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大倭寇の話 2・大海賊林鳳と呂宋襲撃

 まず、明国における海賊の定義を明確にしなければなりません。

 当時、マラッカに対する対応がそうだったように、中華思想に基づいて多くの国が中国の属国であるというキングダム宇宙がアジアには形成されていました。

 そのような国を朝責国というのですが、印璽を受けて中国に貢物をするのです。

 すると、中国からは倍返しの返礼が来ます。

 正直ぼろもうけだし、また外敵が来た時も言いつければポルトガルにそうしたように追い払ってくれます。

 そのため、多くの国が形式上そのような立場に入っていたのです。もちろん日本もそのうちの一つでした。

 ただ、その代わりにあった制限の一つが海洋権の問題でした。

 地面につながっていない海は中国の管轄とされており、国交のある朝責国の正使でないと商業が行えないのです。

 そのために、明国の大盤振る舞いのしわ寄せがもろに出ることとなりました。

 要するに、あんまりしょっちゅう貢物をされると明としては赤字がかさんで大変なので、通行を規制してこれないようにしていたのです。

 この、正使しか海上貿易が不可能だという仕組みを、日本では勘合貿易と言います。

 日本国の国王として明に認められていたのは室町将軍であり、勘合の発行は幕府によってのみ許されていました。

 そのような制限の中から許可を得ていない貿易商が、海賊と呼ばれた人々です。

 フィリピンに訪れていた貿易商の中にも、そのような海賊が多々いたもののようです。

 実際には取り締まりは緩く、ザル法であった勘合貿易ですが、それでも法をすり抜けているという形のため、どうしても海賊たちはやることが荒っぽくなります。

 たいていの時は見て見ぬふりをされていても、突然取り締まりキャンペーンの最中に出くわせば明の船団に襲撃を受けるためです。

 1574年、そのような海賊団の一つが、東都に訪れました。

 大物首領の林鳳の率いる大艦隊です。

 戦闘用のジャンク船の数は62隻、船員と兵士が2000人づつ、女衆も1500人いたというからこれは当時よくいた「船上を家とする者」と呼ばれていた移動民族だとみてもよいでしょう。

 このような海上生活者は今に至るまで存在しています。

 この旅団の副官に、シオコという日本人が居たと言います。

 このシオコが600人の兵士を率いてマニラを襲撃し、現地の将軍を殺害します。

 崩れかかったスペイン軍は、現地のフィリピン人の助けを得て迎撃に転じ、シオコの部隊を押し返すことに成功しました。

 しかし海賊部隊はひるむことなく第二次攻撃を仕掛けます。

 そのころには通報を受けたスペイン軍の増税が別の地域から到着してこれを迎え撃ちます。

 海賊たちの火力は強く、マニラの町は炎上したとの記録があります。

 フィリピン人とスペイン人の混成部隊は協力して戦い、シオコを打倒しました。林鳳は撤退を始めますが、結局は包囲をされて兵糧攻めに会います。

 ここで海賊たちは夜陰に乗じて船から離脱して逃走します。

 恐ろしいことに、林鳳は中国に戻って再度手勢を集めて軍団を再結成を始めます。

 しかし、もともと彼は明で皇帝から国賊として追われていたためにフィリピンに降ってきた身でした。福建の総統が力の弱った彼を見逃さず、船団を攻撃しました。

 恐るべき生命力を持ったこの大首領はそのままタイに逃亡します。

 しかしタイももちろん中華帝国の一部、彼の入国を受け入れません。

 林鳳はその後も周りの小国を転々と回りますがどこからも追い出されてそのまま行方が知れなくなってしまったそうです。

 これが、当時の海賊を代表する大物の一人です。

 なんというか、すごい話です。

 この中のマニラでの襲撃で用いられたのが、中国武術であり、防衛側がエスグリマを用いていたわけです。フィリピン人を自衛団として訓練していたのが活用された歴史上のケースです。

  参照サイト http://gold.natsu.gs/WG/ST/248/st248.html


大倭寇の話 3・船山諸島における倭寇たちの興亡

 さて。前回の倭寇の話では大首領林鳳が大船団を率いて南下したものの、エスクリマドール部隊に追い返され、逃げかえれば福建の討伐軍に追撃を食らってしまった経緯を書きました。

 では、なぜ彼はあんな大艦隊を率いて呂宋を訪れたのでしょう?

 そして福建では待ち構えていたように部隊があったのでしょうか?

 それは、その前に嘉靖の大倭寇と言われる、海上大合戦があったためです。

 林鳳はその戦いから落ち延びてきていたのでした。

 この大合戦の経緯を追ってお話してゆきましょう。

 明は正使以外は海上を使って貿易をしてはいけないという海禁政策をしいていたというのは先に書いた通りです。

 正使として認められて勘合貿易ができるのは、日本王と呼ばれた室町将軍に認定された者だけだというのもしかり。

 しかし、15世紀の末から、日本では室町将軍の権勢が失墜してしまいます。

 私の住んでいる神奈川県の豪族、北条早雲公によって、いわゆる戦国時代が引き起こされてしまったためです。

 時は群雄割拠、誰も将軍家の決まりなんて守りません。

 そのタイミングで大航海時代が来てしまったのです。コショウと金が等価だった時代。いわば地球規模での大バブルです。

 そうなれば当然、貿易港を抑える大名は勘合を騙って密貿易をします。

 その最前線にいたのが、博多港を抑える大内氏と、堺の細川氏です。

 かくして16世紀になったころには、中国からすれば浙江省沖、日本からすれば五島列島の先にある船山諸島が、明に嫌われたポルトガル人、地元の中国人、そして訪れている日本人ら各国海賊たちの密貿易の本場となりました。

 ここはもともと、明が成立するおりに落ち延びてきた人たちが住み着いていたという反体制的な土地だといういわくつきの場所です。

 このころ、外国の採掘技術をくだんの大内氏が持ち帰って自前の石見銀山に活用したからえらいことです。

 世界の銀の三分の一は石見銀山から採れたと言われているくらいですので、海賊たちの左団扇たるやものすごいものであったと想像されます。

 この船山諸島の六横島にあった海賊たちの港は、当時の文献によると数千人規模の街が形成され、ポルトガル人やその奴隷として連れてこられた黒人たちがおり、病院や警察機構が備わった都市であったという話すらあります。

 また、彼らのスポンサーになっていたのは中国の土豪たちだったと言います。科挙に受かって勤め上げたのち引退した郷紳(ヨウマン)階級の人たちで、海賊たちの貿易に投資をしていたようです。

 このような一連の関係者たちがひとくくりにいう「倭寇」でした。実際には日本人の割合は一割程度だったと言われていますが、石見銀山の経済力が物を言っていたことが想像できます。

 こうなると大変活発な世界経済活動の場であったような気がしますが、しかし、元が板子一枚下は地獄とい荒っぽい男たちの世界代表選手権、もめ事が多発してしまいます。

 数十から数百隻規模の戦闘が行われたというから戦争と変わらない。

 沖合で武装船団同士が戦争をしているとなるとさすがに官憲もほっとけません。明朝が動き出すことになりました。

 名称朱紈がリーダーに任命されて討伐軍が結成されます。

 彼が率いる船団が船山諸島を襲撃します。

 アフリカ人、ポルトガル人を含む多くの人が戦死し、あるいは捕縛されます。

 みごとアジトは壊滅したのでした。

 しかし、これは大倭寇と呼ばれる一大合戦の前哨戦です。

 明国による海域の制圧は続きません。

 収入源である倭寇たちを滅ぼされてしまった明側の郷紳階級の連中が策略を駆使して朱紈将軍を失脚させます。

 なにせもともと中国のわいろ社会を勤め上げてきた役人挙がり、そのようなことはお手の物です。

 かくして、海賊たちはいなくなった物の、再びいわくつきの船山諸島は放置されることとなるのでした。

大倭寇の話 4・ザビエルと新世代の倭寇

 朱紈将軍による倭寇討伐があったのが、1549年です。

 その翌年、日本にやってきた有名な異人がいます。

 フランシスコ・ザビエル。日本に初めてキリスト教を伝えることになる、イエズス会の伝道師です。

 ポルトガル王ジョアン3世の要請でインドのゴアに布教活動に旅立ったザビエルは、そこからマラッカに移動しました。

 あの、ポルトガルに迷惑をかけられていてチクったマラッカです。

 マラッカでザビエルは、ヤジローあるいはアンジロウと呼ばれる倭寇と出会います。

 元は鹿児島の氏族であったとされていますが、人を殺めて出奔していたと言います。

 誰でもおいそれと国外逃亡ができるという時代ではありません。つまり彼は、倭寇の一人であったと言われています。

 そんな彼もザビエルに教化されて洗礼を受けました。日本人初めてのクリスチャンは倭寇だったのです。

 ザビエルは彼の国に興味を持って、共に日本に向かいます。

 乗り込んだのは「アワン」という倭寇の船だったそうです。

 アワンとは阿王(王ちゃん)という中国名でしょう。

 倭寇ルートを活用して無事ザビエルは鹿児島についたのですが、ヤジロウはまた海賊行為をするべく海に戻り、そのまま亡くなったと言われています。

 このザビエルのポルトガル・ルートが確立されたことで、日本からの対外経済活動が一気に活性化されたことは当然の流れです。

 近隣の密貿易商たちは再び船島に集まり、倭寇活動を再開します。

 しかし、ここで問題が起きます。

 前の世代の大ボスたちは先の大襲撃で滅ぼされてしまったので、誰が場を仕切るかという問題をクリアしないとならないのが渡世のしきたりです。

 そこで頭角を現してきたのが、のちに海賊王と呼ばれる、安徽省出身の任侠であった王直です。

 時をさかのぼること1543年、五島列島を縄張りとして五峰と号していた彼が、船に乗せていたポルトガル人を介して日本に鉄砲を伝来させたと言われているような大物です。

 このため、五島列島にはザビエル像と並んで彼の像があります。参考画像→http://www46.atpages.jp/mzprometheus/wp-content/uploads/2014/02/wanchii-244x300.jpg

 この王直が五島列島を縄張りにしていたこと、石見銀山の経済を左右していたことも含めて、やはり彼ら次世代の海賊たちも「倭寇」と呼びならわされます。

大倭寇の話 5・倭寇王の軌跡

 根絶やしにされた前世代の倭寇に成り代わって活動を活発にした王直ですが、ザビエルが来日した翌年1550年、倭を誘って船山諸島で交易をした、と記録にあるようです。

 五島と平戸のあたりを往来しての密貿易をしていたようです。

 このような活動をしていたのは王直だけではなく、他の海賊衆も長崎などに寄港して流通をしていたとのことです。

 一時は空白となった海賊海域が、またも稼働を始めたのです。

 こうなってくるとまた、略奪も行われるようになります。倭人を仲間に引き入れて襲撃を行うグループもあったそうです。

 ここで、浙江省の役人は前回の朱紈の時の失敗を踏まえた賢い方法を選択します。

 攻撃的な海賊の対処を、より力の強い海賊に依頼するのです。見返りは海域における密貿易の見逃しでした。

 そうして選ばれたのが財力=武力に勝る王直でした。

 王直という人はもともと陸地で任侠をしていて、そのような地回りの機微に明るかったのでしょう。また、日本では五峰先生と呼んで儒者だとみなしていた風があるそうですから、そのような政治のできる人であったのだと思います。彼は交渉に応じてこれを引き受けます。

 のちに書かれた王直の記録によると、この時に戦闘に出て13隻をとらえ、千人余りを殺し、七人を生け捕りにして女性二人を救出したと書いてあります。

 この数字がどこまで正確な物なのかはわかりませんが、大きな戦いであったというのは間違いのないことでしょう。

 これによって王直は非公式ながら官憲のお墨付きを得て、かつ貸も作り、また海賊連中に威容を利かせるという利をなしとげました。

 実にタオ的な因果の活用です。

 これによって足場を強めた王直はより大陸に近い、寧波の向かい側の島にアジトを築きました。

 これは非常に貿易に有利な拠点です。

 しかし、陽があれば陰が現れます。因果はまためぐって、今度は王直の側が反対勢力の海賊から襲撃を受ける立場になってしまいます。

 官に寄り、海賊をせん滅させた王直への反発もあったのでしょう。

 朱紈登場の前と同じ、海賊同士の縄張り争いがまた置きます。

 王直の反対勢力の急先鋒に、陳思盻という物が居ました。

 王直と同じく長崎との交易をしていた商売敵なのですが、彼のやり方が良くなかった。

 自分の勢力を大きくして対抗するために、他の船団に同盟を求める物の、その頭領を殺害して勢力を奪い取ってしまうのです。

 おそらくあまり頭の良くない粗暴な倭寇だったのでしょう。これでは悪い因果を作っているだけです。こういう人にタオは味方しません。

 頭領を殺されたことに不満を抱いた倭寇たちが王直内通して陳思盻の打倒を依頼します。

 これに対して王直というのは本当に物の因果のわかった人です。タオにのっとった行動をします。

 まず、他の海賊に陳思盻の悪行を説明して協力を取り付けます。

 味方になれば交易で利益を生み出してくれる王直と、味方を殺す陳思盻では、どちらに着くかは明らかです。みごとに勢力を増加させることに成功します。

 さらには念のため、前の貸しをうまく使って官兵に陳思盻の討伐を依頼します。

 そして、逆に自分がそれに協力するのだというような体裁を取って兵力の増強と因果のうまい結び方を成し遂げます。

 その上で陳思盻の部下が襲撃に出た隙を狙って、彼の首を取ることに成功しました。

 こうして陳思盻の財産をみんなで山分けして信頼をさらに高め、また彼の部下を吸収しました。

 これにより「海上に二賊なし」と言われるほどに王直の一派は巨大な勢力となっていったのです。 

 

大倭寇の話 6・浄海王

 かくして東シナ海の大ボスとなった王直のもとには、倭寇のみならず陸の人々も膝をつきました。

 かつて朱紈が率いてきたものの軍の解体で流浪していた兵士の半数までもが傘下に加わり、地元の人々も彼を土地の親分として立て、さらには現役の官軍までもが彼によしみを通じたと言います。

 それらの官軍の武将の中に、王直に紅袍玉帯を贈るものがあったといいます。

 これは王者の衣装です。

 王直はこれを身にまとい、浄海王と僭して自ら戴冠の儀を行ったという話があります。

 この海域を収め、日本との流通を一手に握り、彼ら倭寇の縄張りをひとつの国とみなして独立を宣言したということでしょう。

 おそらく、この、地面にとらわれていない自由海域の独立というのは昔から海上生活を送っている一帯の人々のある種の悲願だったのではないかと思われます。

 勢いがあり、内陸の機微に通じた英雄の登場は、人々の願いをかなえる絶好の機会だったのでしょう。

 しかし、それが王直の首を絞めました。

 よき王であろうとしたのでしょう。

 日本に向かう船があれば薪を提供してやり、国まで守護して送ってあげるほどでした。

 平戸に屋敷を構え、地元で五峰先生として知られるようになったのもこのころのようです。

 これによって平戸港は海外貿易がもっとも盛んな港になったといいます。

 しかし、同時に彼の配下のうちにまだ略奪を行うものがあったり、あるいは彼の手の薄い熊本方面のルートでは略奪が行われていたのも事実でした。

 王直も頑張ってそれらを取り締まったりはしていたのですが、しかしやはりここで陰陽の法則が働くのです。

 彼の働きが大きくなり、交易が活発になるほど、陰の部分としてその隙間を縫って財物を略奪しようという小さな勢力もまたうごめくのでした。

 しかも、その責任は仮にも王を名乗ってしまった王直のものだと外部はみなします。

 浙江省に、再び倭寇討伐の軍が配備されることになりました。

 この時に呼び寄せられた一人が、ベトナム方面の戦線で活躍した実績のある武将、兪大猶でした。

 この人は文武両道の英雄で、正気堂と号していくつかの書物を残しているくらいの人物です。

 彼が配備されてからの倭寇の襲撃がありましたが、ここで軍が出るなり、賊は逃亡してしまいます。

 もともと王直の手を逃れて活動している小規模で機動力のある倭寇たちです。すぐに捕まるものではありません。

 この時代のこれら小規模倭寇のゲリラ襲撃は、上海にまで及んでいたというからかなり広範囲かつ頻繁に行われていたのでしょう。

 官軍は王直にもこれらの取り締まりを依頼していたのですが、一向に襲撃は収まりません。

 そのために官憲の側はこれを王直の責任どころか、むしろ指示によるものなのではないかと思ってさえ思ってしまいます。

 王直討つべしの声が強くなってきます。

 兪将軍は王直が島に滞在している時を狙って襲撃をかけます。

 準備万端の討伐軍は挟み撃ちをかけ、王直自身も艦隊を率いて対峙しますが、兪将軍の艦隊はこれを次々と撃沈してゆきます。

 このとき、王直の部下は数百名単位で船から海に叩き落されたと言います。

 王直本人の旗艦も詰め寄られたのですが、とうとう一巻の終わりというときに信じられないことが起きます。

 なんと、神風が吹いたのです。

 倭寇のそもそもの原因になった、元寇の時と同じく、突然突風が吹き荒れて船の操作がままならなくなるのです。

 こうなれば海戦どころではありません。

 官軍側は激突して沈没するのを避けるために撤退をします。

 方や王直の側は少数になった利をものとしてまさに尻に帆をかけて逃亡します。

 この時の、兪将軍のエピソードに面白いものがあります。

 暴風が吹き荒れた時には、当時の軍艦ではいけにえを海に捧げて回復を祈るのだそうです。そのための動物たちをどうやら船にあらかじめ用意していたようです。

 挟み撃ちを受け持っていた一方の将軍は、数十頭単位で家畜をいけにえに捧げて祈祷をしたらしいのですが、兪将軍のほうは牛豚羊を各一頭だったそうです。

 なんでそんな少ないんだと指摘されると、兪将軍は「私の家は貧しいのだ」と真顔で答えたのだそうです。

 兵士たちは絶望して泣き叫んだと言います。

 ますます海が荒れ狂い、船が揺られるなか、将軍自身は「快適だな」とうそぶいていたそうです。

  相棒の将軍に突っ込まれると「お前と一緒に戦ってこうして海に沈むのだから、軍人としてこんな良いことはない」と言ったそうです。

 やはり一代の英雄の気概を感じさせます。

 一方、王直はこの後も運に恵まれて、神風の中に転々と身を隠しながら平戸にあったアジトにまで無事戻ったそうです。

幸せのタオ 6・私たちは命をかけて生きている

 またちょっと、気持ちの良くない話をしてしまいます。

 これはデリケートな話題であり、ことの真偽も現状不明であり、また人間しなば仏という言葉に反することになってしまう話にもなってしまうのですが、これまでの流れから触れないわけにはいかないというか、リアルタイムで記事を書いていることの意味として、これを書かないことは自分が訴えようとしている、現代社会への効用という意図に反すると思ったので書きます。

 昨夜、帰宅してネットを見たら気になるニュースがありました。

 ある程度の内容がわかるソースをたどった結果が、こちらのページにある新聞記事です。

 https://socom.yokohama/news/incidents/13671/

 電車内でわいせつな言葉を発していた男性が、注意したサラリーマンに殴りかかって周囲から取り押さえられた結果死亡とあります。

 死亡した人物の名前は報道されていないようですが、ネットの一部で有名だった人物だったのではないかとの憶測がされています。

 この憶測の部分はともかく、私はこのニュースを目にしたとき、もしかしたらこのコラムの5で書いた、気持ちの悪いわいせつなおじさんなのではないかと思ったのです。

 関連する動画を再生することはありませんでしたが、周辺情報にある年恰好は私の知っている人にそっくりです。

 結果、本人では無いようなのですが、あの人もいつこうなってもおかしくない。

 そして、私が先にかいた「気持ちの悪い人になってはいけない」ということをまさに体現した話だと深く再確認させられました。

 あくまでこの新聞記事を前提とした話をしますが、公衆の面前でひわいな言葉を叫んでいるというのは、相当に邪な行為です。

 いったいどれだけの数の人に対して、無差別な悪意をぶつけていたのでしょう。

 この行為がどれだけの期間にわたって行われていたのかは不明です。

 もし、ネット上で話題になっている怪人だとしたら、それはものすごい数になる可能性が高くあります。

 くだんの人物がインタビューを受けている番組を見たのですが、どうやら毎日渋谷の通りで通行人に向かってわいせつな言葉を叫び続けていたそうです。

 もう一度考えてください。

 いったいどれだけの数の人が、いやな思いをさせられたでしょう。

 もし、その中の1パーセントでも激昂型で暴力傾向の強い人が居たら、大変な目にあわされていたでしょう。

 ほとんどの人はこの手の人とかかわっても自分が損をするだけだと思って我慢して見逃しているだけで、実際には相当な人数が不快感を抱いていたのは疑う余地がありません(もっとも一人で歩いている人にはヘッドフォンを付けている人も多いですが)。

 同じことを、閉鎖空間である電車内でしたら、やはり注意する人も出てくるでしょう。

 車内には体の不自由な人や小さな子供を連れた妊婦さんなどもいる可能性があるわけですから、全員が優先席を離れてほかの車両に移動するとは限りません。

 それよりも、迷惑をかける人に静止を促すという選択は否定はし切れないものがあります。

 私の知っている気持ちの悪いおじさんについて書いたように、この手の人は無差別な悪意を他人を攻撃することで解消している人です。注意をされたら殴りかかってくることはありえます。

 物理的に暴れていないだけで、大声で喚くということは実質暴れているのと同様の行為ですから。

 物理的に暴れれば、それを制止しようとする人が出てきてもおかしくはありません。

 結果、記事の人物は制圧されて死亡したのですが、この人は一体なぜこんなことに命を懸けていたのだろうと悩まされます。

 人生を費やすことは、他になかったのでしょうか。

 もしこの人がインタビューの人物だとすれば、番組で自称するには20年以上女性にモテず、性交が叶わないので、のべつ幕なし通りすがる人々にその怒りをぶつけていたのだと言います。

 行きすぎる自分とまったく関係のない人々に、無差別にわいせつな恫喝を続けているというのは、恐ろしく邪悪な行為です。

 そのような人物を、好んで性交の対象とみなす女性は極めて少ないというのは、本人以外の人間には非常に理解できることでしょう。

 抱いている不満の解消の仕方が、きわめてねじれてしまって非常に効率的で無い選択です。

 その効率性をゆがめたのが、壊れた鏡のような当人のエゴです。

 ゆがんだ鏡にはまっすぐな景色は映りません。

 それに忠実に生きるとは、実在していないゆがんだ世界に入り込んで生きるということです。

 そして生きるということは、毎秒、一動作、命の働きによるものです。

 本当に些細なことでも、あらゆることは命の活動です。

 死亡した男性は、命がけの選択としてわいせつな行為をして暴力に出て結果死亡したのです。

 落ち着いてモテる努力でもして満足な性生活を送っていれば何も死ぬことはなかったでしょう。

 無関係な他者への攻撃という選択をした段階で、この人はいつ迎撃にあってもおかしくない人生を選んだのです。

 かりに迎撃を回避したとしても、何もいいことはありません。わいせつ行為や暴力行為を繰り返してどんどん自我がゆがんでゆがんだ人生の深みにはまってゆくだけです。

 こういうことになってはいけないのです。

 だから私はここでずっとこのようなことを訴えています。

 不満があるなら目的にまっすぐ対策すればよい。

 それに、そもそもこのタイプの人の価値観には重大な問題があったのだと思います。

 それは、他人を自分と同等の人間だとみなしていないということです。

 私が前に書いたおじさんもそうなのですが、女性を性交の対象としてしかみなしていない。

 人格を持った自分と等価の人生を送る一つの独立した存在だと尊重していない。

 だから物をあつかうように獲得やその失敗をみなすのでしょう。

 そのような、自己中心的な価値基準が、関係ない他人に迷惑をかけることや、暴力をふるうことに通じます。

 そのエゴが自分を不幸にするのです。

 自分に囚われることは、自分を不幸にする道への第一歩です。

演出と呼吸

 一つ前に気が重くなる記事を書いたので気分転換に軽い物を書かせてください。

 先日、友人の哲庵先生から突然北斗の拳についての解説を求められました。

 と、いうのもどうも先生、お笑い芸人のがっき~君という方がお気に入りのようなのですが、この芸人さんが北斗の拳に出てきた人気キャラクター、レイの物まねでパネル・トークをするというスタイルなのです。

 いや、何を言ってるのかよく分からないということはよくわかりますが本当にそうなんです。なんでそんなこと思いついちゃったんだろうこの人。

 そのレイと言えば、シャオー! という掛け声が特徴的でして、その声について「これは南派の掛け声なのか?」という疑問を持たれたようなのです(大要)。

 もともとこのシャオーは原作にもあったのかな? アニメ版オリジナルの演出かもしれない。

 とはいえ、なぜシャアなのか。

 中国語で殺というのをシャアと発音する場合があります。

 我々南派拳法の地域でいうとサァです。あの卓球の掛け声の「サーー!」です。

 ただ、この中国の殺はKILLの意味とは少し違うニュアンスがあって、「戦う」という意味だそうです。FIGHT! ですね。

 我々蔡李佛拳では、シャオは思い当たりませんが「シィッ!」と言う発声があります。

「シッ!」と短く発音するのではなく、最後に小さく「ク」を付けるように「シィィィーーーッ(ク)!」と言います。

 北斗の拳のシャオーはアニメですが、元になった中国武術の発声をさぐることはできます。

 レイに対してケンシロウの「アタ」ですが、これはご存知の通りブルース・リーがモデルになってますね。

 そのブルースなのですが、実はカンフー経験は非常に短いものです。十代のころにはもうアメリカに移住してしまっているので、彼の武術はアメリカではぐくんだもので、メインとなっているのはアメリカン・カラテでした。

 彼の独自のアタ! や怪鳥音に関して、本人は「アメリカン・カラテでやっているのをまねた」と言っているそうです。

 ケンシロウの動きは、ブルースを意識しているので、当然アタタもその動きに対応したものになります。

 そしてそのケンシロウの動きは、わりに西洋スポーツやカラテの動きがメインです。

 ただ、ブルース自身は映画の中では、中国拳法の動きとして南派の短勁を模倣した動作をします。

 コマ落としのような素早い動きですね。さすがにあれをアニメでしたら手抜きだと思われてしまいそうですが。

 となると、短いキビキビした動作と緩急のある動作のイメージがケンシロウの中で混在します。

「アタァ!」と一瞬で相手を刺している。

 それに対してレイの動きは流線的です。

 素早いのですが、コマ落としのような瞬時のON-OFF的な動きではない。

 動作をON-OFFしない、暗い勁を使う我々の動きは、このレイタイプです。

 となると、掛け声もまた瞬間的な「アタ!」ではなく「シィーーッ」!!」となります。

 長く発生している間のどこで接触しても発勁します。

 これ、考えてみれば心意拳の特徴である掛け声「イィーーーーーーーーー!!」と同じです。

 雷声というのですが、短く切らずに長く発声します。手の運動自体は短いのに。

 そしてこの心意拳こそ、暗い勁の武術です。

 これが心意把として少林寺でも行われており、明の勁を暗に転じるための練功として行われていた、というのがここでも書いてきた南派拳法の歴史です。

 少林寺が焼き討ちにあったときに、秘伝を南に逃がしたものが南派少林拳のルーツだと言われており、私たちの拳法の中核が心意把である、というのが、繰り返し書いてきたことです。

 このように、歴史を背景に発生したこと、およびそこから生まれたフィクションをたどると、結構面白い符号を発見することができます。

 さらにいうと、南派と言えば看板になっているのが大きく足を開いた平馬という立ち方ですが、これ、北斗の拳の南派拳士はしませんね。

 彼らはみんなかっこよく足をそろえてモデルのように立っています。

 実はこれ、暗勁の特徴なのです。

 明の勁のように大きく足を踏み鳴らして打たなくてよくなると、両足を点のようにそろえて立ったり、片足で立っていても勁が出せます。

 心意把というのは、足を踏み鳴らす稽古ではなく、このための練功法だと解釈しています。

 少なくとも私は心意でもっとも重要なのはそこだと言いつけられてきました。

 平馬というのは、実は足を移動させていない、すったちの強さを養成する立ち方です。

 そしてその功が形になると、両足をそろえて立ったり片足で立ったりするのです。

 このことを、鶴になぞらえて、平馬の羅漢拳からすったちの鶴になるということで「羅漢化鶴」というそうです。

 両手を翼のように広げていましも飛び立ちそうに立った姿。まさに南斗聖拳のイメージでしょう?

 

 

今週の予定

 今週は、日曜日19日に関内のフレンド・ダンス教室さんでWSとなります。

 18時からのスタートで、各自の進捗に合わせてアルニスと基礎の中国武術の練功を行います。

 

 一般 3500

 予約 3000

 外国人 投げ銭

 

 となります。

 


中国武術と筋トレと勁の明暗

 前にもちょっと書いたかもしれませんが、中国武術と筋トレのお話を。

 というのも、少し前に書いた通り最近妙に筋肉が発達してきているのがきっかけです。

 これ、武気功の成果で、基本的に内勁の練功をするとガンガン筋肉が付きます。

 日本ではなぜか誤解されているのですが、中国武術をすると筋肉が付きます。

 外功は筋肉を鍛えて内功は筋肉を鍛えないで威力を出す、なんていうのはまぁ嘘だと思ってよいかと思われます。

 内功も気を巡らせるので、気血が巡って成長ホルモンの分泌やら血行やらが良くなってどんどん体格が変わります。

 外見に現れない内功は、ほとんどないのではないかと思われます。

 そうやって、伝統武術独特の体型になってゆきます。

 私はこのことを「骨を消せ」とか「関節を消す」とか「とんがったところをなくす」と習いました。

 つまり、ひじ関節や肩関節のボコッと骨の形が出ているシルエットが、勁の徹る膜が発達することで丸くなるということです。

 いまの私は肩関節が見えなくなって、首と腕、胸が一体化しています。

 整勁が形になって顕れています。

 これはもちろん、練功で作った身体なのですが、筋トレをするなというのも実は間違った説だと思っています。

「筋肉が邪魔になるから」なんて言葉を聞くことがありますが、もともとムキムキのゲルマン民族やサモア人だって武術が出来ないということはないはずです。

 だとしたら、私のような筋肉が付きづらい日本人がいくらか頑張ったところで、邪魔になったりは決してするはずがありません。

 確かに可動域が小さくなることはありますので、技によっては問題があることはありえます。

 ただ、それは発勁とは関係ない。

 この発想は、回族武術を学んでいるときに教わりました。

 回族の人々というのはもともとは中東系で、肉をたくさん食べるし遺伝子的にも体が大きくなりやすい。

 だいぶ漢民族と混ざった今でも、ビア樽みたいな人がごろごろ居るといいます。

 そういう人たちがやっていた武術が、筋肉を邪魔にするわけがない。

 そして、回族武術には実際に筋肉を鍛える練功法もたくさんあります。

 そういった中から、心意拳、心意把と言ったものが伝えられてきたのです。

 ただ、だからと言って注意しなくてはいけないのは、筋肉の使い方を間違えてはいけない、ということです。

 筋肉の使い方を一般とまったく違うようにするのが換勁です。

 それをしない使い方はただの力なので、換勁が出来ていない筋肉なら、確かに鍛えても意味がありません。

 また、放鬆ができる前なら、勁に対して換勁されていない筋肉がブレーキをかけてしまうこともあるでしょう。

 しかしいずれも修練度の問題で、筋肉そのものが悪いわけではありません。

 ただ、もし明勁でとどまるなら、発勁に発勁動作が伴うので、それを筋肉の可動域が狭くなったなら邪魔をするということはあるかもしれません。

 私は最初から動きと勁が関係していない暗い勁をやってきたので、そこはまったく問題がありません。

 すたすたと歩いてトンと触るだけのことを邪魔する筋肉といったら、相当いびつに肥大したものだと思いますよ。

 そのように動きを伴わないから、関節の骨格がラインから消えて、体のパーツが一体化してゆくのです。

 そうやって全身が一つになったら、あとは触るだけです。

騎士団長殺し

 倭寇についてちょっと閑話を。
 今回の企画のために調査をしていてたまたま発見した下の絵ですが、どうやら倭寇、林鳳のマニラ襲撃時を描いたもののようです。
 下にはスペイン人らしき騎士が倒されて突破されています。
 私はこの絵を、最近読んだ本に習って「騎士団長殺し」と名付けました。
 実際のところこれが、当時描かれた物なのか、当時を想像して後に描かれた物なのかわかりませんが、大変に読み解きがいのある絵です。...
 まず、最初にわかりやすいのは、左手にいる辮髪の倭寇です。
 持っているのは明らかに中国刀ではありません。
 これこそが倭刀だと思われます。当時の中国の倭寇図にもそっくり同じ形で描かれています。
 次に中央下の「騎士団長」を見てみると、頭のわきにサーベルが転がっています。
 騎士団長の右手がからであるのを見るに、これは彼の得物だと思われます。
 ここで注目したいのは、このサーベルがしっかりとした護拳のあるものであるということです。
 これはつまり、片手使いの物であり、陸上での防衛側とは言え、両手持ちの大きな刀剣を所持していなかったことを想像させます。
 大砲や小銃を併用するときに邪魔だったからかもしれません。
 そして、彼の右手にもう一度注目すると、しっかりした革の手袋をしていることが描かれています。
 これこそがフェンシング・グローブで、考証の上で非常に重要なものです。
 団長もまた左手が見えませんが、おそらくは左手にも同じものをはめていたのではないでしょうか。
 そして、左手にもまた短剣を装備していたかもしれない。
 左右の手に長さの違う剣を装備するのが、もっとも古いエスグリマのスタイルである、エスパダ・イ・ダガと言うスタイルです。
 もし仮に左手が無手であった場合は、このフェンシング・グローブで相手の刃物をあしらいます。そのためにこれは必要だったのです。
 現在みられるような真半身に構えるフランス式フェンシングとの違いは、ここに大きく現れます。
 左右の手が出せるよう斜めに構えて、左手も相手に届くようにするのがエスクリマの特徴です。
 そのような、両刀使いをしているのが中央の倭寇です。
 しかしこの倭寇、右手には鎌のような刃物を持っています。
 これは中国でも使われていたものなのでしょうか。あるいは、東南アジアの兵器を調達したのかもしれない。
 鎌刃は船上でロープなどを切るときにも非常に役立ったのではないでしょうか。
 そして左手です。
 これは、どうも東南アジアの兵器、クリスのように見えます。https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9_(%E7…
 となるとこの倭寇、中国人ではなかったのかもしれない。
 クリスはベトナムやタイ、フィリピンに普及していたそうです。だとすると、そこのどこの国のひとであってもおかしくない。
 倭寇が国境を持たない混成旅団であったことがよくわかります。
 またもし、彼が中国系であったとしても、兵器の選択に対して実にフレキシブルであったのだとも思えます。
 現代エスクリマからの視線で見ると、実は騎士団長よりこの倭寇の装備のほうがエスクリマっぽいのです。
 つまり、この「騎士団長殺し」の絵は、西洋剣術の技法と東南アジアの環境がハイブリッドされえて現在のエスクリマになったという、交配の歴史を象徴しているものです。
 そしてそこに中国武術の技法が入ると、我々ラプンティ・アルニス・デ・アバニコになるのです。

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大倭寇の話 7・襲撃、二大王

 1553年、王直が平戸に蓄電したのち、浙江省浙江に、大船がたどり着いたそうです。

 その船に乗っていた武装集団は、月代を当て、異国の言葉を話していたと言います。

 官軍が到着すると彼らは、箱に入った手紙を出しました。

 そこには「我々は漂流した日本人です。食べ物を分けてくれて船を修理させてくれたらすぐにし出発します。もし攻撃を仕掛けてきたなら、お互いに命の保証はありません」と書かれていました。

 しかし、官軍は陣を不用意に詰めて船に近づいてしまいます。

 これを受けて自称日本船は攻撃を開始。とはいえ船は故障しているので離岸はできず、半数が上陸、半数は船にこもって籠城戦の構えとなります。

 官軍側は火器を持って船への攻撃を仕掛けます。

 炎上した船から「八大王」という頭目の一人が、全身燃え上がりながらも双刀を振り回して大暴れしたというから壮絶なものです。

 そして、彼らの兵器としてやはり、フィリピンのエスクリマと同じく左右の手でそれぞれ武器を持つスタイルであったことがわかります。やはり作業の必要になる船上では両手持ちの兵器は扱いに差し支えたのでしょう。

 八大王も討ち取り、官軍は制圧に成功します。生き残りたちは捕縛しますが、上陸した連中は略奪行為を繰り返しながら逃走します。

 官軍による追跡劇の果て、彼らは媽祖廟に立てこもったところを包囲されます。

 倭寇たちは廟の中にあった旗などで縄を結って帆を作り、虚を突いて飛び出したのち、官軍の船をのっとってそのまま逃走しました。

 これが王直が居なくなった倭寇海域での、倭寇と官軍との最初の遭遇であったとされています。

 この事件が意味しているのは、それまでであれば王直に任せるなり、王直とよしみを通じている郷紳に話を回すなりすれば済んでいたことが、間に入る物がなくなって抗争に直結するようになった、ということではないでしょうか。

 そして、敵対関係となれば倭寇側にとっては死活問題です。海域権を確保するためにはさらに闘争の姿勢をしめすこととなります。

 事件から一月後、逃げ去った連中が仲間をつれて再来します。

 上陸した彼らは今度は別の廟に立てこもってそこを陣地とし、官軍を攻撃して撃破します。

 意気揚々と彼らが立ち去った後の廟の壁には、五言絶句の漢詩が落書きされていました。

 これをして、彼らが中国人であることや、またかなりの学識があったため、元は官側の人間であったことが推測されています。

 決してただの蛮人による無軌道な攻撃ではない。明確な意図に基づいていることが示されています。

 離脱した倭寇たちはさらに官軍に襲撃を仕掛けて追い打ちを成し遂げます。

 この時の官軍側の記録によると、彼らの姿は地元の人間と見分けがつかなかったので後れを取ったのだ、とあるようです。

 さて、ここからが中国の記録の面白いところです。

 当時の彼らが、どのような価値観で世界を見ていたかがよくわかります。

 と、いうのもこの事件は当時の地元の記録である「倭変事録」という書物に残されているのですが、それによると、この襲撃者の頭目は「二大王」という若者であったと伝えられています。

 中国の通例で、頭目は「王」や「大王」などと呼ばれ、一番上が「老大王」、次から「二大王」と数えるので、この二大王は八大王たちの仇を討つために最高幹部がやってきたということが分かります。

 この二大王、しかしまだ二十代の若者に見えたと言います。

 青い抱をまとい、白扇を持っていたと書かれていますが、この「白扇」というのは中国の秘密結社における階級の名前ともなっており、「軍師」のことを言います。

 二大王は白扇を振って妖術を使って官軍を大いに苦しめたと言います。ほとんど封神演義のキャラクターです。

 このように、途中からどんどん演義物になってくるところが中国の歴史書らしいところです。

 明、清の中国というのは、このようにまだまだ西洋的近代と中華的神話世界が融合した世界でした。

 現代にもつながっている中国武術の伝統思想というのは、このようなところからきているものです。

大倭寇の話 8・武僧隊参戦

 倭寇側が封神演義キャラクターを出してきたなら、官軍側からも強力なキャラクターが出てきます。

 ことの起こりはこうです。

 二大王の妖術にかかって死亡した中に、官軍の老将軍であった万表という人の娘婿が居ました。

 もともと万表というのは、王直こそが倭寇の元凶であるのでこれを討つべしという上奏分を出していた人です。

 それだけの計画があった彼はすでに根回しをしていた少林寺より武僧隊を招聘します。

 到着した中に、九尺ばかりの鉄の棍を持った和尚が居ました。

 よっ、まってました正統少林拳! 少林の棍と言えば看板兵器です。

 和尚は二大王の妖術を見るや「うむ、聞いたことがある。これは胡蝶陣だ」と「知っているのか、月光!」と言いたくなるような見識の深さを発揮します。

 和尚は官兵たちの髪に花を挿させて、自身は片手に傘を持ってそれを振ります。

 するとあら不思議、少林棍法の守護神である緊那羅王のご加護か、妖術は破れて逆に二大王らは金縛りにあって身動きが取れなくなります。

 和尚は鉄棍で二大王の頭を一撃に討ち取ります。

 兵たちは倭寇たちに殺到するのですが、この時代の兵への報酬と言うのは、勝利しての略奪品でした。良い鉄は釘にはならない、良い人間は兵にはならない、という言葉があるように、彼らは盗賊団のような人間です。たちまちに略奪が始まり、兵士同士での奪い合いが始まったそうです。

 これを見て和尚は傘をたたんで法術を解きました。

 倭寇たちは潰走して去っていった、というのがこの戦闘での流れですが、え、世界史の話だったよね、これ? という感じでしょう。

 同じころにフィリピンではスペインが大砲で海賊と戦っていた時代に、こちらでは妖術対砲術です。

 しかし、これにはきちんと考察があります。

 この胡蝶陣、妖術ではなくて陣形戦の方法だったという話です。

 これは倭刀術の戦法であり、倭刀は左右に変化に富んでとらえがたい、と記録されています。

 このような倭寇戦法を「寇術」と呼んだりもしていたそうです。

 文字通り軍師の二大王が扇をふるってこれを指揮していたものを、和尚が少林の陣法を持って傘で指揮をして破ったということなのでしょう。

 しかし、もちろんこれで抗争が終わったわけではありません。

 官軍側では少林寺が加わり、倭寇は二大王が敗れたことで、かえって戦火は拡大してゆくことになります。

大倭寇の話 9・東シナ海大炎上

 二大王の軍が敗れたのち、今度は倭船七隻、乗り込んだ倭寇数百人という部隊が三度目の襲来。

 官軍はこれを押し返すも、今度は三十七隻に増えて帰ってきてしまう。

 このころになると、官軍も倭寇の上陸に対してかなり本腰を入れていたため、敗北をすることはなかったものの、ここが相手が賊軍であるということの恐ろしさ。

 倭寇の上陸部隊は船に戻らずにそのま旅団を組んで陸上を行軍し始めてしまいます。

 官軍側の記録に「倭寇は陸に上がると強いが船の上ではそうでもないから海戦の段階でたたくのがよい」という記録があるように、どうも倭寇連中の地力は地上戦にあったようなのです。

 これ、倭寇が実は各地の陸上民を多く取り込んでいた混成旅団だったということを反映しているような気がします。

 この大倭寇が、単なる海賊の襲撃ではなくて明への革命運動だったということもわかります。

 それを体現する通り、地上に上がった倭寇部隊は移動をしながら現地の人々を取り込んで勢力を拡大してゆきます。

 こうなってくるともう倭寇と現地人の区別がつかないから対処に困る、といったようなレベルではありません。

 地元民が倭寇です。

 手を焼いた官軍は様々な手を打ちます。

 それらの手の内、印象に残るのが狼兵の投入です。

 これは雲南省からベトナムにかけて住んでいる少数民族で、のちに太平天国にも参加している人々です。

 彼らは勇猛果敢で知られており、はるばる東シナ海までやってきて参戦していたのです。官側の本気が伝わってきます。

 戚継光将軍の投入もその一つです。

 また、平戸にいた王直に使者を送るというのもその一つでした。

 このころの王直は、旗艦と数千人の手下とともに平戸、五島の日本領に滞在していました。

 彼がいることでポルトガル船が平戸には多数訪れ、大変な賑わいだったと言います。

 しかし、方やでその手下は朝鮮半島にも襲撃をしかけ、明国側への波状攻撃に参加していました。

 明国側では最初の討伐の書状にあったように、この大倭寇が王直によるものだという見方が続いています。

 実際、明が奪取した船山諸島の拠点には、逃散した倭寇たちが戻ってきて奪回戦をしかけてきています。

 明の記録ではこれを「王直に通じる者」としていますが、同時に「船山の人」とも書いています。

 つまり、地元民としては王直一味よりも官軍のほうが評価が悪かったということでしょう。

  ただ、実際に大倭寇が王直の一味だったとは言い切れないものがあります。

 というのも、地上戦に出て現地民を吸収していった旅団は、簫顕という別の倭寇の頭目が率いていました。

 これは「王直も簫顕の前でははばかる」と言われた実力者です。

 彼の旅団は江蘇省に入り、現地の勢力を吸収しながら次々に年を攻略していったと言います。

 江蘇省というのは、北は山東省、南は上海に広がる地域です。

 山東も上海も、中国武術で知られた土地です。

 これは山東が昔から海賊被害があったためだと言いますし、上海は都会で地方の人が交易に来ていたからだと言います。

 ちなみにこの山東省を代表する武術が蟷螂拳です。

 今回お招きする施安哲先生は、この蟷螂拳の名手となっております。

 このような地域で簫顕が吸収していた人々が、このような武術を用いる現地の武装勢力であったことは明白です。

 一説には彼らは塩賊であったと言います。

 塩賊とは、塩の密売人です。

 中国では塩は国の独占販売品であり、密造したり販売することは禁止されていました。

 水滸伝で有名な好漢たちも塩賊であったと言われています。

 この強力な合併軍と交戦して官軍は敗北、千人規模の死者が出たと言われています。

 つまりこれは、王直が居たことで調えられていた官と民のバランスが、彼が居なくなったことで一気に崩れて問題が一斉に暴動化した結果だともいえるのです。

大倭寇の話 10・桐郷の知略戦

 北は朝鮮半島、内は五島列島から船島諸島、西は江蘇省から浙江に至るまで倭寇の多面攻撃を受けて、明軍は窮地に立たされます。

 当時の明軍の定番は、地方の優秀な武将を討伐隊長に任命して軍を組ませて現地に派遣するという物だったため、各地に戦場が散ってしまっては対策が大変です。

 ましてや、倭寇は現地勢力を取り込んで現場で人員が増加しています。

 現地の勢力だけではなく、平戸の王直のもとからはさらに島原で倭人をスカウトした配下が浙江に向かったという資料もあります。

 さて、このような大倭寇参戦倭寇の中に、徐海という部将が居ました。

 彼は王直が陸で任侠をしていたころからの仲間であった徐銓という人物の甥っ子です。

 これが王直一派の問題児で、王直が浄海王と称して海の治安を護っていた時に独断で細かい海賊行為を働いては弾劾され、それを逆恨みして王直を殺そうとするような人間でした。

 これによって除銓は甥とともに王直の元を離れて遠巻きに密貿易をしていました。

 この除銓が広東で密貿易をしているときに明軍の船の襲撃を受けて死亡します。ときはまさに大倭寇の最中なのですから、官軍が倭寇を見かければ攻撃してくるのは当然です。

 これによって甥の徐海は激昂し、大倭寇に加わることを決意します。

 1556年、彼は大軍を率いて江蘇省に面した浙江の都市、桐郷を襲撃し、陥落寸前にまで追い詰めます。

 ここで明側からは胡宋憲という部将が現れます。

 彼はもともと北方の騎馬民族との戦いで活躍していた武将だったのですが、大倭寇に合わせて召喚されたのです。

 なかなか面白い人物で知略に長じており、毒の入った酒を倭寇に奪わせて労せずに数百名の賊を討ち取るなどの軍功をあげています。

 また、中央から派遣された無能な上官を計略に陥れて罷免させ、そのままその地位に成り代わってしまうなどのアツアツなエピソードがあります。

 この胡宋憲はまた万表とも通じており、彼の言う「王直を抑えよ」という思想を継承します。

 使者を王直の元に送り、そのことを徐海に通達し、もうじき王直が戻って海域の治安が元の状態に戻るから、桐郷への攻撃をいまのうちに辞めよと言います。

 王直とは微妙な関係にあった徐海はこの交渉に応じて攻撃の手を止めます。

 ここで新たな人物が戦況にかかわってきます。徐海の愛人であった王翠𧄍です。

 彼女は山東で芸妓をしていたそうなのですが、倭寇に拉致されて徐海の妻にされていたのです。

 彼女はさらわれて妻にされたにもかかわらず、徐海の相談を受けるまでに信頼されて立派に姐さんとして役割をはたしていたそうです。

 この王翠𧄍のもとに、胡宋憲は彼女と窮地であった青年を使者として送り込みます。

 胡宋憲からの貢物としての財宝を、この青年が徐海に届けるのです。

 これを通して、胡宋憲は彼女と徐海に通じてゆきました。

 これによって離間の計が働き、徐海は仲間の倭寇の頭領たちを官軍に売り飛ばしてゆきます。

 若いころからの自分勝手で仲間を裏切る性格は変わっていなかったようです。

 非常に浅はかなことです。

 自ら部将を減らして手薄になったところで官軍の攻撃を受けて、徐海は死亡します。

 こうして倭寇の一局面は官軍が勝利を収めるのですが、王翠𧄍は「国のためにやったことだが、こんな芸妓に身を落とした私でも徐海は人間として扱ってくれた」と言って自ら海に飛び込んで死亡したとのことです。

 この烈婦のエピソードはベトナムの国民的文学となって今でも愛好されているそうです。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%9B%B2%E7%BF%B9

大倭寇の話 11・中国武術、大いに面目をほどこす

 胡宋憲は徐海を除いた功によって出世を果たしました。

 また、彼が根回ししていた王直懐柔策はうまくゆきました。

 大伴宗麟が作った日本使節団の一員という形をとって、王直は帰国を果たします。

 官軍からの人質と交換の形で王直は胡宋憲のもとにとどまることになります。言葉としては捕虜でしたが、実際には客人の扱いだったと伝えられています。

 権謀に優れた胡宋憲は、王直に再び倭寇の王として秩序を戻してもらい、海禁を解いて国益を増すことを想定していたのです。

 このために政府に対しても上訴などをしていたのですが、こうなると権力争いで足を引っ張ろうとしてくる俗物どもが現れてきます。

 胡宋憲の提案はなかなか通らず、倭寇との講和は停滞してしまいました。

 その間に、官軍では新勢力が頭角を現します。

 戚継光将軍です。

 彼は山東省の出身で、軍人の家の生まれだと言います。

 それが倭寇の対策として浙江省に赴任した時、あまりにも現地の兵の質が悪いのでまずは軍の立て直しからしなければなりませんでした。

 胡宋憲の時もしかり、中央から派遣されてくる部隊は政治家のパフォーマンスで、実務力が低かったようです。

 戚将軍は現地で三千人の徴兵を行い、また教錬となる武術家を求めました。

 この時「華法を教える武術家は厳罰に処す」と下しており、この言葉は伝統武術家の間では表演武術に対する視線の土台としていまでも深く残っています。

  こうして組まれた部隊は戚家軍と呼ばれ、非常に精強であったとして知られることとなります。

 戚継光将軍は倭寇の使う倭刀術を研究し、彼らが用いていた陰流の伝書を用いて辛酉刀法という刀術を編み出したことでも知られています。

 日本の剣術家、小笠原玄信斎が生まれるのは江戸時代に入ってからですから、この時代の陰流と言えば愛洲の物かもしれません。

 この時の調練をもとに紀效新書という兵法書を書き、これは現代の中国武術に大きな影響を与えています。

 拳経という巻では「拳術は実戦では使う物ではないが、兵器の基礎を養うために必要である」として、宋太祖三十二勢長拳という物を解説しています。

 これ、呂宋の時も書いた、金に滅ぼされた宋王朝を築いた皇帝、趙匡胤が使った拳法だと言われています。

 この宋太祖三十二勢長拳、実は非常に重要なものです。

 またの名を太祖拳、あるいは紅拳と呼ばれています。

 紅とはホンと発音し、洪と同じ音となります。ためにこれを少林寺では小洪拳、大洪拳として訓練しており、さらにはこれが、南に渡って太祖洪拳、すなわち代表的南派少林拳である洪拳になったと言われています。

 また、さらにはこの太祖長拳が少林寺の近隣の都市であった陳家溝に伝わり、陳家拳法になったということも言われています。

 陳家拳法とはつまり、のちに言われるようになるところの陳式太極拳です。

 つまり、南北の超メジャー拳法の元祖と言われるものを「華法を教えるものは殺す」と厳しく指導していた将軍が奨励していたということです。

 これにより、中国武術は大いに面目を施しました。

 陰流拳法と初期エスクリマなどを含む一大連合倭寇部隊に対して、再編制された中国武術が立ち向かい、見事に彼らを押し返したのです。

 ちなみに、太祖長拳は私の研究では心意把の直系の技術であり、現代でも実戦的南派拳法である鶴拳にもつながるものです。

 あるいは、この時の軍功がその拡散のきっかけになったのかもしれません。


大倭寇の話 12・海賊たちの黄昏

 中国武術の実戦性を再発掘した戚継光将軍の戚家軍は、浙江内陸の倭寇を撃退したのち、船山諸島に駐屯していた倭寇たちの拠点に向かいます。

 ここには王直逮捕後に実権を引き継いでいた養子の王一枝らが立てこもっていました。

 この王一枝、風流な名前ですが、島原の倭人を率いて大陸に出撃、二万七千戸以上の民家を焼き払う大略奪を指揮した猛烈な倭寇です。

 この猛烈さが災いしたのか、1558年、船山を出て福建に略奪に出たところで現地の官軍と闘争になり、敗死したと言います。

 船山の王直配下も敗北し、残存勢力は福建の海上へと南下してゆきます。

 この間、王直を擁護していた胡宋憲は政争に巻き込まれてゆきます。

 1559年、、倭寇と通じて私利をむさぼっていると弾劾された彼の手から離れて、王直は処刑されてしまいます。

 これによって状況は大きく変わり、ここからあとは小規模な倭寇団への明軍の取り締まりが行われてゆくことになります。

 胡宋憲はさらなる出世をした物の、わずか二年後の1561年、政争に敗れて投獄され、そこで死亡します。

 戚継光将軍はその後も戦いを続けていましたが、1567年、明朝は海禁の緩和を始めます。ただしこれは、日本に対してだけは緩和されることがありませんでした。

 とはいえもはや明側の人間にとって、密貿易は必要がなくなり始めるのです。倭寇の時代の終わりが始まりました。

 この影響もあって戚将軍は倭寇との戦いは終わりを告げることとなり、彼はその実績を持って今度は北方の対モンゴル防衛の任務に向かうこととなります。

 戚家軍もこれに同行し、倭寇相手に鍛え上げた倭刀術を大いに振るうこととなります。

 中国の東北地方における苗刀術の分布の始まりには、この経緯がかかわっていたのかもしれません。

 それから十一年後の1588年、日本では天下人を目前とした豊臣秀吉が、刀狩りと同時に海賊停止令を発します。

 これによって日本における海賊の歴史は完全に終わりました。

 

 

 

 

 まだちょっとだけ続くのじゃ。 

大倭寇の話 結び・忍者不在論から

 歴史と言うのは、次々に資料が出てきて定説が変わってゆく物です。

 私たちが義務教育で習った歴史上の出来事は、いまではだいぶ変わっているようです。

 今回の倭寇についての記事のために参考にした資料も、いずれ変化が起きるかもしれません。 

 ときに私は、忍者不在論者です。

 というか、個人的な物ではなくて存在の歴史的証拠が一切ない。

 そこで時々、忍者に関する新しい資料に目を通して、何か進展がないか確認します。

 先日、最近の忍者研究の第一人者の本でそれをしました。

 この方はそれまでの忍者関係の本の執筆者にありがちだった自称忍者当人などではなく、誠実な歴史研究家の方で、冒頭からまず忍者とは何かという定義づけ、およびフィクションの忍者と歴史上の実在の記録についてから著述していました。

 要約してみます。

 まず忍者という言葉そのものは昭和30年代に入ってからの創作であるということ。それまではシノビノモノと言う言葉が使われていたことが書かれていました。

 ただ、シノビノモノというのは単に潜伏をしている人、という意味でタームであるという保証はありません。

 このシノビノモノ、古い記述では南北朝の時代の記録に見られるそうです。

 もちろん、まじめな研究家の人はこれが=忍者を示しているとは明記していません。

 実際に、いわゆる忍者に触れた物ということになると、やはり16世紀に書かれた「万川集海」によることになるそうです。

 これでは昔と変わらない。この書は「いまはもういないのでここに書かないと話が消えちゃうから書き残すけど、昔はこういう人たちがいてこういうことをしていたらしいよ」ということを書いたものです。

 この後の、18世紀になってからみられる資料でも、やはり「昔はシノビノモノというものがいた」という話ばかりが出てきます。

 つまり、いまもいるとかいまもこういうことをしているという歴史上の資料はいまだ確認されていないのです。

 それが二十世紀になって突然「俺のうちは忍者だ」「おれも忍者だ」と言う人たちがわらわらわいてきたのだから不思議です。

 まぁ本物なら少なくとも忍者と言うマスコミが作った言葉は使わなくてもいいような気もしますが。

 このように、常に懐古調で書かれてきたシノビノモノですが、これらの振り返りの多くは中国の逸話を元ネタとしており、孫子の兵法の活用だとされています。

 これらのことから、前述の書ではシノビノモノというのは、南北朝時代の悪党と言われた地方勢力のうち、孫子を学んだ者のことではないか、と言うようなことを慎重に提示しています。

 これはどうも、自称忍者業界では結構定番の意見のようです。

 確かに、地元の悪党が傭兵集団として働いたことを「シノビノモノ」というのなら、忍者のイメージには近い感じがします。

 ただ、そんな地方豪族のようなものがいつどこで孫子を学んだのでしょうか?

 遣唐使や遣隋使を介して日本にきた異人からだ、というのがこれまで語られてきた説です。

 そのために、空海が忍者の元祖だなんて説も聞きます。

 しかし、それだけでそんなに孫子兵法が拡散するものでしょうか?

 ここで私は、もう一つの中国とのルートを想像したのです。

 それが、正使ではない海路の横行者、つまり倭寇です。

 これなら、16世紀以前より存在していたことはもう証明済みです。

 さらには、鉄砲の伝来と密接にかかわります。

 中国式の兵法や、西洋からの鉄砲、火器の技術の専門家としての忍者像なら、鉄砲衆であった根来衆や雑賀衆が忍者だとみなされていたこととも合致します。

 ここから広げると、忍者のトレードマークにも話が通ります。

 忍者と言えば、火薬玉のほかに手裏剣に隠し武器にニンニンと組んだ手の印です。

 手裏剣が、十字手裏剣のイメージになったのはまさに昭和の忍者ブームからだと言います。

 それ以前の物は実在の流派に伝わっているような棒状のものです。

 これ、中国で言う鏢です。

 中国では本職の武術家は必ず持っていた隠し武器で、そのためにプロの傭兵武術家を鏢師と言うくらいです。

 ほら、忍者と重なってきたでしょう?

 このような隠し武器、暗器は中国武術家の専門です。いくたの面白忍者グッズや攻城兵器なども、中国では紀元前からおなじみのものです。孫子にルーツがあるなら当然すぎるくらいのものです。

 さらにここで手の印に触れますと、これは小乗仏教に由来するものでしょう。

 実際、忍者もののフィクションではこれを組んでマントラを唱えます。

 となればこれ、まさに中国武術そのものではないですか。

 忍者の看板すべてが中国武術とのつながりを示しているのです。

 ここで私は、忍者とはすなわち、倭寇のその後なのではないかと考えました。

 陸に上がったカッパならぬ、陸に上がった海賊です。

 河童は山に入ると山童という妖怪に変わるそうですが、海賊は傭兵になったのではないでしょうか。

 中国において、大倭寇の時代に武術のブラッシュアップが行われたように、日本においても中国武術の伝来がひそかに行われていたとしてもおかしくはありません。

 そしてこれによって「忍者は潜伏するのが仕事だから戦わないだろう」というジレンマも解消されえます。

 もしこれが立証されれば、インドから仏教と共に伝わってきた拳法が中国の少林寺で心意把となり、方やは太極拳に進化し、片方では南派となり、さらにはそれらが移動してフィリピン武術につながり、また日本にまで届いたという広範囲に及ぶ伝播の軌跡を証明するものとなります。

 実に壮大な、いまだ解明されざる大きな歴史的テーマではありませんか。

 

 ついでに言うと、現代でも忍者武術を称する派の中には水軍衆とのつながりを標榜する人たちがいて、彼らはものすごい効果の点穴を使うのだと聞いたことがあります。 

 以上を持って大倭寇の話は終了です。

東シナ海武術

 我がSMACの、北海道支部を準備中のBROが、面白い動画を見つけてくれました。

 https://www.youtube.com/watch?v=3XTPEairRow

 イタリアの、苗刀の先生の動画のようです。

 形は日本刀の形で、大きさが異様であることが分かります。

 特徴的なのは、使い方が完全に中国刀法であることです。

 刀の背中に手や体を添え、兵器を体に纏っています。

 また、基礎の体の使い方はやはり中国拳法そのものです。

 これが刀術に付随した物であるなら、戚継光が調練した太祖長拳であるのでしょうが、関連動画を見たらこの先生が蟷螂拳を指導する動画もありました。

 https://www.youtube.com/watch?v=fRBpD-9-S5E

 と、いうことはこれは、山東系の苗刀という、今回お招きしている施先生と同系列の物であることが分かります。

 そしてこの動作、エスクリマのマノマノ(徒手の部)にそっくりです。

 今回の倭寇武術の研究にのっとるなら、この苗刀術はもともと日本の陰流剣術が、船島の倭寇調練で西洋剣術や中国刀術、東南アジア武術などが混ざってできたものだということができます。

 さらにこちらをご覧いただきたいのです。

 https://www.youtube.com/watch?v=5UeFxWb3i64

 最初のほうに出てくる、刀の峰に左手を当てて体の前を囲う技法は、我々が重視しているヴァーティカル・ブロックと同様の物です。

 その後も、ウィング・ブロック、ブランチャー(アンブレラ)と言ったフィリピン武術でおなじみの技法が次々登場します。

 刀のサイズが違うだけで、ほとんど我々のラプンティ・アルニスと同じことをしています。

 このような使い方は、純粋な日本剣術だけではとても出てこない。

 私は以前からフィリピン式と陰流系の剣術は似ていると思っていたのですが、両者の相違点がここではすっかり埋められています。

 https://www.youtube.com/watch?v=8lbgO4kwNvI

 こちらの動画では、中国拳法でいう撑掌を使った技法を行っています。

 これ、フィリピン武術でいうタピです。

 ヴァーティカル・ブロックで止めておいてからタピでそらして反撃するというアルニスの定石が完全に行われています。

 日本剣術、西洋剣術、中国刀法、東南アジア武術が一体となった姿があります。

 これはすごいものだと思います。

 その後の日本内地の武術では忘れられていった物のようですが、歴史上において人類は海上でのこのような闘争術を開発していたのです。

 現代剣道やフェンシングでは学び得ない重大な遺産だと思います。

 以前、私たちの蔡李佛拳を初めてみた友人の拳士が「蟷螂拳に似ている」と言ったことがありました。

 その時は同じ少林の流れだからかなと思っていただけでしたが、その中心は海上にあったものだといまは思います。

 このような技術を使っていた倭寇たちは(倭寇の戦法を模した物がこの山東苗刀であり、大倭寇後は解散した兵士が今度は海賊になったりする)、この後、洪門のような結社を中心に東南アジア各地に華僑のルートを作ってゆきます。

 そのようにしてこの海域武術はその後も現代にいたるまで継承され続けてきたわけです。

 ラプンティ・アルニスもその流れの中の一部であることは間違いありません。

 個人的な話をしますと、私は日本人であり、日本古武術の継承者であったにも関わらず、それらを捨てて外国の武術の継承者として生きることになったことにいくらかの逡巡が常にありました。

 しかしそれは、私がコスモポリタンを志向する物として、どうしてもしなければいけない選択だったように思っていました。

 ですが、それらを追求し続けた結果、思いもよらない形ですべてが一つに融合しました。

 中世のコスモポリタンとも言える海上生活者の文化によって、西洋、中東、中華、日本、東南アジアは自由海域というコスモポリスを形成していたのです。

 私にとっては、その象徴がこれらの東シナ海の武術です

 選んだ道を歩き続けてこのような真実に行き当れたことは、望外の喜びであると感じるとともに、これらの武術を通してより多くの皆さんにも同様の体験をしていただきたいと思う次第です。

 当然なのですが、我々現代人は今現在の歴史の最先端に立つ存在です。

 その喜びと大きさを、本当の歴史を体で感じることで知っていただきたいと思います。

 伝統と文化にこだわり続けてきた私たちの活動の真価が、今回の企画で大きな形を結ぶこととなりました。

 現状、この両者を同時に経験できる機会は世界中にほとんどないと思います(フィリピン以外にラプンティ・アルニスができるところがヨーロッパとうちしかない)。

 中国武術、日本武術、西洋剣術、東南アジア武術、歴史研究、などを愛好する多くの人にぜひこの貴重な真理への接触をしていただけたらと思っています。

海賊武術研究蔡は4月2日です

前半はアルニスを行い、後半が苗刀となっております。 ここまで倭寇とその時代、およびその周りの武術についての記事を続けてきましたが、来る来月、4月の2日、都内にてラプンティ・アルニスと苗刀のWワークショップ企画を行います。

  

  東シナ海における海賊たちの使った武術の実態を体験する会として、台湾より招いた施安哲老師より苗刀(倭刀術とも呼ばれます)の講習と、フィリピンに伝わるラプンティ・アルニス・デ・アバニコのワークショップの二本立てセミナー企画です。

 前半がアルニス、後半が苗刀となっております。
 

 時間12時30分ー18時00分

 

 前半がアルニス、後半が苗刀となっております。

 セミナー単体なら 3000 

 二本まとめて   5500

 事前予約者    5000

 肉文祭参加者、協力者 初回 0 

 

 会場は文京江戸川橋体育館の剣道場になります。

 よろしくお願いいたします。

 
講師
 
 ラプンティ・アルニス SIFU 翆虎
  ARNIS PHILLIPINES 公認マスタル
  香港鴻勝館八世伝人
  
 
 苗刀 施安哲 
  八極蟷螂武術館教練 
 
用具
 アルニスの練習用具をお持ちの方はぜひご持参ください。有志で貸し出しなど協力していただけるとありがたいです。
 また、万が一を避けるための手袋(グリップにあまり影響力のない物)やゴーグル(ホームセンターに安価であります)、帽子やバンダナなどをお持ちいただけるとより安心してお楽しみいただけるかと思います。
 また、苗刀の部では木刀など各自お持ちください。もしないというかたは適当な棒(担当者談)でも良いとのことです。
 
服装
 道着などは必要ありません。
 動きやすい恰好であれば大丈夫です。
 会場は板張りですが滑らないタイプです。上履きをご希望の方はご利用いただけます。
 ただ、せっかくの文化的研究の企画なので、もしよろしければ思い思いの海賊風の衣装など着用いただけると、エンターテインメント的にもよろしいかと思われます。
 どのような服装をするとどう動きに影響が出るのかなどご確認できるかと思います。
 五島の倭寇の像を見ると赤ふん一丁の物もあるのですが、そのような場合はエチケットにだけご注意を。
 
 申し込み、お問い合わせはこのページのアドレスsouthmartial@yahoo.co.jpまでお願いいたします。
 

今週の予定です PLAN OF THIS WEEKEND

 今週は日曜日がアルニス・サンデーとなっています。

 山下公園にて10時よりです。

 よろしくお願いいたします。

 

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 This week arnis lesson is sunday 10:00- @ YAMASITA PARK infront of marin tower.

 come on joinus!

 

 

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