14・黄金時代の終わり
コジェーヴは黄金の50年代アメリカを「動物化した社会」と幻滅を込めて言いました。
動物化とは、まさに啓蒙主義による人間主義の真逆です。
本来は、17世紀に神を中心とした営みを離れ、既存の神の代行者として自分で自分を規律し、秩序ある社会を遂行してゆくはずだった物が、規律から離れてただ食べたいときに食べたい物を食べ、歌いたいときに歌い、眠りたいときに眠り、性交をしたければするという、なんの奥行きも上昇もない消費社会になってしまったことを指しています。
彼は日本に来て、そこで行われていた儒教的な風習の行き渡った社会をきわめて賛美しました。
厳かに行われる儀式的な反復による社会の運営こそ、彼にとっては動物化した社会に対する、非自然的な文明の行き渡った社会だと記述しているそうです。
余談ですが、このコジェーヴのことを考えているといつもトレヴィニアンの小説「シブミ」の主人公ニッコを思い出します。
おそらくはモデルになっているのでしょうね。ロシア人とドイツ人の血を引いて、上海租界から戦後日本に亡命してきたこの登場人物は、日本の様式美にやはり魅せられ、そこにある様式美に文明を見出します。
しかし、その後、日本が復興に連れてアメリカ化してゆくことで本来の日本性を忘れ去ってゆくことに失望して、誰も居ないスペインの山間部に隠棲することになります。
この、ニッコの予測がまったくその通りにおきました。
日本が高度成長を遂げ、黄金期を築いたのが80年代のことです。
サブカルチャーに例を取ると、この時代の物はいまだにリバイバルされたり愛蔵版が出たりしています。
それに対して、まったくのスカの時代とされているのが90年代です。
これは何人かの思想家が言っていることで、それには理由が挙げられています。
曰く、ポストモダン思想の影響を受け、学生運動などに参加した年代層が物を作って発信していたのが80年代、そして、それらの作品に影響を受けた層が、オリジナルを知らずして作品を作り始めたのが90年代だからとされています。
実際、80年にサルトルが、81年にはラカンが、84年にはフーコーがなくなっていることを考えると、この思想の変化の時代をオンタイムで知っている層の入れ替わりは想像に難くありません。
フランシス・フクハラが言ったように、歴史は終わってしまったのかもしれません。
ちなみに、これと似たことはアメリカにおいてもやはり予感されていたそうです。
俗にジェネレーションXとも言われる、アメリカの80年代に関して、マイケルやマドンナ、プリンスらが美しいヴィジョンを発信し続けていたの、そこに薄汚いカート・コヴァーンのニルヴァーナが表れてグランジを広め、世界を醜くしてしまったという意見を聞いたことがあります。
確かに、90年代はグランジの時代でした。
15・世紀末の時代 動物化の彼岸
80年代日本においては、とにかく鋭角的であるものが流行していました。
テクノ・カットにDCブランド、ボディコンにハイヒールと言ったものが若い層のファッションでした。
しかし、それが90年代に入ると「ゆるい」「いやし」と言った言葉の発生とともに、腰パンやルーズソックスというファッションが爆発的に隆盛します。
この時代の空気感はその後も長く続き、世紀をまたいでいるようにさえ感じます。
「動物化するポストモダン」という本邦での思想書も刊行されるくらい、日本社会は動物化してゆきました。
この時代を代表する物として、三つの物が挙げられています。
「オタク」「癒し」「オカルト」です。
私が特に驚いているのは、昨今のオタク層のメジャー化です。
80年代は極端にツッパリファッションやロックンロール、尾崎豊的な物などが前面に出ていた時代で、オタクは日陰の身、少し迫害されがちの存在だったのが、いまやコンビニにも高速道路にも夏のビーチにもオタクカルチャーが見られます。
癒しに関しては、90年代に普及し始めたクイックマッサージのチェーンや、「癒し系」という言葉が象徴しています。80年代まではこのように、疲弊が積極的に語られることは少なかったのではないかと思います。
この言葉こそが、自分を甘やかし、動物的衝動に身を任せてゆく動物化へのマジック・ワードのように聞こえます。
そして、癒しはオカルトにつながってゆきます。
スピリチュアル・ブームが起きたのはまずアメリカでした。
占いの有料ダイヤルが流行し、天使や生まれ変わりを題材にしたドラマや映画が量産されました。
この三つを合わせた90年代最大の事件が、オウム事件です。
世界でも最大クラスのテロとして犯罪史に残るこの件の影響で、しばらくは彼らが勧誘の手段としていたヨガが一気に下火になったようですが、現在では再び大流行をしています。
ナチのことを思い出してください。
「オタク」「オカルト」「癒し」は、大衆操作の典型的手段であり、中心を失った人間が神の代替として安易にすがりうるものです。
そしてそれは、神の浸透以前の時代への退行にほかなりません。
17世紀に神から卒業をしたはずの人々は、暗黒以前にまで逆行してしまったのです。 つづく