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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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暗いVレイズ

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 前回の記事で書いた、内側の突っ張り。

 これ、一つ心当たりがあるのです。

 それは、症状が起きた前日、実はまたバーベキューをしていて、一日日向におりました。

 強い紫外線が体内に入ると、皮膚だけでなくて内側も日焼けをするのだそうです。

 焼けて痛い目にあったことがある人ならみなさんお分かりでしょう。焼けた肌は突っ張ります。

 内側でもこれと同じことはよく起きるのです。少なくとも私の経験上は。

 こうなると大変に内部から疲労して居心地が悪い。皆さんも日差しの強い日はお気をつけください。

 この内部の突っ張りへのデトックスにはビタミンEなどが有効だそうで、夏場にスイカを食べると生き返るのはこのためだとも聞いたことがあります。

 さて、わたくしもだいぶ回復いたしまして、相変わらずハンギング・V・レッグ・レイズをしています。

 このVレイズ、鉄棒などにぶら下がって両足を宙づりにした状態から、身体全体が横から見てVの字になるように、足先を頭くらいの高さまで引き上げる運動です。

 やってみると分かるのですが、一度は出来た人でも、二度目以降は一度目の反動が起きるので全身がブランコのように揺すられてしまうので上手く出来なくなります。

 数を繰り返すほどにその反動は大きくなり、どんどん身体は振り回されて、足を挙げようにも土台が作れなくなってしまいます。

 その反動を消すのが、体内の軸です。

 これがポール・ウェイド氏の言う「チェーン」であり、この場合は主にはフロント・チェーンが使われてそのために鍛えられることになります。

 私の場合で言うと、ぶら下がっている指から、腕こと前足を経由して肩甲骨の下まで、強い力のラインがまずは作られます。

 これがこの場合の定力の基礎です。

 普通武術で言うと定力というのは足の裏から上に昇る物なのですが、足裏が浮いていて手だけが他の物質に接触している状態なので前足が定力を持ちます。

 つまり、ぶら下がっている鉄棒の強さを体内に通している訳です。

 それをそのまま体前面の二つの軸と、左右の軸を通して腰の部分までつなげると、身体が鉄棒から二つの鉄心を通されているような感じになります。

 文字通り、私たちの武術の基本の勁力である鉄線です。

 鉄線と言っても針金のことではなくて、鉄パイプなどの鉄骨です。

 そのしっかりした安定を基に、足をググググッ、と持ち上げて頭の高さにまで運びます。

 この、力の曲がる部分が明確にあるために鉄線の部分は湾曲しません。まっすぐなままです。

 そこからまた、ゆっくり目に足を下ろしてくるのですが、この時も反動は鉄線で受け止めて殺しているので身体は揺れません。

 下げきったらおもむろにまた上げ始めます。その繰り返しです。

 目標まで何度も上げ下げしても、体内の線は曲がりませんし、振り回されることもありません。

 すべて受け止めて勢いを殺します。

 この、受け止めて揺らがない力こそが暗い勁の正体です。

 動作そのもので打つような明勁ではない。動かないことで威力が出るという勁の活用となります。

 作用ではなく、反作用が主体となる。

 指だけでぶら下がって全身を反動を殺しつ強い力で動かすというのは、逆に言うと全身の重い負荷を指先だけに伝えているということになります。

 このラインをこうして作り、強化すれば、はい、地に足をつけて同じラインで力を手から伝えれば打てます。

 これは懸垂ではないので、鍛えられるのは手ではありません。

 胴体の内側です。

 その力で手から打つことが出来る。

 もちろん、やり方の正しい指導と、体内のつなぎ方の知識がないと出来ません。

 でも、理屈としては明確な訳です。

 生理的な弱点を突くというようなことではなくて、自分の身体の正しい使い方で物理的に強い力を発生させている、ということです。

 手品や技ではなくて、自分を強い生き物に作り変えるという、中国武術の本道がここにあります。


ルーズジョイント

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https://www.asahi.com/and_M/entertainment/ent_2551918/

 畏敬する音楽家の宇多田ヒカル先生が、過剰運動症候群であることをツイートしました。

 ものすごく納得した感じです。

 この現象は、身体が平均的な人より柔らかすぎて怪我をしやすいタイプの人に見られる物のようなのですが、彼女のパーソナリティを観ていてもそれがすごく感じられるのです。

 皆さんの周りに、なんとなくぐにゃぐにゃした、シャイな小学生みたいな感じの人は居ないでしょうか?

 身体に芯が無いような、いつも何かに半ばぶら下がっているような重心の人は。

 ちょっと差別的に聞こえるかもしれないのですが、東洋医学では身体とパーソナリティは関連するとされています。

 ただの経験則であることはおろか、非科学的な迷信であるかもしれません。

 うちの師父の診断経験などからしても、鬱や精神疾患のある人は頭皮が極端に強張っているか、逆にぐにゃぐにゃで張りがないかのどちらかだと言うことを聞いたことがありますが、過剰運動症候群はまさにこの、関節が柔らかいことが自律神経の問題に由来するという体質だと言います。

 通常は外部の刺激に対して自律神経が自然な防御反応を取るのですが、それがあまり無いそうなのですね。

 なので、関節の可動域は広いのですが、その分、すぐに脱臼してしまったりスジを傷めてしまったりする。

 私の好きな近藤さや香さんは子供の頃からバレエをしていたそうなのですが(いまもしてるのかな?)やはり同じように関節が外れやすく、病院に通っていると言っていました。

 個人的な感想では、このタイプの人には魅力的で才能があふれる、ちょっと変人型の天才みたいな人が多い。

 テレビで見る宇多田先生は明らかに挙動不審だとひところ話題になりましたが、あの感じはこのタイプの関節が緩い人の特徴です。

 小畑健先生のマンガにもこの類型のキャラクターが見られる気がします。

 背が高くてひょろりとしていて身体に芯が入っていないようなぐにゃぐにゃした天才の類型があのタイプです。

 ちなみに私の従弟も発達障害の芸術家なのですが、まったく同じタイプでした。移動を止めるととりあえずその場に垂直に重心を下ろしてしゃがみ込みます。膝の間にまっすぐ顔が収納できるほど身体が柔らかい。

 これは、外部刺激に対する感性から来ているもののようなので、やはり感受性に繋がる物であり、人格形成に直結すると考えてもあながち間違いではないでしょう。

 逆に過剰に反応してすぐに強張る人はいつも怯えていて猜疑心の強いパーソナリティになるかもしれないし。

 個人的にはこの、ぐにゃぐにゃ型の人は人懐っこいのに頑固なところがあって魅力的な人が多いように思っています。

 外側の刺激を取り入れるのが上手いので、気功的に考えてもとても良い。

 ただ、自分を持つことが難しくて関節が外れやすい、人間の芯が折れやすい部分は問題でしょう。

 実は私も中途半端に関節が柔らかいところがあります。

 下半身は生来の関節奇形のために非常に硬くて、ずっとストレッチをしてきても人並みいくかいかないか程度なのですが、肩関節に関しては自在に外せるくらいにルーズなのです。

 中学生の時に、それが単なる柔らかさでなくて病気だと判明してお医者で診断を受けました。

 曰く「千代の富士の肩」だそうで、あの昭和の大関取も、同じ体質だったそうなのです。対策としては筋肉をつけて補強することだそうで、あのすさまじい肉体が形成された一因がそこに見られました。

 あの方も、間違いなく天才的な精神を持った異能力者であると言って良いでしょう。

 体質と人間性は繋がっているというのが霊肉一致の東洋思想の考え方です。

 単にカウンセリングや生ぬるい自己啓発本などを読んで知識だけで自分をどうにかしようとするのではなくて、一日十五分のストレッチや筋トレのようなものが、自分を変えるということは充分にあります。

 何か心当たりのある方は、そちらの角度からも見直してみることをお勧めいたします。

ザ・フォーリナー 復讐者

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 平素、テレビは観ない代わりにYOUTUBEを良く見るのですが、そこに入ってくるCMでジャッキー・チェンの新作映画のトレーラーを目にした時に「あれ、これチャイナマンじゃね?」と思いました。

 あれは90年代くらいだったかなあ。当時読んで、とても好きになった小説です。

 元ベトコンとイギリスの民族紛争を描いた作品で、同じくベトナム帰りの主人公を描いたクィネルの「燃える男」と並んで私の中で二大ベトナム帰り小説でした。

 案の定、調べてみればジャッキーの映画「ザ・フォーリナー 復讐者」はチャイナマンを原作としていました。

 これは長年の原作ファンとしては観なければいけない。と思って映画館をチェックしたら、公開館が非常に少ない。

 ここのところのジャッキー映画はこのケースが大変に多いです。

 そして、その少ない劇場数で、今回に関しては席が埋まるのがとても早かった!

 どうしたことでしょう。二年前に制作されて公開が引き延ばされていたこの映画、とても人気です。

 少ない上映回数の座席が毎週埋まっていって、このままでは公開が終わってしまう、と追い詰められてゆく後退戦の中で、ようやく鑑賞することが出来ました。

 その上での感想は大きく言うと二つあるのですが、そのうち一つ目が「主人公の国籍が違う!」

 劇場版のタイトル「ザ・フォーリナー」というのはどうも映画版の原題であるそうなのですが、元々の主人公はベトナム人なのです。

 ベトナム人だからこそ、白人社会に顧みられず踏みつけにされ続けてきて「あぁ、あの中国人だろ? え、違う国? 知らんよどこもアジアは中国だろ?」という、黄色人種は十羽ひとからげに「チャイナマン」とみなされてきた世相にこそタイトルの意味がある訳で、主人公をベトナム人から中国人の設定にしてしまったからこそ、中国人をチャイナマンと呼んでも何にもかかっていないので「外国人」という意味に改題されたのでしょう。

 ちなみにもう一つの感想も同じく設定変更問題で、原作では物語の主軸にある組織がIRAだったのですが、今回は別の組織となっています。

 これは、作品が発表された時代からもう二十年以上が過ぎて、世界情勢が変わったからなのかな、と思っていたら、実は元々はIRAと言っているそうです。

 それが、日本公開版では後から編集で別の名前をかぶせて改変しているのだそうです。

 政治上の配慮が公開される国によって行われてる、ということでした。

 となると、全体では変更されたのは主人公の人種なのですが、ここにも一工夫されています。

 とても信頼の出来る制作姿勢です。

 主人公はベトナム人ではなく「江西省出身の少数民族」ということになっています。

 おお! 江西省の少数民族!!

 このページをいつも読んでくださってる方にはこの驚きと興奮がお分かりいただけますでしょう。

 江西省と言えば太平天国の乱の本場。

 太平天国は列強の支配に対して起きた中国各地での反乱の内のもっとも大きなもので、そのまま清朝中華を滅ぼすきっかけになった物です。

 そして、その内実は少数民族が集合しての一大蜂起でもありました。

 そこで、各地の少数民族に伝わる中国武術が一堂に会したという武術史上非常に重要な乱です。

 そして主人公の設定は、中国史においても「フォーリナー」とみなされ続けてきた民族であるということです。

 となると、その部族が気になってきます。

 短勁の苛烈な客家武術を使う客家なのか、それともあの泰拳(古式ムエタイ)で名を知らしめたチワン族なのか。

 あるいはインドから武術を中国に持ち込んだ回族だったりするだろうか?

 後で知ったのですが、設定上、主人公の人種は、チワン族だそうです。

 ばんざーい! ばんざーい!

 さすが分かってる!

 やっぱりそうだったのか!!

 いや、そうかもな、だったら納得いくな、と思ってみていたのです。

 見張りを背後から一撃で眠らせるシーンで、非常にエクストリームな角度で繰り出される膝蹴りはとてもムエタイっぽいし、唯一心をかすかに通わせたっぽい強敵との対決シーンで用いる木の枝を左右の手に持った戦法は、チワン武術の看板兵器だし。

 でも、やはり映画としての表現もあって、シックにはされている物の、ちゃんと屋根から落ちたり、ガラステーブルに相手を投げたりと、映画的なアクション演出もあちこちにあったので、単にスタントチームの意向による殺陣が付けられているだけかもしれないとも思っていたのですが、いや、ちゃんと背景を計算しての物だと解釈してよいと思います。やたーーー!

 チワン武術映画で見れたー!

 泰拳ということで言えばマッハ・シリーズ以来の表舞台と言っていいでしょう(トニー・ジャーのその後は、ほら)。

 一体何を言っているのかわからないという読み手の皆さんもおられることでしょう。

 チワン族というのは、中国に住んでいる、タイ人系の民族なのです。

 タイ本国においては古式ムエタイ(ムエ・ボラン)と呼ばれるマーシャル・アーツの系統の武術を継承していて、それらは泰拳(タイの拳法)や、壮拳と呼ばれています。

 壮とはチワン族のことを壮族と書くことからの物です。

 このチワン族の武術、ムエタイと中国武術の歴史的なミッシング・リンクと言って良い重要な物で、その流れをたどってゆくとフィリピン武術のエスクリマや、ミャンマーのムエ・カチューア、カンボジアのボッカタオに繋がるという東南アジア武術界においてはとても重要な物なのです。

 そして、私が師父をしている太平天国武術の蔡李佛拳でも、太拳として伝わっている物なのです。

 チワン族は古来勇猛果敢な戦闘民族として知られており、またの名を「狼兵」と呼ばれて恐れられていました。

 明の時代に大倭寇の乱が起きた時には徴発されてヨーロッパ人やアフリカ人、東アジア人からなる倭寇大連合軍と戦ったことが歴史に残っています。

 ちなみに彼らのうちの何割かは、そのまま降兵として倭寇に仲間入りいてしまったといいますので、そこからフィリピンにこの武術が伝わっていったことは充分にあり得ます。

 また、第二次大戦時には「太平天国の時の仇だ!」と国民党軍に反発して刀によるゲリラ戦を展開し「あいつらは人間を食べる蛮族だ」と怖がられていたというくらい、中国では武術で名高い人々なのです。

 中国の少数民族事情など日本ではほとんど誰も知る人はありませんが、ちょうどうちで行っている武術のルーツの一つだったので私はそれにライフワークとして取り組んでいた次第ですので、この映画の裏打ちの確かさはとても喜ばしく感じるところです。

 この辺りのことを知った上で鑑賞すると「ザ・フォーリナー」より楽しめると思いますよ。

信頼できる

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 ホリエモンさんがね、寿司なんて何年も修行する必要はなくて専門学校で一年か二年勉強すればだれでもつくれるようになるってことを言ったことがあって、物議をかもしだしましたよね。

 あの時、伝統武術サイドの人間の中でも自分たちの身に置き換えて反応した人たちが私の周りにも何人もいました。

 確かに、伝統をおろそかにしてしまうという意味では伝統武術の世界の人間が眉を顰めるのは当然です。

 伝統の重さと意義をよく知っているのですから。

 しかし、そこで色々な角度で見る習性のある私、一概にホリエモン発言が悪いとは思えませんでした。

 というのも、理不尽に若者を囲い込んで安い値段で下働きに使った挙句「技術は自分で盗め」みたいな無責任なことを言ってかつ別にのれん分けをさせるのは家族にだけと言ったような大手のすし店があったりするのではないか、と思いたるからです。

 そのように、「一身の安全を図り、妻子を安泰ならしめている(司馬遷)」だけの既得権益の持ち主が他人の人生をほしいままにむさぼるだけの部分も現実にはあるのではなかろうかと思ったのです。

 40、50になっても若い人として部屋住みで使いつぶされる人生だって珍しくはないでしょう。

 前科があったり借金があったりして行き場のない人の世話を見る形でのそれなら良いのですが、将来有望であった人間を食いつぶすような形だとしたら遺憾です。

 それだったら、対価を支払って専門学校で勉強が出来た方が世のため人のためなのではないでしょうか。

 立場変わって、既得権益をむさぼる大手の寿司店の家に生まれた子供というのもこの話の中では存在しえますね。

 司馬遷の引用に出てきた妻子の子の人たちです。

 彼らは生まれた時から何の苦労もなくただ自分の家で暮らしているだけでそのまま稼業を継いでやってけてしまう訳でしょう?

 それはいいのですが、物を学ぶということに当たって、それだけで何かを分かったような気になって一人前面をしてやっていってしまうことは本当に大丈夫なのでしょうか?

 もちろん、人間形成で言うと最低でしょう。学校と自分のおうちしか世の中を知らない人間になってしまいます。

 それだったら、そういう人こそまさに一度専門学校に行った方がいいのではないでしょうか。

 本当はね、他所の老舗に入社して五年、十年を家畜扱いで修行してこそまともな人間になったり仕事が分かったりするのではないかという気もするのですが、やはりそれも人生勉強が高くつきます。なら専門学校で世間を知るのは本人のためでしょう。

 もしそうでないのだとしたら、他の人より早く家で学んだりできる分の時間を、基礎の学問に費やせば良い。

 遠洋漁業についていって一年くらいマグロを追いかけて過ごす時期があってもいいでしょう。

 二年、三年、農家になってお米を作ってみてもいい。

 そのお米を醸造させてお酢を作る修行をしてもいいでしょうし、蔵元に入って醤油職人の修行を積んでもよいでしょう。

 また、海苔の養殖が出来るようになってもいいでしょうし、刀鍛冶に弟子入りして包丁という物を原子の段階から学んでも良いでしょう。

 世襲の二代目、三代目がそういうことをしてるのかどうかは知りません。

 お父さんの傍にいて教えてもらってるだけで大人になったような顔してるのならそれは問題でしょう。

 いくら高い金とって時価の寿司売ってたって、せがれをそんな何年も他の仕事で遊ばしてられる余裕なんかないよ、ということは当然あるでしょう。

 そうなると、そういう基礎の勉強を可能にするのが、専門学校なんですよ。

 団体単位の資本がある学校組織なら、田んぼを買うことも可能でしょう。

 刀鍛冶の工房と提携も不可能ではない。

 海苔やお酢を作る部署を子会社として運営しておいて、そこで生徒を学ばせたり、あるいは就職の受け入れ先にしてしばらく学ばせたりすることも可能です。

 そういう経験をして基礎をしっかり学べる専門学校だったら、どうです?

 ホリエモン発言、全然悪いヴィジョンに繋がっているとは限らない。

 技術を売って対価を得ている人間とは、そのくらいで在って欲しいと思う部分が私にはあります。

 少なくとも自分自身が専門としていることには、私はある程度のことはしているつもりです。

 ただカンフーの師父として認められたところで終わりではなく、その歴史や伝播の現実を学ぶために世界を旅して、身体で吸収しています。

 功夫の源流を学ぶために、直接の源流でる気功のみならず、泰族の身体操法や文化も学ぶ。

 古代から伝わるキャリステニクスも実践して自分の身体で確認します。

 中国武術の門派の中だけで完結して終わりではなくて、その基礎教養や地力に必要な物をおろそかにはしません。

 功夫の継承者というからには、少なくともムエタイやエスクリマのレベルの実力は無くてはならないというのは、歴史上の経緯から私が常々言っていることです。

 いつもお世話になっている整体名人を信頼しているのもまた、彼がとっくに鍼灸学校を卒業して資格を取っているにも関わらず、それでは納得がいかないと自ら整体を学び続けて人間の身体を探求しているからです。

 その結果として、ようやく鍼を打てるという手ごたえを得てからでないと鍼灸医はやらないと言っています。

 そうやって、自分で自分に何年もの下積みをさせて、自分を信頼できるまでにたたき上げられる人間が、いまの世の中どれだけいることでしょうか。

 誰もが安易なやりかたで上っ面を粉飾してごまかして取り繕って、さも一人前風を吹かしたがる。

 なんでもかんでもタダで踏み倒されると思っていて、自分の言動に一文たりとも責任が伴うとは思ったおらず、やりっぱなしの逃げっぱなし。

 そういう人間は信頼できないというのは、私だけでは無いのではないでしょうか。

 私に資本力があって、そのニーズがあったとして、武術学校を開くとしたら、やはり科目をきっちり設定すると思います。

 ムエタイは絶対にしっかりやらないといけません。元々蔡李佛には泰拳が含まれていますので、その地力は必須です。

 格闘技能力なしでカンフーやってる気分になりたいなんていう甘えは通用させません。

 アルニスも同じです。

 あれもカンフーから出来ているにも関わらず、あのレベルでの兵器の操作が出来ていない中国武術家が出来ていないとしたらそれはありえない。

 基礎があった上での高級技法。そこをすっとばしたいなんていう甘ったれは学ぶ資格がない。

 キャリステニクスもやるべきでしょう。基本的な体力の形成を通して自分の身体と向き合う行為をしないと、何も出来るようにはならない。

 それが出来ない人間は、結局中国武術を伝えても基礎をやらないから物になりえない。

 気功にはたくさんの時間を費やして学ぶべきです。

 中国武術は気功から出来ているので、そこに理解がなくては何も学んでないに等しい。

 思想はもっとも大事かもしれません。

 頭が悪い人間には中国武術は出来ない。

 こう書いてゆくと厳しいように聞こえるかもしれませんが、逆です。

 本来これらのことを、きちんと学べるだけのカリキュラムが怪しいところなのが、明文化されてギッチリ学べるのだから、懇切丁寧この上ない。

 そう思えない人が居るとしたら、やはりどうにかごまかそうという考えがどこかにあるのでしょう。

 少なくとも私は、自分にとって学び足りないと思っているところは自腹で足を運んで一つ一つ学んできましたよ。

今後の予定 随時更新

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6月2日 日曜日 太拳体験会 雨天中止

 

 11時より代々木公園にて行います。

 

 一般          5000

 会員          3500

 予約会員       3000

 伝統医術班会員   2000(当日入会可) 

 

 

 

6月16日 日曜日 関内練習会

 

 18時より 

 関内駅徒歩五分フレンドダンス教室さんにて

 

 一般    3500

 事前予約 3000

 

 

 

バーサーカー・ボディ

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 気功やキャリステニクスによって身体を練るというのは、ウェイト・トレーニングで身体を作るのとは違います。

 どう違うかと言いますと、前者は本来身体の内側にある要素を引き出す物だからです。

 ウェイト・トレーニングを始めとしたいわゆる現代的なフィットネスというのは、まず先になりたいと思う身体のヴィジョンがありきで、そちらに向かうためにデザインしてゆく目的に用いられることが多い。

 気功などの練功は、もともとのその人の身体の中にある本能に回帰することをコンセプトとしています。

 この本能を元神といい、元神に還ることを還元と言います。

 こうなると、その人の遺伝子にある使っていなかった機能に身体が寄って行きます。

 そこには、当人の歴史に由来する肉体の記憶や、もしかしたら深層心理の反映もあるのかもしません。

 最近、私の身体はなんと、レスリング時代の物に戻ってきました。

 当時と比べて、体重は破格にアップしているし、膝をやってしまっているから往年の太ももの太さはありません。

 そういった違いはありますが、肩回りから上腕の、特に後ろ側の太さやそこから繋がる僧帽筋、首などはあきらかに往年の物。のっぺりした柱型の不思議なレスラー体形になりつつあります。

 決して当時のトレーニングをしている訳ではありません。

 これは恐らく、身体の記憶にある「これが自分の使える体型だ」という処に肉体が向かって行っているのでしょう。

 なんだかとても嬉しいことです。

 若いころにこういう身体をしていたから、別に首回りを鍛えても居ないのにそこに戻ろうとしている肉体の意思が感じられます。

 東洋武術で身体を作ってゆくというのは、こういうことです。

 人それぞれの違う個性を持った身体が、一番よく動けて自由に生きられる状態に向かってゆく。

 いろいろな器具やマシンで、本来の自分とは違う何かにむかって身体を作ってゆくのは、ある意味で大いなる歪みだと感じるところがあります。

 それこそが近代西洋の思想の繁栄そのものに感じられます。

 世界大戦に直結した出来事は、産業革命だと言われています。

 それは機械による大量生産が可能になったために、それまで仕事についていた個性のある職人さんたちが不必要になり、失業者が大量に発生したということが一つあります。

 もう一つは必要以上に安易に量産されてしまう物品をはかすためには、押し売りが出来る植民地が必要だったということです。

 この二つを同時に解決するために、失業者を兵士にして仕事を与えて、支配国を手に入れるための侵略戦争に出るという政策が流行しました。

 明治日本の脱亜入欧方針はまさしくそこに乗っかった物であり、近代国家としての日本と言うのはそのようなことをするために革命という手段によって作られた物です。 

 そのような国が富国強兵政策のために人間をつくる手段として制定された教育と、その一部である体育に、画一的な規格性があるのは当然のことです。

 鋳型にはめて作ったように、同じような人間を量産して国益に反映させる。それが体育として行われる西洋スポーツや現代武道の本質です。

 それに比べると、伝統の身体操法というのは、肉体の真実に還元することで社会制度から逸脱して自由を手に入れようという解脱思想で作られているので、ずいぶんとアナーキーな物です。

 しかし、これだけ世にあふれている人間の個人の身体性など、理解して肯定してくれる存在と言うのは、他にはないのではないでしょうか。

 そんなことにいちいち気を払っているよりも、画一的にみんなとおんなじような物にしてしまったほうが効率がよろしい。

 個人の個性など顧みる必要はない。

 自分自身の存在を探索し、それをあるがように伸ばしてゆくというのは、その個人その人の役割です。

 その行為を通して、人は自分の自我(エゴ)が知らなかった肉体の意思や性質という物を知ってゆくことになります。

 それが自分と向き合って、肉体という自分と外の世界を繋ぐ物を通して世界の真実に触れる一歩となってゆきます。

自分と他人の区別をつける

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 また、痛ましい事件が起きてしまいました。

 無差別に多くの人を傷つけて挙句自殺というこの手の件に関して「死ぬなら一人で勝手に死ね」という声が必ず上がります。

 私も、なぜそのような無意味なことを、という気持ちしかありません。

 ですが、実際にはこの手のことは類型的と言っても良いくらいに繰り返され続けています。

 各地で起きるホームタウン・テロリストというのもおそらくは同じ手合いの人々でしょうし、また身の回りを見渡せば、他人を巻き込んで自爆する性癖の人は必ずいるのではないでしょうか。

 このような人を、私は常々問題として取り上げてきました。

 自分の分の支払いを一人で背負おうとせず、何かあればすぐに他人に支払いを押し付けようとするという人間性の人々。

 これは決して珍しくないのでは?

 そして珍しくないということは、問題ではないということではありません。 

 珍しくないからこそ、深刻な社会問題だと言えるのではないでしょうか。

 人が他人を巻き添えに自爆をしようとする意識の根源には、自分と他人の区別がついていないという幼児性があるのではないでしょうか。

 他人は他人、自分は自分、他人のことは自分には関係がない。そういうことが分かっていない人は、果てしなく多いように思います。

 SNSでのマウンティングの取り合いが盛んであるという話などを聴くと、ほんとかよ、と思いながらもどうしようもなく情けない気持ちになります。

 例えば町のカフェやファースト・フードに行くと、おばあちゃんがひたすらに近所のうわさ話や他人の悪口を言いながら、お互いに相手より優位に立ちあおうとしていたりという粘着して絡み合ったようなセッションをしていることを目にすることは非常に多いです。

 そこまで長生きしててそれなのかよ。と、とても虚しい気持ちになります。

 自分自身の体験した世界のこととか、自分が素晴らしいと思うことについて話すのではなく、ひたすら身近な他人の足を引っ張る話。

 お前、それがお前の住んでる世界なのかよ。と空恐ろしく感じすらします。

 よぼよぼになるまで長生きしてきて自分の内面がそれだなんて。

 あるいは、もう身体が利かなくなってきているからそうなのかもしれないと言う風にも考えられるのですが、残念ながらそうではないようです。 

 先日、ネットでたまたま(ほんとにどうしてだか思い出せないのですが)目にした、いわゆる「面白動画」の類が壮絶な物でした。

 地下アイドルだかなんだかをしている女の子が配信している動画だったようなのですが、まぁ平たく言うと内容は、ファンからの書き込みで胸のサイズについて指摘されたその子が怒りだしたところ、方言が大変に強かったのでかわいらしかった、という他愛のない物なのですが、そこで言っていることが私には大変衝撃的でした。

「お前ら人のおっぱいちっちゃいちっちゃい言うけど、この中に一度でもおっぺ触ったことあることあるヤツいるのんか。金出してじゃねぇぞ。一度でも彼女出来たことあるヤツいるんかや」みたいなことを言っていたのですが、本当に途方にくれまして、いまでもその衝撃から立ちなおり切れていません。

 私のオンタイムの皮膚感覚では、セックスと言うのは高校生くらいでするのが当たり前だった。

 たまたま機会がなくても10代のうちには特になんということをしなくても自然に20代の頭にはしている物だろうと思っていました。

 それは、ご飯を食べたり眠ったりするのと同じくらい当たり前で、疑ったりするようなことではなかった。

 私の周りというと、十代で職人になって車買ったりするようなのが普通だったから、違うライフスタイルの人たちもそれはいるのでしょうし、もちろん食事に興味がない人間がいるようにセックスに興味がない人間がいるのも納得が出来ます。

 でも、興味があるのにしない人間というのが存在するという前提でこのアイドルの子は話していた訳で、そんなことが存在する世の中になっているというのは本当に驚きでした。

 私にとっては彼女の言葉は「お前ら人の作った料理マズそうマズそうって言うけど、お前らの中に一度でもご飯食べたことあるヤツいるのか」と言ってるとの同じような物でした

 だって、三大欲求だよ?

 あらゆる生命の根本のことですよ?

 どれだけこの社会は、自然なあるがままの世界のありようからかけ離れてしまったのだろうと打ちのめされました。

 そしてそのような命の営みから離れた人間が、心身を健康に過ごせようとは想像できない。

 私自身、古武術時代は「殺し合いの後は女を買え。じゃないと心が戻ってこれなくなる」と教えられてきた物の、ボディガードの仕事でギリギリの想いをしても「心の通わないセックスは好きじゃない」と意地を張っていた結果、やはり自律神経がおかしくなったりしてきました。

 だから、自分の考えでセックスをしない人間のことは理解が出来ますし、その結果心身に歪みが生じることも身体で思い知らされています。

 しかし、この場合はそれとはまったく違う。

 あまりにもセックスを現実離れした物としてみなしすぎている!

 確かにセックスはこの世界においても格別に素晴らしいものだ。

 しかし、どれだけ貧しくても、戦乱の時代でも、被差別階級だとしても、人類はセックスをし続けてここまでやってきた。人間とセックスの距離がこんなにも離れた価値観を持つのはあまりにもいびつだと言わざるを得ない!

 この発言をした彼女も、彼女にそのように見なされた人々も、あまりにも惨めだ。

 恐ろしく極端にゆがんだ価値観のごくごく狭い世界に住んでいて、おそらくはそのことに気づいてもいない。

 ほとんど、現実世界に存在しているとは思えないほどに人類史とかけ離れた世界観に存在している。

 そのような考え方に染まってしまったのは、おそらくこの現代社会の病弊に由来するのではなかろうか。

 この社会は競争だ。スポーツでゲームだと、あまりにも多くの大人が言いすぎている。

 そのような中で育って、果たしてどれだけの子供たちがそれを真に受けずに、自分の価値観を確立して成長することができるだろう。

 真に受けた人間は仕事や生活が他人との競争だとなんの疑いもなく思い込んでいて、常にコソコソ他人をうかがって勝敗を測りながら生きることになる。

 実際に自分が欲しいものであるとか好きなことであるかは関係ない。ただ勝負に勝ったと思うためだけにそんなことに人生のほとんどのエネルギーを費やす。

 その結果できるのが、愛情のない家庭、死にたくなるほどストレスフルな仕事、醜く太った動かない肉体、不健康な精神だ。

 一体それのどこが勝利だといえるのだろう?

 人生は他人との勝負なんかじゃないのではなかろうか?

 そう思うのは私の間違いだろうか。

 自分が好きなことをして、満足して喜んで暮らせればそれでよいのでは?

 働いたら負けだと思っている、という言葉を目にしたことがあるけれども、これこそが仕事が勝敗だと思い込んでいることの確かな証言ではなかろか。

 勝ちも負けもやりがいなんかも関係ない。仕事とはただ、欲しいものや必要なものを手に入れるための作業でしょう。

 なんの疑いもなく刷り込まれたままに労働を勝敗だと思うバカがあふれているから、働くことに抵抗が出てきてしまうのでは?

 ただ、自分が本当に欲しいものや本当に送りたい生活を支えるための対価が必要だからその分だけ働く、それでダメな理由が私にはまったく想像できません。

 そんなに勝敗に囚われた結果、勝つために無意味に消耗し、負けを恐れて行動ができなくなった人々があふれて、せめてもの一矢を報いたいと他人を巻き込んで自爆する。

 そういうことなのでは?

 そんなことに生まれ持ったすべての時間と力を使い果たして、一生おっぱいが揉めない人生ってなんだよ。

 意味あるのそれって?

 ほんとにそれでいいと思ってるの?

 そんなことより、自分のことを好きだと思ってくれてるおっぱいがいつでも触れる位置にあってくれることのほうが一億倍大事だよ私には!!

 そしてそれは、人類という物がこの世に存在を初めて以来、普遍的に行われてきたことだろうよ。

 その、大切で当たり前なことを見失っている現代社会の人々の生きかたは、明らかに狂っているとしか思えない。

 バカみたいなマウンティング競争や足の引っ張り合いより、おっぱいのほうが大切に決まってるだろそんなもん!

 命の根本を離れた生き方は、やはり間違っていると言わざるを得ません。

 自分の身体という現実を離れ、他人から刷り込まれた実態のない情報を離れて、本当に自分にとって大切な物を知り、そのために生きるということが、本当に生きるということなのではないでしょうか。

 そのためには、自分と他人の区別をつけなければならない。

 自分と他人はまったく違う人生を生きているまったく違う存在なのだということを知らなければならない。

 近代産業社会が刷り込んできた、みんな同じでみんな同じ社会に住んでいて同じスポーツで競争するんだよ、という虚構から離脱しないとそれは難しい。

 そして、そのようなことを自己の確立というのではなかろうか。

 自己の確立が出来るということを、本来は大人になるというのではありませんか。

 いい子のまま大人に言われた競争に必死になって順位に一喜一憂しているのは、幼児性が抜け切れていないのでは?

 すなわち、自分と他人の区別がついていない。

 人が欲しがっているものを一緒になって追いかけてばかりいないで、本当に自分が欲しいものを知らないと人生は空っぽではないでしょうか。

 大人になってもどころか年寄りになってもそのままというのは、人格形成に失敗したのだとしか思えない。

 それは大衆蔑視なのではないかと言う意見はあって当然でしょうが、私にはこのように思えて仕方がありません。

 他人は関係ない。他人よりももっともっと自分の肉体の内にある本当のことに目を向け、耳を澄ますことから始めるべきではないかと思います。

 自分を知ることからすべてが始まる。

クラウチング・タイガー

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 鉄牛耕地をするときは、一分かけた方が良いか? という質問を受けました。

 鉄牛耕地とは腕立て伏せのことだと思ってよいです。

 つまり、超ゆっくりの腕立て伏せのお話です。

 さすがにそれは負担が大きすぎるのでしない方がいいですと答えましたが、私は実はそのやり方を習いました。

 それどころか、慣れたら下すに一分、上げるに一分と。

 いまの私の見解では、そのようなやり方は身体が出来てからやった方が良い。

 いきなりは刺激が強すぎる。

 はじめは筋肉を鍛えるのではなく、関節や腱、靭帯を作るところから始めて行って、それから力の流れを鍛えていくのが良いと思っています。

 その過程で、養生功や洗髄功などをして体を変えていく。

 じっくりと時間をかけてそこまでの下地づくりをしてから、ようやく筋肉を鍛える段階に入っていいと思います。

 という訳で、それまでの間にお勧めしたいのが鉄牛耕地の代わりに伏虎功です。

 これは腕立て伏せのように上下運動を伴わず、固定したままじっくりと体内に利かせてゆく方法です。いわばとろ火でじっくり中まで焼くというような感じ。

 現代のフィットネスではプランクと言われています。

 キャリステニクスでの呼び名は「タイガー・ベント」。

 伏虎をそのまま直訳したのでしょう。

 この伏虎功、肘をついたヴァージョンと手のひらでやるのがあり、また名前も伏虎のほかに臥虎功と呼ぶ派もあります。

 私はもうおりまぜて、片方でやっていて辛くなったら姿勢を変えてまた辛くなったら戻してという風にやってよしというスタイルでやっています。

 でないと、内側より先に腕や手首などが疲れてしまって肝心の胴体内部に利かせ切らないことがあるからです。

 アメリカのフィットネス界では、数年前にプランク30日チャレンジという物が流行りました。

 これは数日ごとに休日のあるカレンダーにしたがって、二日ないし三日ごとに30秒づつ追加されるメニューで毎日プランクをしてゆくというプログラムです。

 実は私も現在試しておりまして、本日は3分の日でした。

 残すところ1週間ほどで終了で、最後には5分やることになります。

 フィットネスの考え方では、これでおなかがへっこむってことになってるのかなあ?

 それともシックス・パックに?

 調べてみたのだけど、どうもこのチャレンジに成功したという人が見つかりません。

 大体、腰を痛めて挫折したり、腹筋の成長が追い付かなくて途中で降りたりしているようです。

 キャリステニクスで腹筋を鍛えながらやっている私、はたして最後まで持つでしょうか。

 もしどうしてもだめになったら、途中で上に書いた伏虎功のやり方で姿勢をシフトします。

 これ、30日チャレンジのルールでは認められている方法のようです。

 いまのところ、とにかくひたすら苦痛という感じなのですが、まだどこかを悪くしたりはしていません。

 果たして最後にどこに行けるのか。夏に向かってかっこいいボディになれるのか。

 楽しんで日々を進めてゆきたいと思います。 


力こぶる

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 皆さんの中に、夏に向けてトレーニングをされていらっしゃる方はおられますでしょうか。

 毎年これくらいになってくると、連れ立ってやる気なく器具の前にたまって仲間内でわちゃわちゃやって空くのを待っているベテランをイラつかせるガリガリの初心者がジムに沸く季節が始まっております。

 5キロくらいのウェイトをつけてベンチプレスをしては五分くらい台の上でスマホをいじってまた30秒5キロを挙げる、というのを繰り返すのを見ていると「君たちは端のほうで腕立て伏せをしていればよろしい」と言いたくて仕方なくなるのですが、これ、キャリステニクスを学んでいるいまとなっては本当に心の底からお勧めしたい。

 何しろ私自身がジムに行く日を減らしていまや自重に当てているのですから。

 シットアップ・ベンチとウェイトを使った腹筋よりも、そこらの梁や公園の遊具にぶら下がってのVレッグレイズのほうがずっと効きます。

 そんな私が最近気に入っているのが、逆手でのホリゾンタル・プルアップです。

 腰くらいの高さの鉄棒や遊具などにぶら下がって、地面に踵を着けた状態でする懸垂運動なのですが、これが実に奥深い。

 足をつけての懸垂なんて甘いという体育会系日本男児の根性論が出そうですが、実はこれ、世界中のマッチョマンたちのお気に入りの強力に効果のあるトレーニング法です。

 私が学んでいるアジアの伝統的な肉体の鍛錬法では、肉体を動物の時代の使い方に持ってゆくことで能力の開発を図りるのですが、そのせいで現在の私がものを握るときにもっとも心地よいのは、親指を使わない握り方になっています。

 フィットネス界で言う「サムレス・グリップ」。これは、私の腕の使い方がサルに近くなっているからであるようです。

 その手で順手でホリゾンタル・プルアップをやるのと、逆手に掴んでやるのとは、効く場所に差が出ます。

 順手だと前腕や上腕の肘に近い部分が、腱を保護するように鍛えられて、だんだん前腕が太くなってゆくのですが、逆手だと一番には上腕二頭筋に効きます。

 いわゆる力こぶです。

 力こぶと言えば筋肉の象徴。頼もしさと男らしさのシンボル。マッチョの代名詞なのですが、実はその印象に反して、うるさ型の中ではこれは実はあまり評判が良い筋肉ではないのです。

 と、いうのも、上腕二頭筋は典型的なビーチ・マッスル、つまりフィットネス的な美観に訴えるためだけの筋肉で、実用性がほとんどありません。

 確かに、上腕がむきむきで割れていて頼もしい男たちもいます。

 それらの多くはやせ形で、ホルモンの分泌が激しくて、ついでに腹筋もシックス・パックだったりする。

 いわゆる細マッチョでとてもかっこよい。

 しかしそれは逆説で、多くのマッチョたちの中で言うなら最軽量級。全体が細いがために力士やレスラーのような大男たちだと埋もれてしまって見えない上腕二頭筋と腹筋が浮き彫りになってしまっているだけだったりするのです。

 実際のところ、腕の太さの比率としては、力こぶよりもその裏についている上腕三頭筋の方が体積が大きい。

 プロレスラーや、力自慢コンテストに出てくるような巨人たちの腕を見ると、明らかに腕の後ろ側のほうが太くて、二頭筋は長くてのっぺりしていることが見とれます。

 細マッチョやファッション・モデルの丸まるとした力こぶはあまり見られません。

 さらに言うなら、この上腕二頭筋には本質的に使えない理由が存在します。

 それは、この筋肉の役割は肘関節を伸びている状態から曲げるという物なのですが、その用途に反して力こぶがソフトボールのように肥大すると、容易に前腕と上腕の間でつかえてしまって可動域を狭くするのです。

 本来の目的を強く行うために成長するほど、本来の目的を妨げるという不思議な筋肉となっています。 

 私の友人の中には、鍛えすぎて自分の指で肩を触れない物がいました。非常に不便です。

 そのようなことのためか、これは武術や格技の世界では、無駄な力を象徴する筋肉としても扱われています。

 自分の力、無駄な力を拙力というのですが、それは一般に曲げる力、関節を屈曲させる力だという見方が強くあります。

 よって、腕を曲げるだけの力こぶの力は典型的な無駄な力だとされます。

 格技としてもこのような力が必要とされるものは非常に少ない。

 ボクシングや空手などの相手を突く競技はもちろん、レスリングや相撲のような相手と組む競技においても、いかに引き付ける力を筋力で産むかではなくて技術で生み出すかがポイントになっています。

 数少ない例外は柔道で、それは柔道が相手の体そのものではなくて道着という無機物を掴んで振り回すという独自の道具を用いるところが理由となっています。

 この引っ張る力というのは、トータルな能力が必要とされる運動行為においてはほとんど役に立たない。

 ではなぜ、この力こぶがこれほどまでに筋肉のアイコンたりえているのでしょうか。

 それはまさに、ビーチ・マッスルだからなのではないでしょうか。

 ビーチマッスルと言えば、盛り上がった上腕二頭筋、張った大胸筋、そして割れた腹筋というのが三大アイドルでしょう。

 これらの筋肉は、かっこよさを示す重要な尺度です。

 そしてフィジカルなかっこよさとは一言でいうなら、セックス・アピールです。

 女性の中で、最大のセックス・アピールがある部位と言えば、顔と乳房ではないでしょうか。

 それに次いで、南米系やアフリカで人気のあるお尻、と続くでしょう。

 お尻に性的なアピールを受けるというのは、哺乳類として一般的なことです。

 それは、性器がある意味においてお尻に存在しており、それを主張する臭腺がそのあたりに存在するからです。

 それに対して、顔や乳房に性的な意味があるといのは非常に人間的な独自の価値観です。

 これは、人間が唯一、二足歩行を常態として生活している生物であるため、お尻が下を向いてしまったからだそうです。

 そのため、対面して相手を認識し、性的な判断をすることになります。

 なので、人間と人間にもっとも近いサルであるボノボのみが、正常位など対面しての性交をします。

 それ以外の動物は後背位での性交を行います。

 正面から成功する物のみが、前から見える顔と乳房に発情するのです。

 この理論にのっとって言えば、男性におけるビーチマッスル群こそがまさに女性においての乳房でしょう。

 ことに、上腕二頭筋と腹筋は、動物界において異例の発達をしています。

 ライオンでさえおなかは弱いというくらい、四つ足動物は地面に向けている腹筋が弱い。

 動物が同族間の小競り合いで降伏をするときのおなかを見せるのはそのためです。服従の証として最大の弱点を晒す訳です。

 そういう意味で、非常に人間らしい筋肉、人間であるということの主張になるのがビーチマッスルたちです。

 上腕二頭筋に話を戻すと、そもそもが四つ足である動物たちは前足だけを独立して使い分けるということが極めて少ない。

 特に、重いものをもって自分に引き寄せるという行為はほとんど行わないことでしょう。

 それをするには、まず土台となる後ろ足が独立して強くないといけないからです。反作用で自分が倒れてしまう。

 そのため、多くの動物の前足の引き寄せる力は、軽いものを運ぶ程度の物しか必要となりません。決して人のようにダンベルや引っ越しの荷物を持ち上げたりはしません。

 しかしそのために用いるとしても、上に書いたように上腕二頭筋は非常に矛盾した筋肉で、とても便利にできているとは言い難い。

 これは何かの設計上のミスなのでしょうか?

 そもそも、野生の動物は人間のように何かの物品を私有物として確保したり、物を持って移動したりすることはあまりありません。

 文明という物を築いて私有財産という概念を持った人類ならではの筋肉がこの上腕二頭筋なのかもしれない。

 だとしたら、私が行っているような伝統的な練功法やカンフー、ヨガなどでは、動物の時代の体の使い方をするわけですので、この筋肉はつかないのではないか?

 ところが違うのです。

 この筋肉には、人間が動物だった時代にはいまとは全然違う重要な役割がありました。

 それが、荷物を自分に向かって持ち上げるのではなくて、相対的に自分を持ち上げるという機能です。

 人間が樹上生活者であるサルだった時代に作られた肉体の基礎設計においては、そのために身体能力の総体が作られていました。

 多くの動物の足と同じく、移動のための機能を働かせるにおいて、樹上生活では立体に前足を活用する必要がある訳です。

 すなわち、懸垂運動です。

 そのため、私たちの体づくりにおいては手こと前足は物を持ち上げるのでなくて自分を持ち上げる物として使うことで本能的な機能を呼び覚まし、関節構造に無理のない形で強化を図ることになります。

 その運動の角度からなら、自分の肉体を上下に運ぶ上で力こぶが関節につかえて邪魔になるということもありません。

 ウェイト・トレーニングよりも懸垂です。

 バーベルやダンベルでのトレーニングにはグローブやサポーターが欠かせず、それでも腱鞘炎や関節障害を起こしている人が多いのは人体の基礎構造に反しているからでしょう。

 でもそれではかっこの悪い体にしかならないなあ。という意見を持つ人も多いでしょう。

 確かにその通り。

 しかし、この懸垂には面白いことがあります。

 それは、伝統的練功法で本能を呼び起こして体を作っていると、大胸筋や腹筋が鍛えられてくるということです。

 前足を使って後ろ足までを運ぶという運動を行っていると、手足をまっすぐつないだルート上に大胸筋と腹筋があることになります。

 疑う人は万歳をしてみればお判りになることでしょう。

 伝統的な練体をしていると、力こぶ、大胸筋、腹筋がひとつながりの太い縄のように使われてより上げられてゆくのです。

 細マッチョのような超人間的造形美とは違いますが、人間と動物の中間状態の味わいが出てくると良いなあと思っています。

 少なくとも、機能と健康性においては明らかに申し分のない鍛え方となります。

 本来の機能を取り戻して、自由に動けて自由に生きやすい肉体を獲得できます。

引く力について

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 前回の上腕二頭筋の話から引き受けて、今回も引く力についてお話しましょう。

 上腕の引く力は、自分を体操やサーフィンのパドリングなどのように、前足として使って自分を移動させるというのがもっとも活用できるもので、それ以外のスポーツなどでは実はあまり使い道がありません。

 特に格技の世界では無駄な力の典型として冷笑されがちです。

 その象徴的な動画を偶然発見しました。

 

https://www.youtube.com/watch?v=wyIlsem0ayw

 右側の、異様に上腕が膨れ上がった男性に対して、左側の男性は全身が丸みを帯びて発達しており、上腕は後ろ側と肩近くの発達が著しいです。

 当然、左側の男性の方が、いわゆる「使える筋肉」です。

 フックやアッパー、ボディ打ちなどの肘関節を曲げて打つパンチにしても、別に力こぶの力を主体に打つわけではないので、この力こぶ打撃においてはほとんど役に立ちません。

 この素人力を捨てて、別の力を見つけてゆくのが訓練であったりします。

 そのさらに先に、身体をサルの状態に退行させて本能的な力を活用する武術での打ち方があるのですが、その打ち方というのが実はサルが枝渡りをするときの動きにとても近いのです。

 これは恐らく一部の特殊な例ではないように思います。

 昔、北派の武術をやっていた時に習っていた先生も、何気なく突く普通の突きがとても枝渡りっぽい。

 のびやかで、肘関節の屈伸が見えません。

 本土の空手のような内側に固める感じの打ち方はしません。

 南派の中の短勁の武術は瞬間的に打ち出して固まるように見えるので肘の屈伸だと誤解されることがあるのですが、それもまた違います。

 実は全身のオン/オフ動作をしていて、決して肘の屈伸で打っているという訳ではありません。

 武術とは違いますが、面白い話を読んだことがあります。

 シールズなどのアメリカの特殊部隊というのは、各部隊の中から選び抜かれたエリートで編成されているそうなのですが、それらに引っ張られてくる新人エリートたちの多くが、ボディビルダーのような鍛え上げられた肉体をしているにも関わらず、ほとんどが懸垂が出来ないそうなのです。

 腕立て伏せやベンチプレスなどの押す力は鍛えられていても、自重を引き上げる力が弱いと言います。

 映画などで見たことがあるかもしれませんが、特殊部隊の訓練はフィールド・アスレチックのような昇ったり降りたりの行軍訓練をするらしいのですけど、彼らはそのおりにすぐに息が切れてくたばってしまうのだと言うのです。

 つまりそれだけ、この筋肉の能力は現代フィットネスではおろそかにされています。

 それは、引く力を一部の筋肉の分断された力だと捉えているからではないでしょうか。

 これを本能的なレベルで活用して、全身を統合して一つにする力だと見なせば、実に有用です。

 自分を引いて枝渡りをするサルの移動法や、手のグリップだけを定点として全身を大きく振ったり飛ばしたりして操作する体操の身体操法は、この全身を統合する力を文字通り軸としています。

 そのレベルでもう一度、この引く力は見直しても良い物であるような気がします。

今後の予定 随時更新

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6月16日 日曜日 関内練習会

 

 18時より 

 関内駅徒歩五分フレンドダンス教室さんにて

 

 一般    3500

 事前予約 3000

 

6月23日 日曜日 都内練習会

 

 11時より 代々木公園にて

 

 一般    3500

 事前予約 3000

グランド・マスター 感想

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 いまさらながら、映画「グランド・マスター」の感想を書いてみたいと思います。

 とはいえこの映画、まぁ作品としては完全に破たんしています。

 実在の武術家をモデルにした人々の群像劇を描いた壮大流麗な物語であるけれども、それがために公開版では大幅なカットが行われてしまい、縦糸がまったく通らない物になってしまっています。

 メインの主人公であるはずの、唯一の実名キャラクターであるイップ・マンは物語にまったく関わりあわず、ストーリーは架空の人物であるヒロインの回想で処理され、映画の半分辺りで突然現れるライバルのはずの一線天の出番はわずか数分で他の人々とはまった絡みません。

 ザ・無意味。

 ヒロイン一人のお話にしておけばまとまったのに……。

 とはいえ、制作に何年もかけて作った力作であるという貫禄は全体を貫き、比類なき重厚で格式高い武侠史劇メロドラマとしての麗しい世界に観る物を取り込んでくれます。

 しかし、その美しさはともかくなにせ未完成品を見せられてしまっているので当時は感想を言おうにもどうしようもなかったのですが、いまになって見えてきた物がありました。

 そもそも、この作品は抗日戦の時代から戦後という長い時代を跨いで描いた作品です。

 となると通常、それは時代を描いた物語ということになります。

 特に、実在の人物をモデルにしたことが明確にわかる人々を描いているというのはそのようなことでしょう。いわゆる「時代の激動を描く」という奴です。

 なんの時代の激動かと言えばこの作品ではもちろん武林です。

 一応、あらすじとしては、八卦掌の宮宝田師(作中では偽名)が中華武士会を興したのち、それをプロデュースした自分の通称「グランド・マスター」を継ぐ武術家を求めると、血気盛んな若手師父のイップ・マン師がそれを継ぐべく仲間たちに推挙される、というのが最初にあるのですが、この目的設定がまったく達成されないどころか何事も進捗ないまま立ち消えになってゆく様が描かれています。

 理由は以下です。

 1・戦争が激化して第二次大戦が勃発、それどころではなくなる。イップ・マンはグランド・マスター盃に不参加。

 2・コミッショナーの立ち位置にいるはずの宮宝田が、なぜ自分に後を継がせないのだとオコな弟子によって反逆され、亡き者にされてしまう(この段階でゲームそのものが成立しなくなっている)。

 3・その裏切った弟子を倒すための宮宝田の娘の武林での抗争が映画の中心。仇討ちは成功するので宮宝田を倒した裏切り者の弟子も別にグランド・マスターにはなれない。

 4・作中最強らしき劉雲樵師こと一線天は15分くらいしか登場せず、ほかの武術家の前に姿を現さない。

 5・なお、仇討ちを果たした娘さんもアヘン吸って死亡。彼女もグランド・マスターにはならない。

 6・主人公のイップ・マンは友達とわちゃわちゃ腕試しをしたり、まともに武術やってない若者やゴロツキとつまらない喧嘩をしているだけ。そして喧嘩に勝つ以外にはカンフーに意味はないと思った甘やかされたボンボンのまま、とくに成長もせずに終わる。

 ……こんなもんなあ。

 タイトルの「グランド・マスター」の話どっかいってまってるもん。

 しかし、これを時代の激動と考えると、実は意味が見えてきます。

 物語のそれぞれ別の所で生きている三人の武術家は、編集上の都合はともかく、実際にまったく別の世界で生きています。

 まず、宮宝田およびその娘は、戦争という近代化が始まるまえの古式ゆかしい武侠世界にいます。そして終戦直後にこの娘さんは病死して新しい時代を迎えることはありません。

 国民党の工作員だった物の、闘争に嫌気がさして逃亡した一線天は「もうそんな時代じゃない」という言葉を口にしています。

 彼の言う時代とは、武術家が暗殺者として現代戦をしていた時代のことでしょう。

 つまりここで、いくつかの時代が語られています。

 一つには、清朝の宮廷である紫禁城を護衛するための武術である八卦掌を修めてグランド・マスターとなった宮宝田と、その娘が生きている、皇帝がいた時代。

 それから、その皇帝の時代が終わって大戦の時代があり、そこで一線天はスパイとして活躍をしていました。

 当然、ここでは清朝の禁軍が百万騎の軍勢を並べて合戦を繰り広げるというようなことはありません。一線天のような工作員が暗殺や傍受などをして諜報戦を繰り広げる時代です。

 それさえももう終わったと彼が言っているのが、戦後の時代です。

 そこを生きるのが主人公のイップ・マンです。

 合戦だ仇討ちだの清朝の時代の武術でもなく、工作員の必殺の暗殺術でもなく、町場の気の荒い職工と喧嘩をすることを目的としたイップ・マンのカンフーが描かれるのには、その時代の変遷という物が意図されているのではないでしょうか。

 作中、自分の武術についてイップ・マンが語っています。

 自分の武術には、技は基本の三つしかないし套路も三つしかないし兵器は二つしかない。伝統芸もしないし治療も気功もないし思想もない。

 では何があるのかというと、彼は映画の最初と最後でこう語ります「カンフーは喧嘩をして勝つか負けるかだけだ」。

 合戦での勝敗でも国の存亡をかけた国際的な諜報戦でもなく、町場のただの喧嘩しか、彼のカンフーにはないのです。

 これは、清朝、大戦、現代という三つの時代それぞれの、武術の価値とそれを司る武術家という物の姿をこれは表現しているのではないでしょうか。

 御用衛士、工作員、ただの喧嘩。

 武侠、スパイ、町で喧嘩をしている人。

 この対比があるからこそ、イップ・マンという人が主人公として設定されたのではなかろうかと思います。

 というのも、このイップ・マンという人は、歴史にまったく関与していない市井の師父だからです。

 宮宝田の時代の仮想敵はと言えば、妖術集団や宗教戦士(うちもそうです)と言った半ばファンタジーに片足が入ってるような相手でした。

 一線天の敵は共産党の幹部や軍閥の大物、政治家と言った生の権力の中枢の存在、リアルな政敵です。

 そしてイップ・マンの敵はというと、町の若者……。

 思想も兵器もそりゃないですわなあ。

 戦う目的も、国や民族と言った物はまった乗りません。

 その小ささ。等身大の人間の部分と言うのが、現代という物の訪れを描き出しているのではないでしょうか。 

 そしてそれは、イップ・マン派のウィンチュンが伝統武術ではなくて現代護身術であるということと直結していると思われます。

 その辺りのことをうまく使って、人間と言う物の移り変わりを描いていたのではなかろうかと思い至った次第であります。

縁なき衆生は度し難し

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 昨夜の練習中、師父から教わった言葉です。

「縁なき衆生は度し難し」

 この、縁と言うのは仏教でとても重視されていることのようです。

 どれだけ世の中に良い物があっても、幸せになれる方法があっても、それに縁が無ければ接することは出来ない。

 私が日々こうして発信をしているのも、その縁の可能性を広げるためなのですが、それとてそれだけで機能するとはとても言えません。

 様々な切り口でお届けしていますが、内容を読んで面白いと思ってくれても、その人自身が自分事として捉えるに至るかはまた全然別の問題です。

 これは練習に直接来てくれている人たちも例外では無くて、せっかく来てくれて対面してお話を出来ていても、まったく話が伝わっていないということは多々あると思います。

 自分できちんと吸収してゆこうと人だけが本当に縁があったと言えるのかもしれません。

 そのような縁なき衆生の度し難さで連想するのは、孔子様の「女人と小人度し難し」という言葉です。

 女人というのは当時の時代背景などもありましょうが、秦の陳勝の「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉もございます。

 ちっぽけな人間にはどのような良い価値観も通じないということでしょう。

 そのような人々をより具体的に表現した言葉があります。

「一身の安全をはかり、妻子を安泰ならしめている」という司馬遷の言葉です。

 これは、自分と家庭の幸せを第一に考えている、という意味です。

 現代日本の感覚からすれば、それこそが小市民的な身の程を知った正しい生き方ではないかと聞こえることでしょう。

 それは、日本が考の心を中核とした儒教思想によって染まった国であり、そこにこそ諸悪の源が潜んでいると私が危険視するところです。

 親孝行を是とし、家族をいつくしむことを理想とする。その心に始まって村に所属し、会社に所属し、世間に所属して個の責任を希釈して思考を放棄する。

 それって単なポジション・トークですよね。

 この甘言によって、近代日本の国民というのはとにかく国力を増やせばそれでよいという意図のもとに誘導されてきました。

 お金さえ稼いでいればそれでいい、ステータスがあれば良いという価値観が世代や時代ごとの道程によって導かれて、意思を持たない群れのように引き回されてきたように思えます。

「会社は家族」「チームは家族」そのような詭弁がどれだけまかり通ってきたことでしょうか。

 もちろんそのような厚遇は上からはもたらされません。これは下を抱き込んで対価を公正にあがなわないための嘘です。

 そのようなペテンに「家族」という言葉がもたらされた途端になにがしかの力が伴ってしまうことの恐ろしさ。これこそが美辞麗句の恐ろしさなのではないでしょうか。

 その背景には、家族こそが第一であるという、人間の弱みに付け込んだ部分があるのではないでしょうか。

 自分や身内の利は一番最後である。そのような公と義の心を持つには、人はあまりにも弱い。

 そのような苛烈な善から目をそらすために「でも家族が……」という逃げ口上を唱える人々の心にくさびを打つような強さがここにはあるように思います。

 公と義を捨て去るための自らのペテンによって、多くの人はより大きなペテンに取り込まれてしまっている。日本社会の大好きな共犯関係の構造がそこには見えます。

 高度成長期のサラリーマンが一緒にいぎたなく酒を飲んで人の悪口をいい、風俗に行くというのはその共犯関係によってしかかりそめの信頼が作りえないからでしょう。

 そのような場所で志や理想を説けば、あいつはなんなんだと煙たがられることは明白であるかと思われます。

 ここまでに出てきた、思考、公、義、志、理想と言う物を捨て去って経済発展は成り立つ。

 そのさもしさを塗り固めるのが「家族のため」という虚構です。

 本当は単に自分の利のため、私利最優先ということでしかない。

 そのような浅ましい、卑しい人々を見ていると大変心が寒々しくなります。

 しかし、それはあくまで私個人の感想。

 当人が幸せならそれでよいとずっと思ってきました。

 ですがとっくに高度経済成長などと言う物は頭打ちとなり、そこから得られる利などは無くなっています。

 となると残るのはさもしい人となりを持つ醜い群れだけ。ということにはならないでしょうか?

 人格が良いわけではなく、頭も悪く、身体が利かない人を目にした時、正直私の中に「なんなん自分?」という気持ちがわくことがあります。

 心と知性と肉体というのは、人間の存在すべてであるように感じるところがあるからです。

 そして、そのような人間を量産してきたのが、ここまで書いてきた度し難い小人を利のために作り続けてきた国の方針なのではないでしょうか。

 経済能力のみを至上とし、金さえ稼いでいればそれでよい、ステータスがあれば立派であるという教育は、常に金がない奴は下等だ、ステータスが無いと惨めだぞ、という強迫を伴っていませんでしたでしょうか。

 そのような脅しから常に怯えによって逃げるように働いてきた人々に、経済的恩恵を得られなくなった段階で残されるのは

未成熟な精神と考える習慣を放棄した脳、衰えた肉体という物だけではなかったでしょうか。

 結局、我が身には何も残らないということではありませんか。

 自分を獲得することが出来なかったまま、そうしてみすぼらしくすり減っていくのは一体どのような生き方でしょう。

 もちろん、景気がいい時に散々人々を煽ってそこに追いやった国は何もしてくれません。

 当人が自ら捨て去った人間性の返還を求めることなどできはしません。自己責任です。

 私は世間と離れて閑居した暮らしをしていますが、時に世間の人に触れることがあると、一見ちょっといいなと思うようなことがあってもよく知れば中身はみんな同じで踊らされて怯えてヒステリーを起こしているだけの人であったりすることが非常に多い。

 そのような人たちに接すると、本当に心が冷え込みます。

 生きると言うこと。命と言う物を温め、幸せを得るのは個々の心と思考と肉体によるのではないでしょうか。

 時に苦をももたらすそれらを放棄したところから、すべてを無くす第一歩は始まっているのではありませんか。

 縁の出来たどなたかが、自分の命と人生を取り戻すことになってくれることを願ってやむことがありません。

あっちゃん

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 五月におすすめに出てきていたので観ています。

 とても面白いです。

 

https://www.youtube.com/channel/UCFo4kqllbcQ4nV83WCyraiw

 オリラジの中田さんが、これまで私が何年にもわたってここで書いてきたことを、要約して話してくれています。

 この面白さに、さらにはカンフーと言う物がものすごく重要な要素として入っているというところが私の記事の面白さであります。

 この、世界史、文化人類学と直結しているというのはカンフーだけのポイントなので、中国武術に関心のある人はこの部分を取りこぼしては真実の半分も味わえていない。

 それを味わい切るためにも、よろしければご覧ください。

プランク・チャレンジ最高潮へ

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 プランク30日チャレンジ、本日が29日目でした。

 三日前くらいから、すでに同じポーズのままの続行は不可能。苦しくなったら腕を伸ばして「逃がす」というやり方でどうにか行っています。

 ちなみに現在、ハンギング・V・レッグレイズは13回を3セット以上。

 正直、いくら腹筋が遅筋で回復力が高いとはいえ、毎日これはちょっと疲れているかもしれません。

 この数日、明らかに日々消耗がちです……。

 が、これは気温のせいかもしれません。暑くて結構応えている気がします。

 そのため、毎日朝になると「あぁ、今日はプランク〇〇秒か。どのタイミングでこなすのがベストだろうか。やりそこなうとその分の辛さがもったいないし……」と若干ナーバスになっていたりします。

 だって、4分以上とか……。

 本日は4分30秒だったのですけど、これ、世界記録が9分台なんですって。

 もちろん記録の場合はポーズを変えないんでしょうけど、にしても世界記録の半分近くまでってあーた、そりゃ苦しいにきまってますよ。

 明日の最終日は五分になります。このチャレンジに成功した人の話をきかないのも当たり前のような気がしてきます。

 幸い、私は先に練功である程度内側が出来ている状態で始めましたし、初期のうちはハンギング・レッグレイズの進捗が確実にいい方に作用していたとは思います。

 そういう好条件が重なっておらずに、いきなりなんもしてない人が「よし、ためしにやってみるか」と言って出来る気がしない……。

 腰や背中を傷めるだけのプログラムの気がします。

 そんな私も、その辺りを傷めるというのだけはいまのところ避けられていますが疲れが酷い。

 しかも、キャリステニクスを日々しているので、腕やら肩やら別の所にも負担がかかってひどい。

 むしろそっちの進捗に差支えが出るので、併せて他のトレーニングとはやらない方が良いかもしれません。

 疲労が重なった結果、現在私の腹筋はダルダルになってしまっています。

 やりすぎると、消耗してかえって張りをなくして成長もさまたげられてしまうのです。

 このプログラムは、結構扱い方が難しい物だと思いましたよ。

 明日で終えたら、安心して本道の練功の方に全力が尽くせます。

 しっかりと夏向けの身体を作ってゆきたいところです。


四肢と腹筋

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 プランク30日チャレンジ、無事終わりました。

 いや、もう逃がしまくりチーティングしまくりでとにかく既成事実としてただ5分やりすごしただけなのですが、痛い痛い。

 背中側の、私たちが通称三階と呼ぶ辺り、女性のブラジャーの帯のライン辺りが痛い。

 もちろん、これを逃げ切ったところで終わったらシックス・パックになっていた訳でもなく、こりゃ無意味だし危険だからみんな辞めようね、と言いたかったのですが、意味はありました。

 三階が痛かったというのがポイントです。

 明確に身体の遣い方が良くなりました。

 もちろん、平素色々な訓練をしながら暮らしていますので、それら積み重ねの結果ではあるのですが、一言で言うなら手の前足化が進みました。

 これは動物武術の前提となる物です。

 人間の身体のままだと、実はこのカテゴリーの武術は本当には体得が出来ないのではないかと私は思っています。

 そのカテゴリーとは何か、と問われれば、一言で言うなら心意武術です。

 手を手、足を足として用いる人間の生態を改変し、前足と後ろ脚を持った動物のOSに書き換えるための練功が心意把だったのではないかと私は想定しています。

 その、人間のOSと動物のOSの違いは何かというと、四肢の連動です。

 人間は直立歩行が安定したために手という物が派生しました。

 それに対して、前足というのはあくまで足であり、後ろ脚と連動して使うのが主目的であり、本来単体で用いる物ではありません。動物の歩行を見ると、四肢がキャタピラのように連動して動いていることが観察できます。

 足先を見ても良いのですが、背中を見ると特に背部の中で筋肉の流れが繋がって波打っていることがうかがえます。

 実際にうねらせて使う訳ではないのですが、内面的にこの力の連動を体得したいのです。

 と、考えると、三階の部分の重要さが分かってきます。前脚を胴体とつなげているのがその部分となるからです。

 同じ、動物の背中のうねりから見る力の要点で言うと、股関節がある骨盤周りの部分と、その上のおへそを一周して回る部分があることが分かると思います。

 私たちは普段、この骨盤周りを一階、おへそ周りを二階と呼んでいます。

 この、一階から三階までは、要するに動物OSにおける「腰」です。

 文化圏によって、腰の感覚は違います。

 日本人は一階を腰だと思うのですが、多くの外国人にとって腰と言えば二階のことのようです。

 私も外国で修行している時に「腰をこのようにして」と言われて言われたように真似してみると「ノーヒップ! ウエスト!」と言われたことが何度もあります。

 外国人が言う腰の位置にまく帯のことを、我々は「腹帯」なんて言ったりしますよね。

 外国人からするとそんな言い方をする必要はないのです。なぜなら腰というのは腹の場所だからです。帯を腰に巻くのは当たり前です。

 しかし、医学的にはこの文化的な分類は必ずしも絶対ではないようです。

 というのも、脚の付け根、リンパ腺のゴリゴリしている辺りの内部にある筋肉の名前が「腸腰筋」だからです。

 腸骨筋と大腰筋で腸腰筋であるようです。

 腸骨の中にあるので、外国人からすると「ヒップ」のエリアとなります。

 この腸腰筋、実は東洋武術においては非常に重要な物となります。

 極端な話、武術としてはこれを鍛えることが極意であるかのように言う先生さえいます。

 カラリパヤット、ムエタイ、少林拳(心意武術)などの武術で片足立ちになるのが重要な練功とされてるのは、これを練るためであるとさえ言っていさえします。

 私の見解ではそれだけではまったくないと思うのですが、そのくらいに重視されてもおかしくないくらいにこの腸腰筋は重視されている物です。

 気功の施術の奥義ともされている気内臓でも、内臓ではないのにこの筋肉を施術の対象としています。

 肝心要の言葉通り、大事な腰の部分なのです。

 よって、後ろ脚を丹田と繋ぐこの一階にある腰は大変大切な物となります。

 そして、同じ構造となっているのが前脚に対する三階部分の腰という訳です。

 余談ですが、その考え方からすると、前足を胴体に繋ぐ肩甲骨をはがすという昨今はやりのメソッドは、いわばお相撲さんが新弟子時代に股関節を無理やり脱臼させて柔軟性を作ると言うような物。一時的な効果はありえるかもしれませんが、危険極まりない方法であるように思います。

 人間の手としての考え方ならそれでいいのかなあ。

 少なくとも、私が読んだ筋膜の専門医の先生はそんな危険なことはとんでもないとやらないように言っていたので、私だったら絶対にお勧めはしません。

 外すのではなくて、正確につなぐ方法を練ってゆきます。

 一階で胴体と後ろ脚がしっかり繋がり、三階で胴体と前脚がしっかり繋がり、一階と三階を二階でしっかりと繋げると、動物武術の発勁がしっかり出来るようになります。

 私はこれで苦労しました。

 四肢を胴体を強くつなげることは難しくないのですが、一階と三階の繋がりを強くするのは難しい。

 どれだけ腹筋をしてもダメです。

 というのも、いわゆる腹筋運動は分断した力のトレーニングなので、それによってつくった力も分断されたもので、上肢と下肢を繋ぐ能力としてはふさわしくないのです。

 そのため、発勁を鋭くすれば上肢が重さで置いてゆかれ、相手を打てば前脚の力積から下肢が外れることになりがちでした。

 これは、腕が長くて胴長で、腹回りの力が弱いタイプの人間にはありがちなことであるように思います。

 いわゆる一枚肋が強いというのは、腹が短くて圧がつまっているからでしょう。

 日本人は四種類くらいの人種の遺伝子タイプの組み合わせで出来ていると言いますが、私は外見からして南洋系です。

 最近、古墳から太くて長い異様な腕の骨を持つ人骨がいくつも発見されたそうですが、それはどうやら南洋系の人々のお墓だったのではないかと言われているそうです。

 船にのってオールで漕ぐ生活を続けているうちに、そのようになったのではないかと言うことです。

 私はまさにこのタイプです。

 そして、この船を漕ぐと言う動作も実に人間の身体を本能的に活用しつつ、一方行への進化に導く物のように思われます。

 以前に、上腕二頭筋などの関節を屈曲させる筋肉は意外に力が弱くてほとんど役に立たないと言ったことがあります。

 関節の内側にある大きな筋肉が弱いなんて冗談だろうと思われるなら、ジムに行って試してみると良いでしょう。

 ダンベルカールとダンベルプレス、ほとんどの人はプレスの押す力の方が強いはずです。

 そこまでしないという方は、自分の太ももをご覧になってください。

 そこには、恐らく、身体の中でももっともたっぷりと筋肉がついているのではないでしょうか。

 では、その筋肉を使って力こぶを作るようにして、かかとの辺りで重い物を引き寄せることを考えてみてください。

 明らかに足を突っ張って重い物を押しのけるよりも、弱い力しかでないと思いませんか?

 これが、筋肉の質の問題なのです。

 人間は、直立歩行で生活した結果、背骨に対して概ね縦に重力が掛かることになりました。

 つまり、その方向にいつも重りがかかって可愛がりを加えている訳で、それに抵抗する筋肉、抗重力筋と呼ばれる物が発達しているのです。

 それに比べれば、自分に向かって物を引き寄せる力はどうしたって弱い。

 ここで話をオールに戻します。

 オール漕ぎというのは、本来自分に向かって引き寄せる運動です。

 しかし、それをやっては弱い力しか出ないことをご先祖様たちは知っていました。

 なので、船を漕ぐときには足の抗重力筋を使って身体全体を伸ばす方法を選択し、結果船と言うのは目のついていない後ろ側に進むと言う不思議な構造になったのです。

 もし前に向かって進む船をつくろうとしたら、平泳ぎのようなやり方をしないといけなくなります。

 つまり、前に書いたサーフィンのパドリングです。

 そしてそれはどうしても呼吸などに無理が生じるので、長時間は行いづらい。

 なぜこのように、関節を屈曲させる筋肉は力が出しにくいのかと言うと、それはそれらが分断された筋肉だからではないかと思うのです

 腕の力こぶを見ると、もりっと盛り上がっていてこの部分だけで独立をしています。

 他の部分となめらかに溶け合って一体化していない感じがします

 そのため、この筋肉の力を他の筋肉の力と連動させるには別の筋肉を経由しないといけなくなります。

 だったら、四肢の力を連動させるには初めからそのような独立しがちな筋肉を経由せず、連動した筋肉のルートを使った方が早い。

 そのルートが、上肢と下肢がそれぞれの腰と繋がっているラインです。

 それがただの力では無くて勁という独自の力を用いた場合には、そのルートは勁道と呼ばれます。

 拙力の場合には、キャリステニクスではこれを「チェーン」と呼んでいます。

 腰と言うのは、このチェーンのつなぎ目の滑車のような物ではないでしょうか。

 滑車が弱ければチェーンはたるんだりぶれたりして正確な力の連動は出来ません。

 今回のチャレンジは、この部分の整備に役立ちました。

 前脚は二階までつながり、後ろ脚は三階までつながっているのをより強化することが出来ました。

 これにより、二階部分での両方の力の重なり合いが強くなっています。これなら中々切れません。

古典身体操法の探求

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 前の記事でも書いたように、プランク30日チャレンジの結果、四肢の連結がとても強くなりました。

 しかし、これは私があくまで伝統的なアジアの身体操法の継承者であり、その土台があった上でこのチャレンジを活用できたからです。

 おそらく、この土台がない人がやってもあまりいい意味はないような気がする……。

 それどころか、非常に危険だと繰り返させていただきます。

 プランク自体はわりにメジャーなキャリステニクスなのですが、この30日チャレンジという企画はキャリステニクスの専門家ではない流動的なフィットネス界の人が、ベリーボタンチャレンジみたいなノリで発案したものなのではないでしょうか。

 斬新的に自分の回復と相談しながら行ってゆくという原則からあまりにかけ離れています。

 怪我の元なので、もともと体がある人以外にはただの危険な悪ふざけでしかないように思います。

 練体とは自分の体と相談しながら行ってゆくもので、エゴのままに勝手を体に押し付けるようなものであるべきではない。

 私は最近、人からキャリステニクスを指導してくれと求められることがあります。

 ただ私は、パーソナル・トレーナーでもないし、コンヴィクト・コンディショニングの有資格者(PCC)でもありません。

 私が行っているのは、あくまで仏教に伝わる伝統的身体練功法で、ポール・ウェイド氏の偉大な研究は資料として大変参考にさせていただいていますが、純粋にそれだけでは行っていません。

 よって、回復法や自己整体などをだいぶ加えたうえで行っており、単に外功としてのキャリステニクスだけを行っているのとはだいぶ条件が異なるのです。

 それら全部を含めて、総体として行った結果、私は恵まれた成果を収穫することができているという次第です。

 そこを誤解なさらず、安易にまねをされて怪我をしたりする方のいないことを願います。

 現在、日本ではポール・ウェイド氏のコンヴィクト・コンディショニング・シリーズは三冊が出版されています。

 注目したいのは、その一冊目の書き出しがラマ僧の哲理から始まっており、三冊目の最後より手前の章の最後で、やはり彼はラマ僧やヨガ修行者に触れていることです。

 彼の目標は彼らの域に達することだ、としてその章、および未来への指針を示しています。

 これは、キャリステニクスがそもそもそのような東洋的な身体操法をルーツとするものであり、現代キャリステニクスは発展と同時にその過去の重要な部分を失伝しているということです。

 そもそもが一般の世界で失伝しているがために、ウェイド氏はフィールド・ワークをして自ら鍛錬したこれらを世に広めたのですから。

 その失われた身体操法の古伝を探求し、体得する道程にあるという意味で、私とウェイド氏は同じことをしているといえます。

 この、場所によってはすでに失伝しているというのは、この道を歩く者が真摯に向き合うべき問題であるように思います。

 私自身、自分の探求は最後にはインドに達するのは理解していて、ただそうなると仏教という個人的な縛りを離れてヒンドゥーやバラモン教、ヴェーダ教に至ってしまうので、もう人生が足りないと思って自重しています。

 まぁ、インドはもうたくさん研究者がいますので、私が行う必要はない。

 と、思っていたのですが、最近、我々の最古典のルーツであるインド武術の側からの証言で、すでにそこでは失伝されているものがあり、中国武術に現存しているものを求めるという声を聴きました。

 この話は以前にも聞いたことがあって、すでにインドでは失われてしまったものがあって、チベットや中国に伝来した物で補わないと全体をなさない部分があるのだそうです。

 だとすると、私の範疇における研究に関しては、きちんと保存してこれをいつの日にかすべてを求める志のある誠実な学徒にお渡しできるようにしておくのがささやかな責任なのでしょう。

 そのような視点の上で、次回、現代式キャリステニクスと伝統武術の内功キャリステニクスとの比較をしてみたいと思います。

今日のキャリステニクスと伝統的内功キャリステニクスへの私見 1・歴史

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 前回予告したように、キャリステニクスについての私的な比較検討をしたいと思います。

 正直、前にも書いた通り、私は参考にしているポール・ウェイド師のキャリステニクス、コンヴィクト・コンディショニングについては初心者ですので、あくまで本に書かれていることと私的な体験を書くのみにとどまらざるをえません。

 なので以下の文すべては、あくまで伝統身体操法の伝承者による自分の物としての研究だとして書かせていただきます。

 そもそも、私が書いているコンヴィクト・コンディショニングの由来について、ポール・ウェイド氏は古代ギリシャに原点があると書いています。

 ポリス文化におけるこれらの分布は広く行き渡っていたように書かれていて、それは現存するギリシャ彫刻の肉体が証拠であるとされています。

 のち、この訓練体系はローマに引き継がれ、そこから一旦衰退を迎えたとされています。

 しかし、これらの技術は中東に伝播しており、十字軍の時代にヨーロッパに逆輸入されたとの記述があります。

 以後、騎士たちの訓練学校を土台に発展し、ルネサンス時代になると大道芸人やダンサーなどの訓練として残っていったと言います。

 そして、その過程でボディビルになるのですが、20世紀に入ってからウェイト器具が発展してきて、それらを用いたウェイト・トレーニングにキャリステニクスはとって変わられるようになってしまった、ということだそうです。

 この、ギリシャ・ローマ時代の第一時代、衰退した第二期、十字軍の第三期、ルネサンス期から大戦前夜までの第四期というのが大きくみた上での区分であるようです。

 これらの時代を経て、ポール・ウェイド氏以前のキャリステニクスは学校や軍隊における非効率的なシゴキの運動であったり、どうやら軽いエアロビクスまがいの嘗められたものとして行われていたようです。

 ウェイド氏は20年以上にわたる懲役経験で、同じく刑務所に長く閉じ込められていて現世の時代の流れと隔絶されていた老人から、この古い時代の練体法を学んだと言います。

 ほとんど武侠小説のようなお話です。

 ポール・ウェイド氏は実在が疑われている部分もありますので、確かにジャッキー・チェンの木人拳辺りを観た人が作ったレジェンドであってもおかしくないかもしれません。 

 その検証は他に任せるとして、あくまでこのエピソードを土台にして考証すると、1975年に23歳で入所したというウェイド氏(現在70代)が出会った老師ことジョーイと呼ばれるキャリステニクス・マスターは、当時70代であったのなら20世紀頭に生まれた大戦世代でしょう。

 つまり、近代の激動期を生きた人と言うことになります。

 清朝末から民国初期を生きた中国武術界のレジェンドたちと同じです。

 この、伝統武術が現代武道に取って代わられる時代と同じ時代が、ジョーイが滅びゆく伝統キャリステニクスを体得した時代ということになります。

 ジョーイは人生のどこかの段階で終身刑となり、外の世界で広まったウェイト・トレーニングに染まることなく生きてきたため、ウェイド氏にこの技術は渡った訳です。

 しかし、問題はこの後です。

 およそ半年でこのキャリステニクスをマスター・ステップまで体得したというウェイド氏は、その後の20年以上にわたる懲役期間において、このシステムを変化させ続けてきました。

 これが前にあげた第四期までに続く第五期、コンヴィクト・コンディショニングの時代の始まりです。

 現代キャリステニクスにはもう一つ、ストリート・ワークアウトというスタイルがあってそちらも盛んなのですが、そこに関して私はまったく無知なのでこの文では割愛し、あくまでウェイド史観に基づいてのみ書かせていただいております。

 この第五期の間、ウェイド氏は刑務所に収監されている医者や運動選手、兵士やヨギー、武術家などに面会して学び、自分のキャリステニクスを造り上げて行きます。

 その過程で様々なことを試し、その中で切り捨てて行った物も沢山あるように描かれています。

 そして最終的に目指す方向性として残ったのは、ヨガやラマの内功などの身体操法である、ということから、現行の彼のキャリステニクスも、その東洋的な練功法に準じた物としてのコンセプトで在るように思われます。

 その実像については次回にまた。

今週の予定

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6月16日 日曜日 関内練習会



 18時より 

 関内駅徒歩五分フレンドダンス教室さんにて



 一般 3500

 事前予約 3000

今日のキャリステニクスと伝統的内功キャリステニクスへの私見 2・目的

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 前回書いた歴史に続いて、コンヴィクト・コンディショニングのコンセプトから検討してゆきたいと思います。

 その目的は、より長期的に筋力を成長させることだ、とポール・ウェイド氏は著述しています。

 そしてもう一つは、健康。

 強さと健康の二つが彼の中核のテーマとされています。

 これはとくにボディ・ビルに対するアンチテーゼとしての面を強調していて、筋力の比率が悪い筋肉量や、強さとは言えない種類の力に対するものである部分が大きい。

 日本ではあまりイメージがないのですが、アメリカではそれだけ、ウェイト器具によるトレーニングとステロイドによるボディビルが盛んなのでしょう。

 アメリカ式のボディビルの体格が一時的な物であり、健康に悪いということがこのアンチテーゼの根幹にはあるようです。

 日本ではハードに鍛えているジムワーカーは、ビルダーよりもスポーツをしている人であることが多い印象を受けますので、社会の違いが感じられます。

 ただ、スポーツの補強で来ている彼らも、あちこちにテーピングやサポーターをしており、やはりスポーツ障害を抱えている人は多いように思います。

 それらに対する予防とリハビリについても、コンヴィクト・コンディショニングは想定されて作られています。

 伝統的なアジアの身体操法では、それらの要素もありつつも、本目的は別にあることが多いように思います。

 それが「能力開発」であり、さらに言うなら「悟りへの道」という哲理への方向性です。

 この部分はコンヴィクト・コンディショニングにはいまだ含まれていないところがあります。

 ここで言う「能力」とはウェイド氏が言う「筋力」や「防弾」する力ではないからです。

 より生物的な深部に迫る、少ない呼吸で活動する能力や低い気温に耐える能力などの、筋力とは別の部分に至ることがヨガや気功では一般的です。

 これは、コンヴィクト・コンディショニングにおける体を通るラインというのがあくまで筋力の繋がりであるのに対して、ヨガや気功でのセン、経絡という物が五感や内臓の働きなどを兼ねた物であることとかかわりがあるように思われます。

 そしてそれらの開発をしてゆくことは、精神的な悟りに向かうという考えがあります。

 この相違は最も大切なところであるように思います。

 私はどれだけコンヴィクト・コンディショニングを素晴らしいものだと思って実践しても、それが参考にとどまると考えているのはここに由来します。

 我々の目的はあくまで精神の安寧と哲理の理解であるからです。

 ヨガや気功では時に、その追及が行き過ぎて生命をおろそかにすることさえあります。

 ウェイド氏にとってきっとそれは「馬鹿げたマッチョ的姿勢」であることでしょう。

 私個人としては現在、そのような危険な挑戦を指導したり推奨することはありませんが、ヨガにおけるチャクラを開くための危険な行や仏教における即身仏のような物を否定することもしがたい部分があります。

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