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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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発勁のレビュー

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 海賊WSに来てくださったマーシャル・アーツ・グルメな方から感想をいただけました。

 

https://twitter.com/mon_emon/status/861168855904694272

 

 これはいろいろな経験をしている人でないとわからないことなので、こういうレビューは非常に貴重なお話です。

 現場でも伺ったのですが、この方は消力系の遣い手なので勁が入ってきても通常は数歩内で体内で消せてしまうのだそうです。

 それが今回残ったのはおそらく、私のやっているのが体重を浴びせたり瞬発力を用いたりしない暗い勁だからだと思われます。

 いろいろな物を複合した発勁ではなくて純粋に内勁だけで行っているので、いざとなるとこれは威力が強いのです。

 おそらく、他の力はこういう方には体内で消されてしまうのでしょうね。

 こういう、残り続けるようなことを「勁が長い」と言います。長勁です。

逆に一瞬の瞬発や体重を浴びせた分の物を短勁と言います。

 目に見える明るい勁の方が簡単だし便利なのですが、見えない暗い勁にこだわっていると、強い功夫が養えるようなのです。

 私たちは使うためではなくてあくまで内側を養うための物として勁を練っているので、暗さにこだわってきたのが結果になっているのですね。

 めちゃめちゃ勉強になりました! 


BMAのお知らせ 6月11日 日曜日

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 久しぶりのBMAをします。
 海の見えるところで海の武術をしようという企画です。
 今回はフィリピンの古伝剣術ラプンティ・アルニスを、1から色々な練習を通してアウトラインを学ぼう、という流れでまいります。
 おひとり様2000円となります。
 場所は片瀬海岸になりまして、時間は6月11日の14時からとなります。だいたい疲れるまでやります。

 たぶんサヤウを一つは覚えてもらったり、練習法の体験からタピタピという自由度の高い練習までを行います。

 集合して場所を選ぶのに一緒にいた方が安心なので、参加ご希望の方はぜひご連絡ください。

 

 武術には、場所のヴァイブスというのが実はすごくかかわると私は思っています。

 エスクリマ武術には開けた景色の海が合います。

 自由を感じながら、自由に動ける感性を養っていただきたいと思います。

今週末の練習予定(5・13、14)

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13日の土曜日は関内大通り公園水の広場で、14時から練習です。

 アルニス 1500 外国人 500

 カンフー 2500

 

 

14日の日曜日は湘南クラスになります。

 一般 2500

 外国人 500

  

 朝の10時から茅ケ崎駅を南に歩いて、鉄砲道と交差する十字路のすぐそばにあるダンススタジオYOU&MEさんにて練習です。

 

 どちらも外国人投げ銭となっております。

 未経験者もお気軽に遊びにいらしてください。

武術のヴァイブス

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 最近、時々暑い日がありますね。

 長い冬を経て桜が咲くと早いもので、ゴールデン・ウィークなどでバタバタしたと思ったら、もう真夏日で熱中症に注意などと言うニュースを聞くようになりました。

 そうこうしているうちに梅雨が来て、それが明けたころには毎日真夏日でもうろうとしながらどうにか生き延びる真夏です。

 夏が終わればもう、すぐに歳が終わります。

 このような季節の移ろいの中で、自分を見失わず、かつ変わりゆく時間と協調して生きるというのはとても重要なことだと思います。

 日本ではここに風流と言う概念の美意識を持って心を養いますね。

 もしその気持ちを持てなかったら、きっとあわただしい中で息を切らせて生きているうちにいたずらに年を重ねてしまうことでしょう。

 私は武術家という職業を名乗っていますが、専門としている中国武術と比べて、日本武術が圧倒的に素晴らしいと思うのが「涼し気」なところです。

 その立ち居振る舞いや心根の美しさは独自の美点だと常々思っています。

 本来、日々をすがしく、心身を涼し気に過ごすというのは気功において非常に重要とされているテーマなのですが、服装や文化という側面から見ると、中国式の物は途端に八角のやごま油の香りがしてきてしまって、なかなか澄んだ心持にはならない場合もあります。

 山葵のように澄んだ味わいになるのは少し難しい。

 これは高温多湿な中で、いかに清々しく暮らすかを大切に日常を形作ってきた日本の文化の特徴なのでしょうね。

 また、同じ中国武術の中でもこの雰囲気というのはそれぞれに違う物があるように思います。

 南派の短拳を習っていたときは、やればやるほど猥雑な都会のヴァイブスが感じられました。

 それまで学んでいた北の回族武術の、どこか浮世離れした雰囲気とはまるで違います。

 ジャンジャカ銅鑼を鳴らしながら爆竹を破裂させているような、人間の匂いのようなものがあったように思います。

 これは、おそらく商業の盛んな都市部における喧嘩の気配があったのではないかと思われるのです。

 内容的にも、喧嘩殺法的なところやムエタイとしのぎを削っていた名残の技などもあり、大変新鮮でした。

 このような活気のあるものと、蔡李佛拳もまた違ったところがあり、とても大きな物を内側に与えてもらえました。

 この違いは、もしかして江と海の違いなのかもしれません。

 ちなみに、海と言えばフィリピンですが、フィリピン武術もまた涼し気な感じとはちょっと違う。

 ギラギラな暑さに、マンゴーとバナナ、ココナッツの濃厚な香り、それらをとろけるようなラム越しに透かし見るような。

 同系の技術を行っていても、これがアメリカ系の「カリ」となると急にまた感じが変わります。

 なんだかオシャレにソフィスティケイトされたような感じになります。

 暑苦しさが消えてきわめてポップでアーバンなムードに。

 これはやはりアメリカと言う多民族国家の良いところで、私も非常に好きな部分です。

 こういうのは、重みや歴史をある程度中和したところから生まれるのでしょう。

 伝統とか歴史にこだわってると、またなにかコッテリした物がにじみだしてきます。

 そしてそんなそれぞれの持つ雰囲気こそが、実は武術を学ぶ上で非常に重要な物なのではないかと思います。

 それこそが受け継がれ、手渡されてきた文化の本質に関わる部分であるように思うのです。

 そんなわけで、海の武術、ラプンティ・アルニスを海辺で行う機会を設けました。

 

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12273460439.html

 

 雰囲気が変わると結構いいと意外に好評のこの企画、よろしければぜひご体験されてください。 

自由で身体を動かす時代に

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 今月の湘南クラスのレッスンも無事終わりました。

 お借りしているスタジオのオーナーさんが非常に身体感覚の鋭い専門家なので、毎回いろいろな話が聞けるのが楽しみです。

 今回聞いたのは、某有名野球選手がメジャー・リーグに行った時のお話でした。

 向こうに行ってピッチャー同士でアップのキャッチボールをしようとしたところ、その人ははじめ、まったくできなかったのだというのです。

 メジャーに行くほどの選手がまさか、という感じですが、向こうの選手と言うのは脱力したまま起こりがなく投げてくるので、動いたと思ったときには気が付いたらメジャー級の球が飛んできているので間に合わないのだと言うお話でした。

 同じくメジャー経験のある日本の選手は、帰ってきてから少年野球選手の育成に力を入れているのですが、最初は子供たちにしっかり構えろなどと言う指導をするのが嫌だったそうです。

 自分がそんなことをしておらず、見てから反応をしているのだし、わざわざいつくようなことを子供たちに言いつけるのは、単に大人たちにとって都合のいい児童教育のための方針にすぎません。

 これは、私が再三否定している近代日本の富国強兵政策のための教育の象徴的なお話だと思います。

 少年野球と言うのはスポーツであるよりもいかにも体育会系的、すなわち軍隊式教育の温床となっていると常々感じていました。

 思考を放棄して命令のままに、走れと言われれば気絶するまで走り続ける人間を作り出すための教育、もっというなら「フルメタル・ジャケット」のような洗脳を行う場所のように思えます。

 そのようにして作られた男児たちは、高度成長期に迷うことなく他人を蹴落として上からの選別に対して要求をこなしていく人材として、さぞ優秀なビジネスマンになって行ったことでしょう。

 そのために、まず徹底的にしごいて個を奪い去り、賞罰を最優先する習性を刷り込んでいった結果が、世界中で最も幸福度が低く自殺率もトップのこの国のいまなのでしょう。

 近代日本の富国強兵教育が始まったころは、どれだけ貧しい家の子でも学習と訓練を受ける機会が与えられたので、それまでの封建社会と比べれば格段に進歩があったのは間違いありません。

 しかし、それが20世紀の現代にもそのままアップデートされずにいればいいのかと言うとそうではありません。

 近代以降の物を、伝統と呼ぶことは私には疑問があります。

 野球に持ち込まれた現代武道の精神を、伝統だからと言うのはいまひとつ必然性に肯定が出来ない。

 そう、私はいま、少年野球という物を通して現代武道という物の話をしているのです。

 冒頭にお話ししたメジャーの選手のように、野球と言うのは剣道のようにまず礼をしていくぞという息を合わせて始めるものだというのは、日本独自のローカル・ルールなのだと思います。

 ここからわかることは、よくそのような日本の現代体育のことを「西洋的体育」という言い方をして外国の物だと誤解していまっていることが多々あるのではないかという疑問です。

 流行りの今できの新武術や新古武術でいう「西洋体育の身体の使い方」は、実は抑圧的な近代日本社会が生み出した本邦オリジナルの身動きのしかたなのではないでしょうか。

 現在、「古武術」とされている物も、多くは明治期の改変の上に成り立っているものであったり、大戦中に日本中の文書が焼けてしまったところに付け込んだ創作流派であることは少なくないのだそうです。

 名のある名門でも、その中身は後世に作って足したものであるということも珍しくないとも聞きます。

 ここでテーマにしているのは正統性ではありません。

 だとしたら、そこで使われている体の遣い方は、近代日本人の「西洋体育」の物ではないか、ということです。

「古流は体の遣い方が違う」などと言うのはここ二十年ばかりで新古武術から発信された概念です。決して見直すところない決定的なテーゼなどではない。

 それはつまり、本当の西洋的な体の遣い方というものが、実は全然なめたような遺伝子の優位さからくるものとは言い切れないのではあるまいか、ということでもあります。   

 こうなってくると、では古武術を学んだりする意味とは何だろうか、ということになります。

 実は古武術だと思っているのは時に最先端の研究の成果の身体の使い方なのではないでしょうか。

 少なくとも、野球世界における上にあげた二人の元選手たちにとっては、西洋体育の身体の使い方は自然で柔らかく、かつ効率的な、それまでの日本における現代武道的体育よりもずっと有用性が高いものであった可能性が垣間見えます。

 私にとっては、自分が学んでいる体の遣い方は、伝統的な物であると同時に、人間を自由にするということを目的とした物です。

 これは、凝り固まった形式主義や洗脳とはまったく趣をたがえるものです。

 それは、自由に身体を動かすというメソッドではないのではないかと思う処があります。

 自由で身体を動かすのです。

 自由と言う感性をまず得てから、その精神を拘束しないように肉体をならしてゆく。

 これが私の行っている武術です。

6月の湘南クラス

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 6月の湘南クラスは11日の日曜日です。

 午前10時より、茅ヶ崎駅から南に歩いた、中海岸前バス停の目の前にある、ダンススタジオYOU&MEさんにて行います。

 カンフーや気功、アルニスをそれぞれに合わせて練習します。

 

 一般   2500

 外国人 投げ銭

 

 となります。

 皆さんお待ちいたしております。

6月21日 日曜日は関内ワークショップです

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 5月は21日の日曜日、18時から関内ワークショップを行います。

 場所はいつものフレンドダンス教室さん。https://www.navitime.co.jp/poi?spt=00011.040957625

 アルニスやカンフー、気功などを個々人に合わせて練習して、東シナ海に分布していた海賊武術を楽しんでいただきたいを思います。

 

 一般 3500

 予約 3000

 外国人 TIP

 

 よろしくお願いいたします。

基礎の作り方

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 週末の練習で名古屋の学生さんとまた色々話しました。

 整体の先生をやってらっしゃっていて、様々なセミナーでの勉強を欠かさずに見分を広げてられて、同じく熱心な同業者の方々とのお付き合いの広い方です。

 そのお付き合いの中に、ある有名なロシア武術の先生がいらっしゃるそうで。

 その流派は私も以前から面白いなと思っていた物で、どうも地理的に中国武術との近似性も近いとの話を聞いていました。

 学生さんが言うには、その流派では腕立て伏せや腹筋などの基礎トレーニングにも独特のやり方があるそうです。

 これは信用できる話です。

 というのも、中国武術と言えばジャッキー映画などで面白い基礎練習をしているのをご覧になった皆さんも多いと思います。

 実は技よりもそういった練功法のほうが極意だったりする部分があります。

 どのようにして身体を作るのか、というのはいかにしてその身体を遣うのか、ということと限りなく近いことです。

 そこにこそ、東洋医学や伝統思想に基づいた中国武術という物の真価があります。

 逆に言うと、一般的なジョギングや腕立て伏せで作った身体で格技をやっていると、絶対に技の世界を出ないのです。

 どうしても日本人はコツとかトンチのようなインスタントな物か終着点の見えない根性論かの二極に偏りがちだと思うのですが、そうではなくて理論的に一貫した物の考え方と、それに合致した土台の作り方という具体的なメソッドこそが本来の伝統武術というシステムそのものだと思うのです。

 そして、そのようにして身体と手法が合致して初めて成立した物を術と呼びます。

 そのために中国では、技は教えるが練功法は教えない、という先生が沢山いると聞きます。

 実際、中国武術の世界と言うのはえてして上達するほど動きが見えなくなるので、その部分はどのようにやっているかだけでなく、どのような身体でやっているかというのが大切な部分もあるのです。

 それを手ほどきされない限り、生涯師の技は再現できません。

 上に挙げたロシアの武術では、基礎から独自の方法で作っていっているということなので、そのあたりが実に信頼できる流派だと言う感を深めました。


勁で筋トレをする

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 先日、ベンチプレスの記録を1キロ戻しました。

 もともと、去年の夏は一時的に150まで行ったのですがなんだか挙がらなくなっていたのです。

 基本的にただフィットネスとしてカロリーを捨てるためにやっているので、無理に頑張ろうともせずにゆっくりと時間をかけて戻しています。

 この間までは145だったのが、今回146になりました。

 挙げるときは特に頑張った感じもなく、ふわっと行ったので、まぁ日々の積み重ねで挙がる功夫に至ったのだなと思いました。

 ここでポイントなのですが、私はいわゆるジムナスティックな運動法でベンチをあげていません。

 あくまで功夫の身体の使い方でいつも暮らしていますので、そういうのが出来ないのです。

 時々「筋肉固めてみて」などと言われますが、そんなことができないのです。日常で常に脱力して暮らすようにするのが功夫なので、力こぶを固めるような筋肉の収縮はそれに逆行してしまいます。

 なので、脱力した中に勁という中国武術での体の遣い方でできる範囲でだけベンチプレスもします。

 勁とは我々が「膜」と呼んでいる経絡の範囲に「線」などと呼ぶ意思が導く力を言います。

 このため、私は力まないのはもちろん、ベルトもまかないし勢いもつけません。もちろんブリッジをしたいもしない。

 寝っ転がってゆっくり腕を伸ばすだけです。

 この時に働いている力が、ひょいと相手を触れただけで吹っ飛ばしたり打倒す、勁の力です。

 これを養うためにあるのが、いくつもの練功法です。武術に役立つ気功なので、武気功などと言ったりします。よく映画でジャッキーがやってるような面白トレーニングですね。

 おっと、DVDを観て見様見真似でやっては身体を壊しますよ、先に書いたように意思で導くので、その働かせ方が重要です。それを習ってないで真似をすると事故の元です。

 このような練功をして、脱力で暮らす習慣がつくと、力を出しているつもりがないのに結果として出ている状態となり、うっかりドアを開けようとして古いノブだけを引っこ抜いてしまったりと言ったアラレちゃん的な事案が多発します。

 このように、中国武術はあくまで練功で培った身体で持ってシンプルに撃ったりするところにミソがあります。

 ただ、これはあくまで私が学んだ心意把→洪門流れの武術での話なので、勢いよく瞬発をしたり体重を掛けたりするような物とは違います。

 そのような物の発勁でベンチプレスをすると、おそらく肩や腕の付け根、腰などを大けがする可能性があるのでそれは気を付けてください。 

ダンスと身体の遣い方

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 先日の湘南クラスでは、ダンスに関する話も伺いました。

 そこのスタジオの先生は若いころから様々なダンスをやられて、今はソシアルの先生をされているのですが、そこでの身体の遣い方に私たちにとっても大いに参考になることがありました。

 ソシアル・ダンスと言うのはご存知の通りヨーロッパの社交界から始まったものです。現在のスタイルは主にイギリスがリードしていると聞きました。

 イギリスと言えば太陽の帝国です。

 世界中にイギリスの貴族たちの領地があった時代がありました。

 また、各国の貴族たちとも社交の場で交流するわけです。

 そうなると、スペイン領で行われていた現地のダンスがソシアルに取り入れられたりもします。

 そうすると、ラテン・アメリカ地域でそのようにして吸い上げられたダンスはラテンという種目でソシアルに取り入れられます。

 ただこれ、ソシアルのラテンと土着の物は著しく体の遣い方が違うのです。

 代表的なところでは、アルゼンチンのタンゴとソシアルのタンゴは違うのだそうです。

 やはりソシアルでは全種目に渡って体の遣い方に統一された物があるそうで、アルゼンチン・タンゴが姿勢を低くしているのに対して、ソシアルのタンゴでは姿勢は下げなくても、身体の中で重心を下げる、といういわば内勁的な内部で働かせる力を持ちいるのだと言うので驚きました。

 これは別のダンサーからも聞いた話なのですが、白人種のダンスと他の民族のダンスを比べたときの大きな違いと言うのは、白人種は上に向かって身体を伸ばすのだというのです。

 どうも信仰的な社会形成が関係しているらしく、神様が上にいるために、踊りも神に向かってゆくのだというのがそのダンサーのお話でした。

 これはダンス以外にもみられるらしく、教会などの建造物もより神に近づくように上に向かってゆきます。

 それに対して、アフリカのダンスなどは下に地面を踏みしめて魂の表現をします。

 このために、姿勢も低くなってゆく傾向があるのだと言います。

 お相撲にも同様の大地信仰がありますね。

 この、上に向かうか下に向かうかというところから、現代のダンスでいうアップで取るかダウンで取るかというリズムの取り方の差が現れます。

 さらにいうと、表拍子か裏拍子かというのもここに関係しているように思います。

 ラテン・アメリカのダンスというのは、このアフリカから連れてこられた人たちのダンスを白人種が模倣したという歴史があるので、同じ名前の踊りでも白人っぽい踊りと黒人っぽい踊り方が分かれます。業界でいう白っぽい、黒い、という奴ですね。これは音楽の世界でも耳にする言い回しです。

 個人的には私はアフリカ系のダンスを愛好しているのですが、その嗜好は置いておいて、先に書いた白人種の身体の使い方が黒人種の踊りをするときに、姿勢は上に向けて伸びたまま、内部で地面への力を働かせるのですが、この時、安定を出すために体の内側を捻じって使うというのです。

 そうすることで足の裏が地面に吸い付いて安定度が増すというテクニックがあるのです。

 これは、私たち中国武術でいう、単重での定力に関わるテーマです。

 少林拳は片足で立つことが重視されている武術だというのが私の見解です。

 低い平馬でも体の中では一本足立ちの心意把の勁が働いているわけです。

 少林拳では足を交差させる立ち方が多用されていて、格闘技の視点からは「あんな立ち方が使えるわけがない。見た目ばっかりだ」と思われがちなのですが、これ、まさに中身では片足立ちになっていて、それを捻じっていることで理論的には定力が増すと言うことができます。

 もちろん、それをするためにはしっかりとした練功が必要です。

 ちょっとしたアイディアやコツではないのでそう簡単に真似はできません。

 外見の印象とは逆のことが、ある業界では定番の物として浸透しているのだ、ということを知り、非常に驚きました。

 中国武術の影響が強いラプンティ・アルニスでも、この足を捻った立ち方が多用されます。

 ここはひとつ、定力の強化をする方法をよくよく訓練しておきたいところです。

 

 

イベントに伺いました

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 イベントに参加させていただきました。

 友達の二天殿を頼って伺って、歴史好きの皆さんのまえで演武会に参加いたしました。

 

 どうしても戦国時代の裏に隠れてしまって日本ではあまり認知されていない、その頃の東シナ海での世界の動きの中で生まれた、西洋、イスラム圏、中華にフィリピン、日本と言う諸国の武具や武術が混ざり合って生まれた海賊武術の説明を少しさせていただけましたよ。

 

 創作じゃなくてちゃんと昔から伝わっている物なんですが、どこより創作っぽく見える……笑。

 正統派の刀剣とその術の伝わってきている日本には逆輸入されずらい環境なのは当然ですが、21世紀になってようやくこういう形で戻ってまいりました。

幸せのタオ 8・変態には問題がある

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 この十数年、変態だと自称する人をよく目にします。

 流行り言葉になっているらしいのですが、この始まりはSだMだという言葉が違う使われ方をされだしたころからでしょうか。

 サディスト、マゾヒストという言葉を離れて単に能動的か受動的かというくらいの意味に使われていて、非常に困惑します。

 欧米の心理学ではサディストという言葉は嗜虐性質として反社会傾向や犯罪傾向の強い問題人格として知られているのが一般的であるようです。

 一般でも「彼はサディストだから」という言い方は「サイコパスの変態野郎」というようなかなり危険な状態を指すことが多いように思います。

 ここでその変態です。

 日本でSやM、変態という言葉がカジュアルに使われるようになって、お笑い芸人やタレントが「ドMなんです~」などと言うことがちょっとおしゃれなことくらいにキャッチになったことには、大きな問題があるように思っています。

 と、いうのも、他人の性的傾向に深くつっこない日本では、そのような性的な含みのある言葉を持ち出すとそれ以上相手が深入りしてこないので、非常に有効なバリアとして働くからです。

 タオの陰陽で考えると、強力なバリアを持つと言うことは他者の入ってこない安全地帯を持つと言うことは、そこに対する支払いが当然発生することとなります。

 その一つとして、隔離された安全地帯は自浄作用を持ちにくいということが挙げられます。

 外からの影響を受けにくいと言うことは、その内側が淀んでゆくとか、かなり意識的にしない限りは整理がされがたいということが考えられます。

 タオは文字通り道なので、行き方と来し方のない袋小路を嫌います。

 強固なバリアを持ち、かつ内側が淀みやすいと、人はそこでごまかすことを覚えるのではないでしょうか。

「私変態だから」

 この言葉には、自分は当然の権利として確保された他者との差異の主張がにおわされています。

 これが性的な個性の確保ではなくて、やたらに使われることで「他人と同じことが出来なくても私は変態なので許されるべきだ」という意味にすり替えられることはないでしょうか?

 夫婦喧嘩は犬も食わない、と昔の言葉にありますが、交際相手のサディスティックな行動は、本当にDVやモラハラではないでしょうか?

「変態だから?」というごまかしはどこまで通じるのでしょう?

 痴漢やその他性的犯罪は?

 果てには性的欲求による暴行や殺人は?

 変態は本当に当然確保されるべき性的な個性でしょうか?

 いろいろなことがごまかされているような気がしませんか?

 果ては、大した変態でもない人間がマジック・ワードとしてそれを振り回していませんか?

 自分自身を顧みず、他人に迷惑をかけてしまう事態を改善しないことへのごまかしとしてそれが用いられていることは非常に多いように感じます。

 他人をごまかすのはよくても、自分をごまかすのは不利益です。

 ことを起こすには、きっかけという後押しが必要な場合があります。

 問題があるのを自覚はしていても、変態だからというマジック・ワードで問題改善の機会を喪失していては、かえって不自由なことにならないでしょうか。

 それは自分で自分を不幸にする大問題であるように思います。

奇門兵器と暗器

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 前述のイベントでは、いろいろな体験が出来ました。

 兵器を扱っているコーナーでは本当にちゃんと調律してある鉄笛がありました。

 普段やっている奇門兵器の鉄笛の套路を打たせてもらったのですが、これが重い!

 なんでもホントに物をたたいても変形して音が狂わないことを目指して作られたそうで、実にしっかりとした作りの厚い鉄でできた物でした。

 確かにこれで叩かれたらたまらんわいと思うと同時に、思うように操れなくて套路が狂いまくりました。

 まだまだ奇門兵器は特に練功が足りないです。

 鉄笛はアルニスとも近似性が高い物なのでそくざに人に見せられるくらいにしておきたいところです。

 また、会場には傘や扇子などもあちこちにあったのですが、これらも奇門兵器として扱い方を習っていたのに、普段から仕込んでいなかったためとっさに披露できませんでした。

 様々な長さや形の兵器を練習するのは、それらの道具そのものを使うためではなくて、拳術で練った身体の使い方を、いろいろな獲物に合わせて応用できるようにするためだと教わってきていたのに、残念なことです。

 正直、やることが多すぎて練習のサイクルなどを整理できていなかったのも大きな原因でしょう。練功のスケジュール管理は大切かもしれません。

 また、このコーナーには様々な手裏剣もあったのですが、私が普段やっている打ち方でも刺さった物の、見ていたご亭主が教えてくれた打ち方をすると破格に威力と確実性が上がりました。

 ここでも、広く浅くやることよりも一つの使い方に特化した手法のすごさを知ることが出来ました。

 また、安全なタンポ兵器で集団戦をやるという遊びもあったのですが、そこに呼ばれて双刀で参加してみました。

 他の皆さんは槍か飛び道具です。

 また、槍は危ないので振りかぶらないで突きだけとのことでした。

 ほ~、日本式の槍というのはどう使うのだろう、と敵チームの方に声をかけて対峙したのですが、まっすぐに切っ先が向いていると受けようがない。

 見てから避ける、という反射神経の勝負になってしまって術どころではありませんでした。

 あぁ、来るんだ、とぼーっと見ている間にあっさりと伸びてきて双刀の隙間を縫って突かれました。

 なるほどねえ。こう伸びるのか、と感心しました。

 平素の習慣で触れるまではよけられないので、浅手でもこのルールでは紳士的に死亡宣言です。

 二回戦では飛び道具を持った人に対して打ち終わったところで詰め寄って、逃げる背中に向かって先の手裏剣よろしく飛刀でしとめ、三回戦では槍を受け流して刷り込んでから突きを入れられたのですが、その時に腕を槍の横ざまが擦ったのでまた死亡宣言。相打ちです。

 自分と違う兵器と正面から差向うと」こんなに感覚が違うのかととても面白い経験をすることが出来ました。

 兵器の多様性ということでいうと、当時の南の功夫やアルニスでは、ほとんどありとあらゆる道具をなりで活用するということがされていたようです。

 西洋から大量の鉄砲が海賊によって日本に持ち込まれ、日本からは刀がこれまた大量に放出されていた時代ですが、この兵器の貿易をしていたのが当の海賊衆なのですから。

 インド、アフリカの珍しい形の兵器から最先端の砲に及ぶまで、あらゆるもので彼らは雑多に武装していたのです。

 その中で、上に書いたような、それらの土台となる拳術を練り、奇々怪々の形状をした道具の活用に及んでいたのでしょう。

 

今後の予定 随時更新

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 21日の日曜日は関内WSです。

 関内駅から徒歩5分のフレンドダンス教室さんで18時からとなります。

 http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12266364326.html

 

28日の日曜日はアルニス・サンデーです。

 山下公園、マリンタワー前の芝生にてアルニスを練習します。

 一般   1500

 外国人 ONLY TIP

 

6月の11日は二つイベントがあります。

 

 朝は10時から湘南クラスです。 

 茅ヶ崎駅から南に向かって歩いて鉄砲道と交差したらそこにある中海岸バス停の向かいにあるダンススタジオYOU&MEさんでの練習になります。

 カンフーや気功、アルニスをそれぞれに合わせて練習します。

 

 一般   2500

 外国人 投げ銭

 

 午後は片瀬江ノ島にて14時待ち合わせ、浜辺でBMA(BEACH MARTIAL ARTS)です。

 

http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12273460439.html

 

 

 毎週土曜日は大通公園で練習です。

 よろしくお願いいたします。

 

アバニコと新陰流とフェンス

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 ラプンティ・アルニスと普段は言っていますが、正式にはラプンティ・アルニス・デ・アバニコと言います。

 アバニコと言うのは扇子のことで、暑いときに自分を仰ぐような動作で兵器を振ることを表現しています。

 このアバニコという振りは、エスクリマではメジャーな物ですが、特にうちの派ではこれを重視するために流儀名についているのでしょう。

 実際、接近戦ばかりをするというスタイルなので、ほとんどがこのアバニコになります。

 このアバニコ、新陰流にもあるのだと友達の二天先生から聞きました。

 これは新陰流が倭寇武術に大きな影響を与えたのだということを考えると実に興味深いところです。

 当時の倭寇との交戦記録に「倭刀は左右の変化が素早い」とあることを考えると、このアバニコ動作がやはり使われていたのかもしれません。

 ラプンティ・アルニスは西洋、東南アジア、中国、日本の武術がミックスされて生まれたため、ほかのエスクリマと同じくフェンシングに土台を持っています。

 フェンシングとは「柵で囲い込む」という意味です。

 自分の遣っている刀剣や棒と体でフェンスを作って、それで相手を囲い込んでゆくと言うことです。

 その基本がヴァーティカル・ブロックという真っ直ぐに身体の前に武器を立てて両手で固定した形です。

 これがすべてのフェンスの基本であり、ほかはこれで用いられている原則の応用です。

 アバニコも同様です。

 手元で短く降る動作の中で、武器の陰に体を隠して防御し、相手の武器と打ち合わせになったときのために左手の用意をかくしています。

 その時に用いる身体の動作は、ラプンティ・アルニス独特のツイスティングというものです。

 これは足を絡めて体をねじると言う動作で、中国武術で多用されるものです。

 格闘技的な視点で見るとどう使うのかわからない物なのですが、アバニコの時に最も小さな動作でフェンスを張ることを考えると非常に有効な物です。

 そしてこの動作に合わせて攻撃の威力を増したり相手の武器を奪い取る力としたりします。

 西洋剣術の合理的発想、日本剣術の手わざ、中国武術の身体の要素をミックスしたというのは、実は有用な物をどん欲にハロハロ(ミックス)した結果なのではないかと思えます。


ミンダナオの戒厳令について

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 現在、フィリピンでは大変なことが起きています。 

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170524/k10010992951000.html

 ミンダナオでイスラム過激派と軍隊、警官隊との交戦が起きているとのことです。

 いくつかのニュースを見たのですがまだ詳細が分からず、私自身も情勢に詳しいわけではないのですが、自分なりにいままで知識を得てきた視点からこれを説明してみたいと思います。

 フィリピンは、大きく分けて三つの地域に分かれています。

 私が修行をしていたのはルソン島と言って、首都マニラを中心としたメトロ・マニラ地域が有名なところです。

 ここの歴史については以前に倭寇関連の記事で書いてきました。

 ルソン島の南東にあるのが観光地として有名なセブ島のあるビサヤ地域です。

 多くの日本人観光客はマニラ空港で乗り換えをして、そのままこちらに向かうのではないでしょうか。

 多くの人が持つトロピカルなリゾートとしての南国のイメージはこちらにあると思います。

 ルソンの中心地にある海は軍港であまり泳げるようなビーチはありません。

 ビサヤ地域は20世紀のエスクリマが最も発展した本場となっています。

 それは剣士の伝統を遺そうとした運動がここで行われていたから、ということと、後にその運動が抗争に発展してバハドという決闘が盛んになったためです。

 最後のミンダナオ島は、フィリピン全体の最南東にあります。

 これは、西に向かったマレーシアに最も近いと言うことです。

 そのため、昔からいまに至るまで、イスラムとの激戦地だったといいます。

 14世紀からイスラムの侵略があり、その頃に成立したミンダナオ・スールーという国はセブ島を支配下に置いていました。

 マニラから訪れるスペイン軍と戦いながらも、この国は19世紀まで残っていたというのだから、現地のイスラム人がここを自分たちの土地だと思うのもうなずけます。

 大戦があり、フィリピン独立がなされた後も、ここにはイスラム教徒の人々が多く住んでいると聞きます。

 以前に私が観たニュースでは、イスラム地域というのはほかの人々とは別の区画として独立しており、中がどうなっているのかの地図もありません。

 その辺りは、首都であるマニラでさえいまだ未整理なのですから、やむを得ないのでしょう。

 内部にはムスリム以外は入れない城塞都市のようになっており、そこにたくさんのテロリストや逃亡犯が潜んでいると言います。

 そして、世界のあちこちに流通される過激派テログループの資金源となっている麻薬の中継拠点がこの中にあるのだというのです。

 警察は不意打ちで機動部隊を突撃させていたりするようなのですが、それに備えて防護の強い迷宮上になっているので、主犯を上げることはいまだに出来ていないようです。

 ドゥテルテ大統領はこのミンダナオの出身で、そのような麻薬犯罪を撲滅するために過激な政策に打って出ていたのです。

 このミンダナオのテロリストのアジトを牽制するために、マニラにはピキティ・ティルシャ部隊やシールズという特殊部隊が駐屯していました。

 ピキティ・ティルシャ・カリというのはその舞台がタリバンと戦うために訓練していたエスクリマだと言います。

 つまり、フィリピンとしては国の治安を維持するためにはアメリカに防衛費を払わなければならないことも含めて、国家としての独立と先進を妨げる大きな要因となっていたのです。

 ドゥテルテ大統領は麻薬組織との抗争で大きな成果を収め、内通している警察官なども大量に解雇して国を成長させました。

 それによってマニラに駐屯していたアメリカ軍の部隊を追い出し、今後は中国やロシア、日本との関係を深めて、独立前より続いていた米国の力の下から抜け出ようとしています。

 自国の力によるテロリストとの抗争においても、その時に使用する武器の購入を米国産からロシア産の物に変更することで、国益と米国の利益との相関関係を見直そうとしていました。

 その対話のためにロシアに行っていた最中に、今回の抗争が起きたのだといいます。

 マルコス政権以来の戒厳令を出し、本格的にミンダナオが国家レベルでの抗争状態に入っていることを明言していると言います。

 また、断片的にしか情報が入っていないのですが、この戒厳令はすでにビサヤにも出たともいい、またいずれはルソンにも及んで全土を抗争下と認定する可能性が高いとも言います。

 ルソン島からさらなる兵力をミンダナオに送るという大統領の発言もあったそうです。

 私のマスタルは陸軍の軍人で、ピキティ・ティルシャ部隊に代わってゲリラ戦の訓練を指揮しています。  

 それもあり、これは決して自分には関係のない話だとは思えません。

 現在日本ではミーハー的な物やオタクの遊びのようなものとしてアメリカで改変されたエスクリマが消費されてもいるようですが、本土でどのような歴史があり、それがいまもつづくどのようなことになっているのかを一人でも多くの人に知っていただく機会があればと思い、取り急ぎつたない筆を執りました。

 認識不足や間違った部分もあるかと思います。

 その折は大変申し訳なく思います。

虎鶴双形こそが正統の伝統

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 時々、この何十年かの間に買い集めた古い武術本を見返すことがあります。

 当時は理解できなかったことからも、いまなら見えてくる物があるからです。

 これは当然のことです。一流の先生方がしている話が、まだ師父になっていなかった頃の私にわかるはずがない。

 高級な物事を理解するには一定の教養が必要です。

 いま師父となり自分でも日本における武術研究のせいかをこうして時々書くようになって、ようやく読み取れる物に先日も出くわしました。

 その記事では、日本で一番の正統派の鶴拳の先生が「虎鶴双形こそが鶴拳の肝要」だと言っていました。

 何気なく見過ごしてしまう一文ですが、中国武術の見識に一定の土台があると非常に重要な言葉で、大変に驚かされました。

 鶴拳なら虎の要素は無くて鶴だけではないのか、と思ってしまいそうなところですがこの虎鶴双形と言うのは一定の文脈における決まり文句なのです。

 南派武術における最大の名門である洪拳にある洪家三宝と呼ばれる重要な套路に、まさに虎鶴双形拳というものがあります。

 これは林祖と呼ばれる偉大なマスターが設定したもので、虎というのはそれまでの洪拳、鶴というのは蔡李佛拳を意味していて、二つの派の特徴を合一したためにこの名を付けたというのが定説であるようです。

 もともと、蔡李佛拳はそもそも洪拳より派生したもので、同じ洪門武術の中でも特に洪拳に近いもので、私としてはほぼ同じものだとみなしているのですが、歴史的に一度分派してからまた虎鶴双形で融合した とみなせばよいのでしょう。

 そもそも、嵩山少林寺の拳法の特徴は虎拳と猴拳に分類されるのだと言います。

 おそらく、この虎の要素というのは虎抱頭と呼ばれるような接近戦術のことではなかろうかと思われます。

 これは北では餓虎撲羊、南では餓虎禽羊と呼ばれているものと同一だと想像しています。

 猴というのは通背、あるいは通臂と呼ばれる勁力の構造であると思っています。

 これは南では線、鉄線と呼ばれており、体内に勁の道を通す重要な根幹構造です。

 経絡を通す勁の運用法と言ってもいい。

 この猴の要素が伝播の過程で鶴と呼ばれるようになっていったというのは、以前にこの場でも挙げた仮説です。

 猿と鶴では全然違うじゃないかと言うかたもいらっしゃいそうですが、これ、実は違わないのです。

 少林の猴拳は短打の猴拳ですので腕を短く折りたたんでいる印象があるかもしれません。

 しかし、猴拳の中で有名な通背拳には長打の物もあり、一見猴には見えないほどです。

 さらには日本で名前は有名な劈卦拳も、実は猿拳類です。

 同じサルでもテナガザルなのです。

 そうなってくると、ほら、鶴が大きく翼を広げたように見えるでしょう?

 香港には大聖劈卦拳という門派があって、うちの師父も修行時代には仲良くお付き合いしていたようで、もらったというロゴの入ったスゥエットをよく練習に履いてきています。

 大聖とはご存知斉天大聖、孫悟空のことです。猴拳類は孫悟空のあだ名の孫行者に由来して、またの名を行者門と言ったりするそうです。

 この、短拳と長拳の二つの猴拳をそのようにして虎と鶴に含んで虎鶴双形が成り立っているわけですが、この話を踏まえて元の鶴拳に戻ると、福建派の鶴拳は小さく構えた短打の拳法ですね。

 外見はそれほど鶴っぽく見えないのは、この辺りの経緯があってのことではないかと思っています。

 この、福建単打拳法群ともいえる鶴拳類の一派に、白眉拳というのがあります。

 これは古伝の詠春拳に近い拳法なのですが、連打ではなく一発の威力特化の狂猛な拳法で、残酷だと非難する人は多いが弱いと言う人は一人もいない、として知られているものです。

 この拳法、時に両手を広げる動作も入っていて、長短どちらの鶴拳の要素も入った物だと感じられるのですが、面白いことにシンボル・アニマルが虎なのです。

 やはりここにも虎鶴双形が垣間見えます。

 このようなコンセンサスは武林の歴史上の文脈からうかがえる物なのですが、日本のように地続きではない場所ではなかなか知れるものではありません。

 しかし、この視線から振り返るとまた一つの対偶が取れます。

 日本で特別に人気のある八極拳は、典型的な虎の拳法です。

 もともとは回族武術であって少林拳ではないのですが、少なくとも現代に残っているものは虎の風格が非常に強いように思われます。

 この拳法、前述の劈卦拳を併修することでも知られています。そう、中国の武林のコンセンサスとして、やはり虎鶴双形をして一つのコンプリートという皮膚感覚があるのだと思われます。

 また、ある一派ではこの拳法の由来は、白猿の動作にちなんでいるという言い伝えもあるそうです。

 これは発勁にともなう歩法のことを言っているのかもしれません。

 一般にはそれは猴ではなくて熊歩と言うことが多いようなのですが、中国武術の世界では猴形の大形を熊形と言うのです。

 ちなみに虎形の小形は豹形です。

 その豹でいうと、我らが蔡李佛のアイコンとなっている動物は豹なのです。

 おそらくは姜子錘という独特の拳の握り方が豹形手だからかもしれません。

 小さな虎だけではなく、大きな虎も多用されます。

 https://www.youtube.com/watch?v=bS3Kv6m1XGo

 虎爪と言って、打ったり引っかいたり相手を捕まえて抑えつけたりするのに使います。

 この、捕まえて抑えつけることを虎撲と言ったりします。

 餓虎撲羊の真ん中の二文字ですね。

 さらには、普通は横向きに虎爪を使うことを鷹爪と言うのですが、うちでは虎爪で一貫します。

 これはもしかしたら、清朝に反乱する組織での調練に使われていたので、彼らのシンボルである鷹を入れたくなかったからかもしれない。

 五獣の法則でも、虎、鶴、蛇、豹ときて普通は入っている龍ではなくて象となっているのも、皇帝の象徴である龍を避けた可能性があります。

 五獣の中に入っている鶴で面白いのが、これ、うちでは鴻という伝説の取りと重ねあわされているところです。

 鴻とは荘子に出てくる巨鳥で、鳳凰のことだとも言われています。

 我々の流派は蔡李佛の中でも鴻勝派と言いますが、この鴻は音がホンであり、洪門の洪と同じになります。

 鴻勝派の母体は洪聖派と言い、こちらにはもろに洪の字が入っています。

 どちらも成立段階で洪門の後押しがあったためであると言われています。

 武術の門派の起式や収式には、その派の来歴や行っている人の身分を示す動作が含まれていますが、鴻勝蔡李佛ではまず虎爪を行ったあとに、大鳳天翔という動作につなぎます。

 これは雅号で、初学の内は白鶴亮翅と言ったりします。ここでも鶴と鴻の同一視があります。

 とすると、鶴とはすなわち洪門の象徴であると言う見方もできるわけです。

 そこから見るなら、虎とは龍を撃つ獣であり、龍と鳳凰と言うのは対の生物ですので、反乱結社の武術が正統として虎鶴双形であるというのは実にうなずけるものとなります。   

 この辺りの学識に照らし合わせれば、創作や傍門の類との区別がつきやすくなってきます。

表演動画

マチューテ武術から

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 先日、武術仲間たちからこの動画が廻ってきました。

https://www.youtube.com/watch?v=7p_NUEn7F_g&list=LLD8GbAMD0XRbSYXCFOyCjvQ&index=4

 ハイチでのマチューテ武術の様子です。

 この動画は以前から知っていました。

 その時見た感想は、左手を使わないのがフェンシングっぽいなあ、という物でした。

 現代のオリンピック式のフェンシングは、フランスの物です。

 名前は英語なのですがフランス式で、用語もすべてフランス語であると聞きます。

 おそらくは、現代オリンピックの始まりがフランスにあるからだと思われます。

 これは重要なことです。開会式なども開催国に関わらずフランス語で行っているそうで、これはオリンピックがフランス発の物であることを示しています。

 そのため、一言に剣術と言っても、ギリシャ式などは行われないのですね。

 当然スペイン式もです。

 フィリピン式に関しては、現在私も所属する国営組織アーニス・フィリピネスが公式競技にすることを悲願として活動しているのですが、さて、どうでしょう。

 そんな中で優位をしめているフランス式フェンシングですが、これがメジャーであるために、剣術=フェンスを張ること、というイメージが沸きずらい。

 一口にフェンシングと言っても突くだけの種目、切るのも有効な種目とあるようですが、いずれにせよ直線の動線だけしか認められていないせいもあいまって、遠間で突っつき合ってるように見えてしまいます。

 これはおそらく、競技化される前の剣術にこういう遠間で突き合うという技術があったことに由来しているのでしょう。

 そうするなら、身体を真横に切って攻撃される面を小さくし、利き腕を最大限に伸ばせるように構えるのは合理的な判断です。

 ハイチのマチューテ術が自然にどうようの構えになったのもうなずけます。

 攻撃を受けるばかりで使わない片手も隠した方がいい。

 同じスペイン支配下のマチューテの術でも、フィリピンでの使われ方とは大違いです。

 フィリピンでは、スペイン人が海賊への抵抗手段として積極的に武術を伝道していたということがおそらく関係しているのでしょう。

 その時に使われていたのがエスパダ・イ・ダガというエスクリマのスタイルで、これが最古の姿だと言われています。

 これは右手に剣、左手に短剣を持ったスタイルです。

 こうやて左手を使うとなると、真半身ではなくて相手に正面を向ける形になります。

 基本的な用法としては、相手の攻撃を利き手に持った剣で張ったフェンスで受け止めて、左手の短い方でフェンスの隙間から突きます。

 これが逆だと、おそらく弱い方の手で相手の利き手の攻撃を受け止めきれないのでしょう。

 同様に、左手の攻撃も威力が下がりがちになります。

 そのために逆手に構えて力を増したり、あるいは錐刀や曲がりくねって刃が幾重にも切り裂けるようにできているような物を使ったりしたようです。

 

 この発想は襲撃側の海賊たちにも共通しています。

 彼らの武術的発想の土台となる中国武術では、この両手操法を多用します。

 その辺りの親和性の良さもあって、中国武術とスペイン剣術が融合された結果、私たちのラプンティ・アルニスが生まれた物だと思われます。

 エスクリマの中には遠間での戦いを重視した物もあるようですが、こちらでは両手の得物が届く間合いを重視しており、左手の短剣が届くように極めて近い間合いを想定しています。

 ちなみに、フィリピン式の世間的なイメージでは両手に長い獲物をもっているような感じのようですが、実はこれ、アメリカで創作されたカリで行われているもので、フィリピンの有名処のエスクリマではそれで戦ったりはしないとのことです。

 やはり左右の使い分けが基本であるようです。

 ただ、唯一ホントにそれをやってるらしいのがうちのラプンティ・スタイルです。

 片手にマチューテ、片手に倭刀を持っていたりします。

 おそらく中国の双刀術の影響であると思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せのタオ 9・気を付けるべきは成功

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 先日、テレビでレスリングの吉田選手とボクシングの亀田元選手が変則ルールのレスリングをするという企画を観ました。

 もちろん普通にやっては成立しないので、フォールでの一本勝ちをなしにして、何本バックを取れるかと言う特別な形式が取られていました。

 二人の身長はほぼ同じで、面白いのは吉田選手が亀田選手のネックをコントロールしても、予想外に強くて手が切れていたことです。

 吉田選手は「男性なので力が強い」と言っていましたが、さすがに元世界チャンピオンだと言うことなのでしょう。一般の男性ではたやすくコントロールされていたと思います。

 組み技の未経験者は、どれだけ鍛えていてもスパーをすればすぐに意気が上がります。私たちは「溺れる」と呼んでいましたが、たちまち酸欠になって吐き気に襲われます。

 それでも亀田選手は実にフィジカルの強さを最後まで見せてきちんとしのいでいました。

 ただ、もちろん技術はないので、まともに組み合えばすぐに倒されてしまいます。

 そして即フォールされていました。

 フォールをされると、もうバックを取られることはありません。

 レスリングではフォールをすることが勝ちであり終了なので、その続きはないのです。

 シュートが決まったあとのフェイントの技術がないのと同じです。

 なので、仕切り直しになりまた同じことがなんども繰り返されました。

 組む、タックル、フォール、立つ、組む、タックル、フォール。

 いつまでたってもなかなかバックは取られませんでした。

 吉田選手も工夫してコントロールして立ってる間にバックを取ろうとしているのですが、組合になるとさすがに彼女の方が強いので、亀田選手が倒れてしまうのです。

 ここで私が思ったのは「成功って怖いな」ということです。

 陰陽思想では成功が善、失敗が悪という見方をしません。

 どちらにもそれぞれの面があります。だから陰陽です。

 この模擬試合の場合は、吉田選手の圧倒的な成功がこの形式での勝利を遠ざけていたのです。

 その成功の原因は培ってきた訓練です。

 これと同じことを、実は多くの人はしています。

 局地的な勝利、あるいは一面的な目的をかなえるための訓練(あるいは単なる繰り返しによる習性づけ)をした結果、それしかできなくなり、することで不利益が起きる場合でもしてしまう。

 目の前に餌に飛びついた獣が罠にかかるのと同じです。

 これは、理性が働いていないのです。

 陰陽の調和を求めるには必ず感性のほかに理性が必要になります。 

 習性と言うのは感性に属するので、訓練を積むほどに考えるちからも養わないと、両輪がそろわなくなってきます。

 私の好きな作家にデニス・レヘインと言う人がいます。

 人間の悪やどうしようもない卑俗を鋭く描く作家です。

 そのレヘインの最近の作品に、愚かな人間を指して「自分の内側にしかない競争に勝とうといつも必死になっている。死ぬまでそれをする」という言葉がありました。

 さっきの成功の危険性と合わせてみるなら、実は自分が成功だと思っているものが本当はそうではなかった上にリスクまで引き受けている、ということになります。

 自分が勝手に存在しないゲームをしてしまっている以上、成功ですらないものを成功だと勝手に思い込んで、そしてたくさんの物をつぎ込んで破産する。

 きわめて愚かしく、気を付けたいことです。

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