中国武術という文化遺産を理解するためには、全体を理解する必要があると思っています。
そうでないと、自分が何をしているのかがまったく分からないということは珍しくありません。
にも関わらず、日本の中国武術というのはまったく教えない傾向が強いようです。
そのために、中国武術とはなんなのかという実態が練習者を含めていまだにいまいち理解されていないという印象があります。
コンセプトが明確な、いわゆる典型的な中国武術というのが理解されるまでに普及されていない。
もっとも広まっているのは太極拳なのでしょうが、あれはあまりにも独特で、典型的な中国武術とはいいがたい部分があります。
一つには、共産党による唯物主義で伝統を抜き取った新武術として作り変えられたものが広められているということ。
もう一つには、そもそもが日本で言う現代武道の如く、近代化を目的としてブラッシュアップされた物だからだと聞きます。
日本で柔術が柔道になり、剣術が剣道になったように、いわゆる一般的な意味での太極拳は中国における現代武道として発明された物なので、旧来の中国武術らしさとはだいぶ違う物になっているというのです。
私は門外漢なので詳細については比較検討できませんが、それはなんとなくわかる気がします。
拳法そのものが気功なのだからという理由で気功をしない太極拳およびその周辺拳法家が多いと言いますが、それは器械体操そのものが体操なのでストレッチも筋トレもしないというようなもので、やはり疑問を感じる部分です。
そのようにして基本の練功法を取り外し、多くの要訣を実際のやり方から解していった結果残った物を太極拳としてやっていることが多いようです。
それがために、いつまでたっても良く太極拳がなんだか分からないということが非常に多いようで、旧来の中国拳法の意味として「使える」ようにはならないという人が多いようです。
十年以上やっても何も出来ないというのは珍しくないどころか当たり前のようで、それは私たちの思う中国武術からすると非常に得意な傾向であると思います。
しかし一方で、本当に廃止してきちんと学んだ私の友人はすぐに出来るようになっていたので、太極拳も本来きちんと本当のことを学べば二、三年でがっつり使えるようになるはずだと思うのです。
おそらくはそこに教授側の意図があるのは間違いないことでしょう。
柔道が危険な技を省いていったように、太極拳も普及を目的とした段階で真伝の教授に枷をつけたのではないかと推測します。
そのような非常に得意な例が日本ではまず広まった武術であり、もう一つが八極拳だと思うのですが、これも李家の八極拳という八極拳の中では非常に特殊な物であったというのも現状の原因であるように思います。
あれも本来は兵器を使うのが当然の武術であったのでしょうが、李書文先生という名人が異常に内力が強いという異人であったために、日本では素手の拳法ばかりが普及するようになったように思います。
それもやはり、全貌が見えにくくなって結局は徒手の要素についても見落としが多くなるのではないでしょうか。
実際、日本で行われている中国武術において、きちんと兵器が必要な種類習えて、それを徒手にフィードバックできると言う環境であるものはどのくらいあるのでしょうか。
そう言った物が中国武術だよね、と思われない限り、日本における普及にはつながらない気がします。
もちろん、表演武術などという物は除きます。
練功法、気功、兵器、哲学が備わっていないと、中国武術は一つの形にはなりません。
満漢全席のようなコース料理を理解するのに、最初の数品を見ただけではメインの実態は分かりません。
フルコースで言うならせいぜいスープまでと言ったところで、コース全体が見えてくるということはないでしょう。
我々の門派の本場である香港は、プレート料理が名物だと言われています。
一つのプレートの上にメニューが載せられていて一度に運ばれてくる物です。
その備わっている感じが蔡李佛にもあります。
一発連環という言葉がありますが、一つの動作に幾つもの意味があり、それがすべて説明されて体得をさせられます。
十年以上後にならないと意味が分からないとか出来ないということはありません。
また、もっともわかりやすい表象だけで思考が停止してしまうということもありません。
その一貫として、徒手で習った動作が刀剣や暗器、長兵や奇門兵器でも使えるということがあります。
これと似た考え方の物に、合気武術があると言います。
剣術の裏芸だとされているために、刀剣の動作で人を投げるというのです。
ことの真偽は分かりませんが、この考え方は中国武術では普遍的と言える部分があります。
日本武術で使われる振り棒と呼ばれる大きな杵のような棒がありますが、あれを自在に使えれば人の手首なりを掴んで引き回して投げることはそんなに難しくないでしょう。私が学んだ柔術の技法もそのようにして拉ぎ倒す技が中心でした。
中国武術での電柱のような大槍や関刀のような兵器は同様にして徒手の拳術で活用できます。
以前に習った先生はよく、人間の身体は足の裏から手先までが一本につながっていると言っていました。
我々はこれを鉄線のように強い勁として練り上げます。
この線を自分の中で運用するのみならず、相手の中の線も活用します。
足の先から手先までを繋ぐ線の長さは、平均的には180センチほどです。だいたい六尺棒や棍に近い。
なのでそれくらいの長さの兵器を日ごろから扱いなれておいて、いざ徒手の上で相手の手首なりを掴んで、その中にある足までつながっている力の線をコントロールすれば全身を転がしたり、足元にぴしゃりと潰したり出来ます。
これを借力(ジェーレ)と言います。
刀は刀、槍は槍を使うためにだけ練習する物ではありません。
相手のうちで働く気功の要素まで前提として学んでゆくべきものです。
その観点が当たり前に身に着いたとき、実用性がまったく見当たらない巨大兵器を使って練習している老師たちを目にした時に「うわーすげー。あんなんに触られたらイチコロだな」と感じることが出来るのです。
備わっているということはそういうことです。
まずバックリと全体を掴むということは、基礎教養を身に着けるというようなことであるように思います。