前回からの続きです。
と、言うのも、マッハ! 弐と参は直につながっているためです。
弐の最後、仇討ちを悲願していた主人公ティン王子は逆に王にとらえられてしまいます。
参は捕虜になっているところから始まります。
過酷な拷問で全身の骨を砕かれた主人公は牢にとらえられているのですが、ここからがタイ映画、仏教説話の面白いところです。
近隣の村で疫病が流行り、土地の聖者がその原因を探った結果、強い呪いのせいだということが分かります。
その呪いこそ、囚われのティン王子の牢獄からの怨念がもたらしたものなのです。
かわいそうな主人公の感情が周りの村に呪いをもたらすという、独特の世界観の見られる展開です。
おそらくタイ仏教の因果の思想なのでしょうが、私たちのタオの考えとも合致するものです。
何かが起きるのには原因があり、その仕組みに善悪は無い、という考え方です。
結局ティン王子は処刑を宣告されるのですが、呪いを解こうとした僧が策を弄して彼を助け出します。
おそらくなのですが、ここで彼が呪いの念に囚われたまま死んでしまうと、今度はそれが残ってさらになにか因果がまずい方向に回ってしまうことになるのでしょう。
ティンは僧のもとに保護されるのですが、すっかり心は荒れ果ててしまっています。
一度は自殺を計りもするのですが、村で世話を見られている障碍者の青年のためにタイミングを失ってしまいます。
この青年、目の前の物を真似してしまうというトゥレット的な症状のある人で、目の前でティンが崖に飛び込もうとしているため、一緒に飛ぼうとしそうになったのです。
このシーンはトニー・ジャーの映画を観ている身としては非常に意味深いところです。
まず第一に、この青年はマッハ! で村を出て行って連れ戻された不良青年と同じ俳優さんが演じています。
つまり、この時のやりとりは二人にとっての「前世の縁」となるのです。
もしここでティン王子がまだ無念を宿したまま死んでいたら、結局呪いはまた土地に宿ったことでしょう。
この無意識の善行のためか、次の世では一度は道を誤るも今度はティンに助けられて僧への道を歩むことになります。まさに仏様のお導き。
また、この俳優さんはマッハと並行している「トムヤムクン」シリーズでもトニーを助ける刑事として出ています。
2作目では「またお前か。前世からの縁でもあるのかな」なんてセリフまで言っています。
ちなみにこのトムヤムクン2、邦題は「マッハ! 無限大」なので、弐つのシリーズが実質仏様の考えでつながった瞬間でもあります。
しかも、この作品はトニー・ジャーと愛弟子の女優さんジージャーが共演しているというのが売りなのですが、彼女の出世作「チョコレート・ファイター」の主人公と言うのが、まさに見た相手の物まねをしてしまうという障碍者なのです。
作中、彼女はテレビで見たブルース・リーらの動きを真似することで格闘技を身に着けて戦うという設定です。
この崖のシーンは、そのようにいくつもの要素が絡み合った非常に重要な物となっているのです。
死に損なったティンは僧にどうすればいいのかわからないと相談した結果「体と心は繋がっているので、まずは瞑想をして心身を癒しなさい」というようなことを諭されます。
この、瞑想と言うのは仏教において重要な物です。
お釈迦様が悟りを開いたものでもありますし、中国に渡って座禅、気功となったものでもあります。
でね、こうなってくると、中国武術の出番です。
心身の調和をタオの思想のもとに取り戻す気功は、中国武術では内功とも呼ばれて非常に重視されているものです。
そもそも禅宗の総本山である少林寺で武術が始まったのはこのためです。
みなさんは羅漢像というものをご存知でしょうか?
有名な五百羅漢像というのがあって、いろいろな不思議な格好で瞑想をする羅漢さんの姿をかたどった像があります。
この姿は、実は気功において重要な姿勢だと言われています。
ティン王子が行ったのもこれと同様のことです。
また面白いのが、一度骨を砕かれているところから再生しているのですが、これ、その結果抜骨や易骨と言われる、それまでの拙力を使うための骨格をばらして内勁を使うための骨格に換えるという、中国武術において重要とされる行をなりゆきでやっていることになります。
このような上々の内功によって回復してくると、ティン王子は村の娘と舞踊をしてリハビリをします。
このタイ舞踊も、やはり仏像の形を模した動作をするものです。いわば、気功で言う動功です。
これらによってティン王子が心身の健康を取り戻してゆく一方、王は呪いにおびえて心身のバランスを喪失してゆきます。
これはおそらく、物理的には、これまでに前王を抹殺して王位を簒奪したりと悪いことをしてきたことで心の中に積もっていた後ろめたさが強迫観念となって出てきたのでしょう。
見方によれば、これも呪いそのものだとも取れます。ティン王子が健康になって捨てた怨念が、王のもとにだけ向かったと言ってもいいかと思われます。
王は呪いの恐怖を解くために、魔法使いの元を訪ねます。
この魔法使い、ティン王子が囚われているときに突撃してきた救出部隊を、呪いを世に振りまくために抹殺した凄腕の拳法遣いです。
この時代の泰拳(古式ムエタイ)の映像を見たことがあるのですが、いまの競技ムエタイよりもその前にやっているワイクーに似た、動物などの動きを模した舞踊のようなものです。
おそらくこの魔拳の遣い手は、因果の理を体得しながらも左道に落ちた術者なのでしょう。
私は陰陽師に出てくる道満法師を彷彿したところがあります。
しかしこの魔拳師はそこまでできた人間ではなかったらしっく、呪いにおびえてやってきた王を、まってましたとばかりに討ち取って王位を簒奪してしまいます。
これもまた、因果応報を描いているのでしょうが、ちょっと荒っぽい筋運びのようにも感じました。
とはいえ、曲がりなりにも因果を読み、権力を手にして王となった魔拳遣いは、自分をそこに押しやった因果の元であるティン王子を抹殺し、二人の関係を終わらせて禍根を断とうとしてきます。
それが運の尽き、ティン王子が瞑想の果てに編み出した武術の前に敗れ去ることになるのでした、というのがこのお話なのですが、このティン王子の内功武術というのが、弐までで使っていた古式ムエタイとも洪門拳法とも違うルックのものになっているのが秀逸なところです。
我々の言う「鉄線功」という内功を用いた、物になっていて、足は平馬のカンフー、手の動きは古式ムエタイに似た物なっています。
私はこれを見て驚きました。
と、いうのも、これこそが私がマニラで修行しているときに見せてもらった、ラプンティ・アルニスのマノマノ(徒手部門)、モンゴシとそっくりなのです。
エスクリマのマノマノと言えば、ボクシングの反則技を活用した「パナントゥカン」や、テコンドーを取り入れた「シカラン」が有名ですが、カンフーをルーツに持つモンゴシについてはほとんど知られていません。
なにせ本来はマスターになってからマノマノは学ぶ物らしいので、マスターの絶対数が少ないラプンティ・スタイルではそれもやむなし。
この、フィリピン式カンフーの実態を探ることが私のいまの目標の一つなのですが、あるいはこの映画で描かれていたような過程を経て、近くの島であるタイから来たのだとしても不思議はないのです。