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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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力の入出

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 いろいろな人と練習をしている中で、ちょくちょく掴みあうシチュエーションが発生します。 

 相手の中には、ものすごく力が強い人がたくさんいます。

 そうすると、やり方が間違っていると上手く対応できません。

 もともと、私は力が弱いのです。

 さらには、中国武術を練功し続けていて、いわゆる拙力はさらに弱くなったように思います。

 この場合、具体的に言うなら握りしめる力です。

 それは、内側に向かってゆく力です。

 これがどんどん弱くなってきています。

 私たちの練功で高まってゆく力は、内側から外にと出てゆく力です。

 この二つの力は相反するものです。

 握りしめる力は、筋肉を固くする力、ダンベル・カールなどで盛り上がる筋肉の力です。

 鉄線功で作られる勁は、外に伸びてゆく力です。関節の動く方向とは別に内側の力が外に向かいます。

 そのために二つの力は互いに逆行して相反してしまうのです。

 中国武術で言われる放鬆の大切さはこういうところにもかかわってきます。

 無意識に働いている内側に凝り固まってゆく力を無くしてゆくからこそ、外に向かう力が遮られずに出てゆきます。

 正しい中国武術を稽古すれば、腰や膝が痛くなったり肩が凝ったりすることはありません。

 コリを作る力を消して素直に出てゆく力に変えてゆくからこそ、快適な健康体に向かってゆきます。

 練習が終わった後にあちこちが疲労によって痛いなどと言うのは、それこそが間違った体育以外の何物でもありません。


slow down

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 なぜかうちの学生さんたちは、みんな套路が苦手です。

 套路さえちゃんと打てれば自分一人でいつまででも上昇が出来るのだから、こんなにいいものはないのにどうも套路で自分を追い込めない。

 機械的になぞって終わりにしてしまう。

 それは中国武術の套路ではありません。

 套路は技を覚えるためにあるのではないのです。

 内功をきちんと積み、その運用を動きながら行って強化するためにするものです。

 しかしどうしても、きちんと意を働かせずに順番や速度のことばかり考えてしまう人が多い。

 どうも私が早い段階で発勁の打人などを伝えてしまっているがために、そちらにばっかり関心が行っているのかもしれない。

 しかし、勁を強くするには套路が一番いいのです。

 とはいえ、考えてみたら私もその良さが分かるには数年が掛かっていた気がします。

 最初の頃はやたら息が切れて一打ごとに苦しくて仕方がありませんでした。

 無理に走った後のような、内側がささくれたように感じる疲労です。

 いまならわかるのですが、膜が損なわれている、という奴です。間違ったやり方で行っていたため、返って悪いことになっている。

 これでは好きになれないのが自然です。

 動きと内側が一致して居ないので、その齟齬が引き裂かれたようないがらっぽい不快感として感じられるのです。

 そのためにもおすすめしたいのが慢練です。

 気功の動功と同じように一つ一つの動作をゆっくりと套路を行うのです。

 簡単だと思われるかもしれませんが、では、と学生さんたちと私が一緒にこれで套路を打つと、誰もが「そんな風には出来ません」と言います。

 それはね、つまり普段如何にごまかして打っているかということなのです。

 低い姿勢は低く、独立するところは安定し、大きな動作は限界まで大きく。それらの要素を、可能な限りゆっくりと、緩急を付けずに止まる直前を目指して行います。

 低い姿勢から片足立ちで姿勢を高くまでゆっくり持ってゆく。内側の勁でそれをします。

 我々の暗い勁はそのようにして動かないことで繋がっているので、勢いやタイミングを使って同じ動作をしている人は勁が切れているということになります。

 套路の初めから終わりまで、全身の勁を切らない。ON-OFFをしない。一筆書きで一つの勁を繋ぎ続けます。

 これが出来ていないと、勁力の圧が詰まった鉄球にはなれない。

 どこかに弱い瞬間が出来てしまっている。

 それではあらゆる方向に全身のどこででも打てるという鴻勝蔡李佛のうまみが薄れてしまいます。

 合戦の中で全方位に向けられた用勁ではなくなってしまう。

 自分の中の極限の遅さを常に目指してゆくのがもっともえげつなく自分を鍛える套路の打ち方だと思っています。

 速く打つと言うのは、それをただ早回しにするだけです。

 すべては完全に安定した停止している瞬間の連続だと解釈します。

 停止したまま動けるからこそ、大地の一部として相手を受ける。

 地、すなわち陰の気ですね。これが陰を活用した私たちの暗い勁です。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

無責任

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 先日も、ある興行格闘家が空手を日本武道だと言っているのを目にしてしまいました。

 しかも、よりによって沖縄空手を標榜している流派を名乗っている方です。

 ちなみに私は、その流派の正統の偉い先生から、それが中国武術の断片を収集して作られた経緯のお話を直接教わったことがあります。

 お礼に私も内功を一つお伝えしました。

 問題の興行選手の発言を要約するとこういうものでした。

「古伝の空手と××(今回の趣旨とはそれるので名前は伏せますが日本人の中国武術の先生が作った創作流派)の練習を今日した→昔の日本人のレベルは世界最高位にあると感じた」

 これはひどい話です。

 どこにも昔(少なくとも近代以前)の日本人がやっていた物なんて登場していないのに、結論として無理矢理なこじつけをしている。

 いまだにこういう「空手は武士道」的な話をする人が居るのですね。

 幼児に「日本民族」と連呼させる幼稚園と同じ類の人々です。

 単に不勉強で無知なだけなのか、それともある種のゆがんだ愛国向からくる捏造史観を意図的に流布しているのかは分りませんが、いずれにしよ極めて悪質です。

 このような虚言の発信が、世の中にどれだけの悪影響を及ぼすことか。

 のみならず、これは実はこの人個人にとっても非常に不利益な物です。

 つまりは、自分が学んでいる先生を信頼していないと言っているに等しい。

 自分の先生やその伝系の偉大さを信じておらず、捏造した虎の威を借りている。

 本当に自分の先生が偉大だと思っているなら、昔の日本人云々を言い出す必要は無く「うちの先生はすごい」で済む話です。

 それを一般化して、論点をぼかすというひどい詐術が行われています。

 この発言者のいうことを真に受けるなら、自分の流派の先人のレベルは当時の一般人レベルと公言していることになります。

 まったくひどい話です。

 かかわった全員に不利益しかもたらしていない。

 こういう無責任な人が大きな声で出鱈目を叫んでいる限りは、本物はいつまでも日の目を見ることは難しいでしょう。

 別に日の目など見なくてもいいのかもしれませんが、身内を名乗る人間にこんな風に足を引っ張られ続けるというのは、お気の毒にとしか言いようがありません。

 同じことは日本の中国武術や古武術の世界でも言えます。

 自称古流の先生という、創作技法の人たちが山ほどいます。

 その人達が自己流どまりのレベルで名を騙っている限り、真伝は誤解され、侮られ続けるでしょう。

 後継者不足に直結している問題です。

 道系を継ぐということは、自分のことだけではなく、お世話になった人や同じ世界の人々の将来のことまでを考えて一挙一動をしてゆかないといけない。

 少なくとも私はそう思って師父として活動しています。

相克する意思

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 この場で、以前から自己像保存欲求という物について書いてきていますが、これは現状を保持しようとする慣性が自分の在り方にも働いているのだと解釈してよいと思います。

 私はこれまでの人生で、親友、恋人、親族、弟子と様々な発達障害の人達と共に生きてきましたが、そのほとんどは成長過程までは善良だったのですが(なにせ仲良くしていた人に限定されているため)、社会経験の中で良くない変化が起きてゆきます。

 彼らは社会能力に問題はないのですが、対人面に苦手が多いので周辺環境で上手くいかなくなってくることがあるのです。

 私が残念に思うのはこちらのほうです。

 生まれ持ってきた状況については誰も何も言えない。

 言っても意味がない。

 それよりも、目の前で善良だった人々が人災によって捻じ曲げられてゆくことが苦しくてしかたありません。

 鬱や人格障害になってしまった人も多い。素行がものすごく悪くなってしまった者もいますし、引きこもった挙句に精神がゆがんで卑しい攻撃性を抱いてしまった者もいます。

 あるいは、マルチ商法やカルトに行ってしまったのも居ます。

 これは、過程としてはよくわかります。

 周囲から近代社会の階級制度を押し付けられて、いいかもだとばかりに踏みつけられて搾取されてゆくうちに「これが世の中のルールなんだ」と学んでしまい、自分もそのルールの中での向上にのっとって攻撃できる他人とその機会を求め始めてしまうという、ある種の経験からの学習のためなのだと思います。

 現代日本社会には、確固たる自分の在り方を肯定する有効な思想が機能していません。

 社会の規範になる大人たちが、他人を踏みつけて生きてゆくという先例となっているのだから、彼らに他に選択肢は見つけにくいことでしょう。

 その結果、彼らは協調するための努力をするほどにゆがんだ人間性をはぐくんでゆくことになります。

 イジメもマルチもカルトも、みんな自分より弱者を見つけて活用する原理で成立しています。

 すべては相対的な他者に設定された評価の中でスコアを競ってゆくようなゲームです。

 そのような友人の中では、なぜかいい方に働いたらしくトップ営業マンとして成功を収めた者もいますが、誰しもがそうなれる訳ではないでしょう。

 私は彼らの人となりが失われていったことを惜しみます。

 心が失われないために有用な物はなかったのでしょうか。

 私が思うには、それは本です。

 いまこの場での処世術からはかけ離れた、違う時間、違う場所で描かれた普遍的な思想に触れてゆくことが、心の芯を作りえると思うのです。

 私自身もそのようにして、いま自分を取り囲んでいる環境がすべてではないということを、常に感じることが出来てきました。

 周辺の環境に流されようとする慣性に抵抗して、自分を見失わないでいられたのです。

 古典の武術を思想だと言い、それがライフスタイルに有用だと繰り返し説いているのはその意味を期待してのことです。

 ただ、先にあげた心の慣性は武術の学習にも良くない影響をもたらします。

 すでに慣性が働いてしまっている心は、そのままの自分で救われようとすることを求めます。

 物を学んで自分を善い方に変化させるのが学習の本質であることに対して、そのままの自分で居ながら他者評価をされてうまくいこうと望む気持ちは確実に相克します。

 発達障害をきっかけに鬱や人格障害などを後発してしまった心にとっては、明確に病状の好転に良くない影響をもたらします。

 努力せずにそのままの自分でいようとすることは、快復への意思を弱める甘い罠です。

 そんなものを求めることなく、あるいはそのような機会に出くわしたとしても「あ、そういうのいいんで。ぼくが欲しいのは目先の利益じゃなくて真実だけなんです」と言える心が必要になってきます。

 そしてこれと同じことは、すべての修行者に言えることです。

 道の途中にいる自分にとって上辺だけ都合の良いことにすり寄って行ってはいけない。

 ただ中核の真実一つだけに忠実でないと、本物になることは出来ません。

幸せのタオ はじめに

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 いつも読んでくれているみなさんありがとうございます。

 初めて読んでくれたというみなさん、はじめまして。私は翆虎と言います。

 中国の南派少林拳の師父(講師)と、エスクリマと言うフィリピンのフェンシングのマスターをしているアラフォー男子です。

 このようなことをしていると、たんにスポーツのコーチのように思われてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。

 よく勘違いされているのですが、中国の有名な少林寺というのは、別にカンフーの練習所ではありません。

 あそこはインドからやってきたダルマ大師が中国にやってきて仏教を伝えた、歴史上重要なお寺なのです。そこから禅という物が生まれて、いまでも世界中のお寺の頂点に立つ場所の一つです。オモシロ観光スポットではないのですよ。

 カンフーは禅の一部として行われていた修行です。

 そのため、正統なカンフーの師父というのは、禅の修行を積んでいる人間である、というのが私の立場のご説明になります。

 その禅の土台になっているものに、タオイズムという物があります。

 タオ、道と言う物にのっとった生き方をするという哲学です。

 宗教ではありません。神様のような存在を否定して、ただ自然な生き方をしようというライフスタイルです。

 スピリチュアルでもありません。そういううわべの気の持ちようでごまかすのではなく、本質にせまるものです。

 私たちのカンフーや気功というのは、そのような禅の一部を通してタオの生き方を学んで行こうというのがコンセプトです。

 そのために私たちのカンフー・クラブは、ライフスタイルとしてのタオを提唱しています。
 今回、古代の中国から伝わるタオの生き方をかみ砕いて、現代社会で幸せに生きるための方法を個人的な体験として書いて行ってみようと思いました。
 現代日本の社会というのは、生きるのが大変に苦しい物です。
 もちろん幸せな人も沢山いるのでしょうが、もしかしたら、生まれながらに幸せという人はとても少ないのではないでしょうか?
 ということは、幸せな人はある程度の努力をした結果として幸せになったのではないかと思います。
 この、一定の努力をして幸せになるというのは現代日本社会の基礎的な前提となる考え方だと言っていいと思います。
 しかし、その努力の方向性について、ライフスタイルの伝道者としては一言モノ申したいのです。
 現代日本での幸せになるための努力の方向というのは、まず一つに経済的な物があると思います。
 子供の時は勉強でいい成績を取る。なぜならいい会社に入るため。
 また、会社に入ったら今度は長く社に入れて長期的に安定した収入を得るための行動を指針としてゆくことになります。
 これ、換言するなら、芝居をしろということではないでしょうか。
 自分を偽って、他人の期待する自分を演じること、会社で言うなら本当に同僚や社会のために役に立つということをするというより、いかにうまく仕事をしているフリをすることが出来るかということが経済的な幸せに繋がるということなのではないかと思います。
 言うならば、みんなが演じている「日本社会」という舞台に参加して演じ切るということが努力ということなのではないでしょうか。
 これはね、生命として非常にいびつなことだと思います。
 自分でない命を送ることが生きてゆく努力だというのはずいぶん抑圧的な話です。命は本来そのようには出来ていない。
 タオは生命としての基本に立ち返る思想です。
 先ほどスピリチュアルとは違うと言いましたが、いわゆるいまどきのスピリチュアルというのは、この芝居を上手くする方向への努力のしかたであるためです。
 それをしないで幸せになる方向を模索するのが、私の思うタオイズムの考え方です。
 この思想のことを解脱思想と分類することがあります。
 それは死んで現世から離れて幸せになるという意味ではなく、社会の束縛から離れて自由に自分の命を送るということです。
 そのための、具体的な論理をこれから話してゆきたいと思います。

幸せのタオ 1・陰陽思想

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 幸せのためのタオイズムの説明、本編に入ります。

 まず、タオの考え方の最初にあるのがこのような考え方です。

「初めに世界は混沌だった。それが陰と陽の気に分離した。陰は重くて下に沈み、陽は軽くて上に登った。それぞれが地と天になって世界が生まれた」

 ここで言う気というのは、ドラゴンボールで出てくるような物ではありません。

 西洋の科学でいうエナジー、つまり物理的な力です。

 重い物が下に沈むというのは重力でしょう。

 軽い物が上に上がるというのも同じように重力の作用なのですが、この軽い物を陽と言っているのがポイントです。

 陽の極まりは光なのですが、光というのは重力の影響を最も受けづらい物です。

 このような、古代の文明における科学的な視点と言うのがタオの本質です。

 自然科学の働きの法則のことをタオと言います。感じでは道と書きます。
 気=自然の力の働きを道と言っている訳です。

 その取っ掛かりとして重要なのが、陰陽思想です。

 ごちゃごちゃしたよくわからない物、混沌が分類されて世界が始まる、といっているように、不明な物を相対的に切り分けて真実に迫ろう、というのがタオの考え方です。

 大切なのはこの、真実に迫るということです。

 前の記事で、現代社会は自分ではない物の振りをする場だと書きました。

 不幸や生きづらさの原因はそこにあると考えます。

 これは、価値観を周りの社会でうまくやっていけるかどうかに持っていったものの、どうもうまく行っていないということでしょう。

 通常、そのような場合他人は「我慢しろ」と結論をします。

 それも一つの答えです。

 我慢をするためにたくさんのスピリチュアルやあいだみつをグッズがあって、目先を変えて気をそらしてくれます。

 ストレス・コントロールとして有用です。

 ここでは それらとはまた違ったアプローチをしてみます。

 まず、そもそものストレッサー(ストレスの元)を、我慢しなければいけないもの、と固定した見方をするのではなくて、陰陽思想の観点から見直してみます。

 社会活動があって生活がなりたつのですが、本当にそれは絶対的なすべてではないでしょう。

 必ず相対的な物であるはずです。

 だとしたら、それと対応する物を見つけて同じ秤に乗せてみましょう。

 趣味かもしれないし、家族かもしれません。

 自分にとってのそれが見つかれば、絶対性は失われます。

 このようにして、自分がそこに強固に帰属をさせられていて拘束されているという観方を変えてみます。

 こうなると、今度は自分が帰属する場所、というのが空席になりますね。

 あなたは社会で与えられた役割が最優先された存在ではなくなりました。一つ自由になりましたね。

 しかし、自然は真空を嫌います。

 空位には必ず何かがとってかわります。

 ここで胡乱げなものが入ってはよくありません。せっかくの自由がまた別の不自由に変わるだけです。

 そこで、ここに何か自分が帰属するものを置いてください。

 なんでもいいのですが、本稿ではタオの説明をしているのでここではタオイズムをそこにもってきたいと思います。

 本当に自分が人生の中核に据えられる、確かなものならなんでもいいのですが、これは伝統的な物であることに意味があります。

 それによって、現代社会の価値観というものが相対化されます。

 考えてみてください。どれだけ強固に自分をからめとっている社会の風潮でも、せいぜいがもって数十年です。それだけの流動的な価値観でしかないのです。

 それに対応する物としては、長い年月を経て普遍的な価値観として洗練されてきたものがよい。

 なので、宗教でもいいのですが、その場合は新興宗教は除きます。

 芸術ならやはり自分の世代より前からあるものがいいでしょう。

 茶道、華道なども。

 あるいは、化石や海洋学などでもいいのではないでしょうか。

 そのような物を価値観の中核に置くことで、現代社会に帰属することを第一義とした存在であることを辞めて、もっと普遍的で大きなものとつながることができます。

 当たり前ですが、人間は人類の歴史や地球における自然科学の流れの一部です。

 そのことを改めてより自分自身の物としてとらえなおします。

 本来、学校教育とはそのために行われるものだったはずなのですが、いつのまにか立身出世の手段になってしまいました。

 その倒錯を改めて整理しなおして、教育とは何かという意味を書き換えるのです。

 こうすることで、あなたは真実を価値基準とすることができます。

 周りの顔色を窺ったり他人がよしとすることに協調するふりをすることが正しいのだという、上辺だけの価値観から踏み出すことが可能です。

 いまいる人間が自分の利益のためにでっち上げた価値観ではなくて「本当に正しいこと」とつながって生きることができるようになりえます。

幸せのタオ 2・大きな物とつながる

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 前の記事で、大きな物とつながるということを書きました。

 これこそが非常に大切なことです。

 相対的な価値観に合わせてうまく生きていったとしても、それではいずれ足を踏み外す時があるかもしれないし、何より自分が何をしているのかわからないという不安が常に付きまといます。

 もちろんこの方面に才能があって生きてゆくことに悩みなどはないという人もいるでしょうが。

 実際のところ、先進国では多くの富豪や政治的有力者がカウンセリングなどを受けて自己を見つめなおすのが常識になっています。

 また、いわゆる発展途上国では、有力者と呼ばれる人たちは宗教的な背景を持っていることが多いと思われます。

 ちょっとこちらのランキングを見ていただきましょう。

 http://www.huffingtonpost.jp/yuma-nagasaki/happiest-country_b_8906340.html

 とうとうアメリカやイタリアまで、幸福度が下がってきてしまっています。先進国の社会は深刻な状態です。

 このランキングはいろいろな見方ができるとは思うのですが、私としては情報量の多さに対して判断基準が非常にあいまいであることが問題なのではないかと思っています。

 それが、相対的な基準からくる迷いということです。

 現代社会に適応してより効率的に多くの人とうまくやってゆくということは、あるいみ迷いの多さにつながると思います。

 一般的な意味で幸せだと人から見られているであろう、美貌や金銭、権力や力などを持っている人にこれまで出会ってきて、本当に幸せそうだと思える人は非常に少数でした。

 このようないい方をすると傲慢ですが、「かわいそうな人」が多かったというのが素直な感想です。

 自分だったら決してそのような立場にはなりたくないな、という感想を持ちました。

 大きな物とつながっていない。何も持たない裸のままの自分の外側に、権力や財力という鎧があるだけで、中身の弱さが強く感じられました。

 向き合って話すと、虚勢をはったりやたらに目を瞬いて視線が泳ぎ続けていたり、非常に呼吸が短かったりして、肉体の生理反応が幸福な状態にないことが見てとれました。

 話の向け方によって、簡単に言っている内容が変わってしまったりと一貫性や実がなく、目の前に次々に現れる状況に必死で対応しているような感じの方が多かったです。

 つまり彼らは、社会適応に苦しんでいる一般の人の中で、たまたま結果として何かに一時的に恵まれた人に過ぎないのです。

 宝くじです。

 なんの意味もない大きすぎる何かが降ってわいて手元にありますが、それを持っているのは脆弱な心を持った丸裸の弱い人間です。

 なぜあんな人が、と思ってしまうようなお金持ちやインテリ、大女優などが胡散臭い占い師や詐欺師に引っかかってしまうという事件を目にすることがありますが、さぞやちょろい獲物だっただろうと思います。

 つまりは、私が言っている意味での幸福には決してなれていないのです。

 目の前を取り囲んでいる手の届く範囲のことから先の大きなことにつながることが、幸せに通じます。

 目の前の救いに飛びつくことは非常に危険です。

 一過性の利益や快楽を求めることがたいていの場合、後々での不幸の蓄積となります。

 ものすごくわかりやすい話をしますと、ダイエットあたりがよいでしょうか。

 チョコレートが大好きで際限なく食べ続けると、どんどん太ってしまうけれども、ストレス解消でつい食べてしまう、という女性が周りに結構います。

 その多くは実際にはそんなに太ってはいないのですが、テレビなどではこのパターンで大変なところにまで大きくなってしまった人を見たりします。

 チョコレートには、ストレスを解消する成分があるので、ついついストレス解消として食べてしまうのですね。

 しかし、そうすることが今度はストレスになってしまいます。そして悪循環、というのが本当に太ってしまうことの原因にあるそうですよ。

 もし、チョコレートにストレス解消の要素がなかったらどうでしょう?

 少なくともチョコレートで太る人は減るでしょうね。

 このようなサイクルも、陰陽思想で見立てます。

 陰陽は一体となったもので、一つの物ごとの二つの面を見る場合もありますし、あることをしたさきの結果を見る場合もあります。後者を因果といいます。原因と結果ということですね。

 チョコレートを中心に因果を見れば、ストレスが因、肥満が果です。

 じゃあチョコレートを我慢する?

 できるかもしれない。

 でもできないかもしれない。

 できなかったらどうする?

 因果を、経済的な取引だと考えると話が分かりやすくなりそうです。

 チョコレートを手に入れるために、肥満を支払う。

 肥満が嫌なら、肥満をしないことを買うために、別のことを支払います。

 例えば運動? 

 しかし運動は疲れるし、時間もかかります。支払うものが多いように思えてきました。

 では別の貨幣では支払えないでしょうか?

 疲労しない程度の運動を、時間をかけずに行うのだったら可能かな? 少しづつの運動を数日にわたって行うというのはどうでしょう?

 一括払いではなく、ローンといった感じです。

 しかし、ローンには利子が付きます。

 一気にカロリーを消費するより長期間に渡る可能性のある作戦は、その期間の間に消耗してしまって次のローンを組むような誘惑に接する可能性が高いような感じもします。

 では、ダイエットのための運動ではなくて、何か娯楽として純粋に楽しめるようなもので結果として運動になるものを探してみてはどうでしょうか。

 水泳やダンスなどやっていて気持ちの良いものもありますし、あるいは愛犬と走り回るというのもいいかもしれません。

 このようにして考えていくと、我慢というのはほとんど意味がないように思えてきたりもします。

 ただチョコレートを我慢してストレスをこらえるという自己への拘束を一人で部屋でじっとりとするのと、ダンスをしたり愛犬と走り回ったりするのは、イメージがまったく違うのではないでしょうか?

 これが、目の前だけではなくその先を見るということです。

 遠くに視点を持つことで、世界が広がります。大きな物とのつながりを、陰陽の計算で持つことができます。

 ダイエットの苦しさと向かい合っていたOLさんが、世界を駆け回るダンサーになったというケースは、実は意外に耳にします。

 どうも要領が悪くて会社勤めが苦しかった。そのようなところから、刀鍛冶やトップダンサーになった人を知っています。

 ちなみに私もその一人です。

 まったく何もえらいところのないひっそりと暮らしている地味なカンフー・マスターなのですが、何も持たないくらいの中で、毎日あほのように幸せに暮らしています。

今週の予定

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 今週は12日の日曜日がアルニス・サンデーです。

 10時に山下公園で行います。

 よろしくお願いいたします。


今月の予定 随時更新

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 今月の予定です。

 

 12日の日曜日はアルニス・サンデーで朝の10時より山下公園になります。

 

 19日の日曜日は関内wsで18時からフレンド・ダンス教室さんでになります。

 

 26日はまた、同じ場所、同じ時間でアルニス・サンデーとなります。

 

 よろしくお願いいたします。

家系ラーメンと伝統武術

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 皆さんは、家系ラーメンはお召し上がりになりますか?

 私自身はそれほど好んでいるわけではないのですが、地元が発祥の地である横浜であるために食べつけている感があり、時々なんとなく近場で食べることがあります。

 近年、あの味がある程度効率よく出せる方法が解明されたらしく、飲食チェーンなどが出しているお店が増えました。

 そのためにあちこちにそっくりな看板のそっくりなお店が大量にできています。

 味のほうはといえば、いわゆるライト系。まずくはないのですがそこそこと言った感じです。

 なので、ハンガーガー・チェーンなどで食事をとる感覚で、疲れているときなどに家路の途中にあると寄る、というような使い方が増えました。

 先日も、そのタイプの店構えの家系が近くにできました。

 しばらくは特にいかなかったのですが、やはり仕事帰りでくたびれているときに、食べるものを考えるのも面倒で、早くすまして帰りたいというようなときにそのお店によりました。

 早くすましたいから麺は硬めにしてもらって、そうだ、野菜も少し摂ろう、というようなことを思いながらお店に入ったら、店員さんの威勢のいい声が返ってきました。

 外国人留学生や二十歳そこそこくらいのバイトの店員さんではありません。体格のいいごつい職人さんたちです。

 カウンターの向こうを見たら、非常にきれいで器も凝っています。

 注文を済ましてトイレを借りたら、そこにはたくさんのロックシンガーの写真が貼ってありました。

 どうやらチェーンではないようです。

 洗面所に出れば、シンクの周りがビーズやモールでかわいらしくデコってあります。

 かなり一生懸命、思い入れを込めてお店を作っているのが感じられました。

 席に戻ってみると、卓上調味料もいろいろあります。

 しかも「にんにく」と書いてある器に入っているのが緑色のものです。

 これは行者にんにくでしょう。

 普通、家系などではすりおろしたにんにくをそのまま何日も放置していて、酸化させてしまっているため、ラーメンにすっぱ味を足してしまうというガッカリなことをしがちなのですが、実にこだわったものです。

 期待を高めながら待っていたラーメンですが、これがライトっぽくありながら実においしいものでした。

 また、麺も定番の製麺所のものではなく、このお店のために特注で作ってもらったモノでした。

 卓上からラーメン酢を取って試してみると、それ単体でもおいしいくらいです。

 これはすごいラーメン屋さんにあたってしまったと思いました。

 効率性だけを追求したいまどきの家系チェーンとはまったく違う、本当に職人さんが一から十まで選びぬいて作ったラーメン店です。

 これはね、きっとすごく苦労をする覚悟で出したのだと思うのですよ。

 私と同じく、多くの人が前を通ってもどこにでもあるいまどきの、まずくはない程度の店だと思ってしまうことでしょう。そういう印象がすでに広まっている中で、あえて家系のお店を出すのですから。

 素晴らしいものをいただきました。

 ラーメンもおいしかったのですが、武術も同じです。

 いまどきの適当にやってもそこそこに形になっているような由来のわからないものではなく、本当に腰の据わった伝統の物を、細部にまで意識を取り計らって人前に出すというのは、本当に大変なことです。

 それこそ自己流にして目新しい風の看板にすればもっと楽ができるのかもしれません。 

 しかしそこをしないで自分が正しいと思うことを貫く姿勢は、見習うべきことだと強く感じました。

 

 

 

 

 

武気功の効果

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 先日、都内のワークショップでいつも来てくれてる参加者の方とお会いしたのですが、この方、最初にあったときは大変に痩せていました。

 しかし、去年くらいからどんどん体つきががっしりしてきています。

 鍛えているのだろうなあと誰もが見てわかる体つきです。

 それも、私の目から見ると、いわゆるフィットネス的な外から肉を盛りつけたような身体ではなくて内側から張り出してきたように見えるタイプです。

 これは感覚的なことのようなのですが、実は武術的にみると重要な違いです。

 中国の伝統武術家を見ると、だいたい3パターンくらいの体型をしています。

 表演武術の選手はみんな体操選手らしいしゅっとしたフィギュアスケーター風のイケメンなのですが、伝統武術の人たちは結構な確率で、なんというかずんぐりむっくりしています。あとはカニ体型か、奇跡の細マッチョか……。

 私はずんぐりむっくりのタイプをロボコン体型とよく言うのですが、これは肚の発達が分かりやすく可視化されているのではないかと思います。

 この、内側から張り出てきている、というのは伝統中国武術の勁の性質とも共通することです。

 その参加者の方に聞いてみれば、私がお伝えした武気功をしてからこうなったとのことです。

 驚きました。

 効果てきめん。

 気功の力で体を作り変えるというのが、中国武術において非常に重要なことです。

 基本、外からか内からかの違いはあれど、肉体を改造するということが中国武術の基本思想です。

 この場合は内側から改造をしたのですが、こうなると潜在能力が非常に大きく発揮されます。

 その方いわく、もともとは私がお会いした時よりももっと痩せていたとのことだそうで、そう考えればものすごい勢いで肉体の眠っていた能力が表に雪崩出てきているのだと思われます。

 成長ホルモンの分泌を促すような効果も気功にはあるのでしょうね。人によっては非常に短期間で目に見えるものだと驚きました。

 一般に、フィットネスは健康法として知られています。

 気功で肉体改造も同様です。

 今回のように、元が痩せている人が大きくなったとすると、そこで働いている力はかなり純化された勁になりやすいです。

 これはすごい。

 うごけばすべて発勁です。

 それを使いこなすのが中国武術の動きの部分になります。

 動きだけ覚えても勁がなければ、内勁を重視した武術は無意味になります(もちろん、内側ではない、外側の動きで作った勁を重視した武術もあるのでしょう)。

 日本ではどうも、この内側の育成がおろそかにされたまま外側の動きが先行してきたように思います。

 私たちの武術からすれば、内側こそが大切であり、それを作る練功法こそが極意です。

 だからこそ、心根の良くない人やいい加減なやり方しか期待できない人には簡単には渡せない。

 やり方が悪いと、偏差が起きてかえって体を損なう可能性があるためです。

 今回の方の場合はかなり良い結果になっているようですので、引き続き内功をメインに練功をしていきたいなあと思います。

 

 

エスパダ・イ・ダガとタピタピ

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 今回も順調にプライヴェート・レッスンをしてまいりました。

 これまでやっていたバストン・ドブルとシンゲルの練習に加えて、エスパダ・イ・ダガに入りました。

 片手に剣、左手に短剣を持つというスタイルで、エスクリマの最も古いスタイルだといわれています。

 現在の片手に棒というスタイルも、この時代の動きが基本になっています。

 フェンスの概念をもとに考えてこれを分析すると、右手の剣で相手の攻撃から身を守り、左手で隙間をすり抜けて(ソンケートといいます)短剣で攻撃を加えてゆきます。

 この動作は、のちのゲリラ戦の時のエスクリマドール部隊の戦法である、右手に刀、左手に拳銃の装備にも影響を与えていると思われます。

 右手でフェンスして相手の攻撃を受けたり相手を制御しておいて、左手でソンケートして打つのでしょう。

 左右の手が逆だと、力が弱くてうまく相手を押さえつけられなかったものだと思います。

 このように、左右を用途で使い分けるということが、エスパダ・イ・ダガでは学べます。

 また、左手を順手持ちや逆手持ちなどに変えることで、バストンを互いにつかんで四つ相撲になってしまったときの裁き方の練習もできます。

 サムブラダでは、フェンスした隙間から相手の手元を攻撃してゆく手法に変わります。

 というよりも、この動作がそもそものタピ(素手で相手を捕まえる)の原点なのでしょう。

 現代行われている技のルーツが分かると、全体を一貫しているコンセプトがよりよく理解できるようになると思います。

 

ディスアーミングと空気投げ

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 エスパダ・イ・ダガで左右の手の使い分けを練習した後は、タピタピという自由要素の高い練習で、様々なシチュエーションで使える技を学び、また使い方を繰り返します。

 そこからさらに自由度を広げてマノマノ(徒手)での練習や、片方だけが武装しているなどのいろいろな組み合わせでの練習を行うのですが、その中で私がひょいと空気投げを入れるとまたよくかかります。

 道具を使うことで力の方向が明確になるので、その方向を読んで投げやすいのです。

 投げると言っても私が通称空気投げと呼んでいるのは、よろよろと下に崩れたり、かくんと腰砕けになって座り込んでしまうようなスペクタクル性の低いものです。

 これは近代武道的な意味でいう技というような物ではありません。

 力の方向を見て誘導してあげると人間とは倒れこむのです。

 はじめにこれを習ったのは古流柔術ででした。

 見た目はただ掌で触るだけなので、神の左手だとか悪魔の右手だとか言っていた記憶があります。

 これ、実はエスクリマでも習ったことがありました。

 柔術のものほど繊細なやり方はしないのですが、同様の原理で行うものがあったのです。

 荒っぽいやり方で習ったのを柔術の要領で真似たら「お前すげーな」みたいなことになったのを思い出します。

 パワーを使ったり、荒っぽく痛みを与えなくても、純化して行うことができるのです。

 と、いうといかにもフィリピン式が荒っぽいばかりのように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。

 もちろん繊細なばかりではないのですが、実は働いている力の方向を読んで誘導するという要素は、エスクリマの主要技法であるディスアーミングに内包されています。

 基本は相手の攻撃を抑えてから、武器がもげる方向に力を加えてあげることで武装解除ができる、という物なのですが、名人になると抑えずに瞬間的に空中で可能になるようです。

 土台を安定させずに、相手の働かせている力を支点や力点として活用しているようなのです。

 こうなると見ていても何が起きたのかよくわかりません。片方が打ちかかったと思ったら次の瞬間に何かがこちょこちょっと動いて打ちかかったほうの武器がすっ飛んでいます。

 相手の力を受け止めて抵抗するのではなく、力を加速してやって手からもいでしまっていると言ってもいいでしょう。

 野球をイメージしてください。

 フルスウィングしたバットは、ボールに当たった時に力負けして手からもげることはまずありません。

 ボールの威力が強いほど、掌に強く食い込んでゆきます。

 しかし、もし空振りをすればバットが持っていかれて手からすっぽぬけることがありますね。

 そのようなベクトルに干渉してゆくのです。

 これを、相手の武器ではなく手に行うと、相手の体の重心がすっぽ抜けたような状態になります。

 これが私が呼ぶ空気投げです。

 フィリピン武術では、フロウやセンス(感覚)を養えとよく言います。

 その知覚力が、このような戦術をしやすくします。

三角戦法

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 私たちのラプンティ・アルニスには、トライ・ダイレクションやトライアングラル、トライアングラル2と、トライという言葉が付いたサヤウがあります。

 これらは、三角形に武器を動かしたりするのではなく、三角形に移動するものです。

 四方向や八方向ではなくて、三角形は変わっているのではないでしょうか。

 かつて日本拳法で習った三矢撃の型とトライアングラルは動線が似ていますが、ほかの二つはそうでもないものです。

 なぜ三角形に移動をするのだろうと前から思いつもあまり深くは考えていなかったのですが、昨夜不意に思い当たったことがありました。

 ゲリラ戦時代のエスクリマは、もっとも強い人を頂点とした三角形を作って三人編成で戦闘をしていたのだと言います。

 だとすると、その時代のフォーメーション戦法で、敵に接した頂点の一人を中心に左右が展開して援護に向かうという陣形戦の練習であった可能性があるのではないでしょうか。

 歴史とのかかわりで見ても、本当にいろいろなことがうかがえて来ます。

our trainday of this mounth

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 next arnis sunday is 12th sunday am 10 in yamasita park

 

 next next arnis sunday is 26th sunday am 10 in yamasita park

 

 noprobrem foreigner only tiping

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幸せのタオ 3・心に公正さを持つ

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 さて、前回は世界とのやり取りの計算について書きましたが、それをするにあたってとても大切なことを書きます。

 それは、心の中に公正な視点を持つということです。

 もちろん、必ずしもその通りに行動する必要はありません。

 しかし、まずはそれをきちんと見極めることのできる視力と判断力が必要になります。

 そうして分析したうえで、私的な結論は出せばよい。

 外部の情報をキャッチする段階で見る目が曇っていては、判断を見誤ります。

 これは、より具体的に言うと「嘘をつくな」ということです。

 実際には、口から嘘をつくのは構いません。

 そうではなく「自分は嘘をついていない」というような嘘をついてはいけないということです。

「自分は嘘をついている」という自覚のある嘘なら問題ありません。

 人をだますのは手段としてありえますが、自分を騙すのは危険なことです。

 自分を安心させるためにそんなことを繰り返してゆくうちに、何が本当で何が嘘かがわからなくなってしまい、どう手だてをすればいいのかがまったく見えなくなってしまうことがあるのが恐ろしいことです。

 そのために、まず誰にも知られなくていいので、心の中に可能な限り公正に事実を見ることを心掛けると、これは非常に自分の幸せに通じるものになります。

「現実」をきちんと見ることが「真実」を見ることへの第一歩になります。

 真実によって傷つくことはあるでしょうが、真実ならば対策ができます。

 しかし、自分を安心させるために作り出した幻に浸っていては、事実に対してあまりに無抵抗です。

 お釈迦様は、人間を苦しめるものは外部からくるものと内側からくるものの二つだと分けられたそうです。

 仕事での不満や生活上の不足などは外からくるものです。

 しかし、家族への不満や恋人への不信などは、自分の内側からくるものです。

 もし現実をきちんと見据えることができていなければ、外からの苦しみに対処はできないでしょう。

 また、もし現実を見ていなければ、内側からの苦しみは次々とわいてくることになるでしょう。

 

幸せのタオ 4・気持ち悪い人になってはいけない

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 さて前の第三回までで、まず基本的なルールのような物を書きました。

 ここでいったんこれまでのことを要約してみましょう。

 

 1・自分を取り囲む他人の価値観に合わせるのではなく、相対的な価値観を自分の中に持つ。

 2・目の前の快楽に飛びつかず、先を見たうえで判断する。

 3・判断がきちんとできるように、自分の中に曇りのない公正な視点を持つ。

 

 この三つを土台として、ここからは具体的なことに入ってみたいと思います。

 その一つ目として強く推奨したいのが「気持ちの悪い人になってはいけない」ということです。

 少し前だと「ウザい」いまだと「キモイ」というのはもうほとんど鳴き声のようになっていて意味が薄れてしまった言葉のようにも感じますが、この「気持ちの悪さ」ということを改めて見返すと、実はすごく重要な皮膚感覚だったりします。

 例えば新聞やニュースで犯罪やよくない事件のことなどを見聞きすると「気持ち悪い」と感じることが多かったりします。

 犯罪者や事件の加害者がロマンティックなのは映画の中だけで、実際には一言でいうなら「気持ち悪い」。

 犯罪者の手記を読んだりテレビでのインタビューを聞いたりして「この人は高い知性のある人だなあ」とか「こんなに魅力的な人が犯罪なんて信じられない」などと思うことはほとんどありません。

 まぁ中にはあるかもしれませんが、だいたいの場合は「うわぁ、気持ちの悪い人だなあ」と思うのではないでしょうか。

 決して犯罪者だとわかってみている先入観のためだけではないでしょう。物腰穏やかで上品な犯罪者の告白、などというのはめったに見ることはありません。

 挙動不審で変に表情がぐにゃぐにゃととらえどころがなかったり、どこか貧相な感じがしたりするのではないでしょうか。

 身だしなみを見ても、派手ではないけど趣味が良くて端正な服装で連行されていて品が感じられる、という印象は少ないのではないかと思います。

 たいてい、どこかみすぼらしくて薄汚いと感じます。

 そのような犯罪者の部屋を見ると、ものすごく汚れていたり、信じられないくらいの数の特定の何かが積み上げられていたりと、どこかしら異常性が垣間見えることがあると思います。

 つまり、内面でのバランスの不調和が外面にも出ているのです。

 と、いうことは多くの場合、犯罪者というのはフランス革命時の政治的思想犯や泥棒紳士ということはなく、ただ生活でのバランスを失った結果犯罪に零れ落ちてしまった人たち、とみなすことができるということです。

 つまり、誰だってそのような犯罪者になる可能性がある。

 私だって同様です。

 大切なのは決めつけないこと。その上で自覚的にバランスをとるということです。

 そのバランスの指針として「気持ち悪い人になってはいけない」ということをお勧めしています。

 例えば誰かに対して悪い感情を持ったり、あるいは誰かと敵対関係にあって対立をすることは必ずあると思います。

 それ自体は当然のことだし、避けることもできないしその必要もないと思います。

 大切なのは、その時に「気持ちの悪い人にならない」ということです。

 気持ちの悪い感情を抱いて気持ちの悪い態度に出て、気持ちの悪い手段をとったら、その人は気持ちの悪い人です。

 敵対行動そのものの良し悪しはおいておいて、気持ち悪いか悪くないかを注意してみるのは意外に大切だと思います。

 正々堂々、公明正大に罵倒したりびんたをしたり、競合をしたりするなら、同じ対立でもまったく趣が違うことでしょう。

 気持ち悪いことをするというのは、気持ち悪い人になるという支払いを受けもつことになります。

 勝っても気持ちの悪い人です。

 負けたら負けた上に気持ちの悪い人です。

 そんなリスクの高いことをする必要はありません。 

 私の周りに何人かいる大きな問題を抱えている人たちの行動を挙げてみると、どこかで誰かが幸せそうだとそれを引きずり降ろそうとします。

 また、誰かがSNSで何かを書いていると、それが自分にまったく関係ない物であったとしても、自分を見下して嘲笑っているいやがらせだと受け取ります。

 そして、よせばいいのにそれに対して「私のことをそんな風にいって嫌がらせするなんてあなたは最低の人ですね。見てないと思って書いたのでしょうけど、おあいにくさま、お見通しですほほほ」などというようなことを書きつけてしまいます。アイタタタタ。

 どうです、ぞっとするでしょう?

 そんなことをしでかしてしまうような羽目になっては、もう負債が大きすぎて払いきれる見立てが付かない。

 しかし、誰にとっても、決してそんなことにはならないという保証はないのです。

 なので、決して「気持ちの悪い人になってはいけない」ということに注意をしていただく、というのは重要なことだと思います。

 美しさを模倣しようとするとあまりにハードルが高いことがありますが、気持ちの悪い人にはならないようにする、というのなら比較的身近な指針であるという気がします。

 そして結果、そうしていると端正でどこか好感の持てるような人になってゆくのではないかと思います。

 気持ち悪い人になってしまう人生と、なぜか好感を持たれる人生、どちらが幸せかは明白ですよね。

 

 

 

 

 

 

幸せのタオ 5・気持ちの悪い人になってはいけないの続き

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 さて、ちょっと不快な話をひとつ前にしてしまいました。

 不快なものを取り入れるのはあまり良いことではない。気持ちの悪いものを感じると気持ちの悪いものが内側に入ってきます。

 しかし、それが広がるのを避けるためにも、今回も気持ちの悪い人の話を続けてしまいます。すいません。

 私の人生には、家族や友人、恋人含めてたくさんの発達障害や精神の問題を抱えた人がいるのですが、そのすべてが気持ちの悪い人ではありません。

 発達障害はおよそ一クラスに一人の割合でいるそうですし、昨今の社会環境から鑑みるにメンタルのトラブルで医療を活用している人も少なくないのは当然でしょう。

 それらの人々は、二次災害で人格障害などを起こしていない限りは、おおよそまともな人であることも非常に多いと感じています。

 ある人が片頭痛や腰痛に悩むように、不定愁訴や脳の構造上の不器用な部分に不得意があるというだけの人です。

 なので、問題は気持ちの悪い人なのか否か、というところなのではないか、というお話をさせていただきたいと思います。

 今回お話する人は、選良で世間的にはまともな収入のある独身男性です。

 精神に問題を抱えて休業はされたものの、それまで勤めてきたのですからキャリアからみても十分に常識人として知られていた人でした。

 態度は控えめで、おとなしい人という印象を与えます。

 この男性には一つ悩みがあって、それは女性を少し苦手としているというものでした。

 そのような悩みのあるところで私のところに来てくれたのですが、私たちのタオイズムでは、陰陽を思想の中核に置いていますので、男女の和合(陰と陽の調和)をとても重視しています。

 なにせタオの巨人である老子様は、財産や政治よりも、女性器こそが世界を動かす力の真実だと言っているくらいですから、命の成立とその健康の保持として性は当たり前に尊重されているのです。

 古代社会において豊穣の象徴として女神が祀られたり、母系社会が形成されていたというのも同様のことでしょう。

 そのようなわけですから、私はこの男性に女性とうまくいくように取り計らいました。

 少しづつ時間をかけてその重要性を話しつ、実際に女性と接点のできるところに案内し、うまく接触ができるように労力をかけてレクチャーをしました。

 しかし実際に知らない女性と接することができる社交の場に行って促すと彼は「お、おれは……いいよ……」などと言って前に出ることをしません。

 私も無理強いはしませんが、この人は本当に理解して自分の問題を癒す勇気がない人なのだなあとは思いました。

 それから少したって、この人の行動がおかしくなってきました。

 公然と風俗通いをさも武勇伝のように吹聴するようになり、また公衆の面前でわいせつな言葉を無意味に大声で連呼したり、SNS上でなんの意味もなくただ卑語を繰り返すだけの更新を始めたりするようになりました。

 その一方で、私が引き合わせた周りの女性たちに対しては卑屈な態度をとり続けています。

 もうお分かりだと思います。抱えているコンプレックスに対してまっとうに向き合うのではなく、自分のプライドだけを重視して対象に攻撃性を持つことで自分を甘やかして保護しようという防衛行動です。

 よけいな自己愛をゆがんだ形で保存せずに、すなおに女性に向き合えば済むところを、よけいな見栄で負債を押し返そうとして問題を深刻化させてしまっています。

 これが気持ちの悪い人の特筆すべき一例です。

 周りの女性たちからも、あの人は気持ち悪いというクレームが相次いだので、私も何度か諭したのですが、そうされるほど彼は引っ込みがつかなくなるという悪循環を自ら選んだようで、結局は世話を見切れなくなりました。

 大変に不幸な話です。

 気持ちの悪い人になるというのは、自分で自分を不幸にする選択をしているということです。

 目先の自分のゆがんだプライドを得るために、大切な実の部分を捨てているのです。

 こういう人になってしまうと私としても心が痛むので、タオによって幸せになるためには注意しなくてはならない例として挙げさせていただきました。

 このような人は、エゴが肥大しているのにその物差しが他人からの借り物であるというアンバランスによって制御が利かなくなっているのでしょう。

 ですので、エゴを小さく、物差しは自前のしっかりしたものを用いるということをお勧めいたします。

get inside shaolin temple

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 ある俳優さんが、少林寺で修行するという番組を鑑賞。見ててハラハラする。
 子供のころからカンフー映画にあこがれて、実家は空手道場だったというこの俳優さん、入山して指定された青年僧に遭遇して名乗り、相手が合掌して敬礼をするも膝をつくことはおろか頭も下げません。
「おはいりなさい」と拱手をされてると、握手だと勘違いして手を握ろうとしてしまいます。
「少林拳の経験は?」と訊かれて「子供のころ空手を」と答えてしまう。
「やってみなさい」と言われて、型を見せようとしてしまいます。
 こんなに恥ずかしいことはありません。
 開始直後、当然もういいと言われます。
 どこまでが演出なのかはわからないけれど、本当にまるでダメだし、現代日本人がやりそうなことをきれいに全部やっていてて鋭い作りです。
 何もできません、何も学んでいません、ということがよくわかります。
 私も結果的にこういう形で人を見ることになるケースが多い。
 武術をやっています、中国拳法をやっています、という人の、ほとんどがこの俳優さんと同じことをします。
 しかしこういう人は、何も本当に学んではいなません。自分が師だと思っている先生から何も習っていないのです。
 本当に身内として認められた弟子は、身内としての礼の仕方をきちんと教育されます。
 礼式はその世界の内側の人間であるという符牒でもあります。
 こういう対面できちんとした礼や作法が出来ないというのは恥ずかしいことだというだけでなく、門外のお客さんだという証明になります。
 やれと言われて本当にやりだしちゃうとか顔から火が出てしまいそうです。ここは三回までは辞退しなければならない。
 この手の人は非常に多い。
 やれと言われてないのに、私の前で手を披露するという人さえ多いです。
 可愛らしいと言ってもいいくらいに素人の証です。「何も知らない素人です」と後光のネオンサインが輝いています。
 おそらくそういう見分けをつけるために、武林のしきたりという物が作られているのでしょう。
 本物を学んだ人はそういうことはしません。
  フィリピンで信頼をしてもらえたのも、この辺りが慎重であったからだと思われます。
 だから私は敬意を抱いている武友がどういう手をするのか、ほとんど見たことがありません。私も特に必要あって請われない限り別段見せないし、自分の手の内の話さえしない。
 そういうことをしたがるのは素人だけです。
 ネオンサインの信頼性は大した物で、たいてい輝いている人に聞けばきちんとした環境で学んでいません。
 別にだからと言ってとくにどうということもありません。
 ただ、そういう場所にいる人だ、と分類して終わりです。
 くだんの俳優さんは、寺内の子供たちが練習する場所に案内されました。
 一人の子供と話をすると、彼は「将来は僧になりたい」と答えます。
 開始十三分でナレーションが言います。「なぜ子供の練習を見せられたか分かった。彼らは人生のすべてをかけて禅と武術を学んでいる。ここには夢やあこがれを持ち込んではダメなんだ」
 まず迷妄を切り捨てる、よくできた構成の番組です。
 そういう夢やあこがれと本物の区別がつかなかったごっこ遊びの連中が、本物の外堀に置かれて特に追い出されはしなかったというだけで、勘違いをしてしまうことがあります。
 この13分のラインを越えられないまま年を重ねて、いつのまにかただのごっこ遊びをしていたおじさん、おじいさんが先生面をしだしてしまう。
 本物を求める人は騙されてはいけません。ごっこ遊びがしたい人にはそれでいいですが、そうでないならただの迷い道となってしまいます。
 もちろん、迷い道から得るものもあるのでしょうが。

大倭寇の話 1・呂宋と東都

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さて、来月に海賊武術研究祭を控えまして、ここから改めて倭寇、それも倭刀術と直に関連する後期倭寇の歴史を追いかけてゆきたいと思います。

 この後期倭寇、またの名を大倭寇ともいい、以前の記事でも触れた海禁令に反抗した一大倭寇の攻撃を指しています。

 今回、苗刀術とフィリピンのアルニスの合同WSを日本で行うという企画のため、そのあたりから触れてゆきたいと思います。

 その前に、この切り口のインスパイアを与えてくれた、戴氏心意門の奥本聡先生に感謝をいたしたいと思います。

 彼が見せてくれた歴代中華帝国の興亡を可視化した動画には、中東から南洋までが含まれていました。

 中華帝国にとっては、楊貴妃とライチの故事があるとおり、南もまた自分たちの下位の小国の領域となっております。

 特にフィリピンの立ち位置というのはその色合いが強い。

 もともと、フィリピンの北部をルソン島と言います。台湾のちょっと下のあたりですね。南端には首都のマニラがあります。私がアルニスの修行をしたあたりです。

 このルソン、感じでは呂宋と書きます。フィリピンと取引をしていた呂宋助左衛門が有名ですね。

 このルソン、なぜ呂宋というかというと、南宋の時代に北方から騎馬民族がの金帝国が攻めてきて、落ち延びた宋の人々が移民した場所だからというのですね。

 南宋の滅亡が1279年ですから、13世紀のことです。スペインの入植が1565年だからそれよりずっと早い。

 呂宋王国として中華帝国の一部となり、東都(トンド)という首都がおかれました。

 これ、のちのスペインの駐留地で世界遺産になっているイントラムロスの川を挟んだところにあります。

 いまでも中華街があり、私も行ったことがある場所です。

 この辺りに博物館があり、ラプラプの巨象が立っています。

 マニラのエスクリマの中心地であるルネタ公演はここにあります。

 エスクリマ部隊でゲリラ戦をしていたボニフォシオの出身地もここです。

 さて、南宋を滅ぼした騎馬民族の金帝国はその後、代替わりを繰り返してモンゴル帝国を築きます。

 ご存知の通り、彼らはヨーロッパまで進出し、ユーラシア大陸を席巻します。

 しかし、15世紀になってこれが衰退してくると、大陸の半ばの中東からオスマン帝国の力が強大化してきます。

 これによってヨーロッパは海域を制限されて、あらたなる海洋ルートを開発しなければならなくなりました。

 とくにこのオスマン帝国の抑圧を受けていたのが海に面したスペインとポルトガルです。

 両国は協力してオスマン帝国を追い出してゆきます。

 そのまま北アフリカにまで追撃をしてゆき、そこから新しい航海ルートも模索されてゆきます。

 こうして大航海時代が始まりました。

 初期のころは、ポルトガルが特に先行していまして、中国にたどり着いたのもこちらが先でした。

 1517年、当時の中国を納めていた明国に船団が訪れます。

 しかし、明国側は中華思想で対等外交という概念がなく、文化の壁に突き当たります。

 また、中華帝国の属国であったマラッカ(マレー)から、明に至る前にポルトガルが狼藉を働いていたことを訴えられたりもして、明国はこれを船団を持って迎撃します。

 はるばる旅をしてきたポルトガル艦隊は撃退されます。

 ちなみにこの時の撃退された船から、当時のポルトガルの大砲が回収されて明で使われるようになるのですが、これが仏郎機(フランキ)砲です。

 明にとってみれば白人種はみんなフランク人だったということだそうです。 

 上のほうでそんなことが起きている一方、先にも述べたように1565年にフィリピンはスペインの領土となってしまいます。

 ポルトガルがマラッカにしたように、呂宋王国を攻撃していればまた明の攻撃があったかもしれないのですが、スペイン側はこの地での中国人の貿易に対して好意的だったそうです。

 中国の商人たちは3、40隻のジャンク船で訪れてはメキシコペソで支払いを受け取っていたとのことです。

 しかしこの中国の海商船団こそ、実は海賊だったのです。

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