前回で、本邦の武の変遷と近代的自我について書きました。
書き終わった余韻を反芻しながら本を読んだりして過ごしていました。
ちなみにその時読んでいたのは、十代のころに一度読んだ野田さんの訳のスター・ウォーズです。
野田さんと言えば「ひらけ! ポンキッキ」の制作で知られて、日本スペース・オペラの世界では第一人者と言ってもいい人ですが、著書の中でこの翻訳は必死だったと書いてもあり、また読者からの反響もちょっと微妙なことで知られている一品です。
特に、フォースのことを“力場”と訳してあることに違和感を覚えた人が多かったようです。
映画では主に理力と訳されており、そちらが公式となって浸透しているので違和感は当然なのですが、それにしても主語が力であるのか、場という空間であるのかは根本的にニュアンスが違います。
しかし、いまにして思えばこれは翻訳者が訳したのではなく、その後長く有名な作家として活動する人が訳したもの。ただ日本語に置き換えるのではなくて、かなり公式の資料を当たってむしろオリジナルに忠実に訳したのではないかと感じました。
理力、というのも大自然の理を力と訳した実に見事な翻訳ですが、それ以上にメッセージ性の強い解釈が力場にはあるのかもしれないと今は思っています。
そう感じたのは、以下のようなことが作中で語られるからです。
力場とは、すべての場所に存在するものだ。制御でき、服従させることの出来るオーラ。
奇跡を行うことの出来る無だ。
また、次のような描写もあります。
お前は自分の行動を意識の支配から切り離さなければならない。
眼でも頭の中ででも、何か具体的なものへの注意を集中をしないように努力してごらん。
心を自由にしてやるんだ。そうすればお前も力場を遣えるようになる。
考えることによってではなく、感じることによって行動を起こせる状態に心を持ってゆくんだ。
考えるのをよして、心を楽にして何も考えないんだ。
私の文をいつも読んでくれている方ならピンとこられるかと思います。
毎回この場所で書いていることそのものです。
さらには決定的なのは、ヴェーダー卿がオビ=ワンのことを「老師」と呼んでいることです。
どうしても日本人は、三船が当初オファーされていたことや、ジェダイというのが時代から来ているという説のためにスター・ウォーズは日本文化をフィーチャーしていると思い込んでしまいがちですが、ルーカスにとってはおそらく、日本は東洋の一部という見方であったのだと思います。
たまたまアジアのスターとして三船が居たのであり、また世界の言葉としてクロオビという物が浸透していたから活用しただけでしょう。
ジェダイというのもまた異説があり、ジェダイ、フォースというのはアメリカの独立記念日のことであるジュライ・フォースから来ているのだと昔のスター・ログには書かれていたと言います。自由と独立の象徴としては納得のできる話です。
アナキンの母親、シミーの名前の由来はインドの女神ラクシュミーから来たと言いますし、ルークの母親のパドメの名前は白蓮を意味していると言います。
その子供たちが帝国軍に反乱を起こすのですから、これは白蓮教の乱でしょう。
そう考えると、暗黒卿の称号であるダースというのは中国語の大師から来ていると考えてよいと感じています。
大きな縦糸として下敷きになっているのは、タオイズムであり、仏教です。
なぜそう言い切れるのかというと、あまり個人的に前面には押し出していないそうなのですが、ルーカスというのは仏教徒なのです。
そして、スター・ウォーズを作るときには、ユングの世界観を参考にしたと言います。
ユングというのは、当時西洋に翻訳が始まったタオの本によって自分の学問を編み出した人です。
そういった切り口からルーカスは、近代史とタオから壮大な物語を作り出したのだと考えられます。
おそらくはこのようなディティールは当時ノベライズの翻訳者はじめ、内部で閲覧された資料に表記されていたのではないでしょうか。
そこから力場というフォースの野田訳が生まれたのだと思います。
力の場、すなわち、道(タオ)です。
力、ENERGYとは、中国語でいう気です。
日本人はよく誤解しがちなのですが、気持ちというか気合という意味ではありません。
蒸気、冷気など、物理学で使う言葉です。
電気→電力、磁気→磁力など、置き換えることができますね。
古代のタオにおける気という概念は、自然現象は見えざる神の采配によって行われるのではなくて見えざる物理的な力によって行われるという科学思想の用語であり、万物に気は存在するというのもまた、そこに働いているENERGYのことを表現した言葉であって、スピリチュアルやオカルトの意図があって言っているのでは決してありません。
だからこそタオの祖の一人である荘子は「天に仁なし(神様なんていない)」と断言しているのです。
こうなってくると、フォースを単に気の類としてみなしていたものとは別に、タオそのものと解釈したほうが深いのではないかという気がしてきます。
ちなみに、理力というのはタオの影響の強い中国思想、陽明学の中に出てくる言葉だそうです。
また、野田訳でも力場はオーラとして内側から湧き出てもくるが、外側からお前を包んでいるものでもある、と書かれています。
より大きなタオとしてのフォースの観方は、一層の深みを感じさせてくれます。
そのようなことを考えていると、まさに先日書いたこと、および私が平素からタオの思想と行で現代社会の閉塞と向き合おうとしていることが、スター・ウォーズで描かれていたことそのものであるという思いがいや増します。
近代化によるゆがんだ思想による政治的リード、クローン人間やロボットの量産による工業化、巨大な破壊兵器の存在による政治の激動。
デス・スターによって最初に破壊された惑星アルデラアンが「軍隊を持たない惑星」であったことは私たちには強い戒めをもたらすような気がします。
また、初めはダース・ヴェーダーの服装というのはナチの軍服のようなものだったそうですが、撮影が迫ってきたころに伊達政宗の甲冑をモチーフとした現在の物に差し替えられたそうです。
これは、東洋思想の国でありながら思想を捻じ曲げてしまい、産業主義の先兵となってしまった近代日本の象徴のようにも見えます。
このような、タオ的な伝統文化と近代主義の相克の中で、主人公のルーク少年というのは農夫から土地を離れて行く人として描かれます。
この、土地を持つということが実は近代思想において非常に重要な意味を持ちます。
植民地を獲得するということが近代産業化社会においては必須のことであり、また近代的自我の確立につながることであるからです。
近代化前まで、西洋圏においてはすべての自然と人間というのは神の所有物でした。
そこに神の意図というものを見出して、自然を克服するべき試練だと解釈したりしていたわけです。
しかし、近代思想下では神の存在は薄れてゆきます。
物質的な価値観が優位をしめ始めて、自然も人間も換金の対象となってゆきます。
このため、他国の土地を略奪することや人間を所有するという概念が広まってゆくのです。こうなると侵略戦争が盛んになるのは不思議なことではありません。
もともと鎖国政策と封建主義による思考の統制が行われていた日本においては、急速な近代化は仕組みという意味では親和性が高かったと考えられます。
ただ、極めて強い生理的な反発があったのは、農本社会からの転向という部分なのではないかと思うのです。
土地を離れて産業を中心に生きるというのは、日本人にとっては極めてストレスフルなことであったのではないかと思います。
現在大好評ロングラン・ヒット中の映画「この世界のかたすみに」も、そのような近代化の激動の時代に自分の居場所を見失いがちな主人公が「この世界のかたすみに、私を見つけてくれてありがとう」と言って終わる映画でした。
場、というのは精神の基底としてとても重要なものです。
場、という物があるから足元が出来、上が出来て、前と後ろと左右ができる。
上下前後左右、このことを六合と言います。六合とはすなわち宇宙という意味です。
六合のという言葉を使った拳法はいくつかありますが、これは中華の宇宙観を踏まえたものです。
その、基底となる足元を離れるということは、東洋思想の中で生きてきた人間にとっては大変に不安なものです。
キリスト教圏の人間にとっては、この不安が比較的少ないのだと思われます。
と、いうのも、天という上方向が神の存在によって保証されるからです。
天の反対が下です。これで土台が獲得できます。
キリスト教圏がユーラシア大陸という一塊にわたっていることや、彼らが一足先に近代化を果たして大航海時代で植民地を求めたこと、その最先端の大国がアメリカという開拓者の国であることはこのことと無関係には思われないのです。
彼らにとってて航海における北極星のように、神を信仰していれば世界を見失うことはないのです。
キリスト教徒においては信仰とは神との個人的な契約だと言います。神と自分自身とに明確なつながりさえあれば、そこからあとはついてくるものなのでしょう。
これは日本人にはとても難しいことです。
江戸時代、日本人の戸籍を管理していたのは寺社であり、それを管轄していたのは寺社奉行でした。
土地神、氏神という言葉がある通り、土地と信仰、そして自己のアイデンティティという物は直結していたのです。
現在でも政治家の三大要素を地盤鞄看板などと言いますが、土地に根付いているということそのものが日本人にとっての大きな力です。
その力を削いで抵抗力を奪うために、徳川は参勤交代制を課して大名を定住させませんでした。
そんな日本人にとっては、コスモポリタンとしての近代的自我を獲得することは非常に困難なことです。
しかし戦後、国が焦土となり地産の力が復興に期待できなくなったとき、日本は強引にでも生産力を上げなければなりませんでした。
この敗戦こそが、アジア最先端の先進国であり、世界有数の近代国家を形成するきっかけとなったのは有名な話です。
そのための代償として訪れたのが、前述したストレス社会でした。
日本社会の人権無視、抑圧制の高さは異常なレベルにあると見えます。
この理由の一つが、土地への定着という方向感覚を見失った社会が、人間を足場として上下感覚が発生されるように確立されたからではないかと思うのです。
このために、人間同士の精神的空間の圧は高まり、息苦しい環境が設定されました。体育会系、バンカラ系社会です。
これによって、個人単位で他人を支配する、他人の下にある、人を踏み台にする、足を引っ張るということが自分の居場所を成立させるための手法となったものであると思わざるを得ないのです。
ブラック企業やハラスメントのみならず、児童虐待やいじめ問題もここに由来する物でしょう。
結局のところ、土地の喪失によって失った方向感覚と立脚点を得るために、人を指標とするほかはなくなってしまっているのです。
法治国家の体裁を取りながら、社会生活レベルでは実はそれが十全には機能していない人治国家でもあるという二重措置は、そのようなところから生まれたものだと思います。
とはいえ情報の高速化と経済力によって国際感覚が徐々に浸透してきて、ようやく日本社会も変化してきました。
ブラック社会に対する抵抗の声も強くなり、ここからが本当の近代社会が始まるのだと思います。
しかし、近代的自我を獲得するというのは実は非常に難しいことなのではないかと言うのが私の不安です。
西洋圏においてはキリスト教がその支えとなりましたが、日本人はそのような支えがないままに自我を確立することができるのでしょうか?
たった一人で世界と向き合う人間としてその命をまっとうすることが果たして可能なのでしょうか?
踏みつけるべき床や寄りかかる壁としての他人なくして、たった一人で立ち続けることなどかのうでしょうか?
それは恐ろしく孤独なことに感じます。
タオイストとしては、そのような自我に囚われず物理的な真実だけを支えとして自立して生きてゆくことが本分とされるのですが、上も下も無い、真っ暗で広大な宇宙にたった一人で投げ出されるというのはとても不安に感じます。
キリスト教圏においては神という太陽を座標としてそれぞれが個々の契約を結んで自己の世界を完結させることで、それぞれが個々の独立した個人として並列にお互いの人権を認め合うことによって、一度は各個人単位に細分化されたものを社会として再収束させることが出来ました。
しかし、日本では?
父母や友人、果ては自分自身をも超越した絶対的な価値を持つ何かを座標として得ることは可能でしょうか?
このことを思うと、真理の追求者として生きることを選んでいるはずなのに、身が震えるような思いがしました。
正直、何もかもを投げ出して引き返したいとさえ思いました。
たった一人で宇宙空間で自由でいるよりも、奴隷としてでも囚人としてでも、社会の中に居場所を求める気持ちというのが、人にはあるのではないでしょうか。
このような心が生み出した不安と向き合うのに、心だけではあまりに心もとない。
だからこそ、心と物理的現実をつなぐものとして、自分の肉体が必要になります。
その肉体を通して宇宙とのつながりに安息を得る行為が行です。
肉体が得る「感覚」なくして自己の安らぎは得難い。
その「感覚」を重視するがために、我々の行は高度な技術であるのみならず、芸術であることを必要とするのではないでしょうか。