歴史とテーマについて書いたところで、実技に入ってみたいと思います。
コンヴィクト・コンディショニングと伝統的な練功において、非常に興味深いのは関節(骨格)と腱という概念に関する考え方です。
コンヴィクト・コンディショニングにおいては、初歩の内に非常にゆっくりとした慎重なペースでトレーニングを始め、その負担も完全に回復するまで次のセッションを行わないことを重視しています。
そのペースたるや呆れるほどに悠長なもので、一週間にわずか10回の壁立て伏せしかしてはいけない時期すら存在します。
その理由に関して、このペースを紹介しているポール・ウェイド氏はいくつかの理由を提示しています。
一つにはリハビリ効果があること、二つには長期間に渡る刑務所生活で暇をつぶすために長くやり続けたいので頭打ちにならないようにペース配分をしていること。また、体力を使いつくして疲労することは、弱い者を見つけると襲い掛かってくる連中の居る刑務所では命とりであるという実に武術的な理由を挙げています。
それらの他に、関節と腱の育成こそが大切なのだと彼は主張しています。
これは本当に重視されていることで、彼の二作目のマニュアルは「関節 グリップ編」とサブタイトルが付いているほどです。
実際、この部分こそが彼がアンチテーゼの対象としている現代トレーニングがもっともおろそかにしている部分だというのは私も同感です。
多くのウェイト・トレーニー、およびボディ・ビルダーは、もっとも弱く訓練が必要なはずの関節をギアでスポイルし、それでもなお傷めているからです。
おそらく、トレーニングによる関節生涯を抱えていないトレーニーは半数にも満たないのではないでしょうか。
この理由の一つには、ウェイトによる器具の遣いが本来の関節構造に適していないからだ、ということが語られています。
ここは一度注目したいところです。
持ち上げて使うためのウェイト器具はおおむね頑丈に出来ています。
そのため、、人間のほうがその器具の形状に合わせて使わないといけません。
そうなると、身体は不自然に曲がってそれらを用いて運動のつじつまを合わせることになります。
これはつまり、手を手として扱っているからです。
本来の骨格の進化の経緯からすると、とても理にかなっていない。
我々伝統キャリステニクスの考えである、身体を本能的な役割を果たす状態に還すという見方からすれば、手というのは鍛えれば鍛えるほど前脚になってゆくのが自然なのです。
となると、手を手として強化してゆくのは、ある種の倒錯となります。
その負荷が、関節内の細かい傷となり、積み重なって関節障害を引き起こすのだとウェイド理論にはあります。
この理論に基づいて手を手として鍛えることを忌避し、前足と言う移動のための器官として再検討したとき、必然前肢は体重を運ぶための物だと言う結論に至ります。
となると、自重を使ったトレーニングこそが、もっとも本能の欲求と骨格の成形に叶った物足りえる、ということになる次第です。
私自身、ベンチプレスを始めた時に、胸の周辺の腱や靭帯を傷める障害が定番だと聞き、とにかくそれを避けて無理をしないようにトレーニングをしてきました。
幸い、事故を起こすことはなく、肩も胸も無事に現在に至っています。
もし途中で傷めて恒久的な障害を負ってしまっていたら?
おそらく、165キロにまで達することは難しかったのではないでしょうか。
器具を使うとしたら、あくまでその形状に適した関節の可動域の中で行うのが適切であろうかと持論いたします。
抑圧よる苦痛を耐え忍べというのは、恐らく肉体が喜ぶことではありません。
私たちが行う練功とは、身体の意図にエゴがよりそって調和を取るものなので、そういうことをするべきではない。