないかと思います。
 現在大好評ロングラン・ヒット中の映画「この世界のかたすみに」も、そのような近代化の激動の時代に自分の居場所を見失いがちな主人公が「この世界のかたすみに、私を見つけてくれてありがとう」と言って終わる映画でした。
 場、というのは精神の基底としてとても重要なものです。
 場、という物があるから足元が出来、上が出来て、前と後ろと左右ができる。
 上下前後左右、このことを六合と言います。六合とはすなわち宇宙という意味です。
 六合のという言葉を使った拳法はいくつかありますが、これは中華の宇宙観を踏まえたものです。
 その、基底となる足元を離れるということは、東洋思想の中で生きてきた人間にとっては大変に不安なものです。
 キリスト教圏の人間にとっては、この不安が比較的少ないのだと思われます。
 と、いうのも、天という上方向が神の存在によって保証されるからです。
 天の反対が下です。これで土台が獲得できます。
 キリスト教圏がユーラシア大陸という一塊にわたっていることや、彼らが一足先に近代化を果たして大航海時代で植民地を求めたこと、その最先端の大国がアメリカという開拓者の国であることはこのことと無関係には思われないのです。
 彼らにとってて航海における北極星のように、神を信仰していれば世界を見失うことはないのです。
 キリスト教徒においては信仰とは神との個人的な契約だと言います。神と自分自身とに明確なつながりさえあれば、そこからあとはついてくるものなのでしょう。
 これは日本人にはとても難しいことです。
 江戸時代、日本人の戸籍を管理していたのは寺社であり、それを管轄していたのは寺社奉行でした。
 土地神、氏神という言葉がある通り、土地と信仰、そして自己のアイデンティティという物は直結していたのです。
 現在でも政治家の三大要素を地盤鞄看板などと言いますが、土地に根付いているということそのものが日本人にとっての大きな力です。
 その力を削いで抵抗力を奪うために、徳川は参勤交代制を課して大名を定住させませんでした。
 そんな日本人にとっては、コスモポリタンとしての近代的自我を獲得することは非常に困難なことです。
 しかし戦後、国が焦土となり地産の力が復興に期待できなくなったとき、日本は強引にでも生産力を上げなければなりませんでした。
 この敗戦こそが、アジア最先端の先進国であり、世界有数の近代国家を形成するきっかけとなったのは有名な話です。
 そのための代償として訪れたのが、前述したストレス社会でした。
 日本社会の人権無視、抑圧制の高さは異常なレベルにあると見えます。
 この理由の一つが、土地への定着という方向感覚を見失った社会が、人間を足場として上下感覚が発生されるように確立されたからではないかと思うのです。
 このために、人間同士の精神的空間の圧は高まり、息苦しい環境が設定されました。体育会系、バンカラ系社会です。
 これによって、個人単位で他人を支配する、他人の下にある、人を踏み台にする、足を引っ張るということが自分の居場所を成立させるための手法となったものであると思わざるを得ないのです。
 ブラック企業やハラスメントのみならず、児童虐待やいじめ問題もここに由来する物でしょう。
 結局のところ、土地の喪失によって失った方向感覚と立脚点を得るために、人を指標とするほかはなくなってしまっているのです。
 法治国家の体裁を取りながら、社会生活レベルでは実はそれが十全には機能していない人治国家でもあるという二重措置は、そのようなところから生まれたものだと思います。
 とはいえ情報の高速化と経済力によって国際感覚が徐々に浸透してきて、ようやく日本社会も変化してきました。
 ブラック社会に対する抵抗の声も強くなり、ここからが本当の近代社会が始まるのだと思います。
 しかし、近代的自我を獲得するというのは実は非常に難しいことなのではないかと言うのが私の不安です。
 西洋圏においてはキリスト教がその支えとなりましたが、日本人はそのような支えがないままに自我を確立することができるのでしょうか?
 たった一人で世界と向き合う人間としてその命をまっとうすることが果たして可能なのでしょうか?
 踏みつけるべき床や寄りかかる壁としての他人なくして、たった一人で立ち続けることなどかのうでしょうか?
 それは恐ろしく孤独なことに感じます。
 タオイストとしては、そのような自我に囚われず物理的な真実だけを支えとして自立して生きてゆくことが本分とされるのですが、上も下も無い、真っ暗で広大な宇宙にたった一人で投げ出されるというのはとても不安に感じます。
 キリスト教圏においては神という太陽を座標としてそれぞれが個々の契約を結んで自己の世界を完結させることで、それぞれが個々の独立した個人として並列にお互いの人権を認め合うことによって、一度は各個人単位に細分化されたものを社会として再収束させることが出来ました。
 しかし、日本では?
 父母や友人、果ては自分自身をも超越した絶対的な価値を持つ何かを座標として得ることは可能でしょうか?
 このことを思うと、真理の追求者として生きることを選んでいるはずなのに、身が震えるような思いがしました。
 正直、何もかもを投げ出して引き返したいとさえ思いました。
 たった一人で宇宙空間で自由でいるよりも、奴隷としてでも囚人としてでも、社会の中に居場所を求める気持ちというのが、人にはあるのではないでしょうか。
 このような心が生み出した不安と向き合うのに、心だけではあまりに心もとない。
 だからこそ、心と物理的現実をつなぐものとして、自分の肉体が必要になります。
 その肉体を通して宇宙とのつながりに安息を得る行為が行です。
 肉体が得る「感覚」なくして自己の安らぎは得難い。
 その「感覚」を重視するがために、我々の行は高度な技術であるのみならず、芸術であることを必要とするのではないでしょうか。

支配欲求

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 二月の関内ワークショップも無事終わりました。
 今回、みなさんそれぞれに進捗があり、課題が明確化されたことが非常に良かったです。
 特に一名、ようやく内在していた勁を外に出すことに成功されたのは大きな成果でした。
 もちろん発勁ができるようになるというのは一つの目安でしかないのですが、そこを越えると全体が自分でわかるようになるので修行の階梯としては非常に重要なものとなります。
 本人は、手ごたえがないのでできてるのかできてないのかわからないと言っていましたが、手ごたえはないのでそれで良いのです。
 手ごたえはないし特別なことをしてる気もしないのに相手が急に軽く感じて飛んで行ってしまうというのは、内側の勁がきちんと作用している証拠です。
 人間はどうしても、手ごたえを欲しくなるものなのですが、手ごたえはどこかの力みによって反作用を感じているという物になるので、それがあっては勁は発することができません。
 なので手ごたえと我々の発勁というのはそもそもが共存できないのです。
 そのために、ここは結構に大きな壁となります。
 錬功法で養った体内の勁を、ただ素直に出してあげるという以上のことは何もしてはいけないというのが、最初のうちはどうしても難しいのです。
 手ごたえを感じたい、特別な技のようなことをしないとだめなのでないか、失敗をするべきではないという思いがすべて裏目に働きます。
 それがいつもいう、エゴによる妨害です。
 自我の働きが肉体の感覚の自然な作用を妨げている。
 大切なのは、相手に意識を向けることではなくて、体内の正しい在り方を維持することです。
 相手に合わせるとそちらに体の在り方が寄せられてしまう。
 このために、まずひたすら体内の正しい在り方を感じるということが重要になります。エゴによる誘惑でそれを崩してはいけない。
 相手を打ち飛ばしたい、やっていることの実感を得たいという状況を理解して安心感を得たいという支配欲求が、すべてを阻害します。
 心身を寛がせて、相手も自分のエゴをも含んだ静かな調和の状態にあることが大切。
 だからこそ禅なのであり、精神に安定を持たらせることができるのです。
 私にとってはそれ以外の意味は武術にはほとんどない。
 今回うまくいった方は、外界的な成功、不成功とは別のものとして、自分の内側が「整っている」ということを薄くではありますが実感し始めることに成功しました。
 発勁を獲得したということは、体内にあるタオの働きを掴むことができたということです。静かな自然の働きの流れの存在です。
 あとは、もうその内側のタオの働きに忠実であれば、自分でなんでもできます。
 エゴによる動きや欲求ではなくて、内面の正しい働きにとって何が必要かというのは、その正しさの感覚が教えてくれます。
 常に内側を感じながら生き続けるだけで、どんどん内力は強くなり、健康と心の静けさはましてゆきます。
 外の世界や自分のエゴの騒がしさとは別のところに、もう一つの場所が見つけられたのです。

排打と発勁

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 先日のWSで、また一人WSだけの参加なのに発勁ができるようになった方が現れました。

 もちろん、発勁が目的地点ではありませんが、正しく身体とつながるための方向性としては必要です。

 これは陰陽思想で、自己として認識している自分を、いったん精神と肉体に分割して解釈して、身体の知っていることを精神はすべて知っているわけではないというスタンスに立つという考え方です。

 その上で、その身体の法則を通してさらに目的へと向かいます。

 その目的地とは何かといえば、タオです。

 中国では、孔子様が古代社会の時代から「古代に帰れ」と回顧主義を唱えていました。 

 孔子様の思想では、そこに人徳主義による素晴らしい人治主義の王国があったからだ、と言うのが前提になっています。

 これは世界中の神話に共通する、古代は神人が治める理想郷であった、という発想です。

 それに対してタオイズムでは「天に仁なし」と言ってその神々の黄金時代の存在を否定しています。

 そんなものはなく、天地には自然に働いている気という物があって、その法則がタオであり、そこにのっとって生きることこそが聖であり、徳であるのだと言っています。

 気と言っても近代に以降の日本人が大好きな気合や精神の力とはまるで反対のもので、なんのことはない、自然の力と自然科学の物理の法則のことです。

 つまり、孔子様が実社会でのモラルを説いたのに対して、タオでは科学を旨としました。

 回顧の方向でいうなら、孔子様が古代の神人の社会を目指したのに対して、タオでは進化論的な野生動物の生き方を目指したと言って差し支えないと思います。

 のちの儒者の考えからしたら見苦しいというの思われかねないような、動物の姿勢や生態を規範としたのです。

 野生の動物というのは適者生存をしていますので、模倣すれば自然に適応した生き方ができるので、自然にかなっている、という次第です。

 人間も本来そのように生まれたはずなのですが、大脳が発達しすぎたためにそれが難しくなってしまっています。

 人間だけが持つ人間性、自我の部分が自然の法則からすると理にかなわないことをしてしまうわけです。

 そのために、気功や中国武術では自我を薄めて肉体の中にある自然にかなった生き方を学んでゆきます。

 昨今、身体開発流行りだとかでボディワークとやらいう言葉がもてはやされています。

 しかし、これは我々古典の武術とは逆行する物のようにも感じます。

 思想がないまま単に体を自分の都合の良いようにいじくりまわしていくということは、エゴの仕業以外の何物でもない。

 目先の結果は追い求められるでしょうが、その結果がどのような形で出てくるのかまでを検証したものはどのくらいあるのでしょうか。

 かつてのうさぎ跳びなどと同様の危険性を感じます。

 自己流の新武術やスポーツのインストラクターに、一度何を根拠にどこを目指しているのか伺ってみたいものです。

 我々の考え方では、先に述べたようにまず自我を薄れさせて身体が動きたいように動けることを目指します。

 そんなわけで稽古中は「そのエゴ捨てて!」とか「あー、いまのやろうとしたエゴが引っ掛かった!」「その結果を出そうっていうエゴ! ダメ!」「頑張ろうとしないで! やろうとしないでください!」というような言葉が繰り返されます。

 うちの筆頭学生さんは初め「何を言っているんだろう?」と思っていたそうです。

 しかし、自分自身を自分の意志と肉体と分割して感じられるようになってくるとこの意味が分かってきます。

 先日できるようになった方も、人を勁で跳ばしたあとに「出来てる実感が無い」と言っていましたが、そう、自我にそういう物は返ってこないのです。

 それを求めることがもうエゴの執着なのです。

 自分が頑張って何かをして力強い抵抗があるのだけれど一生懸命それを振り切ってなんとかできました、やりきりました、満足です。というような物ではないのです。

 ただ、何気なくやっただけなのに突然相手が今までよりはるかに軽くなってしまって触っただけなのに跳んで行ってしまった、というのがあるべき状態です。

 私の大好きな昔のマンガ、アラレちゃん状態です。

 タオに関する見解が未発達な武術でよく言う「力を抜いて」というのは、このような過程をすっ飛ばして結果だけから逆算して出てきた言葉なのではないかと思います。

 もちろん、内側が開発されていないのにただ力を抜いただけで何かができるようになったりはしません。そういう嘘に騙されては不幸です。

 今回できるようになった方は、まだ勁が弱いのでそれまでの力よりは強いのですが、まだトータルでいうと強くはない。

 逆に、別の方には内在的にはとても強い勁を持っている方がいます。

 そのために人に押されてもそんなに飛ばないのですが、まだその勁を外に伝えることができていません。

 なぜ出せないのに勁が強いかわかるかというと、打たれたときに勁で跳ね返す力がとても強いからです。

 これを排打と言います。体内の勁で外からの勁を相殺しているのです。

 なので確実に強い勁があるのですが、外に出そうとするとやろうとしてエゴが邪魔をして勁の運用を切断してしまう。

 何かをやろうとせずにただやられるがままに立っているときには、はるかに強く勁が働いているのに。あと一歩です。

 このようなときに、あぁすればできるんじゃないか、こういうやり方ならうまくいくんじゃないかと、目先、小手先の技や手法に囚われれば囚われるほど意図が強くなって発勁は阻害されます。

 禅の言葉に「悟ろう悟ろうとするのもまた執着」という言葉があるそうですが、そのような物でしょう。

 それよりも、内側の勁の働きに任せてそちらを強くし続けていたほうがいまはいいでしょう。

 いつか出るようになったときに、巨大な力が発揮できるはずです。

 いまだ出せない強い勁と、出すことはできたけどまだ弱い勁、どちらが良いかなどと比べるのもまた誤った見方でしょう。

 大切なのは、真実に沿っているかどうかということです。

 自分の都合に拘っては危険です。

本日のプライベート・レッスン

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 保安関係の方のPLもだいぶん進捗しました。

 前回からアルニスを入れてやっているのですが、そちらの古典技術も少しづつ磨いていっています。

 古伝の剣術は、こうしてやってみるとやはり、形にするまでに少し時間がかかります。

 重層的に概念が積み重なって深い体系を形成しているために、最初の段階で全貌を把握するのに時間がかかります。

 アルニスにおいてもただ刃物で打つという考えだけで判断するならそう難しくはないのでしょうが、刃物ではなく棒であったり、またフェンスの概念などを考えると何気ない一つの動作にものすごくたくさんの要素が入っていることが分かってきます。

 そうすると、たちまちただのチンパンジーの棒振りではなくてチェスの要素が重要になってきます。

 身体能力で勝る動物を戦略で追い込んだのがそもそものフェンスと言う意味だということを振り返った時、フェンシングと言うのは実に知的な戦略合戦になってきます。

 そのため、いまでもアルニスは知的な戦略の要素を理解しないと本当のことが見えてきません。速度に幻惑されてしまいがちなのですが、その奥にあるものが本質だと思います。

 一手ごとの精度に拘らず、全体での流れを重視するそのやり方は、知的な人であればものすごく早く体得できるものです。

 特に我々のラプンティ・アルニスはアウト・ファイトではなくて密着戦をするために、速度と威力でのラッキー・ストライク任せの要素が減ります。

 本日もコツコツと基本の概念をいくつも折り重ねてきました。

 身体能力の世界しか知らない人からするとまどろっこしく感じるかもしれませんが、このような物であるからこそ、力に勝った相手に戦略で勝るものとなりえるのでしょう。

 とはいえ理解に最低限は時間がかかる。まあ当然なのですけれども。

 しかし、ここで頼りになるのが実はハワイのカリの練習法だったりするのです。

 とにかく簡便ですぐできるようになるのはこのカリのいいところです。

 友人のJKDインストラクターが「カリは簡化なんだ」と言っていたことがありましたが、家伝のスタイルと比べるとその速習性がよくわかります。

 現代式の普及システムであるモダン・アーニスでさえ、理解には三年かかると言われます。

 そこから考えてみても、太極拳と同じくよくまとめられた簡化の存在と言うのは初学者には効果的なものです。

 本日もカリの練習方法を用いつつ、そこにきちんとラプンティ・アルニスの極意を入れて稽古をおこなってゆきました。

 みるみる実力が上がってゆくのが感じられたものです。

 この調子なら、三か月もすれば一回りの練習は終わり、半年もすれば一人前になることでしょう。

 現代日本人への伝授として、私も無駄のなさを重視しています。

 一人前になってからの先は、無限に続くアートの探求が待っています。

 相手をノックダウンするのでもなく、投げ技で倒すのでもなく、ただ力の方向を誘導して自壊させてゆく技術は、職務として保安業務で用いるには実に有用なです。

 現在のようなエクストリームなアクションやミリタリー風のアクションが流行する前の海外ドラマや映画では、何気ない制圧シーンなどに地味ですが説得力のあるこのような技が用いられていました。

 xファイルのスカリー捜査官などはなかなかの達者でありましたよ。

To all Philipinos and another foreligners 定期告知

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 Hi i'm master suiko.

 If you want to play arnis,come on join us.

 arnis is philipino national sports.

 you pay only tipping.

 This is very ceep!

 let's play your hobby in your life.

 

 next lesson is 15th saturday  at AM10 in kannai oodoori kouen  mizunohiroba. here↓

http://loco.yahoo.co.jp/place/g-RGiBu1M3pSA/map/

今週の練習日 our train plan of this week

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 今週は関内の大通り公園で14時から通常練習です。

 よろしくお願いします。

 

 Our next train day is this satur day.

  place is oodoori kouen park in kannai at 14:00.

 fun joinus!


武術の本質

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 先ほど入浴時に鏡を見て気づいたのですが、明らかにまた体型が変わってきていました。

 そんなに自分の身体を熱心に見ることがないので気づいていなかったのですが、いつの間にか変化が起きていたようです。

 首から肩、上腕にかけてのラインが一層凹凸のないヌルっとした体になっている。

 伝統武術の身体です。

 はじめ、ま~た太ってしまったのかと思ったのですが、おなかはそんなに変わっていませんでした。

 別段、アームカールをした覚えもありませんが、上腕二頭筋も膨らんでいました。

 もともと私はこの上腕二頭筋が育たないタイプで、ガリガリ時代に一生懸命ダンベルを持ち上げてもまったく腕が太くならなかったものです。

 しかし、いまここにいたって妙に太くなっています。

 これは武術と武気功の成果です。

 私たちの武術の根本は、易筋、洗髄、換骨と言われています。

 筋や肉を変え、神経を洗い、骨を換えるということです。

 稽古をしてゆくほどに体は変化し続けてゆきます。

 神経を洗うというくらいで、気功による神経分泌物質への影響で、成長ホルモンが出たりもしているのでしょう。

 肉、神経、骨、この三つを変化させて健康状態にアプローチしてゆくのが正統派の少林武術です。

 ルーツがヨガにあり、気功そのものなのですから当然のことです。

 武術にはそれぞれ本質があります。

 例えば護身術であることを目的とした武術はすぐに使えるようにならなければ意味がありません。

 決闘を主目的としたものは一対一の勝負に向けて進化してゆきます。

 これに関しては、私たちの蔡李佛拳ではそれが特に明確です。

 古伝の少林拳の保存を重視した洪聖蔡李佛拳、太平天国の乱での合戦を目的にカスタマイズされた鴻勝蔡李佛拳、そして近代都市での喧嘩に向けて変化した北勝蔡李佛とそれぞれに変化しました。

 少林寺の流れを引くという拳法は多々ありますが、みなそれぞれ目的に合わせて進化したものです。

 もし学ぶものが勝手に自分の都合に合わせて本来と違う解釈で改変をすれば滅茶滅茶な物になってしまいます。

 合戦武術で護身をしようと思えばおかしなことになりますし、護身術で健康にはなりません。

 日本の中国武術史は、基礎がないままにいきなり高級武術が入ってきたという歴史があります。

 もちろん正しく理解がされていた可能性は大変に低いものだったでしょう。

 たくさんの人々が理解を得られないまま挫折してゆきました。

 それらの人々があるいは自己流の解釈を編み出し、または別の流派からさらに別の流派へとかじっただけで流れたり、単に理解がしやすくて速習性があるだけの否高級拳法を極意だと誤解してありがたがるというような悲喜劇が繰り広げられました。

 いまだに、中国武術の真の姿と言うのは本邦ではほとんど知られていません。

 一般層にという意味ではなく、自分を修行者だと言っている人々の間ででもです。

 それは、そもそもその拳法が一体何を目指して作られたものなのかという理解が欠けていたからだと思われます。

 その部分を知らずして、中国拳法を教えることも学ぶことも出来ないはずなのですが、なぜか日本ではそれがまかり通ってきたのです。

 本場での公開性が高まったこれからの時代こそが、本当の意味で日本に中国武術が広まってゆく時期なのだと私は思っています。

 そのためには一度、これまでの誤った情報をきれいに忘れる必要があるかもしれません。

空間概念

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 カンフーに加えて、アルニスも重視するようになったことで、空間の切り取り方の概念が見えてきました。

 写真家や建築家の方は、目に映る空間をどう読み取るかの能力を訓練して力としていると聞きますが、これはおそらく、一定以上の武術家にも求められる能力です。

 アルニスでは、フェンスの概念を持ちます。

 これは相手と自分の間にフェンスがあると仮定して、それをいかに活用するかということです。

 目に見えないスタンドのようなものを使うからこそ、訓練を積んだ人間だけが可能な戦略が使えるわけです。

 このようなものが、バリンタワックでアンション・バコン先生がクエンタダ(予測する)と呼んだものの一端だと思われます。

 これは、通り一遍の制空圏などの概念でひとからげにしては好ましくない問題です。

 と言うのも、切り取り方は門派ごとにことなり、流儀という物の本質にかかわる部分であるからです。

 どうもここのところを重視しないがために、現代武道は自己流となってしまうのではないかという気も致します。

 代々受け継がれてきた空間の活用法を知らないと、単体ごとに習った技の使い方がまったくわからない。

 駒の動きを覚えただけで定石を知らないに等しい。

 それでは将棋を打てるとは言えない。

 戦略が無く、身体能力だけの勝負になってしまいます。

 それをカンフーでは自力と呼んでいます。

 すなわち自己、エゴの力です。そこには限界がある。

 仏教での考えは他力本願。大きな力と一つにつながることこそ学ぶべきことです。

 空間の力を活用しなければ。

 タオにおいて、空間のことを宇、時間のことを宙と言います。

 宇宙とは制空権の向こうという意味ではなくて、古くは空間と時間のことです。

 この宇宙の力を活用するのです。宇宙パワーなどとオカルトチックな意味ではありません。

 鴻勝蔡李佛では空間を球体として認識します。

 これは合戦用の武術なので乱戦を意識しているためだと言われています。

 一対一での勝負を意識したものではありません。

 自分自身を鉄球として、ゴロゴロ転がりながら周囲を轢き潰してゆくのです。

 そのため、主となる攻撃は点での攻撃ではなく空間そのものでなぎ倒すような手法を取ります。

 これもまた、現代武道では回し蹴りくらいでしか用いられていない概念です。

 どうしても一対一で時間制限のある戦い方をするために、一点で威力を集中させるような戦い方が選択される。

 合戦ではそうではありません。振り回した武器が偶然防御になったりラッキー・ストライクになる可能性も織り込み済みでの戦法を用います。

 一見一点で攻撃している突きや蹴りも、実は全体のどこででも攻撃ができるようになっています。

 そのため、中国武術では打撃と投げ(摔)、関節技(拿)が一体となった動作が常に行われているんですが、表層しか理解できないとこの深みは読み取れません。

 そのために、未経験者からは跳躍力や柔軟性、速度などの上辺のことで評価が行われがちになるのですが、見かけに囚われるのはもっとも愚かなことです。

 となると、点での攻防ではなく全身での攻防を行うわけですが、この時に我々は「勁の圧に満ちた鉄球」に自分をするという選択肢を取っています。

 これによって、整勁は必須となり、かつ強調されることになります。

 どうしても日本人はぴょんぴょんスキップをして手先足先で戦うヒット&アウェーをしてしまうのですが、これは現代空手の足さばきが現代剣道の影響を受けているためではないかと思われます。

 そうなると当然、全身のぶつかり合いに弱くなる。そこで突然組み合うとレスリングに切り替えることになります。

 ばらばらの物を組み合わせて使っているのです。

 正調の少林拳ではそういうことをしません。もともとが一つの物として切り離される以前の物です。初めから終わりまで貫徹した動作で行います。

 あるべくようにある、ということを常に続けます。すなわち禅です。

 以前、日本人の格闘家とスパーリングを珍しくしていた時に、発勁で打っては取り返しのつかないことになるので打はあて止めにしてそのまま投げ倒しで何本も決着をつけました。

 ここまでの文章に書いてきた通りこれは定番なのですが、ばらばらのものとして理解していた相手の方は「こんなんだったら(カンフーじゃなくて)レスリングでいいじゃないか」とむくれていました。

 いけません。それはバラバラのことしか見えていない考え方です。

 打撃の攻防をしてそれまでに入れてもいるのですが、見た目だけで判断するとそれが見えないのです。

 どれでも使っているうちで、たまたま安全に決着をつけるためにひっくり返しているだけにすぎない。

 レスリングで初めから倒すことだけに特化しているのとはまったく話が違います。

 空間そのものをあるがままに自由に使うことが少林武術の本質です。 

 最近、我々の練習とそっくりな稽古風景を公開されている素晴らしい拳師を見つけましたので、参考動画を添付しておきます。

 https://www.youtube.com/watch?v=toS85GbQQVU

  

 

 

 

 

今週の練習日 our train plan of this week

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 今週末の練習です。

 

 本日土曜日、14時から関内大通り公園、水の広場です。

 This sturday train in kannai oodoori park [mizuno hiroba] at 14oclock

 

 

 日曜日は朝の10時から山下公園にてアルニス・サンデーとなります。

 sunday 25th train in yamasitakouen park at 10oclock

 

 come and  joinus!!

 

つながっている、つながっていない

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 まず最初に、一つのリンクを貼り付けておきます。

 http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/07/aum-20th-anniversary-mori-tatsuya_n_7230332.html

 直接は関係ありません。

 ただ、ある種の参考となる見解の一つとしてです。

 以前の近代社会と日本社会の成り立ちについて書いた文で自分の立場からのいまの世の中の見え方というものを書いたのですが、その前提の上で今回も書いてゆきます。

 先日のWS終わりのダラダラしゃべり会である人から某ボディワークについて所見を求められました。

 このような質問は非常に多いのですが、私はほかの人がやってることは知らないので何も答えられないからそういうオタクみたいなことを聞くなといつも言うのに必ずオタクの人から同じことが繰り返されます。

 しかしたまたま、その某については少し近いところで知っていることがありました。

 その上での私の見解として「シングルマザーの人とが好きですよね」と個人的感想を述べました。

 世の中にはいろいろなシェアがあるのですが、そういうシェアが確実に存在しています。

 私がかつて付き合っていたシングルマザーの恋人もそこの先生でした。

「そういえばあれ、ハワイが本場らしいですね」と言われたので、まぁ納得しました。

 シングルマザーの人たちのうちに、ハワイとかロミロミとかフラダンスとかが大好きな人たちがいます。

 そしてその中に、ハワイでやるヨガとかロハスとかが大好きな層も居ます。

 ハワイーー? という感じを持ちます。

 ハワイ、いいところなのは間違いないのですけど、インチキ臭いことの看板にものすごく使われやすいところです。

 そもそもがもともとの土着文化を根こそぎ全滅させて合衆国が作ったテーマパークみたいにしてハワイ州がなりたっているので、うわべのコマーシャリズムとはきわめて相性が良い。

 バブルのころにはハワイ県なんて言っている人もいましたね。

 ネットワーク・ビジネスの人たちもハワイが大好きみたいです。

 海外で素敵な生活という物を想像したときにね、例えばニューオリンズで音楽に浸って暮らしたいとか、四川省で峨眉山にひっそり住みたいとか、ポルトガルでファドのレッスン漬けになりたいとかでなくてね「ハワイ」って答えちゃう人って、たぶんなんも考えてない人ですよ。

 サーフィンが好きでハワイに行きたいって人とはまったく違う。

 ふわっとした印象だけで生きていて、自分の意志を確立できてないからの「ハワイ」がすごく多いんじゃないかと思います。

 と、いうことはつまりそれって「ここではないどこかに」っていうことなのではないかと思うのです。

 とにかくいま居るここから離脱したいというのが「ハワイ」だと思います。

 先の稿に書いたように、場所と人を同一視するのが近代です。

 そういう状態になってしまっている人は、苦境の中にあるのであり、また自分自身という居場所を確立できていないのだと思うのです。

 これは危険なことです。

 そういう人が惑わされてネットワークビジネスのイメージ戦略(という洗脳)にはまってしまう。

 あぁいうマルチ商法の大好きな煽り文句が「すてきな仲間たち」です。

 ほらね、人を場所としてみなしているでしょう。

 人間を踏みつけたりぶら下がったりする場所とみなして、上下関係で仮想空間を形成するという近代の病そのものが中核になっているとみなして差し支えないでしょう。

 これは、自我が確立できていない人にとってはものすごく安心感を与えてくれます。

 だからこそ、自我が確立できないままになってしまう。

 それを利用する人も利益を享受できるわけで、WINWINの関係ではあるので、一概に否定できるものではありません。

 以前にも書いた通り、近代日本人が自我を確立するということは果てしなく孤独なことです。

 そんなもの確立なんかしないで「素敵な仲間」と身を寄せ合ってハワイに行く日を夢見ていればさみしくはない(しかし、あぁいう人たちは他人のことを「ビジネス・チャンス」などと人ではない物としてみなします)。

 私に言わせれば、人を人ではない物としてみなすことを教える思想は人でなしの思想です。

 そういう層が、インドのではないNY系のヨガや、伝統ではない太極拳、今出来のボディワークに着々と流れ込んできているのを感じています。

 スピリチュアルやオタクの世界も同様の物を感じます。

 うちはそういう場所ではありません。

 講師や同門に依存して練習ごっこを名目になれ合いをする場所ではありません。

 武術は格闘技ではないので、コミュニケーション手段ではないのです。

 老荘の思想では、師弟関係すら否定されています。

 うちでいうなら私や私の師父というのは、代々伝わってきた伝をたまたま先に持っていてそれを伝達してくれた人にすぎません。

 儒的な濃密な疑似親子関係ではない。

 それぞれがそれぞれの宇宙として独立した認識の世界を生きている個人です。

 その個の在り方を具体的に確立してゆくのが行であり稽古です。

 少し前まで、私にとっての大きな人間への価値基準は「本当に生きている」という物でした。

 いまは「つながっているか否か」という物になっています。

 これは行の中で教えられたものです。

 はじめはわからなかったのですが、最近感じられるようになってきました。

 つながっているかというのは、人とではありません。大きな世界の真実とです。

 武術におけるちょっとした成功のコツに、目で見える物を観ないというのがあります。

 視点を近くに設定するほど、自我が呼び起されて振り回されることになります。

 視点を遠くに持つだけで身体が自然に正しい在り方にセットされて驚くほど動きが良くなります。

 心理カウンセラーのある人はこのことを「利己的か利他的か」という言い方で表現していました。

 上手くやろう、勝とう、何かを獲得しようという利己が働くほど近視眼的になり、心と体はつながっているので実際に視点が近くなって体が動かなくなるという論法です。

 その逆をしようと言うことはつまり、利他的になることで遠距離的な視点を持つことが出来るという訳です。

 利他的になりなさいというのは、我々の一門においては実はものすごく利己的なことなのです。

 そういうタオに対する因果の鑑賞のすべを覚えてゆくのがこの武術を身に着けるということです。

 このような視点から見る武術家としての「出来る、出来ない」「遣える、遣えない」は、技やアベレージのことではありません。

 生き方の姿勢のことです。

 自我の確立がいいことだとは言い切れませんが、少なくとも武術のレベルの高さにはつながっています。

来週の練習予定

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 三月一週目は、5日の日曜日に江戸川体育館で東京WSがあります!

 一月ぶりの東京でのラプンティ・アルニスのセミナーです。

 現地でのレッスン2の内容に当たる12アングル・アタックを行います。

 このアングル・アタックというのはおそらくはスペイン剣術の時代に行われていたもので、ほとんどの流派のエスクリマに存在しています。

 マイク・タイソンのナンバリング・システムというのもここに由来しているものではないかと思われます。

 ほかの動作の中ではフィリピン式のハロハロされた動作が強くみられるのですが、その根幹にある西洋式のフェンスの概念の基礎をなす、実に興味深い古い西洋剣術の技法が味わえる練習となっております。

 近郊の方、ぜひお気軽にいらしてください。

 http://webhiden.jp/event/detail/post_429.php

動かない身体

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 土曜日の練習で、今月も遠方からの学生さんが来てくれていたのですが、この方は整体の先生です。

 施術だけでなく、整体師の育成もしており、非常に身体のことには詳しい総合的な研究家で、いつも私が聞いたこともないようなことを教えてくれます。

 こういう方がいてうちの技術を良いものだと思って学んでくれるからこそ、私も自分が継承してきた技術が世の中でどのくらいの処に位置するのかを感じることができます。

 この学生さんのお話を聞くと、やはり原則的に人間の身体は私たちが行うようには運用されていないということが分かります。

 私にとっては当たり前の動きが、西洋医学や東洋身体観からしても常識から外れている。

 これは、明ではない暗い勁がさらに奥にある物だということなのでしょう。

 一般的には中国武術では、開合ということをするとされています。

 胸を開き、背骨を反らす開と、その逆の合。

 しかし、私たちはこれをしません。

 骨格を振り回すという行為全般を可能な限りさけるのです。

 移動の意味では骨を動かさないといけないのですが、動力としては用いません。

 骨格を覆う膜に勁を走らせてそれだけを純化して用いることを由とします。

 そのために、私の肉体は整体の観点からするとまったく動けていないということになります。

 骨格を動かすという観点からそのようなボディケアは組まれているためでしょう。

 しかし我々は逆行するのです。

 いかに骨格の動きに頼らずに動くかを追い求めるから大きな力が出せるのです。

 これが動くのではない、止まり続けることから生まれる暗い勁です。

 と、ここまではこれまでも書いてきたことなのですが、ここからが今回練習後に話したトピックです。

 表層的な肉の凝りをたどってゆくと、場合によっては骨格を通り越して内臓に原因がある場合があるのだそうです。

 内臓もまた、我々が言うところの「膜」です。

 その内臓が固い人は、やはり膜が引っ張ってそれが筋肉の凝りになったりすることがあるようなのです。

 この内臓、我々は気功によって健康的に調節しているのですが、大食い選手権の人などは訓練によって拡張したり、位置をずらしたりすることがあるそうです。

 内臓下垂を、位置をずらして直すことが出来るのですから、訓練ではそのようなことも可能なのでしょう。

 内臓も血管も、我々が言う膜です。

 骨に依存するのではなく、それらにアプローチすることで、循環や呼吸、血行を良い方向に操作するのです。

 武術はその方法を別の活用法に向けたものです。

 それを置き去りにした機械的な運動に寄っていては武術の深い部分は見えてきません。

 体質を探ってゆくと、表層ではなくて内臓にまで原因を探ることが出来る。

 物事は深くまでたどれるのです。

 本質からの見解を持たないと、伝統武術の真相には触れることができません。

 そのために、上っ面の技や用法ではなく、思想からひとつづつ学んでゆかないとなりません。

3月の練習予定 随時更新

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 5日の日曜日は東京でのアルニスのワークショップです。

  http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=12251314277

 

 12日の日曜日はアルニス・サンデーです。

 朝10時より山下公園、マリンタワー前の芝生でになります。

 

 19日は関内ワークショップです。

 18時からフレンドダンス教室でになります。

 http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12251619475.html

 

 26日はまたアルニス・サンデーで、同じく10時より山下公園でになります。

 

 よろしくお願いいたします。


3月の関内ワークショップのお知らせ

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 19日の日曜日、18時から関内駅より歩いて5分、フレンドダンス教室さんで月一ワークショップを行います。

 ぜひお気軽にいらしてください。

 

 一般       3500

 会員

 準会員      3300

 事前申し込み  3000

アルニス・サンデーで12アングル

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 この間のアルニス・サンデーも天気に恵まれました。

 だんだん春めいてきて非常に暖かい中、基礎である12アングル・アタック(ないしストライク)の練習に専念しました。 

 これはおそらくほとんどすべてのエスクリマに共通してあるだろうもので、別名をナンバリング・システムと言います。

 人体の攻撃個所とそれに対応した軌道をナンバー付けをして覚えるもので、おそらくルーツはスペイン剣術の時代にあるだろうと思われます。

 それぞれの派によってこの基礎の軌道や着地点が違うと聞きます。

 ラプンティ・アルニスではその独自の動作から、特に独特の要素が入っています。

 通常、これはまさに基礎に入るのですが、ラプンティ・アルニスではレッスン2にカテゴライズされています。

 これの前にちょっと長いサヤウを一つやってからこの基本に入るというのは順番として変わっていると思います。

 しかしそれだけ、ここには深い内容があります。

 表層の軌道の意味を理解するにはしっかり時間をかけて足りないということはないものです。

 フェンスの概念から戦略を組めるようになるためには、この12アングルが非常に重要になります。

 自分と相手の間に柵を張り、それを立体的に活用して防御をしながら相手を追い込んでゆくというコンセプトの基礎となっています。

 私自身はラプンティ・スタイルをするまでは遠距離でのラッキー・ストライクや速度に目が行ってしまっていましたが、密着戦を旨とするラプンティを学んでから、空間の切り取り方と面積や体積を重視した戦い方を見出すことが出来ました。

 日本でいうなら、つばぜり合いの攻防と言うところでしょう。

 この発想は中国武術にも非常に近いものを感じます。

 どうしても近代以降の発想からすると、離れたところでのアウトボクシングやヒット&アウェイ的な戦い方が刷り込まれてしまっていますが、そのような映画的、スポーツ的な物ではなく、力の方向を感じてそれを活用する要素が古伝の武術では伝わっています。

 ONかOFFかの二択ではなく、細分化されたメモリの調整をしてゆく、デリケートな技術が流儀武術のだいご味かもしれません。

 週末の東京ワークショップでも、この部分をフィーチャーしてしっかりと行ってゆきます。

 武器を活用した密着用法にご関心のあるかた、未経験者の方々歓迎です。ぜひお気軽にいらしてください。

http://webhiden.jp/event/detail/post_429.php

少林拳について

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 前にアップされていた少林拳に関する動画に英語のスーパーが付いていました。

 https://www.youtube.com/watch?v=O0HEImPYJTQ

 決して英語に堪能ではないのですが、おおよ内容はうかがえたと感じました。

 このシリーズの定番で、二人の若者が伝統系の門派を訪ねるのですが、今回のうちの一人はアメリカ育ちで、ウィンチュンを学んでカンフーを知ったと思い、軍隊経験があり、総合格闘技が好きで、格闘技に必要なのはスピードだと思っている若者です。

 そういう、典型的な「いまどき」が、今回伝統の少林拳に触れるという内容です(たぶん)。

 彼に教えるのは有名な徳健和尚です。

 和尚は少林武術は禅だと言い、スピードではないと諭します。

 生活の中で気を練り、自然と強調して命を養い、そして生き方を学ぶことを若者は経験させられます。

 これは、私が普段からここに書いていることそのものです。当たり前ですが。

 最後、若者は本物の伝統が世の中には正しく知られていなことを悲しみ、これがこのまま失われたら偉大な中華文化の喪失だと言い残します。

 本当に、これに付け加えることはありません。

 ほかのいかな格技とも本物の少林拳は異なりますし、禅と生き方を伝える物はこれしかありません。

 現代武道や創作武術や自己流とは、本質的にまるでやっていることの意味合いそのものが違うのです。

 少しでも誤解が薄まり、真実に触れて救われる人が増えることを望みます。

心身には調和が必要

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 先日も名古屋の学生さんと話し合いをしたと書きましたが、その続きを少し。

 彼は整体の名人としていろいろなお客さんを見ているのですが、外側の筋肉だけではなくて、内臓からのアプローチもしているというのは前回もお話した通りです。

 私が知りえない人体のいろいろな話も聞かせてくれるのでよく見識のために相談に乗ってもらうのですが、今出来の新作ボディワークの類に懐疑的な私、思い切って実際のところはどう見えるのかと聞いてみました。

 すると、それまでに直接体を触れた中にいた、そのような物の実践者のお話をしてくれました。

 聞けば、やはり効果はあるようで、確かに身体が緩んでいたりするのが確かにあるようです。

 しかし、バランスが悪くて緩んでいるのが断片的であったりすることがあるそうです。

 これこそが私たち伝統の中国武術が偏差としてよくよく注意する偏りです。

 あるところだけを、発見した技術で柔らかくしたりし続けると、それと対応した逆側にすべての負担が行きます。

 その結果、体調は別の角度から崩れることがありえます。

 例を出してみましょう。

 あるところに、腹筋がこわばっていて体が前側に曲がりづらい人が居るとします。

 伝統中国医療で言うところの陰の経絡が走っている、体の陰側です。

 柔らかい体を目指して、前屈でペタッと体が下につくようにしたいと努力を始めます。

 体を柔らかくするといういまどきのボディワークを実践し、効果が出たとします。

 さて、この人が、もともと垂直に立っていた時、上から地面に向かう自重を支えていたのが、そのおなかの固さだった場合があります。

 なぜ固いのかというと、それが建物でいう鉄骨の役割を果たしていたからです。

 すると、それを緩めて脱力させることができた結果、支えていた重さを別の処で支えなければなりません。

 陰陽のバランスでいうなら、体の陰側が弱れば陽側の強度が増すことが考えられます。

 それまで7:3で支えていた物の、7が3に弱ってしまえば、逆側が7になります。

 つまり、陽側、背中側が重荷を受け渡されたことになります。

 すると、それまで3を支える仕事力しかなかった背中が急に7の重さを支えなければならなくなるわけです。

 これがどれだけ無理なことかはお判りですね。腰痛の元です。

 あるいは、その負担を逃がすために今度は膝に負担を分配するかもしれません。

 こうした物理的なことだけではありません。

 もし、固いのが腹筋によるものではなく、内臓の膜の固さによるものだとしたらどうでしょう。

 内臓を柔らかくすることなく、それを包む部分だけ柔らかくしたら?

 内臓が固い人は、上に内臓を引き上げる力に対する抵抗が強く、内臓下垂が起きやすいそうです。

 となると、それを下で包んで支えている腹膜なども一定の強さが必要になるので固く強化されます。

 しかし、その土台を緩めてしまったら?

 イメージしてください。

 ボーリングの球を、丈夫な麻の布で包んで吊るしているとします。

 その麻を、強度の弱いビニールにしたらどうなるでしょう?

 たちまちビニールは破けて球は下に転がり落ちます。

 つまり、内臓下垂が悪化して最悪、下からはみ出ます。

 いわゆる脱腸です。

 バランスを検討しないで、断片的に身体をいじくりまわすというのは、このように危険なものだと我々は考えています。

 中国の伝統思想では、体質を検討し、問題の根幹に触れて、その部分から時間をかけて換えてゆこうと考えます。

 いま起きている表層はバランスの結果として見えていることなので、そのバランスを少しづつスライドさせてゆくというやり方です。

 今どきのボディワークの多くは、東洋性をアピールする物が多いですが、うわべを見て取って付けた手法で断片的にパッチワークしてゆくというのは、典型的な近代西洋の手法です。

 その手の人たちが大好きな「西洋体育はダメだ」という奴の「西洋体育」そのものです。

 そもそもその「西洋体育」というのは一体なんなのでしょうか。

 古代ギリシャのオリンピックなどではないでしょう。それらの中には伝統気功的な側面もあります。

 フランスにはバレエがあります。これは西洋体育の素晴らしい昇華です。

 ロシアに至っては様々な角度からも言うことがない。

 彼らが言うのは、おそらくドイツ式の軍隊運動のことなのでしょう。

 まさに近代産業化の申し子です。

 そして、断片的な技術を組み合わせて表層的な結果を求めるという思想なき彼らの効率主義こそ、まさにド近代ドイツ風産業化軍隊体育の申し子そのものです。

 さらに言うなら、現代武道の名人たちというのはまさにその、明治、大正の近代社会の中で活躍した人たちです。

 このような親和性によって、多くの武道ファンが現代武道の達人の逸話を伝統的な物だと誤解してしまっています。

 そのためにそこへの憧憬が程よく近代思想によってデザインされたボディワークへの引力として働いているのでしょう。

 いま流行りのNYヨガより前のヨガにしても、実際は英国領時代にイギリス人によって編集された近代産のものだという話を聞いたことがあります。

 この、近代という時代の壁を越えてさかのぼるのは本当は非常に難しい物なのです。

 その意味で、日本人の土台として明治からの近代体育教育と現代武道があるのが我々には非常に厄介です。

 誤解されて批判されてきた「西洋体育」の世界では、すでに近代によって実存主義が浸透しているため、この部分はすでに思想的に乗り越えられているとみなすことも出来ます。

 選択に対する対価をシビアに検討して選択することが常識となっています。

 ダンサーとして生きることを選ぶのなら、体への負担を多角的に調整して、その中でのバランスをしっかりとります。

 なんの対策もなく他人のやってることを批判しながらボンヤリとどんどんバランスを崩していってるのは、日本の体育界の体質なのだと思います。

  上辺で物を見て、断片的な物に飛びつくというのは終わらない日常に沈みながら新しい物を好む日本社会の特徴ではあるのでしょうが。

 むしろ、日常は終わらないということを自分に言い聞かせるために、そのようなことをする部分もあるのかもしれません。

「昨日今日作られた伝統武術」をするということは、思考を停止させて何も求めなくていい空間に自分を置くということが目的にあるのかもしれません。

 そのようなことも人間には必要です。

 ただ、その自己の安息のために、間違った情報をもって他者を批判するというのはいかがなものでしょう。

 他人に言いがかりをして生贄とすることで安息を得る。

 本質的には差別主義とそう変わらない物のようにも感じます。

 どうでしょう?

 何も考えなくていい日常の保持に必死になるのではなく、本質と深淵に触れることを恐れないことが、本当の伝統を学ぶということになるのではないかと思います。

 何をもってどのように調和を得た結果がいまの自分なのか。

 そのことに向かい合い続けてゆくことになります。

 自分自身から目をそらすために行うのとは、ま反対です。

クローズな戦法

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 プライヴェート・レッスンに扣打を持ち込みました。

 これは中国武術の独特の戦法で、相手を捕まえておいて攻撃するという物です。

 現代武道のように、組んだら投げる、当てる時は掴まない、というようなものではありません。

 もっとプリミティヴな、捕まえておいての戦い方です。

 この攻防が、中国武術では通常行為となります。

 なので、グローブをつけたような戦いでは相当に本来の姿が失われてしまう。

 また、当てると投げる、関節を捕るという動作も分かれたものではありません。

 そのすべてを同時に行います。

 この考えが当たり前であるためか、中国では柔道でもかなり相手に激しくぶつかるようです。

 背負いや腰で投げる時も、思い切り背面で体当たりをしてそれでぶっ飛ばして投げるような力を使うようでした。

 また、投げた後もそく関節技で仕留めに行くようでした。

 さらにそこに入るときも、思い切り痛めつけるようにぶつかっていく様子でした。

 ちょいちょい当身になっている。

 日本の考えだと、痛くするのは下手のすることなのでしょうが、概念の違いなのでしょうね。本当に戦うための物としての扱い方があるようでした。

 きれいに使われる技を磨いてゆくというのとは考え方が違うのかもしれません。

 柔道の精神はともかく、生の戦いと言うことで考えたときにこの全部を一体化して使うという考え方は重要です。

 手は手、足は足と分離させて使うのではなく、一塊の人体として用います。

 手と足が一致し、肘と膝が一致し、肩と跨が一致するという中国拳法の考え方です。

 本来ではなかなか公開しない部分ではあるのですが、この方にはちょっとあったほうがよさそうなので、プライヴェート・レッスンではものすごい速度でレクチャーして行っています。

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