昨夜、大倭寇後の武術について書き終わり、義和団についての顛末をまとめたところで非常に寂しい気持ちになりました。
長く書いてきた稿が終わったからというだけではないのだと思います。
倭寇というものそのものは海賊行為を含んでおり、決して褒められたことではないのですが、そこにあった命の躍動のようなものが、義和団の事件では縮小してしまったように感じるのです。
これは中学生時代から長いこと義和団の出来事に引っ張られてきた身としては、自分でも意外でした。
どうも洗脳と調練ということが、個の命の否定、人を道具として扱う姿勢のように思えて仕方ないのです。
それは、私が中国武術に見出しているものではありません。
私的なことを話しますが、私はもともと古流武術や軍隊武術、総合格闘技などをしていました。
そこから引退を決めたときに、中国武術を最後に触れてみようと思った結果、ここに至っています。
というのも、そこには他の格技にはなかった思想という面があったのです。
禅の一側面というその要素にひきつけられて、人間の命を自由にするための物としての中国武術をしてきました。
これはほかの武術には無いことです。
そもそものスタートがインドから仏教として伝来してきたことを考えると、これは当然のことだと思います。
ただ、歴史の流れとして事情とそれに伴う変遷があって、喧嘩殺法の要素が発展していったというのはここまで書いてきたとおりです。
その方向への進化の結果が、洗脳および人を道具として使うことだったのだとしたら、それを丸ごと私は否定しなければなりません。
中国武術の本道は、勝つためにやるものではない。
90年代から一種の古流武術ブームが静かに始まり、格闘技の一環として中国武術や日本の古武術を行う人が増えたようです。
それらの人の中に、強くなりたいとか、他人より優位に至りたいという動機があるのなら、私はそれらを少し「卑怯だな」と思う処があります。
もし本当に他人との相対的な価値観での優劣を求めるなら、正々堂々総合格闘技でもすればよろしいのではありますまいか。
そうやって正面から自分を図ることを避けて、傷ついたり苦労したりしないところで心の中での妄想をたくましくするネタとして古武術に取り組む。
それは少なくとも、少林武術が否定するところです。
禅の思想では妄念を捨ててゆき、自我の肥大を忌避することで人間が本当に自由に生きられると考えています。
妄想を育てるために稽古をする、あるいはその振りをするというのは正反対のことです。
そしてその正反対のベクトルにあることが、他人の妄想を肥大させて自分のエゴの食い物として利用するという洗脳行為であると思います。
現代武道をしていた時、同様のことに覚えがあります。
カラテなり合気道なりの道場が、鬱屈したサラリーマンが体育会系的な自分の居場所としてそこを活用しているという構造です。
いわく「稽古後のビールを飲むために練習してるんだ」「居酒屋いってからが本当の稽古」。
このような人々の話と言うのは、やれどこそこの道場の〇〇は大したことがない、今度ゴルフでもどうですか、最近どこそこの風俗に行った、と言ったような物が多く、まるで真摯に武術の真実を追求するような交流はしていない。
ぎりぎりのところでの攻防の中にある真実を見たくて入門した若者だった私にとっては、あまりに下世話に過ぎるものでした。
そのような下世話な空間をねつ造してそこでいい顔をしたいがために練習に来ているという人はあまりに多いように思います。
結局のところ、そういう場で空手は武士道の武道だとか××が最強だとか言うような妄言が広まってゆくのでしょう。
これでは人をダメにして虚妄に貶めるために稽古に行っているのと変わらない。
もちろん、このような嘘、幻想が生活を支えている層の人々がたくさんいるのだとはわかります。
韓国ドラマに夢中になる主婦や、プロレスの面白さに熱狂する人々がいるのは当然のことです。
いや、あらゆるエンターテインメントやショー・スポーツというのはすべてそういう物なのかもしれません。
しかし少なくともそれは、武術の本懐ではないと私は思っています。
私にとって武術はファンタジーではなくて、リアルです。
これは、リアル・ファイトだ実戦だ護身術だとか言い出すオタクのいう意味でのリアルではありません。
人類の歴史、学問の文脈としてのリアルです。
今回、このような長い稿を書き続けてきたのは「現実は面白いのだ」ということを伝えたかったためです。
そんな妄想の中に浸りこまなくても、きちんと向き合って本気で取り組めば、この現実の世界はこんなにも面白いのだ、ということを読んでくれる人に味わってもらいたかった。
私にとっては武術とはそのための物です。
妄想で洗脳して現実から目をそらさせるという物とは真逆だと言っていいと思います。
そうやって現実の世界に生きることの面白さを訴えることが、私にとっての「この世界は、生きるに値する」という表明に値しています。
私は不遜にも「日本一話の面白い武術家」を目指しています。
それはおちょうしのいい口車で人をいい気持ちにさせていいように操るスピリチュアル武術家という意味ではありません。
その正反対です。
現実に起きたこと、起きていることに対する真摯な姿勢のみが味わえる学問の面白さを伝えられる人間を目指しているのです。
世界を直視して面白いと思える生き方が出来れば、命は自由になることができる。
私はそう思ってこういった活動をしています。