海賊武術研究祭 講師紹介
黄金三角形を作れ!
ただいま、海賊武術祭での内容について考えております。
基本の一からやるとアウトラインが分かりにくい。
せっかくだから特徴的なことをやりたいし、普段来てくれてる皆さんにも祭りらしい良さが出ることがやりたい。
というわけで、フォーメーションを検討しています。
これは倭寇の二大王が使った白扇の胡蝶陣というわけではありませんが、おそらくその周辺の海賊の寇術となんらかの関係があるであろうという布陣法です。
独立運動時代のゲリラ戦に使われていた物という記録ある、三人で三角形を作って戦闘の物を筆頭に敵に対峙するという戦法があります。
それに対応したらしき三角形を描くサヤウがいくつかあるので、その中の一つ「トライアングラル」をやりたいと思います。
現在の日本のフィリピン武術状況ではまず行われていない練習ですので、せっかくですから今回みなさんに体験していただきたく思います。
と、いうわけで今回のWSのタイトルは「黄金三角形を作れ!」としました。
よろしくおねがいいたします。
SMACの兵器
さて、ここまで倭寇について書いてきましたが、いろいろな武術や兵器が出てまいりました。
鉄棍和尚の棍などは、少林の定番兵器なのでまぁ、どの門でも用いられる物です。特に少林拳のうち、棍のない物は存在しないと言ってもいいくらいです。もちろん我々も行います。
それよりは少しだけ珍しいのは八大王の双刀でしょうか。
とはいえこれも中国武術では珍しくないですし「騎士団長殺し」の絵を見ても中国に限らず多くの海賊たちが刀の両手遣いをしていたであろうことが分かります。
もちろん、海戦技術から発生したうちの蔡李佛拳でも行います。
開祖の陳亨師は始め、広東の海岸際で海賊との交戦をする自衛団で指導をしていたと言いますので、海賊と渡り合える同じ技術が伝わっています。
なぜか私は表演などでこの双刀をやることを依頼されることが多いのですが、うちの双刀、両方とも普通は単体で使う長い刀です。
普通中国で双刀と言うときは、片方が長い刀で左手は短い刀であったり、あるいは両方とも短い刀であったりします。
それを両方長い刀。
正直、腕が疲れます。
このW長い刀を、我々は胡蝶双刀と言います。
そう、八大王の双刀と二大王の胡蝶陣との関連を思わせるものです。
もしかしたら、大倭寇の前後で倭寇たちにこのような物が流行ったのかもしれません。それがその後も海賊たちに残っていて、いまに伝わっている、というのは考えられることです。
この後、ちょっと話は面白くなります。
二大王が持っていた白扇ですが、これも中国武術ではままみる兵器です。
扇自体が軍師の身の周り道具なので、当然有事にはこれで戦うことも想定するわけです。
特に南派武術では、暑い地方に伝わった物のためにこれをよく用います。
この扇のことを、スペイン語でアバニコと言います。
ラプンティ・アルニス・デ・アバニコのアバニコ。
扇子自体は古代アフリカにもあったそうなのでヨーロッパにもあったのでしょうが、まさに倭寇時代にポルトガルの海賊貿易によって、日本や中国の扇は西洋で爆発的にヒットしたといいます。
つまり、アルニスの誕生期に隆盛していたわけです。
で、この扇子、鉄扇も蔡李佛で用います。
さらに言うなら、二大王を討ち取った鉄棍和尚の傘ですが、これも我々は兵器として用います。
これは比較的珍しい技術だと思います。
ちょっと功夫映画に詳しい人なら、洪拳を使うヒーロー、黄飛鴻が得意兵器として使っていたのを覚えているかもしれません。
洪拳と言えば、海賊武術の正統派です。
そして、我々蔡李佛の母体であり、故にか兵器としての傘もまた私は継承しています。
どうしたことでしょう。これにフィリピン武術を加えたことで、大倭寇に出てくるほとんどの兵器を私たちは練習していることとなります。
さらに言うなら、蔡李佛には鉄笛という兵器があります。これは鉄でできた横笛の暗器なのですが、その長さは60センチほどあります。
ほとんどアルニスのバストンと変わらない。
そして、驚くことに用法がアルニスにそっくりです。
絡み付けて相手の武器を奪うディスアーミングまでかぶっています。
同じことは南派を代表する兵器でもある三節棍にも言えます。
あれ、通常用法はそれぞれの末端を持って、さらには真ん中の節で体を守るというものなのです。
左右の節は双刀と同じように使うのですが、これは実にフィリピン武術的です。
この辺り、いまや偶然とは思えません。おそらく呂宋からわたってフィリピン武術の派生過程で取り込まれていったのでしょう。
ここまでの倭寇の歴史を考えればそう思うほうが必然的に感じます。
呂宋武術というのはつまり、もっとも南進した中華武術の嫡子であるというのが昔からの私の見立てです。
現在、伝統南派中国拳法と伝統フィリピン武術の両方のマスターは日本には私しかいないようなので、この部分を検証しあう相手はいないのが非常に残念なのですが、今後の有志の人々の研究によって、これらのことは一層に追及されてゆくことでしょう。
ご関心のある方、ぜひ私のもとにご連絡ください。
戚家軍の陣法
さて、我々SMACがいろいろな兵器を使っていることや、アーニスの陣形についてここのところ書きました。
武術には単一の相手と戦うことを目的とした都市護身術的な物と、多数戦を想定した合戦の武術があります。
時代がこちらに近づくにつれて、合戦の武術よりも護身術の隆盛が見られます。
中国でいえば清朝、日本でいえば江戸時代でしょうか。
16世紀から様子の見られるフィリピン武術においては、最初期には合戦武術であったものが、現代では対一を主体にしたものにシフトしていますが、スライドが決定的となったのは諸流にだいぶ遅れて20世紀後半からであると思われます。
その時代にバハドという決闘が盛んになって一気に技術が改変されたからで、その直前までは独立戦争や大戦におけるゲリラ戦に用いられていたため、ずっと多人数戦が前提でした。
そのおりに三人一組のフォーメーション戦法が行われていたと言います。
ラプンティ・アルニスに伝わっているトライ・ダイレクション、トライアングラル、コンプリートなどの移動系サヤウ(套路)が三角形の動線を描いているのはおそらくその時の名残だと思われます。
合戦武術において陣形というのは必要な物です。
大倭寇における戚継光将軍は倭寇と戦ったおり、専用の工夫を凝らしました。
この背景には、二大王の使った胡蝶陣が、その後も倭寇の常套戦法として使われており、それを破るために必要だったという物があると言われています。
それがこちらです。
鴛鴦陣と言います。
なんだかアメリカのサイコサスペンス映画に出てくる不穏な落書きのように見えますが、これは中国で書かれた有名な図です。
一番下に描かれているのは、刃止めの又が付いたサスマタのようなものです。
真ん中二列は槍ですね。
それより先にあるものが重要です。
これは狼筅という対倭寇専用に開発された兵器で、これが味噌です。
これ、バサバサとした竹の先に槍の穂を付けたという物です。
その先には盾を持った兵が二人います。これは防衛専門、刀を持っていますがファースト・インプレッションでは攻撃はしません。
まず突進してくる倭寇とぶつかり合って盾で勢いを止めます。
倭寇の胡蝶陣は左右に変化が激しく槍でもこれを止められない、とされているので、迎撃に出て隙を作ってはいけません。
盾で受け止めた後に左右の変化を殺すのが狼筅です。
竹の枝のバサバサしたところで刀が切り込んでこれないようにしつつ、先の槍で突いてゆくのです。
そうやってけん制している間に、さらに竹の葉の隙間から槍部隊が突きこみます。
さらには別角度から最後列の杈が牽制しつつの突きを入れてゆくという仕組みです。
念の入ったことに、必ず少人数にこれで攻撃を仕掛けてゆくようにと注意があります。
そもそも、倭寇勢に比べて官軍と言うのは人員は無尽蔵に補給できると言ってもいいのですが、にも関わらず苦戦してきたのはやはり倭寇が強かったというのがあるようなのです。
そのために、必ず多人数を持って少数に、陣を持ってかかるという策が取られたようです。
さらにはその多人数の内訳にも戚将軍はかなりの方針を持っていました。
まず、兵士となるものに制限を設けました。
以前も書いたように官兵というのは情勢が不利と見るやそのまま倭寇になってしまうようなのが多かった。それを避けるためにもなのでしょう。任侠の類は取りません。
さらには、狡猾であるというもの選別の失格基準でした。
また、武芸に優れていて、勤勉で忍耐強く、事務処理能力が高くて怜悧であるという条件もありました。もうほとんどエリート部隊です。
このような精鋭部隊の管理も公正に行われるように取り払われました。
このころの中国では汚わい役人による管理が隅々にまで行われていたので、彼らが自分の軍律を邪魔しないよう、賞罰を徹底して戦死した兵士の家族には恩賞が届けられるように管理しました。
その上で訓練を厳格にし、指揮が隅々にまで行き渡るようにしました。
これによって、強度に勝る倭寇に単身立ち向かうような乱戦を避けて陣法がきちんと用いられるようにしました。
軍紀も厳格です。
以前鉄棍和尚の時にあったような略奪を厳禁し、捕虜を殺害したり婦女を暴行することを禁じ、さらには田畑を踏み荒らしたり民家を破壊したりすることも禁じました。
なんでもいいからとにかく勝てばいいというのではなく、そもそもの治安維持やその後の復興を想定していたのでしょう。
これらの規律は厳密で、実際に敵前逃亡をした自分の長男を、戚将軍は処刑しています。
将軍たちの取り扱いにたいしても厳格で、兵将双方に対してこれらを厳しく適応していたということです。
こういった中で、戚家軍において拳法の訓練が行われ、苗刀術の訓練が行われていたのです。
これは現代にまで残る洗練された武術たりえたこともうなずけるという話です。
大倭寇後の武術史私論 1・拳経の短打拳法
さて。
ここの記事ではこれまで、フィリピン武術の成立や、清朝末における少林武術の南進の歴史を書いてきたり、近代西洋思想とタオイズムの関係を書いてきたりとしてきました。
最近では洪門拳法と鄭成功の軌跡について書いたりしたあと、さかのぼってその前の前期倭寇の時代を書き、この間まで後期倭寇について書いてきました。
時代的には大倭寇の後は鄭成功の時代となり、そこから清朝につながってゆくのですが、それらの流れの中での、中国武術の伝播について語ろうこれから書いてゆこうと思います。
昨年は心意把の伝播と福建鶴拳の成立に関する仮説を書いていったのですが、これから書いてゆこうと思うのは、倭寇武術のその後の伝播に関する、もう一つの拳法の歴史です。
心意把と鏡合わせとなる、もう一つの海上ルートでの拳法南進史です。
東アジアの武術には、いくつかの転機が見られます。
その一つが日本でいうと明治のあたり、中国でいう清朝の時代で、もう一つが大倭寇のころです。
この辺りの流れを時間を追ってみてゆきたいと思います。
大倭寇の時代に、陰流剣術が国際的武術となり、西洋剣術やエスクリマ、山東武術などと入り混じって戚継光将軍によって生まれ変わったのが苗刀術の始まりですが、さて、それとともに同様のアップデートされた拳法に太祖拳があったということは書きました。
戚継光将軍が兵法書の「拳経」に書き残した文として、以下の物があります。
古今の拳家には宋の太祖三十二勢長拳があり、また六歩拳、猴拳、囮拳という名のついた拳がある。
それぞれに称するところがあるとはいえ、実は大同小異なのである。
今の温家七十二行拳、三十六合鎖、二十四棄探馬、八閃番、十二短にいたっては、
これまた善の善なるものである。
呂紅八下は剛とはいっても綿張の短打にはいまだ及ばない。
山東の李半天の腿、鷹爪王の拿、千跌張の跌、張伯敬の打、少林寺の棍と青田の棍法は楊氏の鎗法と巴子の拳法と棍法をかねる。
この記述、結構重要な物なのでのちのち何度も使うことになると思いますが、私でもわかるところを分析しますと、猴拳というのは私論によるなら鶴拳の単打ということになります。
八閃番というのはまたの表記を八閃翻ともいう、古伝の翻子拳だと言われています。
ここに上がった拳法を融合して戚家軍では倭刀の基礎となる武術を作っていたというのですから、のちに翻子拳の名門馬氏で苗刀が伝承されているのはここが始まりかもしれません。
どうも戚将軍は拳法に関しては短拳が好きだったらしく、温家の七十二行拳というのも短打の拳法だったと言われています。
そこから出てきた結論が「呂紅八下は剛とは言っても綿張の短打にはいまだ及ばない」と言うことのようです。
その後、山東李半天の腿とありますが、腿ないし腿法と言えば蹴りのことです。これは山東の拳法蟷螂拳の看板である足払いのルーツであると考えれば、やはり短距離での技だと想像できます。
また、鷹爪王の拿とはのちの鷹爪功と同じくつかみ技でしょう。やはり接近戦を思わせます。
最後の一文にある楊氏の鎗法と言うのは有名な楊家将が使ったと言われる楊家槍のことでしょう。
そして最後に注目です。
巴子の拳法と棍法とありますね。
この巴子というのは、日本でも人気の東北地方の拳法、八極拳の古称だというのです。
巴子の発音はバーズー、八極の発音はバージーです。短打好きの戚将軍は実に慧眼です。
こうなってくると、山東蟷螂拳と八極拳、そして苗刀を継承する施先生の所属する八極蟷螂武術館というのはまさにこの戚家武術の直系だともいえるのではないでしょうか。
この訓練の行われた場所ですが、すぐ上に山東があり、下には福建があります。
この地理が重要です。
なぜなら、この武術がこれから南北それぞれに広がりうる地形だからです。
まずは北方に向かい、次の記事では山東の蟷螂拳について述べるところか始めたいと思います。
大倭寇後の武術史私論 2・山東蟷螂拳の発生
蟷螂拳の開祖伝説には、王郎という人物が出てきます。
どうやらこれは名前ではなくて、王という郎(男性)であったという意味だという説もあります。
この王郎、なぜ姓名を明らかにしていないかと言うなら、清の時代の反清複明結社の闘士だったからだとも言われています。
彼は革命の武術を学ぶために少林寺に潜入したのですが、中での腕比べでどうしても勝てない相手がいました。
その相手を単通と言うと記録にありますが、これもおそらくはあだ名なのでしょう。
彼は通臂功があり、左右の腕が一つにつながっているようだったそうです。
これ、つまりは私の論によれば猴拳であり、鶴拳ということになります。
この単通に勝てなかった王郎は、蟷螂の動きを見てコンビネーションについて悟るところがあり、独自の戦法を編み出します。
これによって腕比べに勝てるようになった王郎は、多くの少林拳を総合して自流を起こし、蟷螂拳と名付けます。
この王郎が取り込んだ拳法は以下のように記録されています。
太租の長拳、韓通の通背(臂)、鄭恩の纏封、温元の短拳、馬籍の短打、孫恆の猴拳、黄粘(祜)の靠身、
綿世の面掌、金相の磕手通拳、懐徳の摔捋硬崩、劉興の勾摟採手、譚方の滾漏貫耳、燕青の占
拿(拏)跌法、
林冲の鴛鴦脚(腿)、孟甦の七勢連拳、崔連の窩裹剖捶(錘)、楊滾の棍採直入、王朗の螳螂
呂紅八下は剛とはいっても綿張の短打。
山東の李半天の腿、鷹爪王の拿、千跌張の跌、張伯敬の打、少林寺の棍、青田の棍法、楊氏の鎗法と巴子の拳法と棍法。
大倭寇後の武術史私論 3・山東蟷螂拳の周辺門派
さてここで、山東蟷螂拳のアウトラインを門外ながら探ってみましょう。
まず技法的なことに関しては、蟷螂手と言われる独特の指先が特徴的です。
あれ、点穴などで相手の急所を突くためとも言われますが、実際はそう多様するものではなく、相手の攻撃を受け流したり相手の手を封じたりするときに行われがちなものだそうです。
足はと言えば独特の足払いが二枚目の看板技でしょうか。
しかし、私がもっとも強く印象を受ける蟷螂拳の技法的な特徴は、総合少林拳であって体系が良くできているということだと思っています。
周りにいる蟷螂拳修行者の話を聞くと口をそろえて言うのが「とにかく習ったその日に使える」ということです。
これはそもそも、いますぐ喧嘩に行くというような山東っ子が習ったその足で人を殴りにいくというような形で教授がされていたという話です。
このような喧嘩殺法から入って、その後に精密な内容に入ってゆく、というのが蟷螂門の構造のようなのです。
そのため、修行者の姿から蟷螂拳の典型というのは伺いがたいようです。それぞれの段階によってやっていることがまったく違う。
実は私たちの門には南派蟷螂拳が伝わっています。
これは典型的な並行立ち型の福建南拳で、客家に伝わっているいわゆる客家拳法で、客家拳に見られがちな短勁を猛烈に放つ恐ろしい拳法です。
山東の蟷螂拳はどちらかというと勁が長い印象があります。少なくとも、立ち方は低くてとても福建南拳のようなスタイルではありません。
そのため、長い間これはたまたま名前が同じだけでまったく関係がない物だと言われていました。
しかし、開祖伝説というのがこのようなものです。
「周亜南という武術家が福建にある南少林寺に寄ったとき、そこの僧と腕比べをしたがどうしても勝てない。考えあぐねていたところ、蟷螂が雀を倒すさまを見てコツを得て、その戦法を学んで一門をなした」
これ、基本ラインが山東蟷螂の物と同じですよね。
蟷螂が雀を倒すのだろうか、という疑問はおいておいて、同じ話のテンプレが伝わったものだとしか思えません。
もちろん話だけがコピーされて伝わってたんだろうな、と私もこれまで思っていたのですが、先日、苗刀を指導する山東蟷螂拳の拳師が、短勁を打つ姿を見ました。
その技法も立ち姿も、客家拳法そのものでした。
そこからどうも、この南北の蟷螂拳はつながっているのではないか、と思うようになりました。
おそらくは、山東の蟷螂拳の中の短勁を用いる部分が独立して一門を成したのではないでしょうか。
客家というのはそもそも、移動する漢民族です。
山東の物を南にもっていってもなんの不思議もない。
また、彼ら客家は革命勢力と昔から深いつながりのある一族です。
革命勢力が武力闘争のために編み出した拳法を伝承しているにはおあつらえむきです。
この山東蟷螂拳、王郎の時代の後に数派にわかれています。
代表的な物の一つが梅花蟷螂拳で、これはのちに梅花拳と呼ばれるものになったと言われています。
この梅花拳、実は義務教育で習っています。
中国史上最大の拳匪の乱という、義和団事件を覚えていますでしょうか。
この時につかれていた義和拳というのが、革命決起に当たって名前を隠す前までは梅花拳と呼ばれていたというのです。
もっとも、梅花という言葉は中国武術でよく使われるので、これは確実なことかどうかはわかりません。あくまでそのように書かれた資料がある、というだけです。
七星蟷螂拳で、これは羅漢拳の要素が強いと言われています。羅漢拳は実は、羅漢化鶴と言って福建鶴拳の母体となった拳法です。
反清複明結社が少林拳を南に運んで行った過程で変化したのです。
その羅漢拳がすでにここで入っている。
蟷螂拳は常に革命の影がちらついているのです。
これはおそらく、王倫の思想を継いだ弟子たちが別の革命勢力となって闘争を続けていたためなのではないでしょうか。
その、王倫の革命組織は、白蓮教と言いますが、この白蓮教、南宋の時代から起こった浄土宗の仏教を母体に、マニ教などが混ざった宗派です。
一般に弥勒菩薩を信仰していると言われており、これもまた常に革命を企てる組織です。
次回はこの、白蓮教絡みのことを書いてみたいと思います。
あまり興味がないという方もいるかもしれませんが、スター・ウォーズのパドメというキャラクターの名前は、白蓮という意味だそうです。
つまり、白蓮教の反乱はジェダイの革命活動のモデルにもなっているという非常に壮大な物なのですよ。
大倭寇後の武術史私論 4・カンフー・カルト
前回では、白蓮教の乱がおきたところまでを書きました。
では、WHAT’S 白蓮教、というのをここから書いてゆきたいと思います。
前回、白蓮教=パドメ、つまり、以前から私が言っているスター・ウォーズ中国武術史説を繰り返しましたが、それを踏まえて今回もお楽しみください。
白蓮教のルーツは、ペルシャからわたってきたマニ教だそうです。
これは三世紀に興ったもので、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教の影響を受けて成立したと言われています。
キリスト教とユダヤ教はともかく、ゾロアスター教というのはあまり知られていないかもしれませんが、これは拝火教とも言われていて、その教義と言うのは大きく言うとこういう感じです。
「世界の初めに、二つの存在があった。 一つは光の存在、アフラ・マヅダ。もう一つは闇の存在アンラ・マンユ。この二つは対立しており、人はそれぞれの間でうごめきながら、来るべき最終戦争に備える」
もちろん、火を拝するというくらいなので、ゾロアスター教徒は光を崇めて、闇と戦う人生を選ぶ、という趣旨です。
昔友人から、自動車メーカーのマツダさんはこのマヅダ、光というのが名前の由来になっていると聞いたことがあります。
さて、そんな教義の影響を受けたマニ教も基本的な考え方はこれと同じです。
この辺り、陰陽思想の中国とはだいぶ違います。闇が悪となってしまうと、陽勁を進化させて暗にすることも不穏だし、陰流も悪っぽくなってしまいます。
陰翳礼賛をしている場合ではない。
あるいは生存をするのにの過酷な砂漠宗教ではそんな悠長なことは言ってられなかったのかもしれません。
このマニ教、当時地球上で最大の国際都市であった唐の時代の洛陽にも伝来します。
それをきっかけに出入りしていた中東人たちの間だけでなく、中国人の間でも普及するのですが、およそその200年後に外来宗教の禁止令が出て弾圧されます。
しかし、宗教と言うのは弾圧されると必ず隠れ信徒によって地下化します。
マニ教の場合は、特に江南地方に潜伏したとのことです。
江南というのは、あの倭寇の本拠地の浙江や、のちの革命勢力の本拠地の福建があるとこ ろです。
繰り返し禁教令が出されて、その中でそれまでは摩尼教と当てていた漢字を魔尼教、さらには魔教と呼ばれてゆくようになったそうです。
魔教と言えば武教小説のファンにはおなじみですね。左道の武術に長けた悪の拳法集団としてよく登場します。
また中国の伝説によく登場する「喫菜事魔」というのも明教徒のベジタリアン集団をさしたものだそうです。
野菜を食べている……魔……?
どうも「世の中は悪に支配されているので光の戦士になって戦う」という思想が後ろめたい体制側にとっては反乱分子の養成所と受け取れて具合が悪かったようです。
もちろん弾圧されれば反抗も起きますし、知恵も働かせます。
道教や仏教を取り入れて日本でいう「マリア観音」のような物になってゆきます。「沈黙」の世界ですね。
この中で、弥勒菩薩への信仰と一体化していったものが白蓮教となったようです。
また、光を崇めるので明教、あるいは明の字の扁と作りを分けて日月教と名乗ったこともあったそうです。
まぁつまり、この辺りは名前は違えどだいたい同じような物、とみていただくと便宜上よろしいかと思われます。
初期倭寇の元となった元寇を起こした元の時代には、一時これらの宗教は解禁となりました。
なにせ体制側が侵略者の騎馬民族の帝国ですから、いまさら漢民族の思想的な対立には構わなかったのでしょう。
しかし、民衆側からすれば悪い支配者の人種が変わっただけです。白蓮教とたちは粛々と正義の炎を燃やし続けており、とうとう元末に大反乱を起こします。
彼らは頭に紅の布を巻いていたので、紅巾党の乱と呼ばれる事件です。
この反乱に影響を受けて、魔教の力を借りて一大革命を起こしたのが、朱元璋です。
潜伏していたマニ教系宗教の力を借りたこの帝国軍への反乱は、まさに光が闇を駆逐する結果となりました。
悪の騎馬民族帝国軍を倒して作ったこの光の帝国を、朱元璋は明教の名を取って明帝国と名付けました。
これが明朝の成り立ちです。どうです? ちょっと単なる史実とは思えないくらい面白くないですか?
この辺り、単なる土豪の勢力争いを繰り返していただけの日本史とは違うスペクタクルがあります。
さらに物語は続きます。
明帝国が気づかれて皇帝になるや、朱元璋は明教を弾圧し始めます。
おそらくは明教の上位者たちと権力闘争があったのでしょう。
スター・ウォーズでいうと皇帝がジェダイを冷遇し始めるあたりのくだりですね。
弾圧されるというのは明教徒にしてみれば慣れた物、再び地下に潜伏してゆきます。
これは私の考えなのですが、この時に革命勢力からの地下活動組織化というのは、二分されていたのではないかと思います。
かたやは明教で、もう一つは洪門です。
一般に清朝が起きてからの反清複明組織として語られることが多いのですが、実は明朝下ですでに成立していたという話があります。
そのおこりについては様々な可能性が考えられるのですが、もっとも古い可能性としてはこの明国革命の時に参戦していた、明教徒以外の革命組織のうちの一つが洪門になった可能性は高いのではないかと思うのです。
明末の鄭成功が洪門の英雄である海賊の頭領であったと考えると、明の時代を通して海賊や港湾周辺の勢力として彼らは活動していたのではないでしょうか。
となると、この後にあった大倭寇の時代にいた、浙江や船島諸島で官軍に敵対していた塩賊や地元勢力というのは、すでに海賊勢力化した洪門と、この潜伏白蓮教徒とが再びを結合していた可能性がかなり高いのではないでしょうか。
そのような歴史を通して、王倫の白蓮教徒の乱がおきたものだと考えられます。
大倭寇後の武術史私論 5・マーシャル・アーツ・ギャングスタ
さて、王倫による山東蟷螂拳の反乱は鎮圧されましたが、逃散した革命闘士たちは再び地下に潜伏します。
これらの潜伏は、陸においては魔教の、海側においては洪門の地下ルートが大いに活用されたものなのではないかと思われます。
これは明朝VS反乱勢力という構造をすでに離れ、体制VS生活を守るための反抗勢力という形がすでに自己目的化していたのではないかと思うのです。
いわば、マフィア化、地下帝国化です。
そしてこれは任侠の道であり、彼ら武術家が武侠と呼ばれる所以なのではないでしょうか。
侠とは「法に照らし合わせると正しくはないが、倫理に照らすと正しいところがある」という意味です。
つまり、悪法によるお尋ね者の倫理と言ってよいでしょう。
中国武術というのはこのような精神によって支えられてきました。
明帝国が滅びて再び騎馬民族が侵略を果たす過程で、以前にも書いた鄭成功による一大海戦の時代が訪れます。
そこはのちにまた改めて書きなおしたい重要な時代ですが、今回はちょっと飛ばして清朝末にまで一気に時代を進めてみましょう。
騎馬民族の支配による明朝の時代、再び漢民族は被支配階級となっています。ここで以前から潜伏をしていた各種の地下組織との親和性が立ち上がってきます。
この時代が中国武術の最盛期の一つと呼ばれており、それらの門派の背後に必ず宗教団体や地下組織が存在しているのはそのためでしょう。
騎馬民族はジェダイ寺院を破壊したように、武僧の勢力を恐れて少林寺を焼き討ちにします。
その尖兵となった一人に、白眉道人がいます。こういう人です。
武侠世界ではスター悪役として有名な人で、何本もの映画やドラマに出ています。キムタクとCMで共演したり、キル・ビルでもギャング拳法の師匠として出ていました。
この人、元は反清活動をしていた少林寺で修行をしていたのですが、のちに騎馬民族側に寝返って、自分の編み出した拳法で少林僧たちを単身次々と打倒してゆき、清軍を手引きして少林寺の焼き討ちを果たしたといわれている人物です。
この時、白眉道人は少林拳ではなく内家拳に傾倒していたと言い、それを取り入れていたために清に味方したという見方もできます。
内家拳の代表である太極拳こそが清朝の代表的な武術なのですから。
しかし、これはあくまで伝説のお話。
白眉拳師の編み出した白眉拳の中では、白眉道人と言う道教の呼称をせずに、白眉禅師と呼んであくまで少林拳の流れを主張していたりもします。
彼ら側の提出した資料によると、白眉拳は門内での腕試しから現れた拳術で、代々僧にしか伝えられていなかったと言います。
また、別の説では白眉師はもう少しだけ後の時代の人で、少林寺が焼き討ちにされたあと、そこから落ち延びた五人のジェダイ・マスター、ではなくて五人のカンフー・マスターが福建において反清複明の福建少林寺を建立したときに、そこで修行を積んだ人だという話もあります。
これだとすると時代的には、のちに内家拳に傾倒してそちらに鞍替えしたという説もあり得てくる気がします。
とまれ、武侠のうちで悪役の印象がついているという非常に珍しいキャラクターです。
この印象的な人物が使った白眉拳、実は私も少しだけかじっていました。
驚勁、あるいは驚弾勁と呼ばれる勁を活用する、並行立ち型の典型的な福建拳法です。
この福建が革命結社や地下組織の本拠地だとすると、倭寇武術や洪門武術との関連性が問われるところです。
この白眉拳、現代に伝えられているものは、四世伝人の 張礼泉先生によって伝えられてきた派です。
この張先生、客家です。
いとこ同じ客家拳法の龍形拳の師父がおられます。
この二つの拳法には用勁の部分で非常に共通性があり、私も学んだ時には併習しました。
そして、これらと同じで兄弟の拳法だとされているのが南派蟷螂拳です。
白眉拳と南蟷螂の間には、少林の腕比べの拳法であったこと、ともに短勁であることなどの共通点がありますが、それらは同時に山東蟷螂拳の伝承にもあることです。
ために私は、王倫白蓮教徒の乱からの山東蟷螂拳の流れがここにつながっているのではないかと考える次第なのです。
と、いうようなところで次からはスーパー拳法大戦ともいえる太平天国の乱と、心意把、白鶴拳への流れについて触れてゆきたいと思います。
大倭寇後の武術史私論 6・五祖の海賊拳法
さて、前回書いた白眉道人と白眉拳についてもう少しだけ補足するところからお話に入りましょうか。
伝説にある福建少林寺には、五人のマスターが潜伏していて、そこで反清複明の闘士を育成していたと言います。
そこで育った拳師たちが、南拳五祖と呼ばれるニュー・ジェネレーションの五人のマスターたちです。
白眉道人はこのうちの一人です。
ほかのメンツには、至善禅師や、五枚尼姑がいます。
至禅禅師は少林の正統を受け継いだと思わしき人物で、弟子には洪拳の始祖とされる洪煕官や三節棍の開発者だと言われる三徳和尚がいると言われています。
これは非常に面白い人物です。
というのも、洪煕官というのは実在はしておらず、架空の人物だという説が今では主流だからです。
とはいえまぁそれを言い出すとそもそも、この福建少林寺の存在自体がいまだに確認はされていません。
どうも発掘物があったという話も近年あるのですが、いまだ確証となるには至っていないという現状です。
洪煕官は、そのようなあいまいな伝説の中にいる人物で、彼の存在を持って洪家拳(洪さんの家の拳法)という言葉が出てくるのですが、実際はそれより以前から洪門に伝わっていた革命拳法であったという説のほうが説得力があります。
おそらくは洪拳と洪門のつながりを隠蔽するための仮託なのではないでしょうか。
三徳和尚というのも、三節棍の創始者と言われていますが、これこそが棍や双刀の技術、そして盾を兼ねたまさに倭寇武術の総決算のようなものです。
門外にはあまり知られていませんが、実はこれはマスターの中でも上位の者のステータス・シンボルのようなところがあって、年長の大物師父が表演に使う物です。
つまり、南少林拳のど真ん中の大師匠とみなされているのがこの至善禅師だと言ってもよいかと思われます。
片やの五枚尼姑と言うのは尼さんです。彼女が、福建南拳独特の女性創始者伝説のある武術の始祖とみなされています。
おそらく彼女もまた実在度は不明でしょうから、いわばシンボルとしての守護女神のようなものだと捉えればよいのではないかと思います。
福建の女性創始者拳法というと、永春拳と白鶴拳が知られていますが、この二つの荘子伝説を念のために紹介しておきましょう。
まず永春伝説には、厳永春という女性が五枚尼姑から学んだという継承型の物と、父から学んでいた物を独自に女性向けに改変して編み出したという物があります。
これに対して白鶴拳の伝説ではより具体的で、半清複明活動家であった羅漢拳の使い手の父から拳法を学んだ方七娘という女性が、鶴の生態を見て拳法を羅漢拳を改変して創始したという物です。
一見どちらも女性創始という以外にはあまり共通点がないようなのですが、この両者は代々中国では同一視されていて、永春の名も方永春としている資料もありますし、また永春の師は至善禅師であるという伝説もあります。
なぜこのように同一視されているのかというと、おそらくは白鶴拳のうちに永春白鶴拳という門派があり、ここが同じ拳法だとみなしているためです。
そもそも福建省に永春という地名があると言う話があり、永春白鶴拳はそこで発祥したのですが、伝承のルートが二股に分かれたようなのです。
海上生活者や海上旅行者などのうち、本職の武術家ではない者の護身術として抜き出されたのが永春拳だと言われています。
そのために、羅漢拳が重視しているような内功による肉体の強化などの要素がこちらでは必要とされない。なくても短期間で身を護る分だけのカテゴリーを重視しているとされます。
そのために、刀や槍という合戦のための兵器が重視されていません。
対して白鶴拳のほうはその後台湾に渡ってなお抗争を続けるに至る歴史の中で、面々とレボレイターを練兵する拳法として継承されてゆきました。
そのような大きな武術から護身術として抜き出されてカテゴライズされたためか、この福建少林系の拳法には永春拳の部分が併伝されていることがあります。
洪拳の簡化された護身術(彼らは防身法という言い方をします)としても伝わっていますし、私自身は白眉拳の中に一つのエッセンスとして入っているものを触りました。
そのため、永春拳を数年でマスターした後で今度は白鶴拳や南派蟷螂拳を正式に学び始めるといった師父の話もよく聞きます。
およそ、香港で看板をあげてる他門の師父のうち、多くが永春拳も教授しています。
そして、それらの武術の多くはこの南拳五祖に由来するという南少林拳であり、客家拳法に代表される並行立ちに構えて驚勁を放つそれらは非常に似通っています。
要約しますと、山東蟷螂拳の短勁の部が福建に伝わり、そこで南蟷螂拳となり、そこから龍形拳や白眉拳や白鶴拳が派生したという可能性があるのです。
南少林寺というのは、おそらく実際に寺としての形があったというよりは、そのような革命結社の集まりがあったと考えていいのではないでしょうか。
至善禅師になぞらえられるのは洪門であり、山東蟷螂から派生した防身術から洪門派の永春拳が生まれたということは十分に歴史的にもつじつまが合います。
となると、これは大倭寇時の戚家軍の拳法、ないし敵対していた倭寇拳法がそのルーツであってもおかしくない。
実際、七星蟷螂拳の伝承者は二世の伝人からはほとんどが広東と山東の人です。
いわば二世の段階から地理的には半ば南派拳法となっているのです。
これは技術的にも共通します。
指先で目を突いたりする戦法は福建南拳の基本拳に含まれているものですが、まさに蟷螂手から来たものだと考えても違和感がありません。
蔡李佛の基本拳である八卦拳や形意拳の基本拳である五行拳の中に、指先で目をつつくなんて言う物はありません。
基本を同じくしているというのはまさに技術の共通性を示すものでしょう。
蟷螂手法という手をからませる橋法もまた、福建南拳に共通するものです。
つまり、拳法の基礎を占める立ち方、基本手法、戦法がかなり近似しているのです。
以上のような理由のため、山東蟷螂拳南進説を聞いたとき、私も非常に納得のいく思いがありました。
ちなみに、海賊の活躍地域であったインドネシアやフィリピンなどの東南アジア地域で盛んにおこなわれている拳法に、五祖拳があります。
これは、達磨大師の拳、宋太祖の拳、孫行者の拳、白鶴拳、そして羅漢拳を一門に合わせて学ぶという派です。
達磨大師は少林寺の開祖、宋太祖はすでに何度も紹介してきた太祖拳の開祖であり、孫行者というのはあの西遊記の孫悟空のことです。三蔵法師がつけたあだ名の孫行者に由来して、猴拳のことを行者門と言ったりします。
白鶴拳は上げた通り、そして羅漢拳は白鶴拳のルーツですね。
と、いうことはつまり、これは伝説にある南拳五祖の拳の実態であると考えても差し支えないのではないかと思われます。
さらに言うなら、達磨大師の拳とその弟子である羅漢さんたちの羅漢拳を同一線上にある物とみなします。そしてそれらが羅漢化鶴して鶴拳になったと考えます。
すると残りは太祖拳と行者拳です。
蟷螂拳のもとになった王郎の拳法を覚えていますでしょうか?
この中に「太祖の長拳」と「孫恆の猴拳」が含まれています。
つまり、ここまでの文脈は大倭寇の時代から脈々と引き継がれているのです。
以上のディティールの総合像として、これらが清末における南派拳法、つまり海賊拳法のアウトラインであると受け止められます。
さて次は、視点を少し北上させてみましょう。
大倭寇後の武術史私論 7・マニの神話と十大形
さて、大倭寇後の時代の広東、福建での南派拳法の伝播と、東南アジアへの普及を書いてきました。
ここで別の角度にある物に注目しなおしてみたいと思います。
それは、マニ教です。
ちょっと長くなるので要約するのが大変そうですから、ウィキペディアからマニ教の神話を引用してしまいましょう。
マニ教の神話では、
- 原初の世界では、「光明の父」もしくは「偉大なる父(ズルワーン)」と呼ばれる存在が「光の王国」に所在し、「闇の王子(アフリマン)」と称される存在が「闇の王国」に所在し、共存していた。「光の王国」は光、風、火、水、エーテルをその実体とし、また、「光明の父」は理性、心、知識、思考、理解とでも翻訳される5つの精神作用を持っており、それを手足とし、また住まいとしていた。しかし、「闇の王子」はそれを手に入れたいと考え、闇が光を侵したため、闇に囚われた光を回復する戦いが開始された[5]。「光明の父」は「光明の母」を呼び出した[5]。
- 「光明の母」によって最初の人「原人オフルミズド」が生み出された。原人は、光の5つの元素を武器として「闇の王国」へと向かい闇の勢力と戦うが、これに敗北して闇によって吸収されてしまう(「第一の創造」)。オフルミズドは闇の底より助けを求めた[5]。
- 「光明の父」は「光の友」ついで「偉大な建設者(バームヤズド)」「生ける霊(ミスラ、ミフルヤズド)」を呼び出す。偉大な建設者は「新しい天国」を作り、「生ける霊」は闇に囚われていた横たわるオフルミズドを引き上げて「新しい天国」へ連れて行ったく(「第二の創造」)[5][注釈 3]。
- オフルミズドとともに闇に囚われた光の元素は闇に飲み込まれたままであったが、これは闇の勢力にとっては毒となるものであった。一方「生ける霊」とその5人の息子たちは、闇に囚われた光の元素を救い出すため、闇の勢力との間に大きな戦争を繰り広げた。そして、このとき倒された闇の悪魔たちの死体から現実の世界が作られた[5]。悪魔から剝ぎ取られた皮によって十天が作られ、骨は山となり、排泄物や身体は大地となった[5]。
- 「光明の父」は「第三の使者」を呼び出し、さらに「光の乙女」「輝くイエス」「偉大な心」「公正な正義」を呼び出す[8]。闇の執政官アルコーンには男女の別があるが、男のアルコーンに対しては「光の乙女」、女のアルコーンに対しては肢体輝く美しい青年の姿で顕現し、彼らが呑みこんだ光の元素を放出させようとする。男のアルコーンは情欲を催して射精し、精液の一部は海洋に落ちて巨大な海の怪獣となったが、海獣は光の戦士によって倒され、残りは大地に落ちて植物となった[5][8]。女のアルコーンは地獄で流産し、大地に二本足のもの、四本足のもの、飛ぶもの、泳ぐもの、這うものという5種の動物を産み出した[8]。
- 闇の側では、虜にした光の元素を取り戻されないよう、手元に残された光を閉じ込めるため「物質」が「肉体」の形をとって、全ての男の悪魔を呑み込んで一つの大悪魔を作り、女も同様に大女魔を作った。大悪魔と大女魔は憧憬の対象である「第三の使者」を模して人祖アダムとエバ(イヴ)を創造した[8]。
相変わらずのすごい幻魔大戦ストーリーに圧倒されてクラクラしてしまいますが、思い出してください、これが反清複明の明ということですからね。
これが彼らの闘争の思想的土台ですよ。立ち直ってください。
この神話の中に、気になる部分があるのです。
それは、数字で言うと5の部分の最後にある、日本神話の蛭子に相当する部分です。
ここで描かれているものとそっくりな物を武術の技術で聞いたことがあるのです。
それは、私がかつて学んでいた回族拳法です。
海賊じゃないです、今回は回族です。
その拳法を、心意六合拳と言います。
文革のころまでは十大形と呼ばれるのが一般的だったと言います。
これは十種類の動物にカテゴライズされた技法からきているのですが、その十種類の動物というのは、鷹、燕、ハイタカ、鶏、サル、熊、トラ、馬、蛇、龍です。
この十種類を一生懸命覚えないといけないのですが、ある拳師がこの十大形のことを「二本足の物二種(鶏とサル)、四本足の物三種(熊、トラ、馬)、飛ぶもの三種(鷹、燕、ハイタカ)、這う物二種(蛇と龍)と言っていたのです。
このような言い回しは、あるいはイスラム教などの砂漠宗教では一般的な物なのかもしれません。
これだけならあまり拳法や革命(拳匪)とはあまり関係ないようなのですが、明思想が革命結社に共通しており、それらが体制という巨大な敵との対決を大目的として一つになっているので、実際に回族拳法はこの後の拳法家革命で大活躍をするのです。
もちろん十大形もその一つです。
そしておそらくはこれらは、革命拳法の成立に大きくかかわっているのです。
先に書いた五祖拳もまた、二本足の物(猴拳)、飛ぶもの(鶴拳)が含まれています。
四本足の物と言うと、洪拳はトラをシンボルとしています。
這う物はと言えば、龍形拳です。
4月の練習予定 随時更新
四月の練習予定です。
2日 日曜日
海賊武術練習祭
文教江戸川橋体育館 12時30分ー18時
16日 日曜日
湘南練習会 10時ー11時45分
茅ヶ崎駅より海側に向かい、鉄砲道と交差する信号を左に入ったすぐのところに看板が見えます。
関内WS 18時ー20時
関内駅より五分 フレンドダンス教室
23日 日曜日
アルニス・サンデー 10時ー12時
山下公園、マリンタワー前の芝生にて
各土曜日 通常練習
お問い合わせください。
と、なっております。よろしくお願いいたします。
大倭寇後の武術史私論 8・喧嘩殺法の台湾分布
南少林という革命兵士の養成所について書いてきましたが、前に書いたようにこれ、実在がまだ確認されていません。
というのも、伝説の上でも結局は焼き討ちにあったという物があるので、やはり帝国軍に発見されてしまったのでしょう。
白眉道人が嵩山少林寺ではなくこの福建少林寺の弟子だったのだとすれば、彼が裏切ったというのもここでなのかもしれません。
日本では長いこと、北派が高級で南派は低級だという嘘がまかり通ってきましたが、これは中国ではあまり聞かないことのように思います。
ただ、北が政治的にリードしており、北派の拳法のほうが歴史が古いとされているという話から、歴史的な優位が北にあるという見方はあるかもしれません。
その上でなおの私的見解なのですが、山東蟷螂拳の膨大な内容のうち、喧嘩殺法的な部分と短勁が中心となって南で多くの門派に伝わったのだとしたら、ちょっとした偏見の元にはなるかもしれません。
喧嘩殺法の部分は革命戦士には非常に重要なのですが、何十年も生きて一生かけて追及するような学問としての武術とは一線を画すことになります。
そのために、南派が戦って弱いという人はいませんが、あまり高尚ではないという見方をしている人はいるかもしれませんね。
とはいえこれは現代社会においてはちょっと気を付けて取り扱わなければならない処のようにも思います。
というのも、元は命を懸けて国のために働いていたからこその必要があった喧嘩殺法的手法です。
それを平和な時代に振り回していたらちょっと問題があるでしょう。
正当な拳法を学んだ中国人老師方は、喧嘩拳法に長けた老師を弱いとは言わない物の、やはり少し鼻白んでいるという話は聞いたことがあります。
そのようなチンピラは黒社会御用達の拳法としての南派という印象はあるのかもしれませんね。
私自身も中国人の友達に拳法をやっていると言ったときに「なんでだ? あんたヤクザか?」と言われたり韓国人の友達からは「親がよく許したな。どういう家庭だ? 普通の優しい家か?」と訊かれたりしました。
確かにエスクリマも、海外での評価がフィリピンにフィードバックするまでは本国ではチンピラのやるものだと思われていたそうです。
両者に共通するのが、腕試し的技法の橋法(腕を絡めあって戦う技法)への依存度です。
これはボクシング的なスポーツの世界ではまず行われない技術です。
また、古伝の高級武術でもあまり固執はしない部分です。
そこに専念して一対一の腕比べにこだわるところが、喧嘩拳法だとみなされがち、あるいは実際にそのようになってしまいがちはところがあったのかもしれません。
王郎の単通との勝負というのは、両腕が通背功で通っている正当な勁力主義に対して、セミを捕まえるような蟷螂手法での橋法による勝負優先主義が勝りうるという問題を提示していたのかもしれません。
そしてこのことは、数や装備で勝る相手にいかにして勝るかという革命戦のゲリラ戦の思想につながるのではないでしょうか。
ラプンティ・アルニスの独特の接近技法を体験してくれた人が「これは泥試合の戦い方だ」と言ったことがありましたが、まさに海賊衆の武術とはそのような物だったのとしても不思議はありません。
そしてそのようなゲリラ戦喧嘩拳法のアジトが、台湾です。
共産党革命で武術家が台湾に大挙して移住するよりずっと前、すでに鄭成功によって台湾は洪門のアジトになりました。
1662の鄭氏政権の確立です。
これは鄭成功率いる反清勢力が台湾を占拠して、海賊兵団の国としたという出来事です。
興味深いのは、鄭成功がこの国を「東都」と命名したことです。
そう、かつて呂宋国の首都であった場所と同じ名前です。
ここにもこの海域に暮らす「海を住みかとする人々」の社会のつながりを感じることができます。
福建少林寺から発生したという白鶴拳は、現在では台湾を第二の本場として知られています。
ここにおいても通称を「福建白鶴拳」ないし「福州白鶴拳」と呼ばれているようです。
前回で話がちょっと北上してさみしかったので、今回は強引に南に戻してみました。
なお、この鄭氏の東都王国はわずか23年の期間で、帝国軍による反清複明撲滅運動の攻撃にあって滅んでいます。
ただこの短い王国は、現代でも台湾の人々の精神的支柱となっているとのことです。
大倭寇後の武術史私論 9・太平天国拳法
鄭氏台湾王国「東都」が帝国軍によって滅ぼされ、福建少林寺も白眉道人の裏切りによって焼け落ちたと言われています。
それ以降の、明教、白蓮教、海賊勢力である洪門はそれぞれ潜伏して地下活動に入りました。
それが再び一斉に活動をするのが太平天国です。
これは我々にとっては大変に関係の深い歴史的事変です。
なにせ我々鴻勝蔡李佛拳と言うのは、太平天国に由来して「太字拳」「平事拳」「天字拳」「国字拳」という套路があるくらいです。
順を追って説明してゆきましょう。
1815年に生まれた広東の少年陳亨は、叔父から洪拳を仕込まれます。場所が海際であったために、洪門の拳がすでに広まっていたのでしょう。
才覚を現した陳亨は李家拳を伝える李友山という拳師からそれを学びます。
その後、伝説によると彼はさらなる奥義を求めて師を探し歩き、とうとう至善禅師に遭遇したのだと言います。
あの、南拳五祖のです。
陳亨はそこで至善の教えを受け継ぐ蔡福禅師から教えを受けることを許され、彼の少林拳を継ぎました。
修行を終えた陳亨は広東に戻り、そこで海賊の襲撃に対する自衛団の指導者となります。
そこに、李友山の弟子であった張炎という少年が入門してきます。
この辺りがまた何かの縁故の働きを感じさせるところです。
その力はこの後もさらに働きます。
住み込みでの五年の修行をした張炎に陳亨は、自分が修行時代に聞いた青草という僧の少林拳の話をし、彼はさらに高い技術を受け継いでいるのでそこで修行をするようにと送り出します。
張炎は青草僧を見つけ出してその下で八年の修行をします。
この青草僧が洪門の熱心な活動家であったらしく、張炎は思想教育を受け、活動のネットワークに加えられて国に陳亨のもとに返されます。
この時、僧は張炎に洪の勝利を意味する鴻勝(洪と鴻は発音が同じ)の名を与えました。
師のもとに帰った張炎は、陳亨とともに李家拳と蔡福禅師の拳法、そして青草僧が与えた佛門掌を統合して蔡李佛拳を編纂しました。
こうして陳亨は洪の字を残した「洪聖館蔡李佛拳」を名乗り、張炎は「鴻勝館蔡李佛拳」を興して革命活動家の間に広めてゆきました。
彼は1851年に始まった、太平天国の乱に参加します。
これはキリスト教革命をお題目にした革命運動だと言われていますが、実際にはこれまでの大倭寇や白蓮教の反乱と同じく、その周辺に革命勢力が合流して起きていた物です。
張炎以外にも、様々な武術家がこの革命に参加していました。
特に清朝の弾圧で大虐殺をされていた回族の拳法が盛んだったようで、この活動の中で八極拳や心意六合拳との技術交流が行われたと言います。
八極拳は今回の企画では蟷螂拳の元の一つ、巴子拳として前に出てきましたね。
心意六合拳については十大形で触れました。
さらに言いましょう。この太平天国というのは、客家から始まったものです。
科挙で役人になろうとしていた政治青年の洪秀全という人が始めた革命なのです。
ほらね、すべてがつながってきたでしょう?
これがスーパー拳法大戦と私が呼んでしまう所以です。
海賊武術に八極拳、心意六合拳、龍形拳に南蟷螂拳と言ったここまで書いてきた革命拳法が一斉に蜂起したのです。
対する清朝側の拳法はと言うと、愛新覚羅家をパトロンにしていた太極拳や、後宮の護衛官を訓練していた八卦掌です。
これがどうも、白眉道人が内家拳に傾倒していたから革命活動を裏切ったという伝説の元ネタのようです。
しかし、別にどの門派も一丸となっていたわけではありません。
特に、清朝末における八極拳の活躍は縦横無尽です。
皇帝のボディガードが八極拳士だったように、実は八極拳はサイヤ人のようにあちこちにやとわれて分散していたのです。
現代でも回族系八極拳と漢族系八極拳が分かれていることとも関係があるかもしれません。
最終的に、太平天国の息の根を止めたのもある意味でこの八極門でした。
軍閥である曾国藩とその弟子である李鴻章は、八極拳士を雇って兵を調練していたと言います。
彼らの率いる軍によって大打撃を受け、奪い取ってアジトとしていた南京を陥落させられて、この革命運動は終息に向かっていったのでした。
張鴻勝こと張炎師は、こののち台湾に落ち延びていったとの伝説があります。
大倭寇後の武術史私論 10・そのころの日本と言ったら
清朝中国が太平天国革命で激動しているころ、現地でそれを見ていた日本人が居ました。
高杉晋作です。
幕末の志士で有名な人です。
当時の江戸幕府で物議をかもしていた開国論の調査の一環として、貿易をできないかの査察に行ったのです。
高杉晋作と言えば長州の藩士で最後は風邪をこじらせて亡くなったなんて話が有名でしょうか。
実はもともと肺病病みだったらしく、それで短命を自覚していたのかそれとも師匠の吉田松陰が亡くなった直後でその「狂の思想」を示さねばならないと忠誠心に燃えていたのか、テロ活動に出る気まんまんだったそうです。
ちょうど政治的に微妙な時期で、そんなことをされては大迷惑と感じた木戸孝光が、高杉さんを外国船に押し込んで遠ざけてしまいます。
正直とにかく扱いづらいことで有名だったらしい高杉相手に、木戸孝光もそんな簡単にことは運ばないと思っていたようなのですが、そこはマッド・ドッグ高杉、戦争と最新兵器が観れると以外に乗り気で船に乗り込んで上海に向かったようです。
実はこのころすでに中国ではアヘン戦争と太平天国が起きてることは日本でも知られており、太平天国党の下位組織である小刀会に上海が占拠されているのを知っていた高杉さんは、そこでの太平天国の戦闘が見たかったそうです。
これはどうも、吉田松陰が生前、洪秀全を軍略家として高く評価していたのとも関係があるようです。
そんなわけで高杉が上海につくと、一旦は欧米の軍によって太平天国党は追い払われた後でした。
しかし、周辺は太平天国に包囲されており、時々交戦の音が聞こえたそうです。
不安になる仲間たちをおいて彼は大興奮し、戦争が見たい太平天国党が見たいと手記に残しています。
ですがここで彼が実際に肉眼で見たのは、上海を守るために来ている列強の兵士たちに対して中国人がオドオドしている姿でした。
これを目の当たりにして彼は、列強の支配とはこういうものか、洋人を決して日本に入れてはならぬとの思いを強くしたようです。
帰国後、高杉さんは奇兵隊を組織します。
外国との交渉にかかわったり、幕府軍と戦ったりの人生を送ったのち、先ほど書いたように肺の病を悪化させて若くして亡くなります。
「面白き ことも無き世に 面白く」「三千世界の鴉を殺し」などの文の才能もあった人であり、かつ剣術にも打ち込んだ、見事な人生であったようです。
なお、彼が皆伝を受けた剣術というのは、奇しくも新陰流でありました。
さて、高杉さんをしのびながら思い出してください。
陰流が発祥したとき、日本はまさに戦国時代でした。
明国に倭寇をしていた時代ですね。
そして高杉さんが亡くなった幕末、清朝もまた末期で太平天国が起きてます。
つまり、大倭寇から太平天国の間に、日本では江戸が始まってもう終わるのです。
日本で流儀武術というものが生まれて、最盛期を迎えて今度は急速に終息して行った期間が、この山東蟷螂拳が伝播して行った時代にまるまるスッポリ重なるのです。
次回はここを振り返ってみようと思います。
大倭寇後の武術史私論 11・剣と禅
さて、倭寇の時代の本邦にさかのぼってみたいと思います。
まず、初期倭寇、元寇の仕返しがあった時代には流儀武術があったという明確な資料はないようです。
いちおうその土台となる合戦の戦法はあったようですが、システマチックな物として体系付けられてはいなかった、ということでしょうか。
歴史上信頼のおける資料ですと、その後の南北朝時代には兵法三大流派の最古の物である念流の念阿弥慈恩が居たと言われています。
ここで面白いのは、この流儀の発祥伝説が、父の仇を討とうと鞍馬山で修行をしているときに異人と会って秘伝を託された、という物であるところです。
この鞍馬山牛若丸が住んでいたところです。
牛若丸と言えば、カラス天狗と剣の修行で有名ですね。
つまりここは、昔から異人と剣を修行する場所であるとみられていたわけです。
ちなみに鞍馬山というのは、サンスクリット語のサマート・クマラという言葉からきているそうです。クマラが鞍馬になったのですね。
このクマラ、ヒンズーの神話にある聖者の名前だそうです。
クマラ信仰が起こる前は、毘沙門天を祀っていたと言います。毘沙門天ももとはインドの神様で、中国では託塔天王とも呼ばれて戦の神様になっています。
演義小説では、孫悟空と対等の力を持つ那托太子の父親として知られています。
もともと、異国の武人を祀っていた場所なわけです。
だとすると、ここに本当に異国の武人が居たとしてもおかしくはないですね。
日本の仏教では現在、なぜか中国では行われていたヨガや気功、武術が行われていないようですが、この時代に行っていなかったという保証はありません。
念阿弥慈恩、この山で修行を積んだ後はさらに鎌倉に行って僧に教えを請うたり、仇討ちを果たした後は禅僧になっているあたりからも、禅系武術の気配が非常にいたします。
これらの資料がもし正しければ、日本剣術と禅の密接な関連性は、江戸時代になってからの剣士たちが言い出したのではなくて、そもそも成立初期の段階からあったのだということができます。
これは非常に中国的なお話です。
大倭寇後の武術史私論 12・神道流系剣術
兵法三大源流と言えば、念流のほかには神道流系と陰流系となります。
このうち神道流系というのはその名の通り、霞ケ浦の香取、鹿島の神宮に伝わって居たと言われている武術です。
先に挙げた念流が仏教系だったのと比べると非常に対照的ですね。
これならば中国の流れは汲んでいないかもしれない。
しかし、ここにもやはり気配はなくもないのです。
というのもここ、海に面しており、海夫と言われる海の生活者たちをまとめていた場所だと言われています。
そこに伝わって居た戦法というのは、東シナ海の海賊剣法と同じく海上、ないし臨海での戦闘法でありえます。
ただ、時代的に言ってここでの仮想的と言うのはまだ日本列島が平定される前なので、東北方面の奥州勢であり、中国や朝鮮半島方面からの侵略ではないようです。
どころか、鎌倉幕府の力が強かったため、比較的平和であまりこの当時の戦法は使われなかったのではないかという話もあります。
これを体系化し、さらに自ら修行をして工夫を加えたのが飯篠長威斉です。
一説によると、この時代までの戦法にはなかった「型」という物を初めて設定したのが飯篠長威斎だという話もあるくらいです。
さて、念流との兼ね合いはどうなのでしょうか?
ただ確実に言えるのは、この流派の型というのは非常に複雑かつ長い物で、後の日本武術の型とはかなり印象が違うものだということです。
まるで、中国武術の対打のように見えます。
と、いうとまたそれもバイアスがかかっていることのように聞こえるかもしれませんが、実はここにも中国の影が現れるのです。
というのも、この香取神宮にある国宝に海獣葡萄鏡というものがあり、これが唐の時代の物だというのです。
来歴は現状不詳だそうですが、少なくともこれまでの間に唐との交流があったかもしれないということがうかがえます。
さらにグッと核心に迫ってみましょう。
香取神道流、実は剣術だけをやっているのではありません。
棒術や槍、長刀があるのはまだしも、なんと風水術というものがあるそうなのです。
風水と言えばあの風水でしょう。DRコパの奴です。香港にとんがったビルをたくさん建てた、中国の方術ですよね。
築城術もあるというから、きっとそれと合わせて行うのでしょう。
これが果たして、最初からあったものなのかどうかはわかりません。
のちの時代の神道流剣士が取り入れたものかもしれません。
ただ少なくとも、中国の学問が現実として取り入れられているという事実はあるようだ、ということです。
そして、なんと忍術があるそうなのです。
これも、忍術というのが孫氏兵法だとすれば、風水、築城術と同じルートで来た可能性も高まってくるのではないでしょうか。
大倭寇後の武術史私論 13・陰流で核心に迫る
さて、残る一つの陰流に関しては、大倭寇本編で書くべきところはおおよそ書いてしまったようにも思います。
しかし、ここであくまでごくごく私論としての考察を加えてみたいと思います。
倭刀戦法に関して、中国側の資料が口をそろえて言っているのは「倭寇は動きが素早く左右に転換して我々ではとても追いつかない」ということです。
二大王のところにもあったように、その転換を妖術だとさえ言っています。
その戦法に対してこれを陣形戦で足止めして倒したというのが少林寺の鉄棍和尚であり、また戚継光の鴛鴦陣である、というのは書きました。
そして同時に戚将軍に関しては、倭刀の導入をし、倭寇剣術を模倣さえしています。
これに関しては物質的な理由として、陰流の伝書が入手できたことと、当時世界最大の銀貿易をしていた日本国が大量の日本刀を海外に販売していたことがあります。
むかし、日本刀は実戦では使われていなかったなどというトンデモ本(自分が提示した資料と本文が常に矛盾している)がありましたが、むしろ海外で日本刀は盛んに実戦採用されていました。
この日本刀、当時は中東の刀剣と並んで世界最高制度の切れ味があったということが語られますが、これこそがこの左右への変化にかかわる部分なのではないかと推論します。
当時の官軍に対して倭寇側が変化で勝ったのは、人海戦術を定番とした中国戦法に対して人数で劣る倭寇がゲリラ戦の用兵をしていたからだというのは前提にあるのでしょうが、そのゲリラ戦法に鋭利な刃物と言うのは非常に適していたのだと思われます。
戚将軍は「倭寇に槍を持ってしても届く前によけられて切られてしまう」という旨のことを書いていますが、当時の主要兵器であった槍が通じないというのは大問題だったでしょう。
これは槍を使った陣形戦というのが足を止めて相手の陣の突進に備えてその場で打ち込んでゆくというものであったためではなかったでしょうか。
各兵がバラバラに高速移動をするとそもそもの陣が崩れてしまうので、ある程度足を止める必要があった。
これは大量の兵同士のぶつかりあいには有効であったでしょうが、相手がゲリラ戦の突貫戦法をしかけてきた場合、満員電車の中に猛獣かスズメバチでも離したようなことになりかねません。
この時の猛獣の爪牙、蜂の毒針に相当するのが日本刀だったと想像します。
当時の兵装というのは前にも書きましたが、相手の攻撃を受け止める鎧と、その鎧を上からぶったたく重い兵器でなりたっています。
特に西洋から中国に至る合戦では手入れも簡便な鈍器の活用が盛んであり、様々な種類のハンマー様の兵器が用いられています。
そのような兵器を使う場合、まず足をしっかり止めて体が泳がないようにしないといけません。
これは実は、古い中国武術の、というか少林の心意把系拳法の基本なのです。
我々が定力と呼ぶ下にしっかりと根を張る力を用いて攻撃をします。
これをすると、実は機動力がすごく落ちるのです。
体が重くなって身動きが悪くなる。
その重さで相手を打つのです。
それに対して、日本武術というのは自ら体重を崩してその雪崩かかる力を活用したり、自重を相手によっかからせて活用することが多いように思われます。
そのために、中国武術的なひたすら立つだけの練功や内功などの要素が薄れたのだと思うのですが、これらは、軽くても触れればそれだけで切れるという日本刀という特殊兵器の装備を前提に行われていたのだと思われます。
戦国時代の甲冑剣法ですら、力でたたっきるのではなくて、相手の鎧の首元や脇の隙間を突くという以外に細かいものであったと言います。
そのような兵器の力に恵まれた日本勢にとっては、瞬間的に手の内や腰を締めることさえできれば、常に重心を集めておく必要はなかったのではないでしょうか。
現在に至るまで、日本武術に暗勁の要素が薄いのはその土壌によるものだと思われます。
それに対して戚継光将軍が陣形の改良、倭刀の導入に続いて取り入れた三つ目の要素が基礎動作の改善です。
以前に挙げた「拳法は実用の物ではないが兵器の活用の土台のために役に立つ」ですね。
その中に、猴拳があったのを思い出してください。
中国武術では猿猴歩法などと言って、猿のような足さばきで機動力を稼ぐ方法があります。
そして実は、これこそ山東蟷螂拳の特徴であったりします。
少林で通臂の勁の威力に対して実用手法で勝った王郎の伝説には、喧嘩殺法的な手わざの活用とこの猿の足さばきによる機動力の存在が隠されていたのではないでしょうか。
これは近代ボクシングでも、威力から速度への革命が起きたことにも共通します。
この火器が盛んになってきた時代に、白兵戦の技術にも革新が起きたのでしょう。
そして陰流というのはまさにこの猿の動きをとても重視した剣術であり、伝書にも人間ではなくて猿が刀を持った姿が描かれているのです。
少林の伝説によれば、最初の武術は心意把だと言います。
これは使う物ではなく、人体の活用のためのものでした。
そのためにこれはおそらく、暗勁の追求であり、とても重かったのだと思います。
それが時代を経るにつれて喧嘩殺法、実用の戦法が必要になって、機動力が必要になった結果、現在の中国武術のような明の勁が中心となっていったのだと推測できます。
とくに歴史的に最新の拳法であり、もっとも普及している太極拳ではその要素が目に見えて強く、常に体重移動をしています。
人気のある八極拳、形意拳でも暗の勁から開合や震脚を中心とした動きを伴った発勁が盛んとなっています。
やはりこれも、清朝期における拳法革命の結果だったのではないでしょうか。
大倭寇後の武術史私論 14・東シナ海武術と忍者
さて、前回は日本の兵法三大源流のお話が陰流にまでたどり着いたところまででしたね。
陰流がどういうことをしていたのかは前のシリーズ「大倭寇の話」に続きます。
こちらのシリーズでは一気に大倭寇後の日本に時間を飛ばしましょう。
大倭寇が終わり、明国は日本を除いて海禁令を解除、日本では秀吉が海賊行為の禁止令を出していたころにです。
戦国時代はほぼ平定されつつありました。
こうなると困るのが天下人です。
なにせこのころの日本は石見銀山によって世界の三分の一の銀を世界に輸出し、逆にそれで世界中の鉄砲を買い集めて世界最大の火器所有国となっていた戦国バブルの時代です。
それが戦による経済の回転をやめたらどうなってしまうのでしょう。
天下人たるもの、家来のみんなを食わさねばなりません。しかももはや本邦初、日本中の全員が自分の家来なのです。
これまでのように他所から持ってきたものを食べさせるという作戦が出来ません。
そこで秀吉は考えました。
この大飯ぐらいの戦国荒武者大軍勢を率いて、朝鮮半島を入り口に志那に攻め上り、そのまま天竺にまで進出してそこに自分の幕府を開こう。
要するに、死ぬまで戦国バブルを続けようとしたのです。
そのころの朝鮮と言ったら、大明の朝貢国の筆頭のような国です。
そこに戦国育ちの日本勢が攻略しました。これが1592年の文禄、慶長の役です。
迎え撃つ朝鮮側は正規兵と否正規兵を合わせて抵抗しますが、装備は弓や槍などです。
これに対して、世界一の火薬庫となっていた日本戦国武者軍団は、最先端の兵器を持って押し寄せます。
すでにあの大倭寇と長い戦国時代の後で、彼らの攻撃力は恐ろしくブラッシュアップしています。しかも人数たるや倭寇の比ではありません。なにせ国策でやっています。
朝鮮側からは天兵と呼ばれる親玉明国の軍団がやってきますが、これもまた兵装においては著しく日本勢には劣っていました。
この天兵は基本、騎馬民族対策として北方に配備されていた兵たちで、南方での大倭寇を経験していないため、あの倭寇の時の二の舞になってしまっていたのです。
しかし、ここで不思議なことが起きます。
なんと、日本勢の中から降倭と言う、朝鮮側に転向する兵士たちが続出したというのです。
一説にはどうもこの一方的な外国での虐殺に対して義が立たないと言ったとか言わないとか。
あるいは、そもが昨日まで敵対関係にあった者同士の混成軍だった事情もあったのかもしれません。
このような降倭の中から、日本式の最新火器の製造技術と使用法が伝えられて、朝鮮側は当初思われたよりずっと粘りを見せます。
この降倭の中で有名な物が、沙也加や恵美里と呼ばれる人たちです。
沙也加に関しては、加藤清正の先鋒で、配下3000人ごと降ったと言われています。
この沙也加、実は雑賀(サイカ)あったという説があります。
だとすると鉄砲衆であったというのが納得がいきます。
さらにいうとこの雑賀衆、往時は和歌山の水軍だったそうです。つまり海賊です。
つまり倭寇のルートで海賊戦法に卓越し、再びそれをもって西側に攻め入ったと言えるのですが、その間にある一大事が起きています。
この雑賀衆、一度秀吉と戦って押し返したのち、徳川と組んで巻き返した混成軍によって壊滅させられたという歴史があるのです。
以来、雑賀衆は根付く土地を持たない小規模の流浪の民に分かれて鉄砲使いの傭兵団としてそれぞれ大名などにやとわれて活動をしていたといいます。
沙也加になったのはそのうちの一派であり、やはり秀吉との間にしこりがあったのかもしれません。
また、数に物を言わせて弱者を押しつぶすやり方にかつて滅ぼされた自分たちの国を思い出したのかもしれない。
さて、この雑賀の近くにいた、同じく鉄砲使いの集団に根来衆というのがいます。
この根来、なんと鉄砲使いの傭兵にして僧兵集団だというのだから驚きです。
どうも僧というのは自由階級であるので、海賊や武士から転職した者が多かったという説があるのですが、そのようなわけでも雑賀とは交流があって、根来から雑賀に仕官したり、逆に雑賀から僧になって根来になったりしたようです。
と、いうことはつまり、戦術面においては基本両者は共通していると考えていいわけです。
そして、武装した僧の集団と言うと、やはりあれを考えてしまいますね。
つまり、ここにも倭寇武術や少林武術の気配が漂っているわけです。
そしてこの両者、昔は雑賀忍者、根来忍者などと呼ばれていました。
この忍者と言う言葉、昭和に入って作られた造語だという説が有力であり、それまでに伝えられてきた古文書にあるシノビノモノという言葉の言い換えであると言います。
そしてそのシノビノモノですが、これは孫子兵法の継承者だと言います。
孫子と言えば世界最古の兵法書です。最初に日本に入ったのは遣唐使のころだと言います。
この中に諜報戦や心理戦に関する部分があるので、シノビノモノを活用した手法がここに由来する、というのはその程度には納得がいきます。
ただ、実際のところの「忍者」のイメージはそのようなシノビノモノとは異なるのではないでしょうか。
手裏剣を投げ、煙玉を持ち、空を飛び壁を上り、雇われては暗殺さえ請け負うプロの特殊部隊というのがいわゆるイメージとしての忍者ではないでしょうか。
そのような忍者に関しては現在の歴史学では実在していたという信頼すべき資料がないというのが現状ですが、しかし、もしかしたら乱破や素破と言われた土豪勢力がそうだったのではないかという話も有力です。
となるとつまり、これは間諜ではなく傭兵なのですが、言葉とイメージが混在してしまってます。
これを切り分けて傭兵集団のイメージを抽出すると、この傭兵部隊としての忍者というのはやはり大倭寇に影響を受けた火器や中国戦術、あるいは南蛮の珍しい技術を得た人たちがもとだったかもしれないと言えるかもしれません。
このようなことは雑賀と根来だけではありません。風魔に関しても言えます。
風魔に関しては小田原の北条氏の記録にその名前があり「200名の乱破を率いて敵陣に夜討ちをかけた」とあるようです。
これ、一言もシノビノモノであったなんてことは書いていません。
もちろん敵陣に至る過程では忍び寄ったのでしょうが、基本的にはたんに乱破衆を率いて夜間襲撃を仕掛けたと書いてあるだけです。
つまりはこういうゲリラ部隊がのちに忍者扱いをされたということなのでしょうが、この風魔が渡来人の一族であったという説があるのです。
私は長く神奈川に住んでおり、北条氏の地元小田原周りも仕事でよく行っていた時期があります。
太平洋沿いに横浜から小田原に向かうと、途中に唐人町という地名や、秦野という市があります。
この秦野という地名、元は移住してきた秦氏が住んでいた土地だったのでこの名になったという話があります。
秦氏とは、古代中国の秦の字があらわすように、中国、朝鮮からの移民のことだそうです。
唐人町という地名については言わずもがなでしょう。
その唐人町を少し北に移動すると、高麗山という地名があります。高句麗からの渡来人が住んでいたということが語られています。
また、小田原自体も「拙者親方ともうすは」で有名な外郎売の歌がありますが、あの外郎さんというのは、もともと中国の人で、外郎と言うのは中国での官職名だったそうです。
この人は一種の方術氏で、薬学にたけていて薬を作っていた。それがいまの「ういろう」の由来だという話を聞きました。
このように、もともとこの辺りは外国から来た技術の担い手が多い土地柄なのです。
これらに加えて、忍者に体術のイメージがついたのは陳元贇の存在もあるのでしょう。
この人は1627年ごろから日本に住み着いた明の人で、江戸の寺に住んでいた時に三人の浪人に武術について語ったと言われています。
「明国に人を捕らえる術あり。余はこれを学びはしないがするところをよく見た」として浪人たちに語ったところ、三人は話を元に独自研究をして日本柔術のそれぞれ開祖になったと言われています。
関口流、天神真楊流、起倒流の開祖です。
昔はこのエピソード、少林拳伝来の話だと言われていましたが、これはちょっと説明の必要があるのでないかと思います。
おそらくは、この時に講釈されたのは拳術ではなくて擒拿なのではないでしょうか。
擒拿とはすなわち、相手に関節技を掛けたり、ツボを押さえて自由を奪うような技術のことです。
王朗の武術や戚継光の拳経に「鷹爪王の拿」などと書いてあったものです。
当身も行いますが、拳術で行う物のように内功などを用いて自分を強くして打つのではなく、相手の解剖学的な弱いところをもっぱら攻めます。
鍛え上げた勁の力で当たるを幸いどこででも打ち倒すなどと言うようなものではありません。
日本柔術がツボを用いて相手を抑えたり関節を外したりするのは、ここから来ていると考えたほうが自然です。
このようなイメージがミックスされて、いわゆる忍者のイメージが出来上がったのでしょう。
身の軽いところなどは、中国武術の軽功そのものです。
これはいまだに中国の特殊部隊に行われているもので、相手がビルを占拠しているところなどに外壁をひょいひょい上って侵入したりする訓練が行われています。
以上の点をもって、忍者イメージ=そもそも中国武術というのが私の現在の説です。
これを締めくくるためのエピソードを紹介しましょう。
このたび、海賊武術研究祭で苗刀の講習に台湾から来てくれる施安哲老師の師父に当たる、蘇老師が子供の頃のお話です。
夜、二階の自室で勉強をしていると、近所に住んでる大陸からきたおじさんが軽功を使ってその家の壁を上り降りしては二階の窓から出入りをしてお酒を買いに行っていたのが見えたのだと言います。
それを見て自分もやってみたいと思って教えてくれるよう願い出たところ、実はそのおじさんは中国から亡命してきた武術の老師で、山東蟷螂拳を教えてくれた、というお話です。
つまり、私たちの体験する苗刀も、その時の軽功がきっかけでいまに伝わって居るものなのです。
なにがしかの縁が働いて術が伝わるというのは、あるいは得てしてこういうことなのではないでしょうか。
大倭寇後の武術史私論 15・カンフー最終戦争
さぁ、とうとうこのシリーズも最終章になりました。
前回までの流れは、太平天国から日本に目を向けてマッド・ドッグ高杉からさかのぼって日本武術の中に見られる中国武術の伝来をうかがってきました。
ここでもう一度、太平天国の後の中国に視線を戻して、現状最後に起きた中国拳法史上最大の決戦についてお話したいと思います。
その決戦を、義和団事件と言います。
私が初めてそれを知ったのは中学校での歴史ででした。
孫悟空や関羽と言った神々の霊を呪文で体に宿して不死身になった中国拳法家集団が、革命を起こして中国政府と西洋列強勢に戦いを挑んで大打撃を加えたというこの事件は、中学生の心に大変な驚きをもたらしました。
そんなことが現実にあるんだ。
さらにそれから何年もたって、それが1900年に起きたことを知ってさらに驚きました。
19世紀最後の夏です。もう、ほんの四か月で自分が生まれた20世紀になるころの話です。
この事件は真夏の狂気事件とも呼ばれていますが、私以上に当時現地にいた西洋人たちは驚いたでしょう。
なにせ、神々が宿った拳法遣いたちが西洋式の銃火器を相手に刀や槍で挑んできたのですから。
ことの始まりはキリスト教にあります。
アヘン戦争後、中国各地で宣教師が現れました。しかし、はじめはこの洋人の宗教はあまり漢民族の支持を得なかったようです。
ですがそこに現れたのが例の洪秀全猊下です。
当時、国を支配していたのが弱体化が始まっていたとはいえ清王朝の女真族です。
その下にいるのが、平民階級の漢民族。
その漢民族に弾圧されていたのが、被差別階級の客家や、少数民族でした。
客家だった洪秀全猊下はこの西洋人の精神的支柱に目を付けて、彼らを味方につけて少数民族をまとめ上げ、清朝の撃滅を図ります。
中国人同士で戦争をして体制を揺るがしてくれるのですから、西洋勢としては願ったりかなったりです。彼らは兵器や資金の支援をしました。
かくして白蓮教、洪門など各派の反乱組織と一体化した太平天国党は清朝の屋台骨を大いに揺るがします。
このころはアヘン戦争もあって清朝の軍はすでに弱体化しており、かつて無敵を誇った清の精鋭軍隊八旗軍もすっかり骨抜きになっていました。
ここに付け込んで、諸外国の振る舞いも多岐に及びました。
ある国は太平天国を正式な国とみなして国交を取り付けようとし、またある国は許可さえ出せば太平天国をわが軍によって退治てくれようと申し出ました。
もちろん、外国軍の進軍など許可すればそのまま内陸部に居座って撤退する保証などはありません。しかし、弱腰になっていた清朝はこれにも強気に出ることが出来ません。
そんなあの手この手のやくざ者絡まれまくってる清朝側で立ち上がったのが、以前に書いた曽国藩の軍閥です。
軍閥というのはようするに、戦国大名と同じ、自分たちでお金を稼いでそれで私兵をなしている武力集団です。
この曽国藩や弟子の李鴻章の活躍で太平天国は押しとどめられ、そのうちに洪秀全も死亡して求心力が失われて各派はまたもバラバラに散開してゆきました。
こののち、内陸部に入り込んだ外国勢や、太平天国に同調する形ですでに入り込んでいた外国勢は、内地に次々と自分たちのテリトリーを増やしてゆきます。
しまいにはそこに鉄道まで引き始めます。こうなれば占拠した者勝ちと言った形です。なにせ清朝にはそれを追っ払う武力がありません。
教科書で、中国を各国の代表がナイフで切り分けていましもいただこうとしているような当時のポンチ絵を見たことがあります。
そのような事態の中で、各国の居留地には次々と教会が建てられてゆきました。
これは彼らの文化役拠点なので当然のことです。なにせ倭寇のアジトの船島にもあったくらいです。
ここで彼らは教会を巡って問題を起こし始めます。
一つには、キリスト教に改宗した中国人(教民と言います)を、一般の中国人と洋人の間の半洋人として優遇しはじめた結果、食い詰めた難民や弾圧されていた少数民族が力を持ち始めたことです。
これに目を付けた白蓮教徒の中には、キリスト教に改宗したことにして潜伏先を見つけた者さえいたといいます。
このために、今度は平民階級であった漢民族の不満が高まり始めました。
ここまではまだ、これまでの女真族優位の社会体制を崩壊させるために有効な手段だったのですが、この後にポカをやらかしてしまいます。
どうもキリスト教へのパッションというのは、西洋人の精神の強さを支える物である反面、時に大失敗の要因にもなってしまうところがあります。
彼らは人種を問わず教民には優しかったのですが、その反対に、異教に厳しかった。
それまでの土地神の廟を教会に作り替えたり、また鉄道の線路を引くために潰したりしてしまいます。
その反発が土台にあって、それまで土地を自営していた組織である大刀会と呼ばれる組織の一つが、ついには抵抗運動を始めてしまいます。
この大刀会、そもが白蓮教系の組織であったとも言います。
これに呼応して、各地にあった大刀会が連動して一斉に教会への焼き討ちなどを始めます。
その時の模様を描いた有名な絵の一つがこれです。
はい、持っているのが苗刀です。
切っ先は見えませんが、いわゆる中国刀とは明らかに形が違います。
清朝のころは正規軍の制式装備をはじめ、苗刀は非常にメジャーになっていたのです。
この大刀会は、山東省で外国船相手に大勝を収めたりしはじめました。またしても山東です。
このような大刀会の排外活動は次第に勢いを増してゆき、やがて神拳や梅花拳と言った拳法の団体と合併されてゆきます。
この、梅花拳というのが実は重要な存在です。
以前に梅花蟷螂拳というのを紹介しましたが、一説にはこの梅花拳とは蟷螂拳のことではあいか、というのです。
ただ、先に明記しますが、現代に至るも梅花拳と蟷螂拳がイコールだったという証拠は見つかっていないそうです。
なので、あくまで一つの可能性として想定されてください。
梅花拳の中で大刀会と合流した派は、加わっていない同門に累が及ぶことを恐れて、名前をかくして義和拳と名乗るようになりました。
この段階で、すでに人数は三千人ばかりになっていたというからすごい物です。
さらには義和団員募集は続けられ、これまでに地下に潜んでいた革命結社諸派がまた合流し、そして義和拳を名乗ることとなりました。
そのため、義和拳という物の具体的な定まった内容は実質存在はしていないのですが、現在にも伝わって居る義和団系の梅花拳の団体に行った日本人のレポートによると、梅花拳の特徴というのは二つだそうです。
一つは、実戦性を養うための対練(組み稽古)、もう一つは梅花樁と言う、梅の花型に地面に打ち込んだ杭の上に乗って歩く練功法です。
この杭の上での足さばきを梅花歩というそうですが、中国武術では実は「手は教えても足は教えず」というくらい、足元こそが重要になってきます。
足の使いを見ればその拳がどの系列の物でどのような勁を使うのか、あるいは勁が無いのかなどがある程度見て取れてしまいます。
以前も猿猴歩、サルの足さばきについて書きましたが、フットワークの悪い暗勁の心意拳や
形意拳は、この独特の猴の足さばきを使って勁と移動を両立させています。
私たちが学ぶ蔡李佛拳の歩法は、五輪馬と言って洪拳の物をそのまま使っています。
これは暗い勁を強調したもので、飛び跳ねたりはしません。
しかし、私の継承する鴻勝蔡李佛では、兵器を持つと途端に飛び跳ねまわりだすのです。
そしてその時の足の遣いは、心意や形意の猴形の足さばきと全く同じものです。
といったような次第で、現代でも梅花歩を使う流派は、この時の義和団の乱に参加していた門派である可能性が高い。
これさえ取り入れて団員を調練していれば、当時はみんな梅花拳だと名乗ったわけです。
ただこのほかに、義和拳には関心のできない側面の術がありました。
それが、心法の左道です。
降神附体と言って、英霊を宿らせて義和拳士を育成し、銃で撃たれても即死か出血多量になるまでは戦えるようにしたのですが、これは気功の中の正統ではない物に属します。
心頭滅却すれば火もまた涼しの悪用です。
当時、義和拳士をスカウトするには耳元でマントラをささやいて、催眠術がかかって倒れたら才能があるものとして入団を認め、催眠術がかからない者は落選としたそうです。
つまり、もともと催眠術にかかりやすくて洗脳されやすい者だけを選んでこのような決死隊を作っていた。
このようにして死を恐れない集団となった義和団は「扶清滅洋(西洋を滅ぼし、清を扶ける)」を目的としてどんどん活性化してゆきました。
やがて、曽国藩、李鴻章の流れを汲んで彼らの軍閥を継いだかの袁世凱が、山東省にこれを討伐に来ます。
しかし、大倭寇の時から見られたように、大軍に面したゲリラは一時散開を選びます。
義和団は散り散りになって各地に散ってゆきました。
結果、北京周辺のあちこちに義和団は潜伏し、そこで例の手管で団員を増やし、梅花樁と対打で訓練をさせてゆくことになりました。河北、北京、天津などで、合わせてその数20万を超えたといいます。
これに後押しを得た清朝は、とうとう自国内を食い荒らす列強八か国に宣戦布告をしてしまいます。
これを受けてイギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア、日本の八か国は連合軍を結成して北京に向けて進撃を開始します。中国側からの宣戦布告に答えた形なので意気揚々としたものです。
この時、最新兵器で武装していた八か国連合に対して、義和団はいまだ刀槍が主力兵器だったと言います。
北京は連合軍に占拠され、逃げ延びて隠れていた西太后も発見されてしまいます。
彼女は一気に転向して、義和団は国賊、拳匪であるとの主張を始めます。
かくして義和団は「扶清滅洋」から目的を「掃清滅洋」に変えます。清を掃って洋を滅するです。
とうとう歴代の反清複明結社の末裔らしくなってまいりました。
しかし時すでに遅し。
八か国連合による残党狩りによって、義和団たちは鎮圧されてしまいます。
しかし、この事件ののちも生き延びた残党はまた地下に潜り、そして民情もまた清を見限って革命を求めるようになってゆきます。
かくして孫文ら革命家による辛亥革命が起き、清朝は中華民国へと変わります。
しかし、ここでも権力を独占しようと袁世凱がしゃしゃり出てきて初代中華民国大統領になったあたりからおかしなことになり、最終的には現在の共産党体制にと落ち着くことになりました。
孫文らの志を継ぐ国民党は、政争に敗れておなじみの台湾に亡命となります。
そもそもが国が荒れて列強に付け込まれたのは、伝統中華思想が悪いのだと判断した共産党は、中国を近代化すべく一大革命を行います。
その時に、伝統的な物はすべて悪とされ弾圧されました。
武術もその一つで、少林寺も何度目かの焼き討ちにあいました。
武術を禁じられた多くの伝統武術家たちが、やはり台湾に亡命しました。
かくして中国における伝統中国武術の長い歴史はあまりにも大きな冬の時代を迎えるのでした。
これが、カンフー最終戦争の顛末です。