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今日のキャリステニクスと伝統的内功キャリステニクスへの私見 3・関節

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 歴史とテーマについて書いたところで、実技に入ってみたいと思います。

 コンヴィクト・コンディショニングと伝統的な練功において、非常に興味深いのは関節(骨格)と腱という概念に関する考え方です。

 コンヴィクト・コンディショニングにおいては、初歩の内に非常にゆっくりとした慎重なペースでトレーニングを始め、その負担も完全に回復するまで次のセッションを行わないことを重視しています。

 そのペースたるや呆れるほどに悠長なもので、一週間にわずか10回の壁立て伏せしかしてはいけない時期すら存在します。

 その理由に関して、このペースを紹介しているポール・ウェイド氏はいくつかの理由を提示しています。

 一つにはリハビリ効果があること、二つには長期間に渡る刑務所生活で暇をつぶすために長くやり続けたいので頭打ちにならないようにペース配分をしていること。また、体力を使いつくして疲労することは、弱い者を見つけると襲い掛かってくる連中の居る刑務所では命とりであるという実に武術的な理由を挙げています。

 それらの他に、関節と腱の育成こそが大切なのだと彼は主張しています。

 これは本当に重視されていることで、彼の二作目のマニュアルは「関節 グリップ編」とサブタイトルが付いているほどです。

 実際、この部分こそが彼がアンチテーゼの対象としている現代トレーニングがもっともおろそかにしている部分だというのは私も同感です。

 多くのウェイト・トレーニー、およびボディ・ビルダーは、もっとも弱く訓練が必要なはずの関節をギアでスポイルし、それでもなお傷めているからです。

 おそらく、トレーニングによる関節生涯を抱えていないトレーニーは半数にも満たないのではないでしょうか。

 この理由の一つには、ウェイトによる器具の遣いが本来の関節構造に適していないからだ、ということが語られています。

 ここは一度注目したいところです。

 持ち上げて使うためのウェイト器具はおおむね頑丈に出来ています。

 そのため、、人間のほうがその器具の形状に合わせて使わないといけません。

 そうなると、身体は不自然に曲がってそれらを用いて運動のつじつまを合わせることになります。

 これはつまり、手を手として扱っているからです。

 本来の骨格の進化の経緯からすると、とても理にかなっていない。

 我々伝統キャリステニクスの考えである、身体を本能的な役割を果たす状態に還すという見方からすれば、手というのは鍛えれば鍛えるほど前脚になってゆくのが自然なのです。

 となると、手を手として強化してゆくのは、ある種の倒錯となります。

 その負荷が、関節内の細かい傷となり、積み重なって関節障害を引き起こすのだとウェイド理論にはあります。

 この理論に基づいて手を手として鍛えることを忌避し、前足と言う移動のための器官として再検討したとき、必然前肢は体重を運ぶための物だと言う結論に至ります。

 となると、自重を使ったトレーニングこそが、もっとも本能の欲求と骨格の成形に叶った物足りえる、ということになる次第です。

 私自身、ベンチプレスを始めた時に、胸の周辺の腱や靭帯を傷める障害が定番だと聞き、とにかくそれを避けて無理をしないようにトレーニングをしてきました。

 幸い、事故を起こすことはなく、肩も胸も無事に現在に至っています。

 もし途中で傷めて恒久的な障害を負ってしまっていたら?

 おそらく、165キロにまで達することは難しかったのではないでしょうか。

 器具を使うとしたら、あくまでその形状に適した関節の可動域の中で行うのが適切であろうかと持論いたします。

 抑圧よる苦痛を耐え忍べというのは、恐らく肉体が喜ぶことではありません。

 私たちが行う練功とは、身体の意図にエゴがよりそって調和を取るものなので、そういうことをするべきではない。


今日のキャリステニクスと伝統内功キャリステニクスへの私見 4・肩

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 コンヴィクト・コンディショニングを始めて極めて効果を痛感できた関節が二か所あるのですが、そのうち一つは肩です。

 プル系のきついのに入るや否や、セット後に肩の肉が痛い痛い!!

 三角筋と言われる筋肉です。ここにとても負担がかかっています。

 ウェイド先生が、コンヴィクト・コンディショニングを数か月するとやばいくらいの三角筋ができると言っている場所です。

 このプル系というのはいわゆる懸垂運動なので、一般には肘回りが痛くなると思われがちなのですが、最初は三角筋でした。終わるや否や肉を掴んで推拿してこわばりを解したものです。

 これは非常に面白いことです。

 現在のメニューでは上腕二頭筋が痛くなるので、懸垂らしい効果が出ていると思うのですが、まずはそのご本尊に行く前に関節や腱を強化してしっかり下地を作っていくのがこのシステムの素晴らしいところです。

 その段階が肩の三角筋への痛みです。

 三角筋というのは、人体で最も脱臼しやすい肩の球体関節に被さるような形状をしており、胴体と上肢をつなげる役割を持っています。

 キャリステニクスに力を入れるようになってから、昔のレスリング時代の体に近づいてきたと書きましたが、レスラーはここが発達している人が多い。

 総合格闘技の選手の体を見ても、レスリングの巧者はここが砲丸のように膨らんでいます。

 昔、この筋肉の大きさがボクシングでのKO率に比例するという話を聴いたことがあります。

 これは不思議な話にも聞こえます。

 ボクシングという、腕を伸縮させて相手を打つ競技においては、もっとも動作の大きくなる肘関節を動かす筋肉、二頭筋や三頭筋が勝負のカギとなりそうなものです。

 もちろん、ボクシングはKO能力がすべてではないのでしょうが、この場合はそこは割り切りまして、上肢の筋肉だけにお話を絞りますと、やはり不思議に感じます。

 さらに、先ほどレスリングの選手に目立つと書いたのですが、ボクサーはそれほどここが発達しているとは限らないのです。不思議です。

 しかし、これはなぜなのかということが最近見えてきたように思っています。

 この三角筋は、先に書いたように上肢と胴体を繋いでいる筋肉です。

 レスリングで取っ組み合って腕の操作で同じような体格の人間を投げようと思ったら、腕の力を主体にはしません。

 体の力を伝える道具として腕を用い、そのための接続部として三角筋が必要となります。

 これ、面白いことに同じくらいの体格の相手を掴んで操作するというのは、自分自身の体重を前足で運ぶというのと非常に似通った働きとなりませんでしょうか。

 レスリングがキャリステニクスを重視しているのはこの見方をするととてもわかる気がします。

 では、ボクシングにおいてはどうでしょう。相手を打つのに使うメインの動作においては、それほど肩の関節は関係がないように思われます。

 以前、キックボクシングの試合で、大ぶりのパンチを放った選手がそのまま肩を脱臼するのを見たことがあります。

 重いグローブを着けて振り回しているのですから、納得がいきます。ちなみにその選手は対戦相手に治してもらっていました。リングの外では整骨の先生をしている人だったそうです。

 余談はさておき、パンチで肩が外れるというのは珍しくない事故だそうです。

 では、なぜこのようなことが起きるのかというと、肩がリラックスしているからではないでしょうか。

 素早く、軌道の広い可動をしようと思うと三角筋はリラックスしていないといけません。

 そのためには、巨大な三角筋は可動域を妨げる邪魔な肉かもしれません。

 その、邪魔なはずの肉がなぜKOを生むのでしょう?

 これは、この筋肉が懸垂に使われるような、自重を腕とつなぐ物であることを考えると見えてきます。

 すなわち、拳の当たった対象に自重を伝える筋肉なのです。

 つま先立ちになって届く高さの鉄棒を片手でつかみます。その鉄棒を引き寄せると、体重が腕によって持ち上げられます。

 ろくぼくを登ったり雲梯で移動するときも同じですね。

 手と体重を繋いでいます。

 もし三角筋の力が足りなければ、さっきのボクシングの選手のように脱臼です。

 だから初歩のプル系キャリステニクスをするとここに負担がかかって痛い訳です。それが訓練になる。

 この力の働きが、引くときでなくて押すときに働くと強力なパンチとなります。

 体重とその踏み込みを、三角筋を連結部として腕に伝えているという仕組みです。

 しかしこの三角筋の発達、実は伝統中国武術でもあまり見ません。

 多くの老師はそのあたりがのっぺりとしていて海獣のような体型をしています。

 これは、上肢と胴体を繋ぐ役割と別のルートを中心として行っているからです。

 とはいえ、一部少林拳の特定の練功をした拳士の中には三角筋の発達を見ることができます。

 なので、あっても邪魔になるというわけではないのではないかなあと私は思っています。

 ただ、なくても別の本道のルートが強ければそれでいい部分でもあります。

 この、力の伝達のルートの違いというのはコンヴィクト・コンディショニングと伝統練功の最も大きな差でもあります。

 その一端に「腱」という物への考え方あります。

 それは次回に続けてゆきましょう。

今日のキャリステニクスと伝統的内功キャリステニクスへの私見 5・肘

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 キャリステニクスを進め始めて少しした頃に肩と並んで痛みを感じていたのが肘周りです。

 もちろん、骨格にではなくて肘の前後、より詳しく言うなら肘の内側のひかがみを挟む前腕と上腕にです。

 三角筋の時と同じタイプの筋肉が凝縮されるような痛みだったので、手で挟み込むようにしてもみほぐしてケアをしていました。うちの整体名人に習った推拿です。

 コンヴィクト・コンディショニングでは、初めのうち、筋肉ではなく関節や腱を鍛えると言うやり方をしています。

 それは、関節組織や腱が、筋肉より代謝が遅いからです。

 筋肉に合わせたトレーニングをしてしまうと、関節や腱の回復は追い付かず、疲労と損傷が積み重ねられてゆくという考え方をしています。

 筋肉痛が来るまで運動をしていると、関節を悪くするのはこの回復時間の差異が理由だと考えられます。

 そこで、筋肉に大きな負担が掛かる以前の状態、関節と腱の超回復範囲ペースに合わせてトレーニング・メニューを組んでゆきます。

 そのため、進捗ペースは非常にゆっくりになるのですが、これは伝統的な練功法と大変合致しています。

 健康を損なうため、功を焦らずおどろくほどゆっくりしたペースで、小さな負担で少しづつ行ってゆくというのは中国武術の練功における正しいやり方です。

 肘のトレーニング初期に疲労を感じた部分と言うのは、腕を走る腱であったかもしれません。

 痩せている人や女性の腕を見ると、その辺に線が張っていたように記憶しています。

 一日2セット、週に2セッション程度の範囲でこの部分のトレーニングを積んでゆくと、大きな上腕の筋肉のパワーに耐えられる強靭な基礎が作られてゆく訳ですが、この、腱を鍛えるという言葉は昨今日本の中国武術の世界で少し見直されているようです。

 しかし、そこには誤解があるようにも思います。

 また、そこにコンヴィクト・コンディショニングと伝統練功の差異が現れるのですが、中国武術における腱というのは現代医学用語における腱と同じではありません。

 このようなことはよくあります。

 例えば中国武術で筋肉と言う場合も同じです。

 一般に言う肉のことは、中国武術では皮肉と言うことがあります。

 運動に関わる特定の筋や肉を合わせて筋肉と言いえます。

 この筋という言葉が、医学で言う腱を指して居たりします。腱の他に靭帯を含めることもありえます。

 では、中国武術で言う腱とはどういうことなのか、というと、これはすべての門派に渡ってのことではなくて、あくまで私が教伝を受けた門内の言葉で言うならのお話をしましょう。

 私が伝承している蔡李佛拳では、その根幹に鉄線功という思想があります。

 身体の内側に、仮想の力の流れを作り、それを鉄線のように練り上げて活用するという物で、すべての動作にはこの芯が伴うこととなります。

 先日、その功を示すために生徒さんの腹直筋をわずかに離れたところからゆっくりと拳で触れたのですが「重ッ!」と驚かれました。

 加速したりや体重をかけるなんてことはしません。

 あくまでただゆっくりと当てただけです。

 しかし、重くて体の内側に力積が浸透してしまう。

 想像してみてください。重い鉄パイプを羽根布団で巻いたような物を。

 柔らかくてゆっくりでもそれでお腹を突かれればどうなるか。

 鉄線功とはそういう物です。

 短い距離での勁とは、長勁の武術においてはそのようも行います。決して鋭さや堅さで痛めつけるような尖りのある物ではありません。

 丸くて重くて非常な力にゾッとさせられます。

 これがあるから、我々の腕や胴体で打たれた人は「交通事故にあったようだ」「車に跳ねられたみたいだ」と言うのです。

 この、鉄線勁に関して、ある時師父が教えてくれました。

 普段はこの勁の流れを線と称して練習していますが、大師はこれを時に腱と呼んでいたと言うのです。

 腱とは、勁道を指す言葉でもあるのです。

 次回はこの、中国武術の勁の通る道と、勁ではなくあくまで筋力を繋げて使うコンヴィクト・コンディショニングの力の通るルートについて書いてみたいと思います。

今日のキャリステニクスと伝統的内功キャリステニクスへの私見 6・力の繋がり 

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 意外かと思われるかもしれませんが、コンヴィクト・コンディショニングのマニュアルにおいては、姿勢に関する注意が存外に目立ちません。

 これは、とにかく姿勢に関する要求から始まりがちな伝統キャリステニクスとは大きな違いです。

 単にマニュアルでことさら取り上げていないだけかとも思ったので確認したのですが、挿入されている写真や外部の動画を見ても、彼等キャリステニクス・アスリートの姿勢は我々からするとちょっと恐ろしい物になっていたりします。

 おそらくは、関節の強さや腱の強さ、実技時の力の繋がりで怪我をしないように保護されているのでしょう。

 姿勢に関する注意で目についたのは、ぶら下がる時は肩を入れろという注意くらいのように印象しています。抜けますからね、肩関節。

 姿勢とは、関節のセット、ステイの仕方と言い換えても良いでしょう。

 これは力の流れの正常化をはかると同時に、激突時の強度の保証となりますので、中国武術では絶対に守らなければならないところです。

 とはいえ、平気で腰が抜けている写真を堂々とさらしている先生も居るので、まぁ何か特別な応用編の力のつなぎ方をすればそれでも大丈夫なこともあるのでしょう。

 私も肉付きの関係でおしりが出ていると見られそうなので、説明時はヒップポケットに財布を入れないようにしたりと誤解を与えないよう注意をしています。そのくらい、ここは大切なところです。

 この力の繋がり、前にも書きましたが、コンヴィクト・コンディショニングではフロント・チェーン、バック・チェーン、左右の側面のラテラル・チェーンの四つだと考えています。

 私たち伝統内功では、前後の任脈と督脈、その中の衝脈、また横に走る帯脈などの奇脈の開通を始め、その他の経絡すべて、また五臓の勁などを含めて全身の膜を力の伝達ルートと考えています。

 我々の気功の師である謝明徳大師によると、皮膚の下に勁は通っているとのことで、頭皮からつま先まですべてに勁は通る。

 この開発が練功の大きなカギとなります。

 このため、コンヴィクト・コンディショニングでは四本のチェーンで身体の基礎構造を作るのに対して、我々のやり方ではまず鉄線を作り、そこに経絡でネットを作り、さらに五臓もそれぞれに力を響かせてゆくという多重構造であるという比較が出来ます。

 これはそこに働く力の違いも大きいと思われます。

 コンヴィクト・コンディショニングで用いているのはあくまで種類を問わない筋力であるのに対して、内功ではあくまで勁。

 私が行っているのはコンヴィクト・コンディショニングを参考にはしているけれどあくまで伝統の練功であると初めに明文化したのは、この本質的な力の質の差異があるからです。

 言い方を変えると、コンヴィクト・コンディショニングのやり方は勁を用いても可能であり、かつ極めて有効であるということです。

 と、言う訳で、比較と分類の結果、これらは非常に能く共有できるということを主張したいと思います。

今日のキャリステニクスと伝統的内功への私見 つけたり・格技

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 最後に、二つのキャリステニクスを格技への反映という形で比較してみたいと思います。

 これは本当に愚かな妄想脳内マッチョ的な興味本位の内容に取られかねない切り口ですが、同時にポール・ウェイド氏は常に暴力への対応としてのコンヴィクト・コンディショニングを想定していましたし、少林武術においては練功は自然に武術に直結してゆきますので、誤解を覚悟で述べてゆきたいと思います。

 まず格技への応用として考えた時、コンヴィクト・コンディショニングは「防弾」と表現されている打たれ強さが付くはずです。

 これはあらゆる筋トレが相当することなのでしょう。

 私も打撃系格技にいそしんでいたころ、レスリング的なキャリステニクスの筋肉ではなくて、打たれるための肉を付けていました。

 ただこれ、筋肉だけで言うならそれで良いのですが、関節の強さなどを考えると確かに他のトレーニング法より良いかもしれません。

 手首の関節を強化することは、自分のパンチ力で慢性的に手首を傷めがちなハード・パンチャーには良い効果があるでしょう。

 この点においてはこのメソッドは有効であるかと思われます。

 逆に有効でない筋肉が防弾には必要である場合もあります。

 大胸筋をいたずらに肥大させるというのは本来運動のためなら必要ないのですが、多くの実撃空手家が防弾効果を求めてベンチプレスをしています。

「いい身体していますね、ベンチ何キロですか?」という質問は、打撃の世界だけで訊きました。

 レスリングの世界では、使える筋肉が必要なので、そのような肉単体についての質問は出ませんでした。

 これが、使えない筋肉をあえてつけることのメリットだと言うことが出来るでしょう。

 それどころか、脂肪さえ防弾効果があります。

 この使えない筋肉と脂肪に関しては、コンヴィクト・コンディショニングはあまり効果が無いかもしれません。

 もちろん、肥大させるためのメソッドというのもあるのですが、運動能力を下げるまでに行うというのは基礎コンセプトに反している気がします。

 ただ、これはある種の極北の防弾性でもあります。

 というのも、レスリング時代によく言われていたのが、筋トレで付けた筋肉は関節が決まりやすくなる、とういことです。

 どうやら古くから言い伝えられてきたことらしいのですが、たしかに可動域が狭く、また分断トレーニングによって内側に向かいたがる性質の筋肉をつけているとそのようなことがあるかもしれません。

 逆に決まりにくいのは、細けどしなやかな四肢だと言われていました。

 そう考えると、いくら関節技が決まっても中々タップしないグレーシー一族の身体というのはそのタイプの物のように見えます。

 レスリングの選手の身体はぬるっとしたどこか進撃の巨人のような印象を与えることが多いのですが、実撃空手家にはゴールド・ジムで見る様な身体の人が多くみられます。

 殴り合いだけに特化するとは限らない生の暴力の世界では、そのしなやかな連動する筋肉には取っ組み合いに関する強みが持てることかと思います。

 そこからさらに延長するなら、連動して使える四つの筋肉のチェーンを獲得したコンヴィクト・コンディショニング・アスリートの身体は自分が力を発揮する場合には紛れもなく強力な効果を発揮することでしょう。

 ベンチプレスやダンベル・カールで鍛えた防弾のためだけの筋肉とは違います。

 手で打つにしても、チェーンを経由した全身の力が活用できます

 それは、腰の回転や体重を乗せると言った分断された筋肉の刈る用法とも違います。

 純粋な筋肉の連動で自分自身から力が引き出せる。

 これは体育効果として素晴らしい物です。

 技のうまさではなくて単純に強い。

 ここで伝統練功との比較になるのですが、この力の使い方は伝統中国武術の力と似た部分はあります。

 繋げるということに関して言えば。

 しかし、両者はまったく違うものです。

 前者の方は、沖縄空手やマイク・タイソンの力の使い方に近い気がします。

 単純な遠心力や力ではなく、自分の力を有効に活用しています。

 しかし、それは勁ではない。

 多くの武術マニアや自己流武術家がここを取り違えるところです。

 実は、ポール・ウェイド自身もこれに関しては著述している部分があります。

 そして、その上でカンフー式の力の出し方に関して、大きな力が出せるが動きが遅くなるとして問題提起をしているのです。

 素早くしなやかでなおかつ強い力は魅力ですが、それは勁ではないのです。

 勁を体得すると身体が重くなるというのは、門派を越えて交流した先生方の口からまま聴くことでした。

 私自身も、とにかく歩くのが遅くて人から笑われるのはこのためです。

 勁は自分の中に重さを作る。

 これは敏捷さを売りにしているコンヴィクト・コンディショニングの力とは質が異なるのです。

 この、限りない遅さ、重さをどう扱うかというところに武術としての動き方があります。

 中国武術が速さと蛮力を克服するというのは、逆にそうしないと不便だということの現れです。

 ちなみに、ポール・ウェイド氏もまた自身で研究したこの克服法を持っており、四作目の著書ではそこに的を絞ると宣言していました。

 それを目にする日が楽しみです。

最後の騎士 序 身体文化社会の黄昏

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 これまで、人類の歴史と文明について扱ってきて、それによって文明病に対するために古代から行われてきた「身体性を見直す」と言うことについて書き続けてきました。

 初めはキリスト教とアジア文化における身体観の違いなどを書き、両者が折衝する時代における激変なども綴ってまいりました。

 キリスト教以前の伝統を持つと言うキャリステニクスの歴史と理論、実践を取り上げているのもこのコンセプトによるものです。

 キャリステニクスの他にも、ヨガ、ルーシーダットン、気功、中国武術などはそれらの実態を常に保存してきた地層のように感じられます。

 現代社会は人間の身体感覚の低下が著しく、そのために社会がずいぶん生きづらい物になっているというのが私がこのような取り組みをしている理由です。

 日本においてはその極端な開国と近代化の歴史が明確であるため、そこが特に浮き彫りになるように思います。

 若い層の死亡率第一位が自殺であることや、うつ病を始めとする精神障害、発達障害とその二次障害である人格障害のあまりの多さは目を覆うほどです。

 これらは明治の近代化という引き金から、二度の大戦という大爆発を経て現れるべくして現れた焦土のように思うのですが、この現実は中に居ると非常に実感しづらいものでもあります。

 こんなもんだろうとなまじ適応してしまう。

 そこで世界に目を向けてみれば、やはり北半球において同じことが同時に起きていることが分かります。

 その大きな変化に、みんなが大慌てで対応しようとしていました。

 スタートは産業革命だと言います。

 それにより、職人の技術という物が必要なくなった。

 素人でも十分なレベルの仕事が出来てしまうからです。

 昔は日本でもコピー技師という職業があってコピー機を使っていたそうですが、現在はそのようなことは誰も行っていません。

 それと同じようなことが大量に起きて、膨大な数の失業者が出てしまった。

 この、失業者の増加というのは二度の大戦に共通のきっかけです。

 第一次の時は悪いことに、失業者が増えて消費が下がった上に、物は大量に作れるようになってしまってだぶつくようになってしまった。

 この二つを同時に解消するために列強諸国が力を入れたのが、植民地政策です。

 産業革命によって肥大した「会社」という概念の組織を持ってアジアに乗り出し、画策をして国を乗っ取りそこに労働力を送り込み、市場を開く。

 アメリカが輸出入や関税について非常にナーバスであることを不思議に思ったことがある人はおられませんでしょうか?

 それはこのように、そもそも会社による市場開拓という物が西洋においては侵略行為であったからです。

 有名な東インド会社やオランダ東インド会社のような侵略組織が、邪悪な意図を持った何人もの文字通りカンパニー・マンを現地に送り出し、世界征服のための活動を行いました。

 この、会社員による世界進出の一方で、職人さんたちのように歴史からはじき出されて行った人々が居ます。

 今回はその中の一人のお話をいたします。

 その人達とは、騎士という職業の人々です。

 第一次大戦までは、人類は近代戦という物を行っていませんでした。

 名誉ある騎兵隊が軍楽隊の奏でる音楽の中、美しい騎馬にまたがって勇壮な会戦を行っていたのです。

 定時になると小休止のラッパが鳴り、双方の陣営の騎士たちはともに天幕の下で会食をし、互いの奮戦を讃えました。

 本気で戦争してるのか? って感じでしょう?

 でも、この時代まで、人間が生きるということにはそのような側面があったのです。

 そこから振り返れば、現代社会というのがどれだけ文化と言う物を喪失しているかがご理解いただけるかと思います。

 そして、文化というのは本来身体感覚に基づいているものであり、それを捨てると言うことが身体をおろそかにするということになります。

 上に列挙したような心身の問題の大量発生は、文化をないがしろにしていれば当然起きることです。

 日が昇ったら起きて消耗しない範疇で仕事を片付けて命を育み、日が沈めばセックスをして眠る。本来そのように作られている肉体を無理やりに捻じ曲げて使っているのですから、すべてが歪んでも不思議はありません。

 その当たり前のことを、現代社会の教育では誰も教えてくれない。誰もそのように生きてはいない。

 これから書くのは、そのような身体感性が作り上げてきた騎士のお話です。

 騎士たちの最後の時代を生きた歴史に残る男性のお話となります。

 彼の名はマンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェン男爵。赤い悪魔、赤い男爵として知られている人物です。

 

                                                                            つづく

最後の騎士 1・ジンギスカンの後継

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 レッド・バロン。

 この名を聴くとおひげの紳士の顔が浮かんでくる人が多いのではないでしょうか。

 国道沿いに沢山あるオートバイ・チェーンの看板ですね。

 あそこで描かれているのが、ドイツの軍人、レッド・バロンの姿です。

 彼は現在で言うポーランドの男爵家に生まれて、家庭では非常に厳しく軍人としての教育を受けたそうです。

 その後、軍人学校に入り、卒業後は槍騎兵隊に配属されました。

 筋金入りの騎士の育ちです。

 ここまでの間にキャリステニクスでしこたま鍛え上げられていたことは間違いないでしょう。

 この、騎士を育成する教育制度というのは中世ヨーロッパを通してあったもので、古代スパルタのアガクなどにもルーツが見られるのですが、一度は廃れた物の十字軍の時代に復興、中東の厳しい戦士教育制度を取り入れて再興した物だといいます。

 その中で、キャリステニクスも取り入れられて訓練制度として発展したというお話があります。

 現代のような単に事務職や通信部などを含めた軍事制度があったわけではなく、みな身体感覚を伝統的な方法で引き出した「武術家」でした。

 ポーランドの槍騎兵のことを「ウーラン」と呼ぶそうなのですが、この名の由来はモンゴル、タタールの言葉で「勇敢なる兵士」という意味であるとか、またオスマン帝国の「青年団」を意味する言葉から来ているなどとの説があるそうです。

 どちらにせよ、彼らが私たちが発表している、中東、アジアの訓練制度の影響をまともに受けていることが感じられる命名です。

 ポーランド、リトアニアの辺りには14世紀からモンゴル、タタール人の進出が進んでおり、ポーランド側は彼らの精強さの秘密を学び、模倣していたという歴史がその理由であるようです。

 騎馬を活用し、サーベルや槍、小銃を主兵として活用していたというのは、ヨーロッパに多く影響を与えたジンギスカンの痕跡の一つであるのかもしれません。

 だとしたら、これもやはり、伝統アジア武術の伝播の一つの形として研究すべき対象であるように思われます。

 ただ、私の専門はあくまで南方でのこの部門の研究ですので、詳細は多数いる北部の中国武術研究家の方々にお任せしようと思います。

 話を戻しまして、ウーランはその後、ナポレオン軍に編成されます。

 ナポレオンの電撃作戦はジンギスカンの影響を受けているというのは、この辺りの伝播にも現れているのかもしれません。

 この歴史と伝統のある誇り高い部署に見事入隊出来たレッド・バロンは、そこで第一次大戦を迎えます。

 東部戦線で初陣を迎えた彼ですが、そこで一度目の死を迎えることになります。

 ロシア領の占領中の村で敵軍に包囲をされ、そこではぐれてしまったのです。

 単身帰宅したときには、家族は弔問客を迎えていたという、ちょっとトム・ソーヤ―のようなエピソードがあります。

 この時の彼の役割は、敵情視察だったそうです。

 大部隊に居るのではなく、少数ないし単身で最前線を行き来するという、大変に危険で勇気の必要な役割です。

 日本でも、母衣衆などが尊敬されているのはこの己の機動力一つを頼みに多数の敵が潜む死地に飛び込んでゆくという職務のためでしょう。

 この、単身、自分のみが頼み、というところが彼のこの後の人生に引き継がれることになります。

 

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最後の騎士 2・空の戦士

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 東部戦線では、槍騎兵のレッド・バロンはほとんど活躍することが出来ませんでした。

 それどころではありません。

 以前にもここで書いたように、時代は「ワンダー・ウーマン」や「さよならクリストファー・ロビン」で描かれた、急速に飛行機や機関銃が現れて、何がなんだか分からないうちに大量破壊が行われる物に入っています。

 もう、騎士同士が向かい合って突撃や一騎打ちをし、角笛がなったら敵味方共に卓を囲んでプロージット! と言うような時代ではなくなっているのです。

 誇らしげに旗を翻して敵陣に一番掛けを目指す騎士たちは「ラスト・サムライ」そのままに機関銃の一斉射撃でバタバタなぎ倒されるようになっていました。

 結果、レッド・バロンは部隊間の伝令係としてメッセンジャーとなります。私の昼間の仕事と同じです。

 しかも、足手まといだという理由で前線に近づくことは禁止され、後方支援部署という扱いになっていました。

 かつての花形から、後方で手紙や食料の郵送を管轄しているおじさんへと扱いが激変です。

 この時代までは、戦争に参加できることはある種の権利だったと言います。

 そもそものルールと概念が今日的な戦争とは違うのですね。

 この時にやってきている歩兵たちの多くは、権利によって参戦している、産業革命で職を失った転職者たちです。

 その彼等に「血筋だかなんだか知らねえけど使えねえから後ろ下がってろお馬さんよ!」と後方に追いやられるというのは、騎士の家に育った身として大変なショックであったことでしょう。

 ここが歴史の激変です。

 それまでの誇り高き争闘が、職業的な虐殺に変遷していった。

 その環境でただの配達夫として過ごすことは、生まれながらの騎士であり、騎士としての訓練だけの半生を送っていた彼にとっては我慢できるものではなく、レッド・バロンは当時最後の騎士と言われていた飛行士への道を目指しました。

 当時の飛行機というのは、騎兵の延長で考えられていたので偵察が主な任務でした。

 まだ、空を飛ぶ道具であるということがギリギリの時代だったので、飛行機には他の機能はついていません。

 しかし、この古い時代の生き残りである騎士たちは空中で遭遇してしまった場合、そのままただ報告しようとは考えませんでした。

 携帯していた拳銃で敵機に発砲したり、時には手近な工具を投げつけてぶつけようとしたりしていたのです。

 飛んでいる飛行機から同じく飛んでいる飛行機にそんなことをしても、とても当たるとは思えない。

 流鏑馬という騎射がありますが、走っている馬から止まっている的を射るだけでも難しいことです。

 それが、お互いに動きあっているとなるとその難易度はただごとではない。

 しかも、流鏑馬とは違ってこれは水平だけではなく立体移動です。

 そうとうな空間認識能力が無ければ出来ることではありません。

 しかし、そこはキャリステニクスで鍛えられた、立体への空間移動を前提とした身体を鍛えてきた騎士たちです。

 信じられないことに時に命中するのです。

 そこで次第に、飛行機に銃が付けられるようになってきました。

 当然レッド・バロンはこの離れ業に夢中になります。

 とはいえ、さすがにあまりにも難しい行為で、初めての撃墜時には百発以上の弾丸を使ったと言います。

 すっかりこの空中戦という新しい世界に魅せられたレッド・バロンは先行してすでに四機もの敵飛行機を撃墜していたパイロットに極意を教わります。

 それは「とにかく接近して打つ」ということでした。

 これをかなえるため、相棒を伴わず、単独飛行で空中戦を行う専門のパイロットへの道を進み始めます。

 二人乗りから一人乗りに変わると、当然一人分の重心が変わります。

 初めての単独飛行をしたバロンは、このため空中でバランスを崩して墜落をしたと言います。

 しかし、これもまたこの時代のパイロットの不思議です。

 墜落しても撃墜されても、なぜだか彼らは「あたたた」みたいな感じで無事生きているのです。

 その経験によってバロンもまた、空の飛び方が分かったのだと記録されています。

 人間というものの身体能力の可能性を感じさせるエピソードです。

 

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最後の騎士 3・赤い悪魔

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 その後、レッド・バロンは自分の機へのカスタマイズを始めます。

 前後に機銃を取り付けるのですが、同僚のパイロットたちからその有効性を疑われる物の、見事に撃墜をマークしてゆきます。

 しかし、接近戦に持ち込む戦法に拘り過ぎているためか、やはり自身も撃墜され、また「あたたたたた」と生還したりしています。

 ほんとに、昔の人というのは頑丈に出来ているのです。人生で何度も撃墜されても、たんこぶや骨折が治るとまた空に帰ってきます。

 この姿勢には退役という概念の薄い騎士と言う生き方が反映していたのかもしれません。

 そして落ちるたびにバロンは「よし、覚えた」とまたレベルアップしているのです。

 とはいえ、その僥倖がいつでもだれにでもあるとは限りません。

 彼に接近戦の極意を伝授した師匠やその部下たちは、同様の空中戦を繰り返すうちに次々に戦死してゆきます。

 この危険な戦いには騎士の時代の習慣が残っており、戦闘の模様や撃墜は公式な記録が取られており、空中戦時にはそれぞれの機の模様からどの部隊のどのパイロットが誰と戦っているのかが確認されていました。

 バロンの名を挙げたのは、イギリスのエースであったラノー・ホーカー少佐との一騎打ちだったと言います。

 このドッグ・ファイトは45分にも及んだと言われています。

 エース同士の死闘に勝利した後もバロンは次々と軍功を挙げ、当時の軍人の最高位の勲章であったプール・メリット章を授与します。

 それを機に彼は当時のエース・パイロットだけを集めた部隊に配属されます。

 この隊の機には識別のために赤いマークが付けられるのですが、バロンはここで全体を真っ赤に塗ります。

 これにより、彼はレッド・バロン、または赤い悪魔と呼ばれるようになりました。

 

 

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今週の予定

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6月23日 日曜日 都内練習会

 

 11時より 代々木公園にて

 

 一般 3500

 事前予約 3000

最後の騎士 4・騎士たち

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 三十機を超える撃墜を記録した後、レッド・バロン自身も撃ち落されることとなります。

 撃ち落そうとしたイギリス軍の飛行機から逆襲を受け、エンジンと燃料タンクを撃ち抜かれてしまったのです。

 幸い、空中での即時爆発を免れたバロンの機はそのまま不時着し命を拾います。

 そしてこの時代の空の騎士らしく、三日ほど後にはまた大空に戻って次の撃墜記録をマークしたのでした。

 確かにバロンの撃墜記録は異常な物ですが、この時代の戦闘機乗りたちというものがおそらくはこういう物であったのではないかということがうかがえます。

 俗に、ショットガンという物があります。

 日本語で言うと散弾銃。ないし鳥撃ち銃。

 これは、空を飛ぶ鳥を打つのは難しいから、小さな弾丸が一度に無数に出るようにした猟銃です。

 それくらいに飛ぶものを撃つのは難しい。

 運動神経の悪い私からしたら、野球のボールの飛距離を観測して着地点をカンだけで測ってジャンプしてキャッチをするような普通の子供たちでさえ超能力者です。

 温泉卓球だってしかり。

 その普通の運動神経がある人間でさえ飛ぶ鳥を撃つのは難しいから散弾銃を使います。

 それを、この時代の飛行士たちはお互いに飛びながら行うのです。

 この時代の飛行機にはレーダーも距離を測る計器もついていません。

 距離を測るのだって肉眼によってです。

 それで、全方向立体の空間を対象に、敵がいる位置を目と耳で感じていまこのくらいの相関関係で移動してるってことはいまから弾を撃つと大体あのくらいの位置に来た時に届くだろう、というようなことを予測して撃つ訳です。

 そんなことできます?

 飛行機も弾丸も恐ろしく速いんですよ?

 しかも、空気抵抗なんて計算できない。純粋にカンです。

 この人たちはやるのです。

 純粋に身体感覚による経験則の世界。

 これがこの記事を書いている理由です。

 メジャーリーガーやサッカー選手のような存在だったのでしょう。駅のキオスクには彼らのブロマイドがおいてあったと言います。

 上の墜落の四か月後、バロンはまた逆襲を受けます。

 交戦中、イギリスの複葉機に乗っていた機銃手のウッドリッジ少尉という人から、300メートルの距離越しに頭部に銃撃を受けるのです。

 信じられますか? 空中戦中にその距離でヘッドショット。

 こういう人たちだったからこそ、こうして現在に至るまで交戦記録と名前が残っているのでしょう。

 この時もバロンは頭に傷を負いながら「いででででで」と不時着してまた一月後に治療しておくように指令を出されているにも関わらず命令を無視して出撃し、四機を撃墜して帰還しています。

 まったく飛行機乗りという連中は!!

 

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最後の騎士 終・英雄の生涯

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 頭に銃創を受けて数日での空中戦という離れ業を演じたバロンでしたが、さすがに無理がたたって重篤な状態になってしまいます。

 傷口がふさがらず、めまいや吐き気が止まらなくなり、さすがに故郷での療養を願い出ることになりました。

 ここで改めて彼のこの異常な能力について振り返ってみたいと思います。

 療養中、頭を打たれての不時着という偉業を如何になしとげたのかと質問された彼は「真の飛行士は死ぬまで操縦桿を離さないものだ」と答えたといいます。

 幼少期、故郷で家庭教師から騎士としての教育を受けて以来、この負傷まで彼はひたすらに騎士たらんとしての生き方を貫いてきました。

 上の言葉には、騎士と飛行士を同一のものと彼が見なしていたと伺えるところがあります。

 そもそも戦闘機乗りとして第一世代なので、真のも何もその概念は他から流用された以外の訳がないですし。

 そしてその彼の心身を鍛え上げたのは、おそらくはキャリステニクスであるのです。

 ポール・ウェイド先生の理論によれば、キャリステニクスで最も重要なのは脊椎だといいます。

 そこが鍛えられ、防弾性能を備えた頑丈な物になり、また神経系の発達とホルモン分泌の活性化を促すというのがキャリステニクスの中核だというのです。

 確かに、何度墜落しても存外平気な頑丈さはキャリステニクスが求める頑丈さに合致しています。

 私など、原付でスリップして転んでも恐ろしい。浮き上がるほどの速度で飛んでいる飛行機で空中から地面に落ちて無事というのは想像のできない世界です。

 しかも、墜落後数日でまた飛べるほどにダメージが無いなんて。

 この能力で連想するのが、キャリステニクスがそもそも人類の樹上生活動物だった時代の身体を取り戻そうとする運動であるということです。

 高いところから落下するというのは、木の上で暮らす霊長類にとっては日常茶飯事だったのではないでしょうか。

 そう考えると、彼ら飛行士の異常な空中での射撃力というのも気になってきます。

 動物の中で、モノを投げる能力がある物はとても少ないのではないでしょうか。

 その少ないうちの一つに、チンパンジーなどの人間の同類が入ります。

 ただ彼らとて、遠く離れた場所の移動する対象を自分も飛びながら捉えられるかというとまた別の能力のような気がします。

 私の想像なのですが、それはもしかしたら枝を掴む能力ではないでしょうか。

 枝渡りをして移動をするとき、揺れて動いている移動先の枝をつかむ能力。自分もまた空中で移動しながら距離を目算する能力。それらは共通しているように思います。

 騎士としてのキャリステニクスの訓練はまさに立体を移動して的を補足する、飛行士の能力の開発に直結しているように思われます。

 

 二か月近くの休養を経て隊に戻った彼を待っていたのは、信頼していた仲間たちの訃報でした。

 それからわずか半年ほど後の1918年4月20日、彼はとうとう撃墜の公式記録80機という現在に至るまでの前人未到の公式記録を打ち立てます。

 翌4月21日、彼はイギリス軍との空中戦のさなかに戦死します。

 墜落ではなく、心臓と肺を貫いた弾丸による死亡でした。

 飛行機は不時着し、オーストラリア軍の兵士が発見した段階では、まだその傷から血が流れていたといいます。

 死亡時の階級は騎兵大尉。

 最後まで産業的虐殺に従事する労働者にはならず、誇り高い騎士としての人生をまっとうしたのです。

 この後も、人類の闘争はより経済を中心としたもの一色に染まりゆき、兵士はおろか資本主義経済に従事するすべての人間が、なにがしかの形で国際的な搾取によって生活を立てているといっても過言ではないのではないでしょうか。

 アフリカや中東、アジアでも多くの人々が支配国からの経済的攻撃により苦しんでいます。

 我々が気軽に使っている携帯電話のレアメタル、燃料のガソリン、そこから作られるプラスティック。それらはすべて、この地球のたくさんの誰かの死とつながっています。

 最後の騎士はぎりぎりのところで、この時代を生きることなく飛び立って行ったのではないでしょうか。

 現在のこのいびつな文明社会の在り方において、いまいちど身体感覚を取り戻して本来の命の在り方を感じなおすことは、我々の世代の人類のなすべき義務とは言えないことかと思います。

チーティング

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 先日の練習で、初体験の人が来られました。

 勁の練習をしている時に、お互いに相手を推したり打ったりしてきちんと勁を使えているか、拙力でやってしまっていないかということを学んで行きます。

 当然初体験の方は後者になり、それは仕方ないのですけれども、良くないのは打たれる側がぼんやりと立って受けてしまうことです。

 最悪なのは自分から後ろに歩いていく連中。

 練習にならないから参加しなくてよろしい。

 この初心者の人に打たれた時、私はちゃんと立つことの意味を伝えたかったので本当にちゃんと立ちました。

 すると、打たれた肩のあたりからびちぃ! と音がして相手の人が後ろによろめきます。

 そして「うわ、先生重い」との言葉が漏れました。

 私は能動的には何も動いていません。

 向こうが打って弾き返されている。

 ポール・ウェイド先生の大好きな言葉で言うと、私は「防弾」したのです。

 BTSです。防弾翆虎の略です。

 これは、排打功と言われるものとなります。

 鉄布衫や金鍾鐔と言う人も居ます。

 開祖の陳享先生はこの少林の芸が得意だったという話もあります。

 排打功とは、すなわち発勁です。

 身体の中の勁を運用させて打ってきた相手の身体を内側から打ってるので弾き返せるわけです。

 よく、発勁というと勢いを使ったり体重を浴びせたりする人が居ますが、この段階ではそのようなことをしません。

 一切の外形的な動きを用いず、内勁で行うからこそ瞬発力や体重ではなくて純粋に勁を用いることが出来る。

 これはキャリステニクスでも同じです。勢いや重心の移動を使わない。

 純粋に自分の力を用いる。

 これは非常に重要なことです。

続・チーティング

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 チーティング、インチキをしては純粋な自分の力を高めることはできない、ということを書きました。

 これはコンヴィクト・コンディショニングの本質と言っても良いかと思います。

 ウェイトを使わない。毎日長時間練習しない。プロテインもステロイドもなくていい。

 そして、身体に負担を掛けない。

 以前、私が練習をしていた道場での同門が、私がベンチで100キロを越えていることを知ると、自分は80キロだが胸に付けるまでバーを下ろしてやると言ってきた人がいました。

 本人はどうやら自分はちゃんとやっているということをなぜか私に主張したかったらしくひどく得意げなのですが、ブリッジをして胸でワンバウンドさせてしまうと胸の力ではなくて身体の力で押し上げていることになってしまいますし、何より背骨や肩周り、胸筋の靭帯などが損傷する可能性も高く、非常に危険です。

 この人のこのお話は、私にとって非常に印象的な物になっています。

 似たタイプで、私が可動域でベンチをやっていると「そんなので効果あるの? なんの効果あるの?」と話しかけてきたおじさんも居ました。

 その人をその後ジムで見たことが無い。

 つまり、そういうことなのです。

 謎に競争心があって、それが空回りして自分はちゃんとやれていない人を象徴しているのです。

 他人が、自分の身体の状態をしっかり管理して、チーティングをせず、安全かつ長期的に鍛え上げて行くという地道なことをしていると、インチキばかりする人がなぜかこういう態度に出てくる人が非常に多い。

 これは人格形成に失敗してしまって小児性が取れていないということのようなのですが、このインチキと中身のなさと言うのは非常に密接に繋がっていると思われます。

 このようなコンプレックスは特に、うまく育つことが出来なかった小さい人に多いと言う説を最近学者が発表しました。

 いまだにそのようなことが研究されていたのかと驚きましたが、いまだにこれはナポレオン・コンプレックスと呼ばれているそうです。ポリティカリティ―・コレクトに引っかからないのだろうか。

 この伝で言うと、昨今マウンティングを公言する女性が特に若い層に少なくないように感じるのは、彼女たちが生来人口の半分より小柄であることが多いからかもしれない。

 なにがしかのコンプレックス、および他者から感じる引け目によって、無用な競争意識を持ってしまうというのは充分にありえることだと思います(そしてそれはとても惨めに感じる)。

「他人と較べることは地獄の始まり」というのはお釈迦様の言葉ですが、まさにこの状態は無間地獄です。

 コンプレックスを解消すれば良いのですが、そうでないばかりに永久に目にする他人すべてに対して卑屈な怯えを感じてそのために自分にしかルールの分からない自分しか参加していないゲームを一人で勝手に行い続けることになります。

 ここまでは取り組み方によっては、それこそナポレオンのように自己成長をもたらすかもしれませんが、実際はそれは難しいのではないかと思われます。

 なぜなら、出くわしたすべての人と勝負をして勝ち続けることなど、普通は出来ません。

 しかし、彼らの動機は卑屈なコンプレックスの解消なので、勝ったことにしなければ話にならない。

 結果、彼らは一人でやっているゲームすべてでインチキをします。

 一人でやって一人でインチキ。

 これが、上に書いた二人のベンチプレス絡みの人の本質です。

 きちんと重りが上がるとか力がついて本来の目的のことのために役立つとかそういう目的地が存在せず、一人でインチキをして消耗している。

 この行為の本当に恐ろしいことは、そうやって始終インチキをしてのべつまくなし嘘をつき続けていると、嘘以外に世界のありようが見いだせなくなることではないでしょうか。

 挙句の果てには、他人まで自分と同じような物なのだろうと間違った思い込みに囚われて、結局何一つ現実の存在のしない虚無の幻影の世界に死ぬまで閉じ込められて生きることになる。

 その間に、一回一回の腕立て伏せやベンチプレスに自分のすべてを集中させて、かつ関節の構造などに誠実で人目を気にせず鍛錬をしている人間は、現実の自分の存在を明確に確立させてゆきます。

 この差は非常に大きい。

 ね、インチキは怖いでしょう?

休講のお知らせ

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本日の都内練習は雨天のため中止といたします。
残念ですがまたいらしてくだい。

ボクシングと近代史の話 1

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 世界でもっとも普及している格闘技と言えば、まちがいなくボクシングでしょう。

 オリンピック競技としてレスリングも同様に普及していますが、プロの競技としてこれだけ発展している物は、スポーツ全体を見ても極めて例外的であると思われます。

 特に、個人競技としては別格の存在でしょう。

 このボクシング、古代ギリシャのオリンピックから続いているというのは有名なことですが、実はその歴史は非常に紆余曲折したものであり、オリンピックから今日の繁栄にいたるまでは決して栄光の王道ではありませんでした。 

 この道のりを顧みると、実は西洋列強の歴史と近代武術史に繋がる物が見えてくることを最近知りました。西洋とアジアの、文明同士の繋がりがこれによって浮き彫りとなってくるのです。

 今回はこのお話をしてみたいと思います。

 ルーツとなるのは古代ギリシャのボクシングですが、伝承によると開祖は太陽神アポロンであるとかヘラクレスであるとか、テーセウスであるなどと言われているようですが、例によって仮託でしょう。

 このころのボクシングの概要については、二つの説があります。

 一つは、今日と同じように拳を用いて相手を殴る物であったという説。

 もう一つは、蹴っても掴んでもありだったという説です。

 これはもしかしたら、ポリスごとや時代ごとにローカル・ルールがあったのかもしれません。

 戦闘の訓練であったという記述もあれば、素手で死ぬまで殴り合う苛烈な儀式だったという話もあり、手に武器をはめたという話や肘打ちはありだったという話、また全身にオイルを塗り相手を殺すと反則となるとした文書も残っているようです。

 現在と同じくレスリング行為は禁止だったという記録もあるのですが、また、掴みも蹴りもありのなんでもありだったという話もあります。

 ただ、いわゆるパンクラチオンとはまた別だったとされているので、この辺りはよくわからないところが残ります。

 この古代ボクシングですが、ヨーロッパ人の大好きなローマ時代になるとローマらしい残酷競技になり、キリスト教化が進むと禁止されるようになったと言います。

 その後、五世紀に西ローマ帝国が滅びた時に、この競技は一度途絶えたのだそうです。

 そう。

 現在行われているのは、古代格闘技を文書などを基に復興させた再生武術、ではないか、再生格技としてのボクシングなのです。

 いや、これも最初は武術だったと言います。

 選手もリーグもない状態で、戦うための生の技術として復元されたのです。

 それが行われたのは13世紀。なんと間に800年も空いての復元でした。

 詳細については次に続けたいと思います。

ボクシングと近代史の話 2

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 歴史上、ローマ時代の後にボクシングの記録が残っているのは13世紀だと言います。

 この時代の修道士が護身術として行っていたと言うのです。

 一般には、当時の護身の術としては剣や短剣を用いるのが普通だったらしいので、徒手の護身術は普及していなかったというのがボクシングが廃れた理由らしいのですが、刃物で人を傷つけることを疎んだ聖職者が徒手の格技を護身術とするというのは面白いところです。

 ロビン・フッドの物語に出てくるタック神父がクォーター・スタッフという杖術の使い手であったというお話もここに共通する物が感じられます。

 徒手の拳法に棒術となると、これはちょっと少林僧とも似通ってくるので、もしかしたらそのイメージがのちの時代に流入されたのかもしれません。

 ただ、この棒とボクシングという組み合わせは後々の時代も実際に行われたスタイルとなってゆきます。

 十六世紀くらいから、剣を持ち歩いて生活するというスタイルが廃れて行って、紳士はステッキなどを持つようになりました。

 この中には、刃物を仕込んだおなじみの物から、重りをあしらって鈍器として活用できるものまで、護身用の装備となるものが現れます。

 それと合わせて、徒手の護身術が見直されるようになってくるのです。

 決定的となったのは、18世紀のイギリスの武術家、ジェームス・フィグの存在です。

 彼は剣術と、それを応用する形で派生したステッキ術、そしてレスリングの訓練を積んでおり、それらを交えた「ボクシング」のジムをロンドンに開きます。

 これは蹴りも投げも用いた物で、それを活用した試合も行っていたため、彼と彼の弟子は髪を掴まれないように頭を剃り上げていたことが知られています。

 このようにして注目を集めたロンドンでのボクシングでしたが、結局は試合中に死者が出たためにルールの見直しが行われることになります。

 そこで作られたルールが、当時のチャンピオンであったジャック・ブロートンが提唱した「ブロートン・コード」と言う物です。

 これには、腰より下に組み付いてはならない、というレスリング行為に関する規定や、ダウンした相手を攻撃してはならないという決まり、またダウンして30カウントを取られたら負けということが明記されているとのことなので、逆に言えばそれまでのルールはダウン・カウントも取らなければ倒した相手を殴り続けてもよいという、バーリ・トゥード的な物であったことが分かります。

 それでも死者が頻出したため、19世紀にはさらにルールが追加されて蹴りと頭突き、目玉をえぐることが禁止されます。

 驚くべきことに、これまでは目玉をえぐっても良かった。

 さらに言うと、頭突きも蹴りもあり。

 これは今日のボクシングの概念とはまったく違う、極めてプリミティブな格技が行われていたことの証拠となります。

 このルール、高名な「ロンドン・プライズ・ルール」が用いられたのは1838年だと言います。

 19世紀です。つまり、いまから180年程度しか離れていない。

 それまでは、いま我々が見ている「2つの拳で殴り合うのボクシング」という物は存在していなかったのです。

            

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ボクシングと近代史の話 3

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 19世紀半ば、フランスではボクシングが禁止されるようになります。

 これは、それまでイギリスにおいてそうであったという死者の出る危険のためではなく、八百長疑惑によってだと言います。

 フランスとボクシングと言うと、ヴェルヌの小説の中で、ライバル国であるフランスとイギリスの若いのが出くわした時に「おもしれぇ、フランス式とイギリス式、どっちのボクシングが優れてるか今ここで白黒つけてやる」と息巻くシーンがあったのを思い出します。

 ヴェルヌがちょうどこの時代の人ですので、ボクシングの統一ルールが存在しておらず、ボクシングもまた蹴りも掴みもありの格闘技全般を現す言葉であったことと照らし合わせると雰囲気が理解できる言葉です。

 この後、フランス式ボクシングはサファーデ、いわゆるサバットとして知られる格闘技に進化してゆきます。

 この名前は靴を意味する言葉だそうで、グローブと競技用のシューズ履いた蹴りありのボクシングとして知られています。

 競技化した後も護身術としての側面は失われず、ラキャン(英語 ザ・ケーン)と呼ばれる杖術と併伝されているそうで、ここまでのフェンシング、ステッキ術、総合格技の一体での流れを引いていることが察せられます。

 この、フランス式とイギリス式が分離したきっかけがこの八百長案件だったとすると、面白いことが見えてきます。

 八百長が誰かの憤りを買うというのは、おそらく金銭のやり取りが介在していたのでしょう。フランスの人がなんにでも賭けをする習慣は珍しいものだとは感じませんので、不利益を得た人からの圧力が出ても不思議はありません。

 しかし、もう一方で、このころのボクシングは初めから八百長織り込み済みというか、要するにプロレスであったという説もあるのです。

 ボクシングは昔、ボクシングではないどころかプロレスだった。これはなんとなく面白い話です。

 そのプロレスが、フランスではサファーデになり、イギリスではようやくボクシングになります。

 ロンドン・プライス・ルールの試合が行われている中、クイーンズベリー候の権威を後見としたクイーンズベリー・ルールというものが1867年に発表されたとあります。 

 ここに至って初めて、グローブの着用、3分1ラウンド制、10カウント、およびレスリングの禁止といった現代ボクシングの基礎ルールが出来てきます。

 そして、このルールが設定されて四半世紀を経た1892年に行われた最初のヘビー級タイトルマッチで、アウトボクシングと言う物が行われます。

 避けまくって打ち合わず、距離を取ってジャブを合わせて行くという今日の常識的なボクシングのスタイルがその有効性を知らしめるのです。

 ただ、いくつかの資料に基づくと、この戦い方は男らしくない、卑怯者の戦い方だとかなり批判されていたことが記述されています。

 

 

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ボクシング近代史 4

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 さて、イギリス内でボクシングがバーリ・トゥードやプロレスを経て、ようやく現在の国際式ボクシングの形になってゆく過程を前回までは追いかけてきました。

 イギリス式の他に、フランス式もあったということも見えましたね。

 今回からは、そのイギリス式がいかにして国際式ボクシングとなったかを観て行きたいと思います。

 ここからが本番です。

 イギリス式が世界基準となる理由と言えば、まずまっさきに思いつくのが「太陽の帝国」と呼ばれた世界中に植民地を獲得したことが思い浮かべられます。

 英語が世界語となったのもこれが理由だと言って否定する人はまずおられないことでしょう。

 この辺りの過程は、昨年の秋にここでも書いた東南アジアの歴史で観てきましたので省きますが、要約すると産業革命で近世が訪れ、人がだぶついて物があまるようになると、彼らは資本主義の仕組みを広げることで豊かさを求めた訳です。

 つまり、労働力を外に広げ、搾取先の底辺を外部に求める。

 そのためにイギリス東インド会社がインドネシアやインドに派遣されます。

 この発想の先駆者は、オランダの東インド会社だったのでした。日本でも幕末まではオランダが外国の代表とされているのはそのためですね。

 また、大倭寇が起きるきっかけとなったポルトガルもこのころの活躍はすごかった。

 これで、ここまで武術史的に追いかけてきた明、清の時代と繋がってきましたね。

 この、西洋列強の進出により、フェンシングとボクシングも当然東洋世界に出て行くことになります。

 なにせ当時の西洋の商人や会社員と言えば後ろ暗いところのある冒険家や暴力家であります。もっと言うと要は海賊、ギャングの類ですので直接交戦は必須の物でした。

 この内、スペインによってフィリピンにもたらされたのが我々の行っているアーニス、すなわちエスクリマの原型であるエスグリマ、スペイン式フェンシングですね。

 では徒手の部門であるボクシングの方はどのようにしてアジアに伝播したのかといいますと、これが大変な難航の歴史となるのです。

 なにせ、アジアにはもともとカンフーがある。

 当時のアジアの盟主と言えば中国。

 そして彼らの方はカンフーによる武術が当然必須でした。

 武器ありの交戦となれば、火力に勝る西洋にも優位はあります。

 しかし、町場の殴り合いとなるとこれが大変なのです。

 一例を出すとしたら、グルカ戦争と言う物があります。

 これは、ネパール清戦争ともいわれる物です。

 グルカ、というのは西洋列強が傭兵として雇ったくらい勇猛果敢な戦闘民族です。

 彼等の用いる、物騒な大ナタのようなグルカ・ナイフはいまでも近接戦闘象徴のように見なされます。

 私の友人もいつもグルカ・ナイフの形のアクセサリーを付けていて、聴いたらネパールでは申告すればグルカ・ナイフを護身用に携帯することが出来て、喧嘩になったらすぐに抜くのだと言っていました。

 いまだに中世みたいなお話です。

 そのくらいの勇猛な彼らの本国がチベットに攻め込んだため、チベットの宗主国であった清は兵士を送り込み、これを撃退。さらにはネパールを支配下において勢力圏を広げてしまっているのです。

 のちのグダグダの清朝のイメージが強いのですが、いいときはこのくらいに強かった。

 その縄張りに踏み込んだ西洋人たちが、功夫とまともに戦ってそう無事に済むはずはありません。

 

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ボクシングと近代史の話 5

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 以前書いた東南アジアの歴史シリーズの中に、タイのタークシンという狂王のことを書きました。

 彼は中華からやってきた人物で、ビルマの侵略を撃退し、彼らの攻撃によって滅びたアユタヤ王朝に代わるトンブリー王朝を興した人物です。

 アユタヤ王朝が滅びてタイ族の危機が訪れた時に、それを持ち直させて救った人物で、現在に至るまでのタイの礎を作った人です。

 そのため、現在でも紙幣に肖像が描かれています。

 しかし、晩年狂気を発して僧等にも権威をふるうようになり、それに反発した人々によって反乱を起こされ、最後には処刑されてしまいます。

 その反乱のリーダーだったのが、他国に取られていたラオス、カンボジアと言った周辺国を奪還して帰還したラーマ一世です。

 彼はその後王になり、チャクリー王朝を開きます。

 彼自身、アユタヤ王家の血を引いており、また母親は華人であったので、その資格は充分にあったと言えましょう。

 なぜ、ここでタイの歴史をおさらいしているのかというと、このラーマ一世こそが現代ムエタイの父とも言える人だからです。

 ことの起こりは、西洋からボクサーがやってきたことに始まります。

 西暦で言うと18世紀末のころとなりますので、すでに西洋人の手がアジアに伸びてきているころです。

 タークシン、ラーマ一世と二代続いてタイの王が中華系であったことから分かるように、このころのタイは中華帝国のワイルド・ウェストであり、彼等との折衝の最前線でもありました。

 しかし、このボクサーたちは直接の侵略者ではありません。

 興行試合をしに来たのです。

 タイ側では彼らのことをファラン(オランダ人)だと言いますが、オランダ東インド会社がアジアに先鞭をつけて以降、白人種のことはみなファランだと呼ばれるのでイギリス人であった可能性も高い。

 というのも、この時代でボクシングと言えばまさに、何でもありのブロートン・コードの時代だからです。

 それ以前のフェンシングやステッキ術を併用する武術では無い物の、ローブローと下半身へのタックル、倒れた相手への攻撃は禁じられていましたが、蹴り、目つぶし、投げそのものはありの総合格闘技でした。

 格闘技であるがゆえに興行を行うのです。

 要するに山師の類が地方興行をしにやってきたのです。

 王宮での試合となると、莫大な報酬が獲得できると踏んでラーマ一世を挑発し、家来の武術家との試合を申し込んだのです。

 それに対したのが、王宮の格闘技師範でした。

 ただこの人はタイ式相撲のレスラーであり、拳法の専門家ではなかったようです。

 というのも、当時のタイ拳法というのはカビーカボーンという総合武術の一部であり、格闘技では無かったのです。

 このカビーカボーン、以前にここでも少しだけ触れました。

 私がタイで修行をしているときに、そこの先生からこの武術の先生を紹介すると言ってもらったのです。

 その時はチネイザンとルーシーダットンの修行で時間が足りなかったので踏み切れなかったのですが、このカビーカボーン、兵器全般を使う武術で、特に看板兵器の双刀はフィリピン武術とのつながりがうかがえる実に興味深い物です。

 拳法は、両手に武器を持った上での合わせ技で、蹴りと肘打ちを主体としたものとして使われていたようです。

 この拳法を、現地の言葉で「肘の戦い」と呼んだりもするそうです。

 これ、恐らくは中華系の泰族から渡ってきた中国武術なのであろうと思われます。実際に、これらの調練で鍛えられた兵士を率いる猛将は中華系であった訳ですし、またチワン族の泰拳とも肘打の多様する姿がそっくりであるからです。

 さらに面白いのは、この武術で用いる刀が日本刀そっくりなことです。

 そしてこれと同様の物は、私のフィリピン武術のグランド・マスタルが用いていました。

 やはり、明らかに繋がっているように思われるのです。

 とはいえ、これ以前の大倭寇の時代までに、日本刀は世界中に売り出された人気商品でした。世界中の戦士たちが愛用していたので、どの人種が用いていてもおかしくないのですが。

 ただ、フィリピン武術に関しては、室町時代から日本人村がフィリピンにあり、そこで侍の武術が行われていたので、直接的なつながりがあってもおかしくはありません。

 カビーカボーンに関して言うならそれどころではありません。

 なにせ、アユタヤ王朝には、傭兵として日本の武士たちが務めていたからです。

 戦国の時代が終わって平和になり、職を失った日本武士が渡来していたのです。

 この模様は、トニー・ジャーの映画「マッハ」シリーズでも見ることができます。

 2と3はアユタヤ王朝時代の物語なのですが、何の説明もなく武士たちが沢山登場します。

 それだけ、タイの人たちにとっては日本人が歴史上うろちょろしているのは当たり前のことなのでしょうね。

 彼らサムライのことをタイでは訛って「サームレイ―」と呼んでいたそうなのですが、このサームレイ―の武器がタイ式にアレンジされた大刀がカビーカボーンのメイン兵器です。

 使い方も、中国や西洋の刀剣とは違って、日本式に切っ先で引き切るのだと教わりました。

 つまり、このタイの武術もまた、功夫と日本武術の混ざった海賊武術なのです。

 この武術では、手というのは武器を持ってる前提なので、パンチは行われなかったと言います。

 そのため、武器術の補助である拳法よりも組技の師範がボクサーとの試合に選ばれたようでした。

 この試合が、このころはまだ日陰の存在であったシャム拳法に現在の隆盛をもたらしたきっかけとなったようです。

 

 

                           つづく

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